ガールズ・トーク
五月二日。
晴天。
東武スカイツリーライン準急、鷺沼行きの電車は北千住駅の四番線ホームを後にした。十時一分。時刻表通り、ピッタリだった。
銀色に鈍く輝くアルミニウム合金の車体。施されたシャイニーオレンジの塗装。50050系は時間と速度を遵守して、レールの上をひたすら真っ直ぐに。春の陽気に浮かれることなどなく、冷徹に走っていた。
列車は無表情に――しかし速度を増すと、リズミカルに身体を揺らす。
……タタン、タタン。
……タタン、タタン。
――『牛田』、『堀切』、『鐘ヶ淵』。
――『東向島』、『曳舟』、『押上』。
そして何事もなかったかのように、すんなりとその身体を東京メトロ半蔵門線に乗り入れる。
「晴れてよかったねぇ」
「ほんと」
四号車。
両側を扉に挟まれたスペース。
澄果――友人たちからはスゥと呼ばれる小女がしみじみと呟くと、直織は相槌を打った。
スゥは腕を組んでいる。――ナオはつり革を掴んでいる。スゥの身長は二十歳にして、百四十五センチしか無かった。ヒールのある靴を履いているとはいえ、彼女につり革に捕まるという習慣は無い。中学、高校と陸上部に入り、駿足で一時、ローカル的に有名だった彼女は、今もストイックに両脚を肩幅より拡げ、踏ん張っている。ナオはというと、身長は百六十五センチあった。
スゥとナオは高校時代からの友人だった。活発で身体を動かすことを好むアウトドア派のスゥと、眼鏡をかけた、あからさまにインドア派なナオが仲良くしているのは、周りからすれば不思議な光景だった。しかし二人からすると、そんなことは気にもならなかった。アウトドア派の人間であっても、いつでも身体を動かしていたいわけじゃないし、インドア派の人間だって、たまには身体を動かしたいと思う時があるものである。お互いはお互いに、自分にない部分に惹かれあって、こうして別々の大学に入った今でも仲良くしているのだ。
「席空いた。座る?」
押上で客が降りたことで、座席には二人分座れるスポットができる。スゥは目ざとくそれを見つけると、ナオの返事も聞き切らずに座った。ナオはこういう時、あえて立つという選択は決して選ばないのだ。二つ並んで空いているなら、まず間違いなく座ることを選ぶ。スゥはそれを知っているし、それをスゥが知っていることを、ナオは知っている。
二人の今日の目的地である『神保町』まで、残り七駅。
電車は地下へと潜り、窓の外は黒一色に染まった。
「……アヤがね、彼氏と別れた、って言うのね」
座ってまず、口を開いたのはスゥだった。
アヤとは、彼女の三つ下の妹である。
「うん」
……タタン、タタン。
「……どうして?」
「それがあの子、その彼氏の誕生日にケーキを作ってあげてたの。私バイトから帰ってきたら、なんかリビングで甘ぁいにおいがしてて……で、『ちょっとちょうだいよ』って言ったら、『ダメ!』って。『彼氏にあげんの!』って」
「アヤちゃん、あれ、ケーキ作る人…………パティシエになるのが夢なんだっけ?」
「うん、そう。それでね、こう……クリーム作ってたりなんかして。シャカシャカーって。そんで、がんばってるなぁ、うまくいくといいなぁ、なんて、姉なりに思ってたのよ」
「うん」
「でもね、その次の日。帰ってきたら、泣いてるのね。そんで、『どうしたの?』って聞いたら……」
……タタン、タタン。
「……『手作りとか、“重い”』って。笑われた、って言うの」
……タタン、タタン。
ハァ、と、ナオはため息を吐いた。
「……サイッ、テイ」
「でしょお⁈」
電車はゆっくりと速度を落とす。車内放送がボソボソと流れると、窓からは明かりが射した。
――『錦糸町』。
ドアが開き、何人かが降り、乗ってくる。
音を立てて閉まると、のろのろとゆっくり、再び走り出した。
「……私、もうかわいそうで……」
「ひどいねぇ」
ナオは同情に顔を歪めた。
「手作り、って“重い”かなぁ」
スゥはまるで自分が言われたかのような様子で聞いた。
「そんなことないでしょ」
「ねぇ」
「私もし、誰かと付き合ったとしてね。男の人が手料理なんか作ってくれたら、まずくったってうれしい」
「私も!」
「私の為に、なんかがんばって作ってくれた、ってのがうれしいんじゃない?」
「そうそう」
「手作りが“重い”とか……よくそんな軽はずみにひどいこと言えるよね」
「うん」
「なんかムカついてきた」
「ハハ……」
……タタン、タタン。
「……そんな奴ね、思いやりがないのよ。こういう事言ったら相手を傷つけてしまうかもとか、そういうことが考えられないの。手作りにしたってね、その子がどんな思いで、何あげようかなぁって、考えたんだろう……悩んだんだろう、とか、どんな気持ちでそのクリームを泡立てたんだろうとか、オーブンの前でスポンジ膨らむ様子見てたんだろう……とかね。その場面を想像することもできないのよ。想像力、イマジネーションが無いの」
「フフ……イマジネーション」
……タタン、タタン。
「アヤに聞かせてやりたい」
「アヤちゃん別れてよかったよ。そんなヤツ」
……タタン、タタン。
減速。ボソボソ。明かり。
――『住吉』。
扉が閉まると、電車は再び走り出す。
「……ほら、私たちってケンカとかしたことないじゃない?」
口を開いたのは、ナオだった。
「うん」
「『ケンカするほど仲がいい』なんて言葉があるけど、私、あれってウソだと思うのね」
……タタン、タタン。
