楽曲「月の聲」
「父しゃま、上手!」
「そうか?」
ジェラルドが積み木で作ったダヴィネス城を前に、アンジェリーナは手を叩いて大喜びだ。
ジェラルドも喜ぶアンジェリーナを見て頬を緩める。
「良かったわね、アンジェリーナ」
側で見守るカレン。
「アンジェリーナ様にご満足いただけて安心しました。僕では上手く作れなくて…」
アンジェリーナの護衛兼遊び相手のティムは、ホッとしているが申し訳なさそうだ。
アンジェリーナは誰に似たのか気性の激しい所があり、時にティムを困らせている。
「いいのよティム。こうして毎日アンジェリーナの相手をしてくれてるのだもの…ね?ティムもすごいわね、アンジェリーナ?」
アンジェリーナは「うん!ティムもすごいよ!」と満面の笑みだ。
優しいティムは頭をかいている。
護衛と言っても、ティムもまだ子供だ。あまり気は遣わせたくなかった。
それにしても…と、カレンはジェラルドの作った積み木のお城を見てふむ…と感心する。
子供の積み木ではあるが、キッチリと立派でバランスが取れ、なんと尖塔まである。
さすが、やる時は手を抜かない律儀なジェラルドらしい出来映えだ。
作ったジェラルドは寝転がり、すっかり寛いでアンジェリーナの相手をしている。
ジェラルドは忙しい中でも、アンジェリーナの様子を見ることは決して怠らない。
カレンは父に遊んでもらった記憶などないので、ジェラルドの子煩悩さには驚くばかりだった。
と、ナニーがアンジェリーナのおやつの時間をカレンに告げる。
「アンジェリーナ、おやつの時間よ。ティムも一緒にね」
アンジェリーナははーいと言うと、ティムの手を取ってテーブルに向かった。
「…さて、私は仕事に戻るとするか」
ジェラルドが起き上がる。
「あ、ジェラルド、アンジェリーナのことでひとつご相談が」
「ん?なに?」
「そろそろピアノを習わそうかと思いまして…ミス グレイにお願いして」
ジェラルドは顎に手をやる。
「いいと思う…私もアンジェリーナくらいの時から母に習ったんだ」
ジェラルドの亡きお母上はピアノの名手と聞いている。
カレンはあらと少し驚く。
「…ジェラルド、ピアノをお弾きになるのですか?」
ジェラルドは、あ、という顔をした。
「そうか、あなたは知らなかったか…と言っても、もう何年も弾いていないが」
カレンは初耳だ。
「聞いてみたいです。ジェラルドのピアノ」
とても興味がある。
ジェラルドは眉を上げた。
「母が生きている頃はたまに“弾かされて”いたんだ。剣ばかり振っていると頭が偏るとかいう理由で」
苦笑している。
「私もピアノは嫌いではなかったが…母が亡くなり、忙しさもあって自然と弾かなくなったな…」
しみじみとしている。
では…
「なおのこと、お久しぶりに弾かれてみては?」
カレンは興味津々だ。
「そんなに聞きたい?」
ジェラルドはいつの間にか腕の中にカレンを取り込んでいる。
カレンは大きく頷いた。
「ぜひ!」
「わたしも!」
アンジェリーナはフォークを手に立ち上がり、ティムとナニーが慌てる。
「アンジェリーナ?」
「アンジェ、お行儀!」
ジェラルドとカレンが同時だ。
二人は顔を見合わせて笑う。
「愛しい妻と娘にせがまれては仕方ない」
と、カレンの額にキスを落とした。
・
過ごしやすい宵の口、ダヴィネス城の娯楽室は、ちょっとした音楽会のていとなった。
カレンは驚いたが、なんとフリードはリュート、そしてアイザックはフルートがそれぞれ得意とのことだった。
「完全にレディ クララのご趣味ですよ。どうせならジェラルドのピアノ練習に付き合えと」
フリードは失笑する。立派なリュートを手にしている。
レディ クララはジェラルドの亡きお母上だ。
音楽の道に長けていたレディらしく、ジェラルド達をお育てになられたらしい。
「あの人、夕べリュートの猛練習をしてたのよ」
隣に座るパメラがカレンにコッソリと耳打ちした。
用意周到なフリード卿らしい。
「ザックは戦地でもよく吹いてたな」
