郵便物
ここはずっと夜だが、いまはみんなが昼間だと思っている時間帯。
白熱灯のぶらさがった廊下を歩いていると、人々とすれ違う。見知った顔なら頭をさげるくらいはするが、そうでもなければ特に気にしない。
このアパートは、巨大な回廊になっている。
たぶん上から見たら正方形になっているはずだ。その四辺が廊下だ。廊下に沿ってたくさんの部屋がある。
高さは無限。
鉄製の古いエレベーターがあるのだが、行き先はダイヤル式。つまり終わりも始まりもない。
神社についた。
こういう特別な設備は、ドアもないし、スペースも広くとられている。デパートの休憩スペースみたいな感じだ。
それは過剰なまでに古い神社だった。
朱の剥げかけた木製の鳥居があり、奥へ石畳の道が伸びている。
入口には記入台がある。ここで「お願い」を書いて奉納すると、願いを叶えてくれたりくれなかったりする。
なにを書いてもいい。
どれほど強欲な願いであろうと、罰があたることはない。よほど特殊なケースを覗いては。もし神さまの意に沿わなかったとしても、ただ無視されるだけだ。
いっぱい要求したほうが得なのだろう。
俺は紙を手に取り、記入台で希望を書いた。
五人目をここへ連れてきてくれ、と。
そして頭もさげず鳥居をくぐり、ずかずかと奥へ。社殿は小さい。壁は破れ、蜘蛛の巣も張っている。捨てられた寒村の神社といった趣。これが屋外だったら、遠からず土に還っているところだ。まあ「味がある」とでも言っておくか。
俺は賽銭箱のような箱に紙を差し込んだ。
それだけ。
鳴らすべき鈴もない。
いちおう手を合わせ、軽く頭をさげた。わざわざ二礼二柏手などしない。そんな正式な神社でもないだろう。ヘタすると邪神かもしれないし。
*
普通、昼間は神社に人がいるものだが、今日はいなかった。
まあそういう日もある。いつ誰がどこに行くかは、その人の気分次第だ。たいていの場合は。
部屋へ戻ろうと歩いていると、近くで女の悲鳴が聞こえた。
俺はずっとハナをすすった。
関われば面倒なことになる。
もし獣が現れたのだったら、こちらの対応は命がけになる。助けても見返りはない。
もし住人が住人を襲っている場合、同じく命がけになる。助けても見返りはない。
いや、見返りは、秩序なのだと誰かは言った。
そして秩序こそが、俺たちを生かしているのだと。
秩序がなければ、人はすべてを敵視するようになる。やがて人間性を失い、獣になってしまうのだと。
べつにいい。
ここはそもそもまともな場所じゃない。
なんなら力が他者を支配する地獄みたいな場所だ。まあ実際そんなことをしたら獣になるから、最悪の少し手前で必ず止まるようになっているが。
そう考えると、現実世界よりマシな場所なのかもしれない。
悪いヤツは、分かりやすく獣になってくれる。殺す理由ができる。そいつを殺すと、みんなが満足する。
まるでお伽噺みたいに簡単な世界観だ。
善と悪がキレイに分かれている。いや善と悪は言い過ぎか。悪とそれ以外、だ。
俺は腰から刀を抜き、声のほうへ歩を進めた。
べつに人助けをしたい気分になったわけじゃない。
そっちがたまたま帰り道だったってだけの話だ。
ここは回廊だから、基本的に道は一直線になっている。が、ちょくちょく脇道がある。脇道といっても、たとえば部屋と部屋の間のスペースみたいなもので、実際のアパートなら掃除用具でも置かれているような空間だ。
そういうところから獣が飛び出してくることがある。
あるいは、人が。
「ち、違うんです! 待って!」
飛び出してきたのは女だった。
息を切らせて、血走った目で大の字になっている。
切羽詰まり過ぎているらしく、顔が怖い。
「なにが違うんです?」
「違うんです!」
俺が脇道を覗き込もうとすると、必死になって隠そうとしてくる。
「さっき悲鳴が聞こえたんですが」
「ち、違います」
「違うとは?」
「私、悲鳴なんてあげてません……」
誰が悲鳴をあげたかまでは指摘していないのだが。
「おごぉっ」
女が、いきなり意味不明な声をあげた。
腹からなにかが突き出している。なにか、というか、木の枝のような……。後ろから刺されたのだ。
たまにあることだ。
仲のいい誰かが獣になってしまったのに、それを受け入れたくなくて、「違う」と主張してしまう。
違う。
違う。
違う。
その呪文を唱えている限り、違うと思い込める。自分だけは。
俺は刀で女の喉をついた。
このまま放っておいても苦しむだけだろう。
刀を切り返し、枝状の触手を刎ねた。
「ぎぃっ」
切断面から血液が飛び散り、通路の奥から悲鳴が聞こえた。
ここではどれだけ服があっても足りない。
「獣だ! 手を貸してくれ!」
俺は声を張り上げた。
運がよければ誰かが加勢してくれる。
本当に運がよければ!
