新婚旅行は江戸時代
ついにタイムマシンが完成した。電気機器製造技師の夫が、歴史好きの妻のために作ったのだった。夫と妻はタイムマシンに乗り込む。これから、行けていなかった新婚旅行に出掛けるのだ。
数日前から2人は、旅行雑誌をめくるかのように、日本史の書物を見て、ああだこうだと話し合いながら旅行先を選んだ。旧石器時代や戦国時代も候補には上がったが、妻の為に作ったタイムマシンなので、彼女が一番行ってみたい時代に行く事になった。妻は最近、江戸時代を舞台にした時代劇にはまっていたので、新婚旅行の行先は江戸時代に決まった。江戸城の天守が最も立派であったと言われる三代目将軍家光の時代に行く事にした。旅行雑誌よろしく、日本史の書物によると、城下町、江戸城、大名行列あたりが見所だと分かった。
「大名行列見られたらいいね」「何百人が隊列を組んで行進してくるんだろう。凄い迫力だろうね」「加賀百万石と称される加賀藩の場合は、2500人から3000人、多いときで4000人に達したらしいんだけど、多くの大名は通常150~300人前後の規模だったんだって」「さすが歴女。詳しい。それで大名行列は何処に行けば見られるんだい」「それは分からないわ。諸大名が1年おきに江戸と自分の領地を行き来しなければならないんだけど、何処にいるかまではね」「運次第って事か。じゃあ、取り敢えずは江戸城あたりから見て回ることにしようか」
夫はタイムマシンのダイヤルを《過去》の方にまわし、年号を打ち込んで、経度と緯度を設定して、ボタンを押す。瞬きする間もないほどの速さで時間が遡る。
「着いたよ。さあ、おりよう」
「うん。この格好で大丈夫かな」
「割と再現出来ていると思うけどな」
2人とも既に江戸時代の庶民のファッションに身を包んでいる。髪型も、夫はちょんまげのカツラを装着し、妻は日本髪のカツラを装着している。歴女が集まるコミュニティの中に、時代劇の衣装さんがいるので、全て貸してもらったのだ。
2人はタイムマシンからおりる。そこは江戸の城下町から少し離れた林の中。ここにタイムマシンを隠して、歩いて江戸の街まで向かうのだ。時間旅行においてもっとも注意しなければならないのは、歴史を変えない事。それを肝に免じて、2人の新婚旅行は始まった。
江戸時代当時の地図をダウンロードしてきたので、それを頼りに城下町を目指す。舗装されてない凸凹した砂利道を、しばらく歩いていると、ポツポツと江戸時代の町人を見掛けるようになった。遠くから眺めるだけだったが、夫も妻も本物の江戸時代の町人を生で観られて感激していた。「エキストラでもなんでもない本物の町人なんだね」「テレビで見るより貧相に見える」。そうこうしているうちに、城下町が見えてきた。
城下町に辿り着く。「うわぁ~」夫と妻は本物の江戸時代の街並みに目を輝かせて感動する。大通りには瓦屋根のさまざま商家が軒を連ね、水路には舟が通っており、活気づいていた。現代では見掛けない棒手振りが、天秤棒をかついで、呼び声を上げて売り歩いている。「あ」と妻が指さす。遠くに江戸城の天守が見える。現在は江戸城跡しか存在しないので、江戸城、しかもあんなに巨大な天守が見られるなんて、貴重な体験だった。江戸時代にやってきた甲斐があると言うものだ。
夫と妻は江戸城をもう少し近くで見物する為に歩き出す。先へ進むと、美しい弧を描く木造の橋が架かってある。橋を渡ると、城下町の中心部に到着する。多くの武家や商人、職人などが行き交っていた。その辺りから、夫の様子が可笑しくなった。戸惑っているかのような、ガッカリしているかのような、笑うのを堪えているかのような、要領を得ない顔をしている。夫の様子に気が付いた妻は、たまらずに聞く。
「どうしたの?何かあった?」
「え、あ、う、うん。その…、いや、いいんだ。別にたいした事ないから気にしないでくれ。言うほどの事でもないし…新婚旅行だし、水を差したくないしね」
「何よ。気になるわ。言ってよ」
「そうかい。じゃあ、言おうかな。言うけどさ、そんなに気にしないでくれよ」
「分かったから。何よ」
「その、小柄だなぁと思って」
「小柄!?」
「うん。ほら」夫は遠慮がちに、周りにいる江戸時代の人たちに視線を向ける。夫の視線に促され、妻も江戸時代の人に視線を向ける。夫が何を言いたいのか、ようやく理解出来た。
「ああ、そうね。小柄ね」
「昔の人が小柄だと聞いた事はあったけど、こんなに小柄だとは思わなかったよ」
「江戸時代の人はとくに小柄なのよ」
「え、そうなの」
「江戸時代の平均身長は、男性155cm~156cm。女性143㎝~145cmなの。日本史史上、一番平均身長が低かったというデータがあるのよ」
「へ~、そうなんだ。一番低いんだ」夫の口元が緩む「え~と、何㎝だって」
「男性が155cm~156cm。女性が143㎝~145cm」
「現代で言うと、小学校高学年から中学1年生ぐらいの背丈なんじゃない」
「そうかもね」
「全然知らなかったな。まさか江戸時代の人が、日本史史上一番小柄だなんて」そう言うと、夫は改めて周囲に視線を向ける。江戸の町は、人口が百万人を超える巨大都市。だから大勢の人でごった返している。そのほとんどが、男性155cm~156cm。女性143㎝~145cm。
