四人目の男
比企地がこのアパートへやってきたのは、約一ヵ月前だった。
ここへは急に連れてこられたらしく――というか全員そうなのだが、とにかく困り果てていた。
見た瞬間、気に食わないツラだと思った。
俺がぶっ殺したいと思ってるヤツにそっくりだったからだ。ムリもない。実際にその本人だった。
もともと、俺のターゲットは五人いた。
うち三人はすでに殺した。
残りの二人は殺し損ねた。
俺は逮捕されて、ムショにぶち込まれた。
きっとこのまま目的も達成できず、シャバに出るころにはよぼよぼの爺さんになっていることだろう、と、なかば諦めていた。
だが、ある日、俺はここへ来た。
なんの前触れもなく、唐突に。
そこへ比企地までやって来た。
俺はみずから比企地の世話を買って出た。
霧島というのは俺の本名じゃない。パッと思いついただけの偽名だ。最初は、特に理由があってそうしたわけじゃない。もともと個人情報はさらさない主義だった。それがたまたま功を奏した。
比企地は俺の正体に気づかなかった。
十年以上経っているから、顔の変化に気づけなかったんだろう。名前も違うし。
俺は比企地にここでの暮らしを説明しながら、どう過去の責任を取らせようか考えた。
苦しめるだけ苦しめて殺そうかとも考えた。あるいは反省しているなら少しは手加減しようか、とも……。
会話をしていると、本当にただの凡人だと感じた。
言い換えれば、極悪人とは思えなかった。
これといった意思もなく、主張もない。デカい流れに身を任せるだけの空気みたいなヤツ。少なくともリアルではそうだ。ネット上でどんな振る舞いをしているかは知らない。きっと両者は一致しないと思うが。
ともあれ、俺がリスクを負ってまで殺すべきかどうか、不安になってきた。
こちらが親切にすると、彼は礼の言葉を口にした。
やけに空疎に感じることもあったが、内心どうあれ言わないよりはマシだ。
きっと長いこと社会に溶け込んで生きてきたのだろうと思った。
こいつは主犯ではない。
主犯はとっくに殺した。それもだいぶ満足いく方法で殺した。
だから比企地は楽に殺してやってもよかった。もしかするとあと一人も来るかもしれないのだし、今回はできるだけリスクを回避したかった。
二週間も経つと、比企地もここでの暮らしを理解したらしい。他人の干渉を受けずに行動したいと思うようになったのか、次第に俺の案内を遠慮するようになっていった。
ここにはフレンドリーな住民が多い。
ヤツにとって、関わる相手は俺でなくてもよかったのだ。
俺が執拗に距離をつめていることに、警戒をおぼえたのかもしれない。
ここで孤立気味の俺とつるんでいると、大きな流れに属することができないと感じたか。そういう嗅覚だけはある男だ。
俺の正体に気づいた可能性もあった。
そのどれもマズかった。
他人に干渉されたら困るのだ。
俺は慎重に、あまり近づきすぎないように、比企地との距離を保った。
比企地はあきらかに主流派に参加したがっていた。主流派というのは、つまりメガネくんの派閥だ。メガネ本人は派閥を好むタイプではなかったが、周りの愚民どもは違った。目立ったヤツがいると、そこに属したがる。それがいつしか派閥となる。
かくして多数派と少数派に分かれると、連中は特に理由もなく少数派を見下し始める。なぜか自分のほうが偉いと勘違いし始めるのだ。いや、べつにいい。よくあることだ。俺が怒って直るようなものでもない。
問題は、比企地もそういうタイプだったということだ。
ヤツが俺の手から離れるのは時間の問題だった。
そうなる前にカタをつける必要があった。
特にプランもないまま時間だけが過ぎた。
そしてチャンスだけが来てしまった。
俺たちは、たまたま廊下で鉢合わせた。
部屋が近いから一緒に帰ることになった。
特に会話もなかった。
それがよかった。
ややすると、ノイズまみれの「通りゃんせ」が流れた。
古いスピーカーのせいで音割れしていた。
少しくらい音を立ててもバレない瞬間。
俺は少しスピードをあげて前へ出て、振り向くと同時に抜刀した。
比企地はびっくりしたような顔をしていた。恐怖ではない。本当に、ただ予想外の行動に驚いている顔だった。
なにか反省の言葉でも引き出したかったが、手早く済ませることを優先した。
迷いなく斜めに一撃。
すぐに身を捌いたから、返り血は少し。
比企地はふらっと後退したが、踏ん張り過ぎたらしくこちらへ戻ってきた。俺はその腹へ、少し下から突き込んだ。
串刺しにしたまま体勢をコントロールし、刀を抜きつつそっと床へ。
俺は素早く納刀し、走らずに自室へ戻った。
誰にも会わなかったのは奇跡ではない。
いくらこの付近が平和になったとはいえ、いつ獣が出るかは誰にも分からないのだ。住民たちは不用意に出歩かない傾向にある。出歩くのは、みんなが出歩く時間帯だけ。つまり「通りゃんせ」の流れない時間帯。
殺しは初めてではないが、他人にバレなかったのは今回が初めてだ。
風呂場で刀を洗い長し、血の付いた服は捨てた。
俺の刀は、これまで何匹もの獣を始末している。獣になりかけの人間も。だから刀に血の跡があっても不思議ではない。
ここにはDNA鑑定なんてないから、血から犯人を特定することは不可能。
目撃者さえいなければ、どうとでもなる。
思ったほどの興奮はなかった。
最初の殺人は三人まとめてだったから、めまいがするほどの興奮があったのに。あのときは酸素を吸い過ぎて何回も吐いた。達成感もあった。死体の横で笑い転げた。
目撃者がいなかったから、意外とバレないのでは、などと思っていた。が、特に隠しもしなかったこともあり、死体はすぐに見つかった。俺はすぐに捕まった。
警察の態度は横柄だった。
まあ三人も殺したわけだから、警察からすれば俺は憎むべき凶悪犯だったのだろう。俺は事情を説明したが、まったく聞き入れられなかった。復讐だと言ったのに、そんな事実はないと言われた。
俺は愕然とした。
そんな事実はない?
