魚でも藻でも
「っ! ジェラルドッ、手を離さないでくださいっ」
「大丈夫、離してない」
「で、でも、足が着いていませんっ!」
「ふっ…それは、浮いてるから」
「ジェラルド!」
ダヴィネス領北方には、氷河由来の大小の湖があり、その中でも一際大きくエメラルドに輝く湖…バーモンド湖は、近年夏の保養地として人気が高かった。
もともと、ダヴィネス領主所有のロッジもあり、ジェラルドの亡き母のレディ クララは夏の保養に訪れていたらしいが、ジェラルドは滅多に訪れることはなかった。
しかし今、ダヴィネス領主一家は、ごく限られた護衛騎士や使用人達とともに、数日の休暇を湖の畔で過ごしていた。
きっかけは、ダヴィネスでは珍しい夏の暑い夜のディナーでの、カレンとジェラルドの会話だった。
南部での訓練を終えたジェラルドは、南部シテ河での水泳訓練の話をした。
「いざという時、泳げないよりも泳げる方が間違いなくいい。流れのあるシテ河では泉での水泳よりも訓練に向いているんだ…しかもこう暑くては地上よりも水の中の方が過ごしやすい」
確かに。
カレンはジェラルドの話に頷いた。
ここ数日は本当に暑くて、今日もカレンはアンジェリーナに行水をさせた。
「ジェラルドは、泳ぎはお得意なのですか?」
カレンはよく冷えた白ワインを一口飲んだ。
「そうだな、ザックほどではないが…水泳は好きだな」
ふうん…うらやましい
カレンは見た目にも涼やかな夏野菜のアイスピックを口に運んだ。
「あなたは水泳は?」
うっ
ジェラルドの問いにカレンは一瞬口を引き結んだ後、つるりとしたアイスピックをゴクリと飲み下した。
「ん?」
ジェラルドがカレンの顔を見ながらワインを飲む。
「ふふ」
カレンは誤魔化すように笑顔を作った。
「ストラトフォードの領地には美しい小川や泉もあっただろう…あなたのことだ、幼い頃から泳いだ?」
ふむ…
カレンはどう答えたものかと考えた。
というのも、実はカレンはいわゆる“カナヅチ”なのだ。
しかし、栗が食べられないことと同様、これはカレンの弱点になる。今の立場では、あまり公にはしたくなかった。
しかも山家のダヴィネスにおいて、水泳ができるかどうかを聞かれるなど想定外だ。
「ええっと、はい…邸の程近くに水遊びに丁度いい岩場があって…村の子ども達も夏は遊んでいました」
「あなたも?」
ジェラルドは当然、という感じで聞いてくる。
「私は…………いえ」
「? なぜ?」不思議がる。
「あの…私は泳げません」
カレンはまさかこういう話の流れになるとは予想だになく、決まり悪く少し俯いて答えた。
カレンの言葉に、ジェラルドは動きを止めた。
「泳ぐのは、嫌い?」
「そうではなくて……泳ぎ方がわからないのです…」
俯いたまま、ポツリと呟いた。
「…」
ジェラルドはカレンの俯いた顔を見ながら、さも意外だという風に顎に手をやると、次第に形の良い唇に笑みを浮かべた。
そこから3日後、ジェラルドはあっという間に仕事を調整し、今はバーモンド湖の畔で嬉々としてカレンに水泳を教えていた。
「カレン、足で水をかいて」
「ダメ! 沈んじゃうっ」
カレンはジェラルドにしがみつき、必死の形相だ。
ジェラルドはといえば…
何でも完璧にこなすカレンの思わぬ苦手なことを知り、それを教えることが楽しくて仕方ない。
日頃は見せぬカレンの姿に、心内では笑いが収まらない状態だった。
「母しゃま、がんばって!」
近くでティムに付き添われて水泳を楽しむ娘からも応援される始末だ。
幸いなことに、アンジェリーナはティムのお陰もあり、ここに来てからみるみる水泳が上達している。
「おいジェラルド…あんま意地悪すんなよ、姫様に…」
カレンとジェラルドの様子を見守るアイザックは呆れている。
「意地悪などしていないぞ」
ジェラルドはさも心外だと、カレンを胸に抱いたまま答える。
…これが意地悪じゃなくて、なんなの??
