豊漁
ご存じの方も多いと思いますが、江戸時代、既婚者が婚姻関係にない男女とひそかに通じる…… つまり不義密通することは、大変な重罪でした。
不倫をした女性は、もしも捕縛されれば最も不名誉なかたちでの「死罪」に処されました。いわゆる打ち首獄門です。不倫相手の男性へのお咎めはそれより幾分緩いとはいえ、場合によっては同じ刑に処せられました。
にもかかわらず、江戸時代、現代で考えるより恋愛関係はなかなか奔放でした。それには「長屋制」が影響していたとも言われています。長屋制とは不義密通が公になれば隣近所も罰せられるという不条理な掟です。関係ないものまで巻き添えを食うのではたまりません。なので隣近所で、あるいは長屋の長の采配で穏便にことをおさめ、騒ぎが奉行所に届かぬようにと皆で力を尽くしたわけです。
さて。
そんな時代、長屋に住むおときという女房が、近所の髪結いの亭主と深い中になりました。おときには乳飲み子がいました。もちろん正式な夫の子どもです。
髪結いの亭主については、働きものの女房は、働きもしないうえに体が弱くて頼りないとほとんど興味も関心も持っていませんでした。
一方、漁師であるおときの亭主、大酒飲みの宗吉は激怒し、おときを責めに責めました。
三時間も殴るけるを繰り返すと、女房が殴れば殴られたまま血に染まり、一歳にも満たぬ子が乳も与えられず泣き叫び続ける目の前の情景を段々不憫に思い始めました。
そしてついに言いました。
「なあ、おとき。
お前さんが物の弾みであのつまらん男と通じてしまったのは起きてしまったことで仕方がない。俺も興が乗れば飲み過ぎて外で失敗をやらかしたことは何度もある。お前を覚えのないままに殴ったこともある。道端で寝て狐に化かされて着物一切をはがされたこともある、知らん竹藪から迷い出たこともある、有り金全て盗られたこともある。
そのたびおまえさんには迷惑をかけたがおまえさんは愚痴一つ言わなんだ。
そこでどうだ。お前の不義密通を奉行所に訴え出るとか座敷牢につなぐとかせずとも、一言、たったひとこと、すまないことだった申し訳ないことだったと心から頭を畳に擦り付けて謝ってくれるならそこまでにしようじゃないか。もちろんあの男とは二度と合わないという約束付きだ。
だが同じことを繰り返したらお前はお縄にして打ち首獄門に処してくれる。
どうだ。子どものためにひとつ、考えなおしはせぬか」
長屋の両隣の婆さんは壁に耳をこすりつけてこれを聞いておりました。
右隣の婆さんは頼まれもしないのに他人に正夢を見せる迷惑な正夢婆さん。
左隣の婆さんは男でも持ち上げられないような石を持ち上げることで有名な怪力婆さんと言われておりました。
まあ、正夢婆さんとしての噂はおときほか長屋の少数の女たちしか知らない話ではありましたが。
さて、おときは、あざだらけの顔で正座したまま宗吉に申しました。
「申し訳ありませんと床に額をこすりつけて謝るのは容易なことです。ですがわたくしはそれはいたしません」
「なぜだ」
泣き疲れて寝入っている子供に気を使いながらも宗吉は声を荒げました。おときは髪の毛の乱れを指で整えながら、殴られて歯の抜けた口で答えました。
「申し訳ありません、というのは、もう二度としない、という覚悟あっての言葉と親に教えられました。また再び同じことをするならそれは言ってはならぬと」
「もっともだ」宗吉は尖った声で答えました。「まだ不義不倫を続けるとぬかすか」
「わたくしは、今まで通りあなたが外で酒を飲み、暴れ、正気を失ったまま帰宅してそこらに失禁し、ものを投げわたくしを殴りなさるなら、同じことを繰り返さない自信がありません。
正直、このような人生は真っ平です。何の取り柄がなくとも、わたくしの愚痴を聞いてくれ、女としての寂しさを解きほぐしてくれる殿方がいるなら、そこによろめかぬとお約束はできません。
嘘の約束をして寿命を延ばすなら打ち首になったほうがましです。どうかわたくしを、わたくしのまま逝かせてくださいませ」
「どうしても不義をやめぬと開き直るか」額に青筋を立てて宗吉は怒鳴りました。
「あなた様が過ぎたお酒をやめず、わたくしを家に閉じ込めるなら、地獄も同じです。獄門を受け入れましょう。乳飲み子は両隣のお年寄りが乳母を探してくれるでしょう。あなたには豊かな海の幸があるではありませんか」
「むう」
「他人の手を汚すのを潔しとせぬなら、今ここで」
おときは乱れ髪のまま亭主に背を向け、俯いてあざだらけの両手を合わせました。その覚悟のほどに、宗吉の胸の中に愛しさと燃えるような憎しみが同時に芽生えました。
宗吉が手元にあった短刀を手にした時、
「あんた、何をするんだね。早まったことはおやめなさいよ」
長屋の両隣の老婆が転げ込んできて、怪力婆さんが宗吉を渾身の力で押さえこみました。
「ええ、どかぬか、化け物婆が」押さえつけられた宗吉はじたばたとむなしく暴れました。正夢婆さんがその手から短刀を取り上げて土間へ放り投げました。
そのとき、ふすまの向こうで一歳の娘、はるの泣き声が聞こえました。
「おなかをすかせているんです。半日殴られている間、一滴もお乳をあげられませんでしたもの。少しお時間をくださいませ、乳をやりたいのです」おときは言いました。
「たっぷりとおやりな。いたいけな赤子じゃ。おおよしよし、この腕で婆が守ってあげるからねえ」怪力婆さんが言いました。
「言われた通り、あんたには海があるじゃないか。間男のことなど聞かなかったことにすりゃあいいんだよ。酒でも飲んでいい夢見てな」正夢婆さんが言いました。
二人の婆さんに両脇を支えられ、おときは隣の部屋に入ってしまいました。
「けっ」
宗吉は卓袱台を蹴飛ばし、どすんと座り込みました。そのとき、宗吉の眼前に、網一杯のイワシの幻影が現れました。イワシは光る身体を躍らせながら青空のもとでぴちぴちとはねていました。
「そうだ、それよりイワシだ、俺には海がある、漁がある」
宗吉はかたわらの酒をぐいぐいとあおり、もうどうでもいい、あすは早朝から海に出よう、と心に決めて、ござ一枚を下に敷き、酒瓶を傍らに置いて、体を横たえました。
やがて酔った体に上下に揺れる船の間隔が蘇り、イワシのてらてらと光る体が次々と眼前を飛び跳ねました。
当時のイワシ漁は引き網漁といって二艘の船で袋状にした網にイワシを集めるやり方でした。
夢の中、イワシは今までにない豊漁で、真網と逆網双方で引く網はイワシであふれかえりました。
が、イワシはまるで海の底から湧いて出る如く数を増し、それぞれが暴れ飛び跳ね、二艘の船はぐらぐらと大きく揺れました。
やがてバランスを崩した宗吉の船は大きく傾いたと思うと宗吉と魚を海に放り投げました。
「うっぷ、げほっ、これはいかん」
もがいてももがいても手に触るのはイワシのみ。
そんな宗吉の目に前で海坊主のように正夢婆さんの目から上が波の上に現れ、そのままつぷりと沈みました。
水面を盛り上げるようなイワシの大群とともに、宗吉は暗く深い海の底に、もがきながら沈んでいきました。