一話 変わった朝
暗闇の中を必死に走っていた。
逃げなければーー。ただそれだけを考えて。
横に誰かの存在を感じ、小さくも暖かな手を握りながら。
〜〜〜
眩しさに意識が浮上し、アクシルは目を開いた。身動きせずに瞬きを繰り返す。
見慣れた天井と部屋を順に確認をして、ようやく安堵の息を吐き出した。
「変わりなし、か」
昨日の出来事のせいで、また何かあるのではないかと一晩中神経を張り詰めていたのだ。
……まぁ結局のところ、こうして朝を迎える前に寝てしまったのだけど。
筋肉痛に顔を顰めつつ身を起こし、アクシルはとある違和感に気がついた。
「?」
いつもより太陽の位置が高く、朝一番に聴こえてくる鐘の音もないことに。
アクシルは扉へ向かって呼びかける。
「ローグ?」
しかし返事はない。ーーかと思えば、少しして控えめなノックが返ってきた。
「あ、あのぉ。私でよければおりますが、はい」
「……リリーか?」
その声音に、アクシルは新人メイドの少女を思い浮かべる。
ただのメイド、に見せかけて風の魔術が使える術師であることを身をもって教えてくれたリリー。
「はい。リリーですよ」
心なしか弱々しい声は、昨日の行動を反省してなのだろうか。
何故ローグではなくリリーなのかと、首を傾げた。
「まぁいいか。ちょっと来てくれ」
「えー、とですね」
「いいから来い」
「……アクシル様って、強引なんですね」
茶化した返事に痺れを切らし、アクシルは立ち上がって扉を開け放った。
「うひゃ!?」
身を引くリリーは、襲撃時の赤いローブからメイド服へと変わっている。
アクシルの視線を受け止め、リリーは気まずげに身を揺らした。
「その、本当の本当に申し訳ありませんでした」
一体何度目かと思うぐらいの謝罪をしてくる。
そんな姿に呆れて目尻を下げた。
「もういいって。叔母さんに逆らえる奴なんていないんだから」
「……うぅ、はい」
「で、それより聞きたいことがある。時間に煩いあの使用人は、仕事を放棄してどこ行ったんだ?」
いつまで経っても終わらないと思い、単刀直入に問いかけた。
リリーは数秒悩み、次いで手を叩く。
「あぁ、おじーーではなくローグさんのことですね。彼なら昨日からセティア様に連れ回されて、寝ずに奔走しています」
「だから起こしに来ないのか」
「いいえ。先程見に来たのですが、アクシル様がぐっすり眠っていらっしゃるので起こさずに戻ったんですよ。疲れてるだろうからって」
「……なるほど、な」
一応、気をきかせてくれたのか。
リリーは廊下の先を指差した。
「今ならセティア様と共に来賓のお見送りをしていると思います。お食事の前に向かいますか?」
「そうだな。ーー叔母様には聞きたい事が山ほどある」
昨日は質問をする前に部屋に押し込まれたから、あの後のことは何も知らないのだ。
ルーベルトの処遇についても。
「なら私も一緒に行きます。あ、よければ風の魔術でチョチョイと……」
「却下だ」
「ですよね〜」
リリーは呑気に笑った。その気楽さに頬が緩みかけ、
「……っ!?」
「どうしました?」
突然顔を顰めるアクシルに、リリーは心配そうな目を向けてくる。
それに対して緩く首を振った。
「いや、なんでもない……」
ふと紋様を覆う頬のガーゼに触れる。
熱い痛みを放つそれが、嫌でも現実を突きつけてきた。まるで、忘れるなというように。