ジェラルドがピアノの前に座る。
「腕が鈍ると叱られたんだよ、レディに」
アイザックはフルートを磨きながらぼやく。
婚約者のミス ジョアン・グレイも、今日は観客として来ていた。
アイザックの姿を見て、嬉しそうに微笑んでいる。
「そうそう、レディのご指導はかなり厳しかったですからね…」
フリードは懐かしそうだ。リュートの調律をしている。
「そうだな、情操教育の度は越していたな」
ジェラルドが譜面台の楽譜をペラリと捲る。
ダヴィネス軍の類い希なる騎士の三人に、こんな特技があったとは…剣ではなく、各々の楽器を手にする姿に、カレンはワクワクする。
アンジェリーナとソフィアも、いつもとは違う父達の様子を興味深げに見ている。
準備が整ったようで、三人は顔を見合わせて頷いた。
ジェラルドがこほんとひとつ咳払いをした。
「では、はじめる。先に断っておくが、なんせ久しぶりの演奏だ。出来映えの程はご容赦願いたい」
ジェラルドはカレンを見て微笑むと、スッと真面目な顔になり、譜面へ視線を移した。
ポロン…と深いピアノの音色が響く。
カレンも知っている名曲『月の聲』。
静かな旋律から徐々に音が広がる、結構な難曲と記憶している。
…すごいわ。
カレンは驚きを隠せない。
密やかな月の光からこぼれるような旋律。
ジェラルドの繊細さと大胆さが奏でるピアノの音色。
とてもブランクがあるとは思えない。
…なんて素敵なんだろう…
ジェラルドの、譜面を見ながらたまに手元に視線を落として演奏する姿に、カレンはぼーっと見とれてしまう。
ピアノソロが中盤に差し掛かると、フリードのリュートが軽やかな音で加わる。
阿吽の呼吸とも言うべきか、実に絶妙な彩りだ。
続いてアイザックのフルートだ。
切なくメロディアスにピアノとリュートの間を縫いとり、即興的なアレンジも成されている。
ダヴィネスを率いる三人の叙情的な演奏、その音色と姿に、女性陣は一様にうっとりとしている。
娘達は口をあんぐりと開けており、カレンとパメラは顔を見合わせて笑う。
ふと後ろを見ると、手の空いた使用人達も演奏に聞き入っており、モリスやエマは感慨深い顔だ。
レディ クララの生前や、三人の幼い頃からの成長を知る者にとっては、胸に迫るものがあるのだろう。
カレンはジェラルドを見つめながら、ふと別の感覚にとらわれドキリとしたが、そのまま演奏を楽しんだ。
思いがけず素晴らしい音楽会はその場に居る全員を魅了し、盛大な拍手で幕を閉じた。
・
「本当に素晴らしかったです」
その夜の寝室。寝支度を終えたカレンは少し興奮気味でベッドへ腰掛ける。
「そうか?ご満足いただけたなら良かった」
ジェラルドは茶化すように言った。
立ったまま少し屈み、カレンの顎を掬うと、ふっくらとした唇へキスを落とす。
カレンの隣へ座ると、「おいで」と言い、カレンを硬い膝へと移動させる。
カレンはジェラルドの逞しい裸の胸にぴったりと寄り添う。
「お三方の固い結び付きを改めて感じましたし…何だか特別なものを見せていただいた気分です」
「あなたにそう言ってもらえるなら、母に感謝だな」
ジェラルドはカレンのつむじにキスを落とす。
「アンジェリーナもお父様の演奏姿を見て、ピアノを習う気満々になりました」
カレンはジェラルドを見上げた。
そうか…
ジェラルドは微笑む。
深緑の瞳が揺らめく。
「私…演奏中に不埒なことを考えたんです」
「不埒?」
カレンはコクリと頷く。
「ジェラルドの演奏って…なんだかまるで…」
急に恥ずかしくなり、視線を落とした。
頬が熱い。
ジェラルドはカレンの小さな顎に手を添えると、優しくしかし有無を言わさない強さで顔を上に向けた。次いで親指でカレンの唇を軽くなぞる…話の続きを促すように。
「まるで?」
「…まるでベッドで私に触れるみたいで…ドキドキして…」
何を言ってるんだろう?と、カレンは自分の発言が恥ずかしくてたまらない。
「あってる」
「え?」
「そのつもりで弾いていた」
そ、そうなの??
