八話 契約の儀
「……お久しぶり、です」
「そうね、久しぶりね」
何を言えばいいか解らず口を突いたのは、当たり障りのない一言だった。
そんなアクシルを、セティアは無表情に見つめる。
「あの……怒っているんですか?」
「何故?」
「さっきの人が、そう言っていましたので」
言うと、セティアはようやく表情を緩めた。
「あぁ。怒っている態度でいれば貴方達は急いでくるでしょう? ようは騙しただけよ」
「あ、そうですか」
怖くてそれ以外に言い返せず、アクシルは諦めて頷く。
と、セティアは老人に視線を移した。
「戯言はそこまでにして。ーーこの方は貴方の契約の儀を執り行ってくれる、精霊術師のトリント老師。王宮専属の方が、わざわざ貴方の為に来てくれたのよ」
「ほほほ。初めまして、ですな。ご紹介通り、儂はトリントと申す者です。アクシル様の儀式の手伝いができること、大変喜ばしく思っております」
相変わらず満面の笑顔を絶やさないまま、皺だらけの手を差し出してくる。
少し迷うが、叔母の無言の圧力に押されて握り返した。
「アクシル・セルベストといいます。本日は、私の為にお越しくださりありがとうございました」
他所様用の言葉遣いで返すアクシルに、セティアは満足げに頷いた。
笑顔を浮かべて握手を数秒。
そろそろ良いかと手を離そうとすると、何故か老人の手に力が入った。
ーー?
少し引っ張るが、握手した手はまったく離れない。
ぴくりと頬を引きつらせ、力を込めて一気に引き抜いた。
不思議そうにセティアが眉を顰める。
「どうかしたのかしら?」
「い、いえ。なんでもないです」
じんわりと痛む手を見下ろすと、赤く指の跡が残っていて。
こっそりトリントを睨むが、老人は変わらない笑顔を浮かべていた。
ーーなんなんだ、この老人は。
アクシルは気持ち悪さに身を震わせる。
「大まかな流れを話すわね。まず、大広間にはトリント老師に先に入ってもらうわ。それに続いて貴方も入り、そのまま最奥にある術式の中に入ってちょうだい。
その後は老師の指示に従えばなんの事はない、簡単に終わるわ。……ただ、一つだけ注意点があるの」
「……なんですか?」
「儀式では水を飲まないといけないのよ。勿論、吐くなんて以てのほかね」
「!?」
アクシルは絶句する。
ーー水を飲むなんて冗談じゃない。
急に気持ち悪さが浮上し、口を押さえた。
「……それは、本当に飲まなきゃ駄目なんでしょうか」
「ええ。それは変えられないわ。トリント老師、そうでしょう?」
「残念ながら。浄めた水を飲まないと身体に精霊が馴染みませんしね。もっとも、精霊と契約出来るかどうかは定かではありませんがね」
ほほほ、と小さな身を揺らして笑うが、アクシルとしては冷や汗ものだ。
今更ながら、逃げたくなってきた。
と、
「逃げようものなら、我が騎士団を総員して貴方を捕まえるわよ。これは脅しじゃなくて、本当に」
「く……」
見透かした発言に喉を鳴らし、アクシルは息を吐き出した。
「分かりました。やります、我慢します」
「正しい選択ね。ーーねぇ、アクシル」
一歩アクシルの元に寄ったセティアは、その両手を伸ばした。
両手で頬を挟むとーーぎりり、と抓りあげる。
「いだいいだい!!?」
「その辛気臭い顔をやめてちょうだい。弟に似てて不愉快よ」
パッと手が離れ、アクシルは涙を浮かべて頬を押さえた。
「な、何をするんだーーですか!?」
一瞬の殺気を浴びて言葉遣いを訂正。
「いいこと? 今日から貴方は大人になるのよ。甘ったれた事を言っていいのは子供だけ。それも歯の生え揃っていない餓鬼までだわ」
