さようなら、博士
時間が動き出すと、先生の姿も消えていた。
最初からいなかったかのように。
うーん……。
本当にいなかったのでは?
それは考えすぎか……。
外へ出て、生倉さんたちと合流した。
「いま、なんか変な感じしませんでした? 気のせいでしょうか?」
自覚はなくとも、妙な感覚は残るようだ。
俺は質問には答えず、先に報告することにした。
「対象はすでに液状化してました。もう人の姿はしていません」
「えっ? でも反応は……」
「いちど事務所に戻りましょう。詳しい話はそこでします」
*
外壁を伝って本館に入った。
本館といっても、自由に行動できるのはほんの数メートルだけだが。
「なるほど。つまり先生は、霧島さんのことを……その……聖水にするつもりだと……」
「詳しい原理はイマイチ分かりませんが」
すると赤尾さんが溜め息をついた。
「その聖水っての、たぶん精神が肉体を否定した結果の産物なんだと思いますよ。だから誰かにあの液体を浴びせれば、肉体が消滅する。量が十分なら、地上から生命を一掃するのも不可能ではない。あくまで理論上はね。以前、知り合いの研究者がそんなこと言ってました」
知り合いの研究者?
生倉さんがなんとも言えない表情になった。
「茶田博士のこと?」
「そう。俺はそもそも、彼の失踪の原因を知りたくて、この事務所に依頼を持ち込んだんですよ。まさか解決しなかった挙げ句、俺自身がここで働くことになるとは思いませんでしたけど」
「それは……人手不足だったから。ところで、博士はほかになにか言ってませんでした? 手掛かりになりそうな情報を……」
これに赤尾さんは肩をすくめた。
「ありますよ。手掛かりというか、ほとんど答えだと思うけど。新たに再調査した結果、失踪者の居場所をいくつか特定できましたよね? 俺はその配置に注目してみたんです。やたら意図を感じて……。なんか、回路みたいになってるっていうか。おそらく人工的な龍脈ですよね。先生は、そのエネルギーを使って力を得てるんだと思います」
ああ、答えだ。
俺の望んでいたもの。
生倉さんは「ふむ」とうなった。
「ならその……聖水の入ったケースを破壊すれば、先生の能力も弱体化していく……と予想できますね」
「問題は、あのメチャクチャな野郎の隙をついて、どうやってケースを破壊するか、ですが……」
「可能ですか?」
「いいえ」
おい。
あきらめるなよ。
俺は挙手をして尋ねた。
「懸念点は?」
「まず、なぜかあいつは俺たちの行動を先読みしてるってこと。それはまあ……式神で監視してるんだと思うけど。一番の問題は、時間を止めるってことだね。こんなことされたら、俺たちじゃ手も足もでない」
一理ある。
いや、一理どころか三千理くらいある。
俺はなんとか状況を整理した。
「たぶんですけど、アパート全体の時間を止めてるわけじゃないんですよね。あくまで一定の範囲内だけ。それでもじゅうぶん厄介ですけど……。幸い、先生の身体はひとつしかないわけだから、三か所を同時に攻撃すれば……」
しかし赤尾さんはかぶりを振った。
「前回、二手に分かれてムリだったんだ。配置につく前に対処される。俺たちは相手の予想を上回り、なおかつスピードでも競り勝たないといけない。こちらが簡単に思いつくような作戦は、たぶんあいつにも通じないと思うぜ」
まあそうだ。
「範囲ってどのくらいだと思います?」
「分かると思うか? 術がキマってる間、俺らも止まってたんだぜ?」
赤尾さんはそう言ったが、生倉さんは違った。
「いえ、おそらく分かりますよ。私、式神の状態を観測しましたから。ああ、式神というのは、このアパートに満ちている粒子のようなものです。以前は霊障とも言われていましたが。ともかく、ひとつひとつがノードであり、術に反応して動作する物質であり、記録媒体でもある。付近で強い術が発動すると、式神にも負荷がかかって情報が変質するんです。で、変質の範囲を確認した結果……だいたい部屋ひとつぶんではないかと。あとは近くの廊下まで」
さすがだな。
こちらはその範囲外から攻めればいける。
俺はまた挙手をした。
「なら、上か下の部屋から攻めるのはどうです? たぶん保管の都合で、風呂場に置いてるのは間違いないと思うんで。これなら範囲外から衝撃を与えることができるんじゃないかと」
あくまで理論上は、だが。
赤尾さんはまじまじとこちらを見てきた。
「なるほどな。君が阿家智さんの弟子ってのはホントらしいな」
「知ってたんですか?」
「調査したからね。じつは俺たちも、阿家智さんとは面識があったんだ。残念ながら、味方でいる期間より、敵でいる期間のほうが長かったけど」
「なぜ敵に?」
「個人的な対立じゃない。彼は共和国側だったし、こっちはそのトラブルで依頼を受けることが多かったから。ま、因縁って意味なら、俺よりボスのほうが……」
すると生倉さんは「その話は結構」と茶をすすった。
うちの師匠となにかあったのだろうか?