「最初は指が動くか心配だったが、案外感覚を覚えていて途中から楽しくなったんだ」
ジェラルドは微笑む。
「少し余裕が出てきて、ふとあなたを見ると…まるで私の腕の中にいる時のような顔で…」
深緑の瞳が意味深にゆらゆらと揺らめき、欲望をはらむ。
確かに、カレンはうっとりと聞き入っていた。
「だからそのつもりで弾いていた」
カレンはまあ!と薄碧の瞳を輝かせた。
どちらともなく、深い口付けを交わす。
「では、演奏の続きだ」
ジェラルドは自信たっぷりに言うと、ゆっくりとカレンをベッドに横たえた。
・
「あれから毎晩ソフィアにリュートを弾けとせがまれて…参りましたよ」
執務室での休憩時間に、フリードがこぼす。
しかし、その顔は嬉しそうだ。
「お前の腕は全く鈍ってなかった。少し驚いたぞ」
「俺も」
ジェラルドとアイザックは口を揃えた。
「はは…実はたまに弾いていたんです。頭が煮詰まるといい気分転換になるんですよ…レディ クララには感謝してます」
「筋肉バカにだけはなるなーって、怖かったよな。ある意味おやっさんよりも怖かったよ」
アイザックはティーカップのお茶を飲み干した。
“おやっさん”とは前辺境伯、ジェラルドの父のことだ。
アイザックやフリードの父親代わりでもあった。
「そういえば、ザックは野営地でもフルートの練習してましたよね、今でも吹くんですか?」
フリードは遠い記憶を思い出す。
「そうだ…フルートは持ち歩けるからな。確か先輩騎士に『ピロピロ吹いたら敵を刺激する』とどやされていた」
ジェラルドは面白そうに記憶を辿り、フリードは吹き出した。
「うっせーよ。俺は練習熱心だったんだ。こないだもジョアンに誉められたんだぜっ」
照れもせずに自慢するアイザックを、ジェラルドとフリードは、そうかそうか良かったな、となだめる。
思いがけずトリオ演奏をした三人は、それ以降も妻や娘達を交えて音楽会を催すことになる。
・
カレンは娯楽室でピアノを弾く。
ミス ジョアンには歌を習っているが、ピアノも同時に指導してもらっており、練習は欠かせない。
今は、先日ジェラルド達が演奏していた『月の聲』を試しに弾いていた。
果たして自分は弾けるのだろうかと思い、改めて弾いてみたのだ。
…やっぱり難しい曲よね…
弾けないことはないが、誰かに聴いてもらうにはかなりの練習を要しそうだ。
カレンは演奏を中断して、『月の聲』の譜面を譜面台から取ると、ペラリと捲った。
…ん?
なんだろう、細かな書き込みがある。
カレンは譜面に顔を寄せる。
「…最も繊細に…まるで女性の肌に触れるように…?」
なにこれ?!
カレンは他のページも確認する。
『淑女の吐息…あるいはため息』
『うなじへの口付け、羽のように軽く』
『手へのキス、しっとりと印象的に』
これは…とカレンは考える。
ジェラルドの字ではない。
思うに恐らく、レディ クララの書き込みだ。
ピアノを弾く際の注意書だろうか…それにしてもなんて色っぽいんだろう。でも確かに細かく繊細な旋律にピタリかなった書き込みだ。
カレンはビックリしつつも感心して譜面を見る。
「なぜ止める?」
カレンは声の方へ顔を上げた。
「…ジェラルド!」
声の主は娯楽室の入口に立っている。
「せっかくいいところだったのに…」
言いながらカレンの元へ歩いてきた。
「私にはちょっと難しくて…ジェラルドの様にはなかなか…」
はにかむように笑う。
ジェラルドは「まさか」と方眉を上げた。
譜面のことを聞いてみようか…
「ジェラルド、コレ…」
カレンは譜面を返してジェラルドの方へ向けると、書き込みを指差した。
ジェラルドは一瞬ハッとした後、ニヤリと笑う。
「見つけられたか」
!?
ジェラルドはハハ…と笑いながら、カレンの座るピアノチェアを跨ぐ形で隣に腰掛け、カレンの腰へ両手を回す。
「続きを弾いて、カレン」
と、カレンの頬へちゅっとキスをした。
…もう。
いつでもジェラルドに絆されてしまう。
少しむむっとしながら、楽譜を譜面台へと戻す。
「…その注意書は…」
「?」
カレンはジェラルドの方を見る。
「あまりにも私の弾き方が武骨なのを見るに見かねて、母が書いたんだ」
レディ クララね、やっぱり。
カレンは納得してにっこりと微笑み、演奏を再開した。
ジェラルドはカレンの腰に手を回したまま、じっとカレンの横顔を見ている。
と、ある旋律にさしかかると、ジェラルドはカレンのうなじに軽いキスをした。
カレンは思わずピクリと反応し、演奏の手を止めかけたが…
「…続けて」
耳元で低く甘い声でジェラルドが囁く。
ジェラルドはそのまま、唇をカレンの首筋にピタリと付けたままだ。
カレンは背筋からゾクゾクとした官能が沸き上がり、思わず甘いため息を漏らす。
たまらず、ピアノを弾く手を止めた。
「…カレン?」
「もう…ジェラルド、とっても続けられないわ」
ジェラルドはクスリと笑う。
「私は譜面の注意書に従っただけだ」
涼しい顔でサラリと言うと、
「では、一緒に弾こうか…?」
とカレンを誘った。
「一緒に…?」
「そう」
言いながら、カレンを囲う体勢で座り直し、ピアノに向くとカレンを片膝へと座らせた。
左手はカレンの腰へ巻きついたままだ。
「あなたは左手を弾いて」
「…ジェラルド、この曲は左手が難しいのです」
「…私の左手は忙しい」
忙しいって…!カレンはもうっ、と抗議しながらもジェラルドの理屈が可笑しくて仕方ない。
「ふふ…わかりました。では…」
名曲『月の聲』も、二人の手にかかれば単なるBGMだ。
娯楽室から聞こえる不思議な不協和音に、使用人達は「おや?」と首を傾げるが、ピアノの向こうで楽しそうに時を過ごす領主夫妻を見ると、皆忍び足で部屋を通りすぎたのだった。