俺の頭がおかしくなったのか?
なら俺の頭の中の記憶はなんだ?
夢でも見ていたのか?
目の前の警察どもを、どうにかしてやりたい気持ちになった。
べつに自分に罪がないなんて言っていない。ただ、なにも知らない連中に、俺の過去をなかったことにして欲しくなかった。
ああ、でも……。きっとそうだったのだろう。
復讐とは言うが、当時、こちらは被害届を出していなかったのだ。
だから公的な記録に残っていない。
事実だけを見ると、こうなる。
頭のおかしなヤツが、証拠もない妄想に基づいて、三人の男を刀で斬殺した、と。
死刑になってもおかしくなかったが、無期懲役で済んだ。
どちらにせよ終わりみたいなものだったが。
刑務所では、意外とよくやれた。警察は俺の主張を信じなかったが、囚人たちは信じてくれたのだ。あいつらは、自分たちも犯罪者のくせに、犯罪の種類によって人の価値を決定していた。それなりの理由があれば尊重してくれたのだ。なんの権利があってそうしているのかは知らないが。
ともあれ、俺の演じた復讐劇は、まあまあマシな部類であったらしい。
法律にはそんなことひとつも規定されていないのに、ただ行政の用意した場所でしかないのに、ストーリーによって囚人間の待遇が決まってしまう。
たまたま居合わせただけの他人なんだから、フラットにやればいいものを。すぐに上とか下とかを決め始める。バカみたいだ。そもそもバカが行くところだが。
俺の気持ちは虚無そのものだったが、死にたいと思うほどの日々でもなかった。
言われたことをやる。決まったことをやる。それを毎日繰り返す。普通の社会人だってそうだと言われるかもしれないが。しかし社会人には休日がある。囚人にも休日くらいあるが――というかそこらの社会人よりはるかにあるが、私生活がない。
いっそゾンビみたいに生きることにした。
だが、何者かはそれを許さなかった。
*
このアパートはずっと夜だが、相対的に昼とされる時間帯がある。それは、住民たちが活発に動き回る時間だ。
ここでは仕事をしなくてもメシが食える。
というか仕事がない。
メシだけがある。
食堂に行くと、老婆がメシを出してくれる。
白飯と味噌汁。そして浅漬け、焼き魚、煮物がつく。拝み倒せば肉も出てくる。ただしなんの肉かは分からない。肉としか教えてくれない。人肉ではないと思う。そんなにおいはしない。ただ、獣の肉だとしたら、俺には判断できない。
まあ、うまいんだからなんでもいい。
どうせ長生きするつもりはない。
「殺しがあったってねぇ」
老婆はカウンターに身を乗り出して、俺に話しかけてきた。
カウンター席しか空いてなかったせいで、俺が会話の相手になってしまった。
「そうらしいですね」
「住人はあんたを疑ってるよ」
「そうなの? おかしいな。通り魔の仕業だって結論が出たはずなのに」
実際は俺ですよ。
でも証拠はないはずですよ。
老婆は開いているのか閉じているのか分からない目で、じっとこちらを見ていた。
「あたしもあんただと思うね」
「なぜ?」
「ただの勘だけどね」
「……」
ただの勘で人を犯罪者扱いするのか。
正解してはいるが、理由がない。正しさを説明できていない。
返事をする気もなくなったので、俺は箸で焼き魚をほぐして食い始めた。
老婆は無遠慮にも話を続ける。
「あたしはね、別に咎めてるんじゃないんだ。きっとなんか理由があるんだろう」
「仮定の話でよければ応じますよ。その答えはイエスだ。もし俺のような人格者が人を殺すんだとしたら、間違いなく高潔な理由がありますよ」
「高潔? はん。あのメガネも同じことを言ってたね」
同じことを?
