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後編

 来る日も来る日も僕は谷へ通った。ヒコはいつも傾いた椎の木の枝に座り、風に亜麻色の髪を揺らしながら梢に覗く空をみつめていた。そして僕の姿を見るとニッコリと微笑む。

「ヒコ、おはよう!」と僕が声を掛けると、「おはよー」と応えながらヒコは木の枝から飛び降りる。

「待った?」と聞くと、ヒコは笑いながら首を横に振る。

 けれども僕は知っていた。ヒコもまた僕を待ち侘びていたことを。

 ヒコは山の遊びを僕に教えてくれた。木に登り、草笛を吹き、魚を捕まえ、沢蟹や虫を探し、ヤマドリの巣を覗く。遊び疲れると僕達は平たい岩の上に並んで寝そべり、谷川の水で冷やしたラムネを片手に流れる雲を見上げる。

 僕の隣で、ヒコはちびりちびりと舌で転がすようにしてラムネを味わっている。ヒコはどうも炭酸が苦手のようだった。時々ツンと鼻に来る炭酸のゲップをして、その度に顔をしかめて鼻をつまんでいる。それでもヒコはラムネを飲み続ける。そして、淡い色の瓶の中で涼しげに揺れる硝子玉の軽やかな音に目を細めていた。

 チリリリリ、と高く澄んだ鳥の歌声が谷に響いた。ヒコが即座にチリリリリ、と応える。ココココココ、と啄木鳥(キツツキ)が樹を叩く硬い音がして、ルールー、ルールー、と何処かで山鳩が甘く鳴く。谷にこだまする様々な音とそれに応えるヒコの楽しげな声を聴きながら、僕は目を瞑る。



 ……ヒコ。

 僕は君の事を何も知らなかった。君も僕に何も尋ねはしなかった。

 けれども二人で過ごす時間は穏やかに流れ、君のいる世界は僕の内を満たし、その刻の流れの中に僕は全てを忘れた。



 不意に陽が翳り、びゅうっと強い風が木々の梢を鳴らした。ポツリと瞼に当たった水滴に驚いて目を開けると、不穏な色の雨雲が空に立ち込めていた。見る見るうちに辺りが暗くなったかと思うと、不意に青白い光が走った。数秒後、ドロドロと低く不吉な音が腹に響く。

 山で夕立ちに遭うのは怖い。痛いような大粒の雨に足元の岩はあっという間に黒く濡れ、慌てて木立に逃げ込もうとした足が滑って転びそうになる。

 ヒコが不意に僕のシャツの裾を掴み、椎の木の真下辺りの崖を指差した。ヒコが指差した先には、岩が裂けたような細い隙間があった。

 ヒコの助けを借りて、土から突き出した木の根っこや太い蔦を伝って崖の中程にある洞穴に辿り着くのは、そんなに難しいことではなかった。狭い入り口からは想像できないほど洞穴の中は広々としていて、乾燥した藁やいい匂いのする草が敷き詰めてあった。

「ヒコ、もしかしてここに住んでるの?」と尋ねると、ヒコは僅かに目を細めて曖昧に笑った。

 銀色の雨に煙る景色が遠い。心地の良い、しかし世界から隔離されたようなその仄暗い空間で、降り頻る雨の音に耳を澄ます。

 ぴちゃん、ぴちゃん、と洞穴の奥で水の滴る音がする。

「ぴちゃん、ぴちゃん」とヒコが呟いた。うっとりと目を瞑ったヒコの柔らかな声が洞穴の中に響く。ヒコが空のラムネ瓶を洞窟の奥の水溜りにそっと置いた。岩から滴り落ちる雫が瓶に当たり、ティンティンと硬く澄んだ音になって砕け散る。不意に強い風が吹き、次の瞬間ざぁっと雨音が鮮明になった。風の唸り声と共に近づいては遠のく雨の音、木立の濡れたざわめき、鋭い岩の間を縫うように流れる谷川の水、そして僕の心音。

 その全ての音をヒコが歌に編み上げる。ヒコの声は甘く、懐かしく、そしてどこか切なく、僕の胸の内にこだまする。


 音、音、音。世界は音で溢れている。

 父と母と三人で囲んだ夕食のテーブルにも音は溢れていた。キィキィとナイフが皿に擦れる耳障りな音。咀嚼音。軽い咳払い。気の無い相槌。そして全てを包み込む、沈黙という不協和音。

