どうしてこうなった 一
引き渡しの当日――。
俺は刀を持たず、ロープに縛られた状態で、お姉さんと一緒に指定の場所へ向かった。
ひどく静かだ。
床を踏むかすかな軋みさえ聞こえる。
人の気配はない。
深夜だからということもあるが、それだけではない。
ここは普段、人の寄り付かないエリアなのだ。
避ける理由はあっても、入る理由がない。
以前、ここにはアパートを支配しようとした巨大な勢力が存在した。
方法は巧妙だった。
トップの人物は、まずは「毒」と「貨幣制度」で近隣住民を支配した。支配というよりは、ほぼマインドコントロールで信者を作ったようなものだが。
まずは毒をチラつかせ、話術でたたみかけて数人を支配した。その上で、自分の造った貨幣で取引を始めるよう強要し、生活モデルまで押し付けた。
制度を作ったトップの人間だけが、特別な存在になった。
その後は、人間性を失わない程度に、ゆるやかに全体を支配した。
手段は狡猾だ。支配下の人間を使い、他の人間を支配させたのだ。ピラミッド……というよりは、ツリー構造での支配の連鎖だった。
そこには特典までついていた。たとえば住人の誰かが、他の誰かを支配したとする。するとそいつは、直下の人間から税金を徴収する権利を得る。その税金の半分は上へ納めることになっていたが、残りの半分は自分のものにできた。
支配すればするほど豊かになる仕組みだ。
みんなそいつの刷った金を「価値」だと思い込んでいたから、自分の価値を高めるために、躍起になって支配を繰り返した。
勢力は一気に拡大した。
ルールを守らない人間には毒が用いられた。それは「法律」の体裁をとっていたから、ただの殺人とはならなかった。人間性を失うことなく、機械的に誰かを罰することができた。
ただ、組織が肥大化するにつれて競争が激化し、内部での対立も起こるようになった。裏で毒が濫用された。
汚染が始まった。
毒の需要が高まるにつれ、製造も急ピッチで進められた。
大量に作られて、大量に使用された。
健康被害を訴える住民が現れ始めた。
毒を規制する法律を作って欲しい。そんな意見もあった。
だが、毒は富裕層の独占物だった。
住民の意見など通るはずもなかった。
毒性を調査しろと訴える住民に、支配層はこう言った。
「調べれば、かえって不安を煽ることになる」
かくして毒を制限する法律が成立することなく、住民たちは毒で死んだ。
いや、死んだことになってはいるが……。何人かは生き延びて、しれっと他の部屋に移住しているらしい。
まあいい。
とにかくここは毒におかされたエリアだ。
最深部は、獣さえ生存できないほど汚染されている。
師匠は身を隠しつつ、後ろからついてきているはずだ。
たぶん。
そうでなければ計画が成立しない。
「止まれ」
男の声がした。
俺はそいつの顔を見て、さすがに我が目を疑った。
津邑だ。
ミンチにされて死んだはずでは?
「武器を所持していないか調べさせてもらう」
ガリガリに痩せこけてはいるが、あきらかに生きている。
そいつは俺の体を丹念にまさぐりながら、ニヤリと笑った。
「死んだと思っただろ?」
「いまでも思ってる」
「さすがに気づけよ。生きてる」
まあそうなんだろう。
こうして会話しているのだから。
津邑はロープをチェックして、やや顔をしかめた。
「なんだこれ? ちゃんとしたロープなんだろうな?」
しっかりしたロープだが、少しだけほつれていた。まるで刃物でも入れられたかのように。
津邑はぐっと引っ張って、切れないかどうか確認し始めた。
師匠の作戦通り、注意をひくことができた。
ただ、俺は思い出していた。
師匠と交わした会話を。
確か、こんなやり取りだった。
「あのー、念のため確認しておきますけど、俺は死にませんよね?」
「ああ、約束しよう。敵が俺の予想を超えない限りは大丈夫だ。だが、もし予想を超えてきたら? そのときは君がアドリブでなんとかするんだ。機転が求められるぞ」
ところが津邑が現れた。
いきなり予想を超えてしまった。
俺の機転でなんとかしないといけない。
だが、いったいなにをすれば?
師匠はどこにいる?
ちゃんと後ろからついてきてるのか?
津邑はニヤリと笑った。
「おい、抵抗しようとするなよ? こっちにはスナイパーがついてるからな」
「スナイパー?」
「吹き矢の達人だ。そいつの矢には麻酔が塗られてる。もし妙な動きをすれば、秒でおねんねするハメになるぜ」
なにが「おねんね」だ。
イキリ散らしやがって。
お前が永眠しろ。
だが、さすがに俺も理解した。
師匠は味方ではなかった。
経緯は不明だが、ハナからグルだったのだ。味方みたいなツラで近づいてきやがって。
一切の楽観を捨てて、事実と真摯に向き合うのなら、そういう結論になる。
端的に要約すると、つまりはクソってことだ。
可哀相に、お姉さんはキョロキョロしている。
「えっ? えっ? どういうことですか? それって……」
津邑はいちおうロープのチェックを続けながらも、チラチラとお姉さんの体を見ていた。
「まだ分かんねーのかな? あんたら、負けたんだよ」
津邑は小者だ。
こいつはどうでもいい。
俺は多賀峰という女をあなどっていた。
彼女は自分が生き延びるためにあらゆることをしてきた。その「あらゆること」を、こちらが超えていると思い込んでいた。だが、その程度、彼女にとっては織り込み済みだったのだ。師匠のことも知っていた。
俺は自分を過信した。
だから、死ぬ。
津邑にうながされ、俺は廊下を進んだ。
天井に白熱灯がぶらさがっている。
通り過ぎると、別の白熱灯が出迎える。
音の割れた「通りゃんせ」が流れ始めた。
ロープは切れない。
武器もない。
せめてお姉さんだけでも逃がせればいいのだが……。
「おい、女。とっとと歩け。逃げたらあのガキを殺すぞ」
津邑はなかば楽しむように、後ろからお姉さんをせっついた。
乱暴に背を押されたお姉さんは、よろめいて俺の隣を歩く。
だが、こいつらの目的は?