赤尾さんは気を取り直し、話を続けた。
「ともあれ、上か下というのはいいアイデアだ。俺の予想だけど、あれだけ強烈な術は、事前の準備ナシに使いこなせるものじゃない。きっと今回だって、あらかじめ水槽の周囲に結界を張っておいたんだろう。つまり、範囲さえ特定できれば、先生の術は回避できるはず」
あらかじめ結界を……?
確かに、水槽の周辺には、侵入者対策などで、事前になにかを仕込んでおけるだろう。俺たちがアルマジロを襲ったときも、先生は場所を把握していた。
だが、イチカを救出したときは?
ああ……きっとそうだ。先生は、あらかじめ九字羅や埴谷の行動範囲を把握していたのだ。そして事件が起こる前に術を仕込んでおき、イチカがピンチになってから救出に現れた……。
なんでもかんでも術だけで解決する男ではない。
すべては綿密な計画の上に成り立っている。
*
とある部屋に来た。
無人だった。
鍵はかかっていたが、赤尾さんがピッキングして開けた。もはや探偵というよりは泥棒に近い。まだ獣になっていないところを見ると、このアパートでは微罪なのかもしれないが。
まあ人の命を奪っておいて獣にならない厚顔無恥な輩がいるくらいだ。ピッキングくらいでは変質しないのだろう。
生倉さんはあちこち確認しつつ、護符を貼っていった。小さな結界を作っているのだ。先生があとから乗り込んで来ても、術で好き放題されないために。
赤尾さんは、電動ドリルを持って風呂場にこもっている。
こんなボロアパートでガリガリやり始めたら、先生でなくとも異変に気づく。乗り込んでくるヤツもいるかもしれない。
赤尾さんは言った。
「この下にいるのは、おそらく例の茶田博士だろうな」
「えっ?」
「君にも師匠がいたように、俺にもいたんだ。いろいろ教えてくれる人生の先輩がね。まあ変人だったよ。このアパートで起こる現象をひとつひとつ検証して、名前をつけていった。獣とか過負荷ってのは、先生がつけた名前だ。それ以前は、単に呪いだとか霊障だとか言われてて……。粒子が情報を伝達しているなんて、誰も知らなかった」
「俺もさっきまで知りませんでした」
粒子だなんて。
まるで科学みたいじゃないか。こんな理不尽な呪いの世界が。
「ま、いまでも大部分は仮説のままだけど……。数値化できるものを計算するとね、毎回同じ値になるんだ。だから博士の仮説は、たぶん当たってるんだと思う。ただ、研究にのめり込み過ぎたんだろうな。とある陰陽師と共同研究を始めて……。そして、ある日突然いなくなっちまった」
「だから探偵事務所に依頼を?」
「そう。だけど、行ってみて驚いたね。似たような依頼が複数出てたって。だからあいつが犯人なのは分かってた。ただ、証拠がなかったんだな……。博士の固有情報も把握してたはずなのに、こんなに変質しちまって……」
彼もまた、大切な人を失ったのだ。
「ああ、悪いね。話し込んじゃった。ちょっとうるさくするから、外出てていいよ」
「はい」
赤尾さんはしょぼしょぼした目で、苦い笑みを浮かべた。
*
「あのー、俺はなにをすれば?」
リビングを精査しているボスに、俺はそう尋ねた。
彼女はこちらも見ずに、護符の角度を直している。
「そこにいてください。なにがあるか分かりませんから」
「はぁ」
まあ、誰かと戦闘になるかもしれないから、いる意味はあるんだと思う。
風呂場でドリルの音が響いた。
かなりの騒音だ。
近隣から苦情が来てもおかしくない。
来たら刀を見せつけてお帰り願うとしよう。このアパートには銃刀法さえない。
だが――。
苦情は来なかった。
無人のはずの部屋で突如始まる工事。こんなことをするのは、どうせヤバいヤツに違いない。俺だったらそう考える。誰しもこんなことに関わりたくない。放っておくのが一番。もし悪いことをしているのなら、勝手に獣になるわけだし。
先生は姿を現さなかった。
もし術の範囲内なら、時間を止めるために乗り込んできたかもしれない。だが、今回は範囲外。彼にとってもリスクがある。
今後も同じ策が通じるだろうか?