 沈黙はある日突然破られた。「お父さんとお母さん、離婚することにしたから」

 突然、というのは正しくはないだろう。僕たち家族の歯車が、少しづつ少しづつ歪み、狂い始めていたことを、僕はずっと前から気付いていたのだから。だから僕はただ、「あぁ、来るべきモノが来たな」と思っただけだった。

 ごめんね、裕也、と母は哀しげに微笑んだ。父は無言で、雨の降り頻る窓の外を眺めていた。


 ふと気がつくと、ヒコが唄うのをやめて、じっと僕を見つめていた。

「どうしたの?」と尋ねると、ヒコは何か物言いたげに僅かに口を開き、しかしそのまま僕の口許を見ている。

「なに? ヒコ、どうしたの?」と僕がもう一度言うと、ヒコが不意に顔を近づけ、僕の目を覗き込んだ。間近で見るヒコの瞳は明るい薄茶色で、椎の梢から零れた木洩れ陽のような金色の光が幾筋か入っていた。その金色の光が瞬いた瞬間、なぜか、刺すような痛みに指先が痺れ、息が詰まった。

「……寂しいの?」と掠れた声で僕は囁いた。

「……さびしいの?」瞳の中の木洩れ陽を瞬かせ、ヒコの柔らかな声が繰り返す。

「ぼ、僕は、僕は寂しくなんかない……」

 慌てて目を逸らした僕を、ヒコは長い間無言で見つめていた。やがてヒコは微かな笑みを口許に浮かべ、そっと僕の指先に触れた。

 なぜか、その温度のない指先が、夕立に濡れて少し冷えていた僕の身体をふうわりと温めた。


 ♢ ♢ ♢


「裕也」

 リュックにおにぎり、ポテトチップス、そして祖母に頼んで買い置きしているラムネの瓶を二本入れて玄関を出たところで、畑から帰って来た祖父と鉢合わせした。

「山に行くんか?」と祖父に聞かれ、僕は曖昧に頷いた。

「毎日毎日、山で何しよるんや?」

「……別に。虫探しとか、魚釣りとか、そんなもんだよ」

「釣竿も持たんと、どないして魚釣っとるんや」

 ヒコは手掴みで魚を捕まえるのが得意だから、釣竿なんて無用の長物だ。そしてヒコは捕まえた魚を河原で焼いて食べさせてくれる。香りの良い山草を腹に詰めて塩を振っただけの魚は、とても新鮮で美味しかった。魚と一緒にヒコは椎の実も焼いてくれる。甘くて香ばしい椎の実が僕は好きだった。

 無言で目を逸らした僕を見て、祖父がふうっと溜息を吐いた。

「……鬼っ子と遊んどるんか」

「ち、違うよ」

 祖父から目を逸らしたまま、僕はじりじりと後退りした。こんなところでウロウロしていては背中のラムネがぬるくなる。早くヒコの待っている谷へ行きたかった。

「言うたやろう、鬼っ子はヒトを取って喰うんやで」

 まだ十時にもならないのに、照りつける白い日差しに目の奥が痛む。こんな暑い日でもヒコの手はひんやりと冷たい。いや、冷たいというのは正しくない。足場の悪い道を歩く時、僕の手を引いてくれるヒコの小さな手は、熱くも冷たくもなく、唯ひたすらに温度が無かった。

「いいか、裕也。オトナの言うことは聞くもんや」

 言うこと言うこと言うこと。僕は一体どれほど言うことを聞けばいいのか。うわんうわんと降り頻るような蝉時雨に頭の芯が痺れる。

「そないな危ないもんと遊んどったら……」

「違うよッ」と思わず叫んだ。「ヒコは鬼っ子じゃないっ、ヤマビコだよっ」

 驚いたように目を見開いた祖父から逃げ出すように、僕は山へ向かって一目散に駆け出した。


 ♢ ♢ ♢


 毎日毎日、朝から晩までヒコと山で過ごすうちに僕はすっかりイイ色に日焼けして、自分で言うのもなんだが身体つきも少し逞しくなったような気がする。そしてその分お腹が空く。夕飯をペロリと平らげ、更にご飯のおかわりをする僕を祖母が目を細めて嬉しげに見た。