ジェラルドの嬉しそうな顔を見るにつけ、カレンは秘かに毒づいた。
水に浸かるのは嫌いではない。むしろずっと浸かっていたいほどだ。
しかし、足が着かないのは不安で仕方ない。
ゆえに、残念なことに水泳はあまり上達の兆しはなかった。
ストラトフォードの領地では泳ぎ方を誰も教えてくれなかったし、その機会もなかった。
そもそも貴族の子女なので、大っぴらに水泳などしないのが当たり前といえばそうだが、なんにでも好奇心を発するカレンにしては、惜しいことをしたと思っていた。
夏の盛りに川遊びをする子ども達をうらやましく横目で見やった記憶がよみがえるが、時すでに遅しで、泳げないのは仕方のないことだ。
でも…悔しい
人には得手不得手があるのは理解できる。しかし負けず嫌いのカレンは、コツさえも掴めず、泳げない状態が悔しくて堪らなかった。
蛙みたいに足をかいて…
ブクブクブク……
「! カレン!!」
ジェラルドが慌てて沈みかけたカレンを引っ張り上げる。
「ッゴホッ…ゴホゴホッ」
「水を飲んだ? カレン、もう上がろう」
「…ダメ、もう少し練習しますっ…」
「カレン…体が冷えてきている。唇も真っ青だ。一旦上がろう」
ジェラルドの説得で、カレンは不承不承水から上がることにした。
岸辺では、ニコルがタオルを持って心配そうな顔で待っている。
カレンはジェラルドに支えられたま、水の抵抗を感じながら岸辺に向かって歩いた。
しかし頭の中では、その疲れた顔色とは真逆なことを考えていた。
このままでは城には帰れないわ
少しでも泳げるようにならなくちゃ…!
・
「まぁ…別に泳げなくったって困らねーわけだし」
「ええ…」
「ただ、敵には知られないのが無難かなぁ」
「その通りです…」
カレンとアイザックは、湖の岸辺で肩を並べて座っていた。
2人の目線の先には、アンジェリーナがジェラルドにおぶわれて水泳を楽しんでいる(泳ぐのはジェラルドだが)。
アンジェリーナは父の背中でキャッキャと上機嫌だ。
ジェラルドはバーモンド湖へ来てから、午前中と夜のわずかな時間を除いて、ずっとカレンやアンジェリーナと共に過ごしてくれていた。
日頃は忙しくアンジェリーナともなかなかゆっくりとは過ごせないがゆえに、ここではアンジェリーナは大好きな父にベッタリ甘えていた。
と、ティムがアンジェリーナをジェラルドから受けとると、ジェラルドは一人で泳ぎはじめた。
飛沫を上げて力強くクロールする。
キラキラと輝く水が、逞しい体を一層引き立てる。その全力で泳ぐ姿、楽しそうな顔に、カレンはうっとりと見入る。
「気持ち良さそうだな、ジェラルドのヤツ」
隣に座るアイザックが、ふいに話しかけてきた。
「本当に」
あんな風に泳げたら、さぞ楽しいだろう。
ジェラルドは泳ぎながら、岸辺のカレンへ手を振る。
カレンは笑顔で手を振り返した。
「…アイザック卿はどちらで泳ぎを習われたのですか?」
カレンはおもむろにアイザックに尋ねた。
「オレ? 俺は習ったっつーか…元々は海辺の村の出なんだよ」
「そうなのですか?」
初めて聞いた。
「うん。だから物心ついた時には海で泳いでたな…南部の先の国境を越えた貧しい漁村でさ。それから戦争になって親が死んで、流れ流れて今はココにいるってワケだよ」
とてつもなく重い話だが、アイザックはなんてことはなくカレンに話した。
しかしこれでアイザックの泳ぎが巧みな訳がわかった。
やっぱり、小さな時の経験なのよね…
カレンは小さくため息をついた。
・
バーモンド湖での休暇は明日までとなった。