夫はクスクスと笑った。小柄な人を馬鹿にして笑ったのではない。小柄な人がひとりなら、笑ったりしない。大勢が小柄なのが、面白いのだ。
「ちょっと、何で笑うのよ」
「だって、ここにいる人、みんな小柄だから。見渡す限り小柄で」夫は笑いながらそう言う。
妻もつられてクスクスと笑う。
城下町を抜けると江戸城桜田門に辿り着く。そこから見る江戸城は、天下普請によって築かれたお城だけあって、スケールの大きさに圧倒された。威圧感さえ感じ、背筋が伸びる思いだった。さすが江戸幕府の本城だ。ただ、江戸城を出入りする武士を何人か見掛けたが、みんな小柄だった。平均身長の155cm~156cmぐらいだった。江戸城の広大さを観たあとだけに、小柄が際立って見えた。「本当にみんな小柄だね」「日本史史上一番だからね」夫と妻は笑いが込み上げてくる。今や、小柄は、2人の笑いのツボになっていた。周りに気付かれないように、掌で口を押え、肩を揺らす。
帰りがけに運が良く大名行列を観る事が出来た。周りにいた一般民衆は、道を譲るために脇に避ける。大名行列は一種のパレード。当時の庶民にとって、大名行列を見物する事は娯楽であった。テレビドラマで見かけるような、民衆が脇に寄り平伏すという事はない。
夫と妻も見様見真似で脇道に入り、江戸時代の民衆たちの横に立つ。ちなみに、夫の身長が178㎝。妻の身長が163㎝。夫は江戸時代の男性の平均より20㎝強高いし、妻は江戸時代の男性の平均よりも8㎝も高い。脇道で江戸時代の民衆たちと並んでいると、2人の身長が突出して高い。それがまた面白くて、笑いが込み上げてくる。「俺たち身長高過ぎ」夫はクスクスと笑う。「あなた江戸で一番高いんじゃない」妻もクスクスと笑う。
大名行列は整然と隊列を組み、厳かに行進する。まず騎馬の武士10騎。続いて提灯を持った者。その後ろを鉄砲や弓などを持った足軽80人。さらに道具箱や槍持ちなどの人足140人から150人。その後ろに殿様が乗った駕籠。そして、楽器、鷹狩りの鷹、日傘、茶、弁当、椅子などを持った者が続く。一同、贅を凝らした甲冑を着て、とても華やかに見える。しかし、だれもかれも、小柄だった。300人前後いる武士が、猛々しく行進しているが、みんなちゃんと小柄だった。「大名行列も小柄だね」「うん、みんな小柄で可愛い」猛々しく行進する大名行列が可愛いだなんて…。夫と妻は思わず、プッと吹き出してしまう。
大名行列を横切るなどの無礼な行為があった場合、切捨御免で斬られる事もある。笑うという行為は無礼でしかない。2人は絶対に笑わないぞと真一文字に口を結ぶ。しかし笑ったら駄目だと思えば思う程、可笑しくなってくる。夫と妻は、真っ赤な顔をして、体がプルプルと小刻みに揺らす。笑ったら切捨御免。絶対笑うものか。だけど、笑いはお腹の底から込み上げてくる。このままではいずれ爆発(爆笑)してしまう。何とかしなければ。
2人は苦肉の策で、大名行列から視線を逸らし、横の見物人の方を見る。しかし横の見物人も小柄。夫より20㎝強低いし、妻より8㎝も低い。「ちぃちゃ」。横だけではない、四方八方小柄。あいつも小柄、こいつも小柄、小柄まみれ。笑いが込み上げてくる。笑ったら切捨御免。夫が妻と自分を励ますように言う。「おい、堪えろ。笑ったら駄目だ。殺されるぞ。クスクスクス。絶対に笑うな。クスクスクス」「そう言うあなたが笑っているじゃない。クスクスクス」
我慢の限界がきた。まず夫の方が笑い出す。「ワハハハハハ、見物人も小柄、大名行列も小柄、小柄過ぎ。江戸人小柄過ぎ。ワハハハハハ」「江戸人って何よ」妻もそう言いながら、可笑しくなってきて、ついに声に出して笑う。「ワハハハハハ」「ワハハハハハ」。大名行列の武士たちが、ギョロッとした目で睨んでくる。「やばい。逃げろ」2人は大急ぎでその場を離れる。
逃げながら2人は、小柄な武士が刀を振り上げて、斬りかかってくるところを想像した。「えい」と子供のような高い声をあげて、刀を振り下ろしてくる。しかし小柄で腕も短く、刀も小柄(小刀)で、2人の体に届かない。「逃げなくていいんじゃないか」また2人は大笑いした。「ワハハハハハ」「ワハハハハハ」
江戸時代から戻って数日経ったある日。夫と妻はリビングのテレビ前のソファに並んで座る。テレビのチャンネルを、毎週欠かさず観ている江戸時代を舞台にした時代劇に合わせる。テレビ画面に映る江戸時代のセットは、本物を生で見た2人にとっては、綺麗すぎるように感じた。
その時代劇は、「元禄赤穂事件」の事を描いた物語。物語は佳境に入ったところで、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入りに行く名場面が流れている。しかし夫も妻も、物語に集中出来ないでいた。赤穂浪士47人も吉良上野介も小柄なんだろうなぁと思ってしまう。平均身長155cm~156cmの小柄な47人の男たちが、小柄な悪人を始末しにいく。コメディにしか見えなかった。
「チャンネル変えようか」
「そうね」
夫と妻は時間旅行で歴史を変える事はなかったが、江戸時代の人に対するイメージが変わってしまった。
終