「……?」
「立ちなさい、アクシル。過去に囚われるのは馬鹿の極みよ。ーー結局は、己の意志で進むしかないのだから」
その瞳が、冷ややかな揺らめきを湛えてアクシルの顔を睨みつける。
それは、昔からアクシルにのみに向けられる瞳で。悲しみとも怒りとも違う、それはーー。
「ほら、そこまでにしたほうがよいのではないかの? 時間も儀式には重要なのじゃ。遅刻はあまりしたくはないからのぉ」
「……失礼したわね。それでは、行きましょうか」
中央棟へと向かって歩を進めるセティアの背後、トリントがにまりと笑った。
「炎の精霊に選ばれるといいですな。アクシル様」
「……どういう意味でしょう」
「いいえ。なんでもありませぬ」
それきり目を合わせないトリントにギリっと歯を噛み締めた。
本当に、なんなのだ。
ーー
嫌な場所に行くときの移動は案外早く感じるもので、あっという間に大広間の前に辿り着いていた。
固く閉ざされた扉の前に立つ兵士が、アクシルーーというよりもセティアに敬礼を示す。
「いい? 失敗は許されないわよ。絶対に、ね」
「はい……」
セティアが兵士に目配せをすると、ギイ、と両開き扉が開け放たれる。
蝋燭のみの灯りが道標のように続いており、その両脇には数え切れない程の人の影が並んでいた。
「では、お先に行っておりますぞ」
「どうぞ」
セティアが軽く返すと、トリントは杖をついて歩いてゆく。
一瞬広間にざわめきが広がるが、すぐに静けさが戻った。
アクシルも気が重いまま続こうとして、後ろの方で手を振る存在に気がついた。
暗さに目を凝らして、それがリリーだと確認できた。
その横には、ローグも心配そうな顔で佇んでいて。
アクシルは頬を緩めた。
ーー見守ってくれている人がいる。それが、どれだけ救われることか。
深く息を吐い、大きく吐き出して。
前を向いて歩き出した。
沢山の視線を感じる。好奇心、尊敬、嘲り、恐怖。
ーー激しい憎悪。
びくりと肩を跳ねさせ、アクシルは視線を彷徨わせる。
そして、その一点に辿り着いた。刈り上げた金髪に、暗がりで爛々と輝く瞳。
アクシルを憎しみに満ちた表情で見据えるのは、一人の男だった。
「アクシル様、此方へ」
目が離せずにいると、階段を上った先で待機しているトリントに呼ばれて顔を上げる。
次に見た時には人に紛れて消えており、アクシルは頭を振って壇上に上がった。
床には黒い魔法陣が刻まれ、中央には澄んだ水が満たされた透明なグラスが置かれていた。
トリントに催促され、その中へと足を踏み入れる。
「我、トリント・フォン・クリードの名の元に。アクシル・セルベルトに精霊との契約を望まん。大いなる意志は姿を現し、その身に宿りたまえ」
両手を広げ、厳かな詠唱をするトリントに反応するように、魔法陣が鈍く輝きを放つ。
ぶわりと暖かな風がアクシルを包み、沸々と力が漲ってきた。
「さぁ、水を飲んでくだされ」
トリントの囁きに、アクシルはゴクリと唾を飲み込んだ。
触りたくない。が、そんなわけにもいかないのだろう。
震える手でグラスを持ち上げた。
水。水。
ーー激しく心臓が脈を打つ。
思い出すのは身を打ち付ける雨。水と混じり合う血。鉄臭い匂い。
吐きそうで、気持ち悪さが目眩を引き起こす。
「どうしました? 早く」
再三の催促に、アクシルは目を閉じて一気に水を飲み干した。
「ーーおぶ、ごほ」
噴き出しそうになるのを両手で抑え、なんとか喉を動かして飲み込む。
途端、灼熱感が全身を駆け巡った。
まずーー
そう思った時には遅く、身体は床へと倒れこんでいた。