「……っていうのも、お互いにちゃんと思いやりを持って、思い合っていればね。譲り合って、感謝し合って、許し合って……そしたら、ケンカなんてしないのよ」
「うん」
……タタン、タタン。
「……そうよね。ケンカするってことは、その相手のことをちゃんと理解できてない、ってことだもんね。ここまで踏み込んで言ったら、流石に傷つけちゃうだろうなぁ、とか」
「そう。距離感、っていうかさ。……まぁ、そんな言い方まるで『私たちはちゃんと思いやりのある人間だ』って言ってるみたいで、おこがましいけど」
「フフ……」
……タタン、タタン。
「……でも、ナオは私のことちゃんと考えてくれてるなぁ、とは思うよ」
……
――『清澄白河』。
……
「だって、この前誕生日プレゼントに洋書の絵本くれたでしょ。私、あれうれしかった。だってナオは私が絵本にハマってる、っての覚えてくれてて、英語の勉強してるのも知ってて、だからあの本くれたんだもんね」
ナオは、自分の顔が少し熱くなるのを感じた。
「うん……まぁね……」
……タタン、タタン。
「でも、誕生日とかに何あげよう、って考えるの、たのしいよね」
「うん。選んでる時とかね」
「そう。『これあげたら喜んでくれるかなぁ』とか、『どんな顔するかなぁ』、って」
「わかる」
「だからなおさらアヤちゃんがかわいそうだし、その元カレは許せない」
「そう」
「もうクソだね。そいつ」
「フフ……きたない」
「クソ」
「やめてってば……フフ……」
「ンフフ……」
……
――『水天宮前』。
……
「……なんだかんだ言って、妹かわいいの」
「わかるよ」
「姉バカ、っていうか」
「私も弟かわいいもん」
「ね。だから、幸せになってほしいと思うし、ちゃんとすきになる人も見定めてほしいのね。自分を幸せにしてくれる人かどうか……」
「スゥもね」
「私は大丈夫だもん」
「ほんと?」
「ほ・ん・とぉ!」
……タタン、タタン
「……弟くん、彼女とどうなの?」
「この前ウチに泊まりに来てたよ」
ナオと弟は二歳離れている。
「えーっ! 一大事じゃん!」
「うん、それがね……」
……
――『三越前』。
……
「バイトから帰って来て、リビング行ったのね。そしたら、ママがビール飲んでて。『ミキちゃん来てるの。泊まるんだって』って」
「弟くんの彼女、ミキちゃんってゆうんだっけ?」
「そう。それでね、私『ふぅん』って。それで夜ご飯食べ始めたんだけど、ママが『リュウはリビングで寝かすけどね』って」
リュウとは、ナオの弟である。
「ハハハ……なんかカワイソウ」
「うん、ちょっとね。でも、まだ高三だもん。ママ的にも心配だろうし、まぁわかるな、って思って。そしたらね、ママが『アンタも飲む?』って」
「ビール?」
「うん、それがね。よく見たら、ノンアルコール・ビールだったの」
「うん」
「それでね、私思ったの。『彼女が泊まりにきてるのに一緒に寝ることが許されない』のと、『ノンアルコール・ビール』って、なんか似てるなぁ、って」
……タタン、タタン。
「フフ。なんとなくわかる」
「ね。『ビールなのに酔えない』……。意味あるのかな、って感じ」
「うん」
「でも、私それパッて思ったんだけど、ママには言えなかった」
「フフ。…………国語の問題みたい」
「国語?」
「そう。なんでそれを言えなかったのでしょう、みたいな」
「あぁ……なるほどね。フフ……」
「そりゃ言えないよね」
「うん。なんでかって、説明しなくちゃいけなくなっちゃうもん」
……
――『大手町』。
……
駅名を示す看板に次の目的地が書かれている。『神保町』。その文字を見て、ナオが言った。
「神保町でさ、どっか行きたいとこあるの?」
「うん」
……タタン、タタン。
「絵本しか置いてない本屋さんがあるの。そこ行きたい」
「へぇ〜。ステキ」
「でしょ?」
「絵本、っていいよ。なんか、純粋で」
「わかるよ。『泣いた赤鬼』とかヤバい。私子どもに読み聞かせとか、できる気がしない。途中で泣いちゃって」
「『泣いた赤鬼』?」
「えっ、知らない?」
「知らない」
「超メジャーだよ。絵本専門店なんて絶対置いてあるんだから。探そ」
「うん」
「お昼は何食べる?」
「ナオは? 何食べたい?」
「なんでもいい」
「“なんでもいい”は困っちゃう」
「スゥの食べたいものでいいよ」
……タタン、タタン。
「……じゃあうどん」
「だと思った」
「フフ……」
「フフフ……」
「毎回うどんでヤでしょ」
「うどん私だってすきだもん。いいよ」
「ほんと?」
「うん」
……タタン、タタン。
「ナオは? 行きたいとこない?」
「私秋葉原行きたい。近いから歩こうよ」
「うん、いいよ」
「天気よくてよかった」
「ほんと」
「途中でどっか喫茶店入ろう」
「いいね」
「ケーキ食べたい気分」
「……ねぇ、それってさっきのアヤの話聞いたからでしょ?」
車内には、寝る人、本を読む人、膝の上のノートパソコンを叩く人、スマートフォンの画面を懸命にこする人。めいめい各自、自分の世界に浸っていた。
スゥとナオの二人は二人の世界の中で、こそこそ内緒話をするかのように、囁き合っていた。
電車がホームに、静かに停車をすると、二人は降りて、並んでエスカレーターへと歩いていった。
――『神保町』。
50050系は全ての扉を閉めると、ゆっくり、ゆっくり加速を始めて、すぐにホームから去った。
……タタン、タタン。
……タタン、タタン。
――『九段下』。