ま、普通は誰も来ないし、俺もアテにはしていないが。
最初の悲鳴があがった時点で、誰もが部屋に閉じこもり、施錠したはずだ。べつにいい。俺だって疲れているときはそうする。血に飢えたサイコパスではないのだ。理由もなく刀を振り回したいわけじゃない。
慎重に脇道を覗き込むと、まだなかば人間の姿をした女が、触手の痛みに身をちぢこめていた。
少しばかりの理性が残っているようだな。
あんなに必死にかばってくれる友人がいても、獣になってしまうとは……。いったい彼女はなにに失望して獣になったのだか。
距離をつめると、彼女は振り払うように別の触手を伸ばしてきた。ムチのようなしなり。俺は刀で受け流す。刃に両断された触手は、うねりながらべちゃりと壁に叩きつけられた。
「なんで……なんでこうなっちゃうの……」
女は苦情を口にしている。
さっきの友人となにかトラブルでもあったのだろうか?
いや、深入りすまい。
こうなってしまったら、もうもとに戻すことはできないのだ。
「悪いな。恨みはないが」
「まーちゃん……教えてよ……」
もはや俺のことなど見ていない。彼女の瞳に映っているのは、すでに命を失った友人の死体だけ。
「あぐ……あぁ……」
踏み込んで刀を振り下ろすと、女は抵抗もせず絶命した。
両手は完全に触手になっているが、その他は大部分が人間のままだ。まるで普通に人間を殺してしまったような気分。
感情を怒りで埋めている状態ならともかく、そうでないいまは、誰かになにかを言い訳したい気分になる。違うんだ、と。
「ぎゃあああっ!」
背後から悲鳴が聞こえた。
俺が慌てて武器を構えると、そいつはさらに甲高い声でまた悲鳴をあげた。
「ひぃっ! ひっ! 人殺し! 人殺しぃーっ!」
よく見ると、そいつは近所に住んでいる中年女性だった。
比企地のときも余計なことを言った人物だ。
こいつはハナから俺を人殺しと決めつけているらしい。まあ前回はそうだが、今回は違う。
俺は刀の血を飛ばし、鞘に納めた。
「よく見てください。獣ですよ」
「近寄らないで! 誰か! 誰か来てください! 助けて!」
どれだけ騒いでも誰も来ないのがこのアパートのいいところだ。
「奥に獣が転がってますよ。ご自分の目で確認してください」
「ウソよ……そうやって言い逃れしようとして……」
「もし本当に人殺しなら、こうしてあなたと会話なんてしませんよ」
「……」
「じゃ、俺、行きますんで。あとよろしくお願いします」
「えっ?」
獣退治を手伝うでもなく、それをした人間を非難したのだ。せめて後始末くらいしてくれてもいいだろう。ここではなにもかもがボランティアで成立している。
俺はいますぐ部屋で一人になりたかった。
*
部屋に戻ると、まずは刀を水でじゃぶじゃぶ洗い、服も着替え、どっとソファに身をあずけた。
固いソファだ。
ふかふかしてない。
「見てたゾ」
クソガキが当然のように入り込んで来た。
「見てたなら手伝えよ。あと今日は煎餅ないぞ」
「いーのいーの。あーしはな、オマエと話をしに来たんだ」
「話?」
こいつ暇なのか?
まあ暇なんだろう。
ここには労働がない。みんな暇だ。それに、適度な会話は、人間性を維持するという観点からもいい。やりすぎるとトラブルになるが。
「あの女たち、男を巡ってトラブルになってたみてーだな」
「なんで知ってんだよ?」
「姉ちゃんが教えてくれたんだ」
その姉ちゃんはなんで知ってるんだ?