明後日にはジェラルドと入れ替わりでフリードとパメラ一家がここへ来る。
ディナーを終えてニコルも下がらせ、ひとり部屋で過ごしていたカレンは、ジェラルドを待ちながらロッジのテラスから満月を見上げる。
ハッキリとした輪郭の満月は、バーモンド湖の豊かに水をたたえる湖面と周りに聳える山肌を照らす。
…それにしても悔しい
自分には水泳のセンスがないのだ。…と思い至るのは本当に悔しくて仕方ないが、認めざるを得ない。
恐らくジェラルドは、とっくにそのことに気づいていたのだ。表向きはカレンの水泳訓練だが、その実は単なる水遊びで…
しかし、忙しい中スケジュールを調整してバーモンド湖まで連れてきてくれたことはとても感謝している。
アンジェリーナも父と過ごせて喜んでいるし。
しかし、しかしだ…
カレンは腕組をして思い悩む。
「諦めた方が、いいのかしら…」
月明かりに照らされたバーモンド湖は、静かな波を揺らめかせていた。
テラスからは直接水辺へと通じる階段があり、カレンは裸足のまま、ナイトドレスの裾を少し持ち上げて階段を下りはじめた。
今回の避暑は急に決まったこともあり、護衛も最小限だ。カレンの他には誰も見当たらない。
心地よい涼やかな風が波を渡り、頬を撫でる。
カレンは薄いナイトドレスのまま、水際へと歩みを進めた。
パチャリ、パチャリと不規則な波が打ち寄せ、足先が水に触れる。
やはり、夜は水が冷たい。が、気になるほどではない。
満月は大きく微笑み、たゆたう水は幻想的に輝く。
カレンは誘われるように、一歩また一歩と湖へと歩を進めた。
膝下まで水に浸ったところで、ナイトドレスの裾も濡れたので、もうたくしあげることは止めた。
さらに歩みを進めると、湖底の藻が濡れたドレスと共に足にまとわりついた。
足裏にはふわりとした苔の感触がある。
カレンはそのまま進み、ついには足の付け根の深さまでたどり着いた。
氷河由来の水は滑らかで心地よい肌当たりだ。
カレンは手のひらで水面へ触れる。
と、ドレスが足に絡みつき、バランスを崩したと同時にパシャンと目の前に飛沫が上がり、暗い水と泡に視界を遮られた。
あ、
思う間もなく、全身が水中だった。
長い髪と白のナイトドスが、ゆらりと水中を舞う。
溺れる…?
でも、
恐怖は感じない。
なぜだろう、自分の体の重みを感じない水中では、このままどこまでも浮かんで流れて行けそうな気がする…どこまでも……
「カレン!!」
次の瞬間、グイッと強い力で水面へと引っ張り上げられた。
「カレン、大丈夫か!!」
「…あ、ジェラルド…?」
ジェラルドは大慌てだ。
対照的に、カレンは頭から全身濡れているが、不思議そうな顔でジェラルドを見る。
「カレン、なぜひとりで…! 溺れたらどうするんだっ」
怒ってる…
月明かりに照らされたジェラルドの瞳は、まるで湖面のようにユラユラと怒りと心配で暗く揺らめいており、その金色の鋭い光彩が星のようだ。
「…溺れてません」
「カレン?」
ジェラルドはカレンの濡れて乱れた長い髪をかきあげ、その顔を確認する。
その薄碧の瞳には恐れも驚きもなく、なんとキラキラと煌めかせているではないか。
「私、お魚の気持ちがわかったような気がします」
「!?」
なんとも不思議ちゃんな言い様に、ジェラルドは呆れる。
「…カレン、まったくどういうつもりだ。私が来なければどうなっていたか…!」
ジェラルドは勢いカレンの顎を片手で強めに挟んだ。
カレンはジェラルドの大きな手で寄せられた唇に微笑みを乗せて続ける。
「もしジェラルドが来なかったら…たぶん、そのままこの湖の中にいて、魚とか…藻とか…そんなものになったかも」