いや、先生だって対策してくるだろう。
上や下の部屋にも結界を張るかもしれない。
そこが無人の部屋だったならば、だが。
もし住人がいればそうはいかない。
いきなり陰陽師が現れて護符を貼らせろと言ったところで、普通は応じないだろう。
だからといって強硬手段に出れば、先生自身もまた獣に近づいてしまう。
そう。
何百年も生きているのだから、先生の蓄積も相応のものになっているはず。どれだけ術でガチガチに固めていたとしても。彼はもう人道的にやるしかないのだ。殺せるのは明確な悪人だけ。
「空いたよー」
ドリルの音がやみ、風呂場から声がした。
覗き込むと、穴からまぶしい光が放射されていた。夕日そのものみたいな、オレンジ色の輝き。この光を放っている液体は、まだ生きている……。
生倉さんが気遣うような顔になった。
「赤尾さん、できる?」
「できますよそりゃ。そのために来たんだから」
そして穴の中に、なにやらボールを投げ込んだ。
「んじゃ退避ね」
風呂場から出ろと促されたので、俺たちはリビングへ戻った。
数秒後、ドーンという炸裂音がした。ガラスの砕け散る涼しげな残響音も。壁や床がビリビリと揺れた。時限式の爆弾だったらしい。いったいどうやって用意したのやら。
赤尾さんは笑っていた。
「はぁ。ホントにやっちまったよ。ずっと探してた人に会えたってのに。いや、いいんだ。ほかに手はなかった。さようなら、博士。俺がそっち行っても怒らないでくれよな……」
排水溝から流された聖水がどこへ行くのかも不明だし、その後も生き続けるのだとしたら不幸としか言いようがないが……。
俺たちには、そこを慮っている余裕はない。
いまは先生の能力を削ぐことを最優先に考えるのだ。
もし先生が近くにいたなら、水槽付近の時間を止め、爆発を阻止することもできたかもしれない。ただ、仮に止めたとして、永遠に止めていないといけなくなる。時間を戻した瞬間に爆発するのだから。
俺たちの時間を止めることができない以上、彼にはどうしようもない。
味方もいないだろうし。
生倉さんは、まだ赤尾さんを気遣っていた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、お気遣いなく。とっくに覚悟はできてましたから。いや、でもまあ……ちょっとは思うところもなきにしも……。あ、でも大丈夫。酒飲んで寝たら、たいていのことは」
「……」
ハッキリ言って、俺にはムリだ。
ずっと探していた人間の水槽を爆破するなんて。考えたくもない。絶対に。どこに流れるかも分からないのに。
だけど、そんなことを言っていたら、先生に勝つことはできない。
イチカを救えない。
いや、イチカはもう……。
でも……なんとかできるなら……。
俺はあまいのかもしれない。
この期に及んで、まだ覚悟を決められずにいる。
けど、本当に救えないんだとしたら、なんのためにこれをしているのか分からなくなる……。
イチカはいまもどこかで笑っているだろうか。
分からない。せめてそうであって欲しい。
(続く)