俺を排除するのが目的じゃないのか?
なぜお姉さんまで巻き込む?
しばらく進むと、ひっつめ髪の女と、落ち武者みたいな師匠が、並んで立っていた。
師匠はおどけたような笑みで、肩をすくめた。
罪悪感はないのだろうか?
多賀峰が近づいてきた。
「会えるのを楽しみにしてましたよ、式見さん」
「俺もだ」
「とりあえず座って。少し長くなる予定だから」
「ああ」
俺は床へ腰をおろした。
お姉さんも、津邑に押されて座らされた。さっきからベタベタ触りやがって。
師匠が椅子を用意すると、多賀峰は遠慮なく腰をおろした。
それから残忍な笑みを浮かべ、俺の顔をじっくりと見つめてきた。嫌な視線だ。俺は不快感に耐え切れず、つい目をそらした。
大きな溜め息が聞こえた。
「あなた、波谷志くんたちのこと殺したんだって? それで警察に捕まって、刑務所にいたんでしょ? じつは知らなかったの。私、けっこう前からここにいたから」
「比企地も殺した」
「そうよね。そこまでは順調だったのね」
そうだ。
順調だった。
あとは津邑を殺せば完成するはずだった。なのに多賀峰とかいう女が現れて、すべてを台無しにしてしまった。
多賀峰はくすくすと笑った。
「私、あなたのことが嫌いだから、簡単に死んで欲しくないと思ってる。できるだけ苦しんで欲しいの」
「復讐のつもりか? だったら、たまこちゃんもお姉さんも関係ないだろ」
俺がそう尋ねると、多賀峰は一瞬驚いたような顔をして、それからまた笑った。
「あはは。もう。勘弁してよ。復讐? 違う違う。復讐しようとしてるのはあなたのほうでしょ? 私のは単純に……。ああ、でも考えようによってはそうなのかな。復讐ね。そうなのかも。でも私の復讐は、もう終わってるとも言える」
「一二三のことか?」
「そうよ」
彼女は立ち上がり、細長い棒を手にした。
そいつで俺の横っ面を叩いた。空気を切り裂くような鋭い音と同時に、激痛が走った。
「ぐっ」
「私、英くんのことが好きだったの。でも英くんは……ほかに好きな人がいた。誰だか分かる?」
「……知るかよ。ぐっ」
二発目。
血が出るほどではないが、刺すような痛みだ。頬だけでなく、耳だろうが構わず叩くから、一瞬、感覚がなくなるほど痛む。
彼女はごくさめた目で告げた。
「しらばっくれないで。ムカつくから。英くんが好きだったの、あなたよ。あの子、男のくせに。女みたいな顔して。それで? 男が好きだって? だったら男とヤりまくればいいじゃない。ねえ? 私はね、親切のつもりで波谷志たちとヤらせてやったの。それなのに、勝手に死んじゃった。あはは。なんなの? あいつ、男が好きだったんでしょ?」
殺したい。
一二三は泣いていた。切り裂くような悲鳴をあげて。俺はなにもできなかった。助けを求められていたのに。
多賀峰はぐっと顔を近づけてきた。
「あのときの動画、何回も見返したわ。あなた、ピクピクしてたから、死んだかと思っちゃった。でも、生きててくれてありがとう。もし死んでたら面倒なことになってたから。さすがに警察も動くだろうし」
「そうだな」
「英くん、すっごく泣いてたよね。やめてー、とか、助けてー、とか。私、笑っちゃった。そんなこと言って助かると思ってるのかな、って。結局、助からなかったしね。波谷志くんも逆に興奮しちゃって。あららーって感じ」
「そうだな」
多賀峰は今度は棒を振りかぶらずに、先端で俺の頬をぺしぺしと叩いた。
「でもショックだったわ。もっといい男ならともかく、こんなどうでもいい男のこと好きだったなんて。しかも親戚同士なんでしょ? 気持ち悪い」
はらわたが煮えくり返る、という表現がある。
いまの俺は、たぶん、それだ。
腹の中が、マグマのようになっている。血液が沸騰しそうだ。いますぐ獣になって、ロープを引きちぎって、この女を八つ裂きにしてやれたら……。
怒りで呼吸が震えていた。
そのまま声を発すれば、声まで震えてしまうだろう。
だから俺は、いくらか呼吸をして、可能な限り神経をコントロールしようとつとめた。
「まあでも、気にすることないぜ。一二三が死んだのは、あんたらのせいじゃねーんだ……」
「はい?」
「あのあとな、一二三から言われたんだ。俺のことが好きだって。だけど、俺は応じられなくて……。そんで曖昧な返事をしてたら、いきなりな……いきなり、目の前からいなくなっちまった……。だから、俺が殺したようなものだ。一番苦しんでたとき、俺はあいつの要求にこたえられなかった。救いを求めてきた手を、つかめなかった……」
多賀峰は愉快そうに目を細めていた。
俺を苦しめることができて、満足なのだろう。
もういい。
殺すなら早く殺して欲しい。
肉体を傷つけられるのはイヤだが、その前に精神がもたない……。
手も足も出ない。
誰も救えない。
獣にもなれない。
あとは死ぬくらいしか、終わらせる方法が思いつかない。
(続く)