でも、息継ぎしないと死んじゃうかな…
「…………」
ジェラルドはカレンの思考に追い付くのがやっとだが、どうやら溺れかけたことで何か気づきがあったらしいことは確かだ。
しかし…
ジェラルドはカレンを抱き直した。
2人は腰まで水に浸かった状態で、ピタリと体を寄せ合い話を続ける。
「もしあなたが魚や藻になったら、私とアンジェリーナはどうする?」
荒唐無稽とも言えるカレンの言葉に、ジェラルドは律儀に受け答える。
「ん…毎年夏になったらここに来てください。きっとお迎えします」
「夏にしか会えないのか?」
ジェラルドはカレンの話に合わせるが、内心ヒヤヒヤしていた。
カレンの何にも囚われない自由な本質は、時にジェラルドを不安にさせるから。
頭からずぶ濡れなのに、光を発するようなカレンの美しさは、月明かりを浴びて儚げだ。
一夜の夢とばかりに、目に見えない下半身は人魚のごとく…であっても、今なら信じるだろう。
夏にしか会えない…それだとアンジェリーナが可哀想だわ…
カレンの呟きに、ジェラルドはピクリと反応した。
「カレン、寂しいのはアンジェリーナだけではないぞ」
カレンの濡れた額にピタリと額を付けて、ジェラルドは半ば本気でカレンへと訴えた。
深緑の瞳が揺れる。
カレンは、両手をジェラルドの首へ回した。
「魚の妻は、お嫌?」イタズラな顔で尋ねる。
「魚でも人間でも、あなたはあなただから…それは問題ないし、たとえどんな姿でも私を魅了するに違いない」
「藻でも? もし藻になったら、見分けがつかないかも知れません」
「藻でもわかる」
そんなことを真面目に言うジェラルドに、カレンは吹き出した。
「カレン?…」
ジェラルドは少し困ったように微笑む。
カレンは背伸びをしてジェラルドに口づけた。
「ごめんなさい。魚になんて、ましてや藻にもなりません。でも、泳げるようになりたいとも、もう思わないです」
「諦めるのか?」
そうではなくて…と、カレンは少し考えた。
「たとえ泳げなくても、水の中の心地よさはさっきよくわかったから…だから」
「…わかった」
とにもかくにも、カレンが魚や藻にならないこと(?)を確認できたジェラルドは、ひとまずホッとしてその額にキスを落とした。
「夜は水が冷たい。このままだと風邪を引く」
と、カレンを横抱きにしようとした。
「ダメ」抵抗する。
「?」
「もう少し、このまま…」
月明かりに瞳を揺らめかせると、誘うようにゆっくりとジェラルドに口づける。
ヒヤリと冷たくなったカレンの唇は、その温度に反して柔らかな感触で、心地よくジェラルドを狂わせる。
本当に、この娘は…なぜこうもいとも容易く私の理性を飛ばすのか……
ジェラルドは半ば呆れながらも、その甘美な口づけに夢中になった。
満月の下、まるでひとときの逢瀬を惜しむ人間と人ならざるもののごとく……
『ジェラルド、今年も来てくれたのね…』
水中で長い髪をユラリと靡かせ、その下半身は七色の鱗に覆われた魚のそれだ。尾ひれは薄布のごとくひらりと優雅にたゆたう。
『カレン……』
ジェラルドは手を伸ばして、カレンの華奢な肩から腕を取る。
『来て…手を離さないで…私を抱いて…』
その夜、ジェラルドは人魚となったカレンの悩ましい夢を見た。
ハッと目覚めた時、思わず腕の中のカレンの足を手探りで確認したことは、誰も知るよしもない。
ダヴィネスには海は無い設定なので、一家には湖でバカンスをしてもらいました。
暑い毎日、少しでも清涼なひとときを。
お楽しみいただけますように……