あの二人の知り合いなのか?
それともどこかでプライバシーを覗き見していたのか?
クソガキはあぐらをかいて床に座った。
「一人が妊娠したせいで、もう一人は嫉妬で頭がどうにかなったみたいだな。つれー話だゾ」
「そのつれー話をわざわざ教えるために来たのか?」
「いや、そっちはオマケだ。本題は神社のほうだゾ」
「なんなんだよ」
オマケのほうがヘビーなのは嫌がらせなのか?
知りたくもない情報を聞かせやがって。
「オマエ、神社でなにをお願いしたんだ?」
「なんでもいいだろ」
「怒るなよ。これ見てみろ。郵便屋がお前の部屋に入れようとしてたから、先に受け取っておいてやったゾ」
「てめー、人の郵便物を勝手に見るなよ。信書開封罪だぞ。なんて書いてあんだ?」
ここには法律などないから、俺の主張は虚しいだけだが。
郵便屋は他人に郵便物を渡さないで欲しい。
俺は一回も姿を見たことがないのに。このガキはどうやって受け取ったのやら。
それよりも、問題は茶封筒の中身だった。
達筆な字でこう書かれていた。
五人目はもういる。
いるのか。
このアパートに……。
とにかく巨大なアパートだ。住民を全員把握するなど不可能に近い。来てもすぐ死ぬし。遭遇できなくても不思議じゃない。
ともあれ、あとは俺が見つけるだけ、ということだ。いるならいると言っておいて欲しかったが。まあいいだろう。
クソガキはニヤニヤしていた。
「五人目ってなんだ? 残りの四人はどうなった?」
「知りたいのか?」
「おせーろ! 気になって夜も眠れねーゾ!」
「どうせ普通に寝るだろ」
「そりゃ起きてると姉ちゃんに怒られるからな。でもおせーろ。なんでもするから」
ん?
いまなんでもするって言った?
なら即刻部屋から出て行って欲しいんだが?
「ま、時期が来たら教えるよ」
「うぇー? 大人ってすぐそう言うんだよな。そんで教えねーんだ。あーし知ってんだゾ」
「教えて欲しかったらプリンのひとつでもよこせよ」
「プリンはオマエがよこせ!」
クソ、こいつといると小学生レベルのケンカになる。
俺は話題を変えた。
「なあ、ところで、なんで人は獣になるんだ?」
「そりゃ人間性の問題だろ」
「彼女がなにをしたのかは知らないが、獣になった。けど俺はそうなってない。どういう理屈だ?」
するとクソガキは、急に神妙な顔になって応じた。
「あいつ、妊娠してる女に、よくないものを食わせてたんだ。子供が生まれてこねーように。でも、それだけで獣になったわけじゃねーゾ。あいつは他人と自分をどっちも責めたから、心の行き場がなくなったんだ……って姉ちゃんは言ってた。オマエはそうじゃないから人間のまんまなんだろ」
「なるほど……」
俺はどこかで自分を正しいと思ってる。
殺す相手は悪いヤツだけ。
自分は悪人ではない。
それが事実かどうかは知らない。とにかく俺自身がそう思い込んでる。だから獣になれないのだろう。
自己正当化に成功すれば、獣にならずに済む、というわけだ。
クソガキが近づいてきた。
「なあ、今日は月を見ないのか?」
「えっ?」
「いつも窓開けて見てるだろ。そんときのオマエ、この世の終わりみてーな顔してるよな」
「かなり致命的な発言だが、その薄汚いツラを見てると怒る気にもなれんな。でも二度と言うなよ。次は怒りがわくかもしれない」
「い、言わねーゾ。約束する……」
なにかを察したらしく、クソガキは何度もうんうんとうなずいた。
こんな小さなガキを脅してしまうとは、我ながら恥ずかしいことをした。冷静になるべきだな。次も言ったらバラしてBBQの具材にするけど。
「それより、いつお姉さんに会わせてくれるんだ? 写真とかないのか?」
「しゃ、写真? そんなのねーゾ。ここで写真なんか撮ったって、変なのが映り込んでまともに見れねーからな……」
だからなんなんだよ、その中途半端なホラー演出は。
テレビもさっきからついたり消えたりしているし。
なんの目的があってそうしてるんだ?
空間の調子がよくないとはいうが……。
本当に?
誰かがわざとやってるんじゃないのか?
(続く)