彼が皮肉を言うとは思えないから、本心なんだろう。たぶん。
「彼は人の見る目があるんですよ」
「目はよくないよ」
「人の身体的特徴を揶揄するのは問題ですよ」
「生意気言うんじゃないよ。あんたが裏であたしをババアって呼んでるのも知ってんだ」
呼んでない。
呼んでるとしたらあのクソガキだ。俺はせいぜい「婆さん」くらいのものだ。
「女将さん、そいつはどこから手に入れた情報です? そんなガセネタに踊らされてるようじゃ、犯人なんて絶対に見つけられませんよ」
「ふん」
老婆はきまりが悪かったのか、いっぺん奥へ引っ込んだ。
もしかすると、カマをかけてきたのかもしれない。無害な老婆かと思っていたのに、いきなり情報戦を仕掛けてくるとは。じつは傑物かもしれない。あるいは傑物と見せかけたいだけのお茶目な老婆か。
かと思うと、老婆は頼んでもいないカツを皿に一枚乗せて戻ってきた。
「オマケだよ。食いな」
「頂戴します」
謎肉だ。
いまはそんな気分でもないんだが。
まあ、くれるものはいただいておこう。
老婆は相変わらずの仏頂面だ。
「お友達が殺されたってのに、食欲だけはあるみたいだからね」
「こいつがそのお友達の肉じゃないことを願いますよ」
「ったく。最近の若いのはホントに……」
たぶん違うはずだ。
あいつの死体はまだ安置所にある。
「ところで、部屋の壁にあいた穴、まだ直らないんですが」
「あたしに言われても困るよ。神さまに言いな」
「神さまねぇ……」
俺はカツをかじった。
くさみもなければ、味気もない。なんの動物か特定できない。精進料理みたいに、肉でないものを肉に見せかけているだけかもしれない。
いや、考えても分からないのだ。とにかく食おう。
*
ひと通り食事を済ませ、俺は老婆に尋ねた。
「もし人を殺したら、そいつは獣になるのかな?」
「不安かい? けど安心しな。そうはならないよ。結局のところ、人間性さえ失わなければいつまでも人でいられるものさ」
「そうなると、そもそも人間性とは、という問いになってくるけど」
「あたしに聞くんじゃないよ。知るわけないじゃないのさ、そんなの」
どうだか。
こんなところで食堂をやっている時点で、他の住人とは違う立場なのだ。食事を出しているということは、仕入れをしているということでもある。この老婆は、間違いなく外部と接触している。特別な人間だ。
彼女はかすかに溜め息をついた。
「あんた、バケモノになりたいのかい?」
「いまはまだ。けど最終的にはどちらでも」
「なりたいと思ってる人間ほど、意外となれないもんなんだよ」
「実体験ですか?」
俺が皮肉を飛ばすと、老婆はふんと鼻で笑った。
「バカ言うんじゃないよ。あたしはバケモノになりたいなんて思ったこと、一回もないよ。ただね、よくいるんだよ。バケモノになって楽に終わらせたいって手合いが。けど、思っただけじゃダメさ。いくら頭で思ったところで、どこかで人間をやめられないもんだからね」
「そういう人はどうするんです? あきらめるんですか?」
「あきらめるならまだいいさ。けど、だいたいはあきらめきれなくて、異常な行動に出るようになる。それで人の恨みを買うようになって、人のまま殺されるのさ」
皮肉な話だな。
それを欲する人間には与えられずに、別の誰かに与えられるのだ。
俺は立ちあがった。
「ごちそうさま。たまには人生の先輩の話を聞くのもいいもんですね。とても勉強になりましたよ」
「本気でそう思ってるかい?」
「もちろん」
すると老婆は、しわだらけの顔をさらにしかめた。
「ふん。あんたはまず、その性格を直すんだね。でなきゃ、いつまで経っても友達できないよ」
「おっしゃる通り」
だが友達とはなんなのだ?
人生に必要か?
だいたいの場合、それは人を愚かにする効果しかない。いや、誰か個人を悪く言っているのではない。人は群れるとロクなことにならない、という話だ。俺も例外じゃない。
さて、帰りは神社にでも寄ろうか。
紙に「お願い」を書いて奉納すれば、たいていのことは「神さま」が叶えてくれる。過大な要求でなければ。俺は刀やプリンをもらった。
だが、壁の穴だけは、何度お願いしても直してくれない。修理道具もくれない。
このアパートの神とはなんなのだろうか?
壁を直せないところを見ると、万能ではないようだが。
(続く)