「なんや、もっとようけ作ったらんな、足らへんなぁ」と言いながら、祖母が井戸水で冷やしたトマトときゅうりを皿に盛った。「さっき畠で採ってきたんやけどなぁ、デザート代わりにもならんやろうけど、ほんでも粗塩でも振って食べたら美味しいで?」

 新鮮な野菜はサラダドレッシングなんかより塩が合うことを、僕は田舎に来て初めて知った。トマトなんか凄く甘くて、塩すらいらない。冷たいトマトにかぶりつくと赤い汁が辺りに飛び散った。

 これをヒコにも食べさせてあげたいな、と思った。谷川で冷やしたトマトとキュウリはきっとすごく美味しいだろうな。

「ねぇ、おばあちゃん、トマトもっとある?」

「トマトならまだようけあるで」と言って祖母が台所の隅に置かれたザルを指差した。ザルは艶やかに熟れたトマトで一杯だ。よしよし。

「じゃあキュウリは?」粗塩を振ったキュウリにかぶりつきながら尋ねる。

「キュウリは今日採れた分は糠漬けにしたで。なんや、もっと欲しいんやったら、おばあちゃんの分あげようか?」

「ううん、大丈夫……」

 ヒコは夜はどうしているんだろう、とふと思った。あの洞穴で眠るのだろうか。それとも独り、椎の木の上で過ごすのだろうか。梢から零れる白い月の光に影を染め、夜の音に独り耳を澄ますヒコの姿が目に浮かび、なんだか胸の内側がしんとした。


 翌朝、リュックにおにぎりやラムネに加え、ザルから失敬した大きなトマトをふたつ入れた。粗塩も忘れずに。キュウリがないのが残念だけど、まぁ仕方無い。

 ウキウキと外に駆け出したところで、祖父に呼び止められた。ギクリとして振り返ると、祖父が泥の付いたビニール袋を無言でぬっと顔の前に突き出してきた。

 ビニール袋は採れたてのキュウリで一杯だった。


 ♢ ♢ ♢


 はぁ、と重い溜息と共に僕は本のページをめくった。

 夏休みも残り一週間となり、明後日には母が迎えに来る。都会の家に帰るのは想像するだけで憂鬱だった。そして僕はまだその事をヒコに話していなかった。

 はぁ、と再び溜息をついて、僕は閉め切った窓から外を眺めた。昼間だというのに空は真っ暗で、びゅうびゅうと風が唸り声を上げている。ヒコと過ごせるのはあと残り僅かだというのに、このタイミングで台風が来るなんてツイてない。天気予報によると台風は今晩この辺りを通り過ぎるらしい。明日の朝までには晴れることを祈るしかない。はぁ、と溜息をついて本に目を落とした。

「……谷の椎の木やけどな」

 テレビの前に広げた新聞紙の上で足の爪を切っていた祖父が不意に言った。

「あれはもうアカンな」

「……何が?」

「崖がな、少しづつ削れとるんや。雨やら、風やら、谷川の流れも変わりよるしな。儂が子供ん頃は、あの木はあんな崖っぷちには立っとらんかった」

 せやからな、と祖父が低い声で続ける。「あの木ももう長いことないやろうな」

 谷に突き出した椎の木の枝に腰掛けて歌を口遊(くちずさ)むヒコを想う。あの木はヒコのお気に入りだ。あれが無くなったらヒコはがっかりするだろうな。

「あんな、裕也」背中を丸め、パチン、パチンと爪切りを使いつつ祖父がぼそりと呟いた。「やまびこでも何でも、木やら岩やらに憑いとるようなもんはな、依代(よりしろ)()うなったら、消えてしまいよるで」

「……え?」

「谷の椎の木は樹齢何百年にもなりよるやろうな。この辺の山も伐採やら何やらで、あの木よりも古いもんはない。代わりになる木も無いからのう、あの木が倒れよったら、あれに憑いとるもんは生きていかれへんのんや」

 パチン、パチン、と硬い音だけが静かな居間に響く。

 不意に大粒の雨が硝子を叩きつけ、その激しい音に僕はびくりとして窓を振り返った。暗い空を分かつように稲妻が走り、その青白い光の中、吹き荒れる風に木々の枝が今にも折れそうに(たわ)んだ。


 ♢ ♢ ♢


 激しい雨風の音に僕は一晩中まんじりともせず夜を明かした。そして明け方、風の音がようやく静かになった頃、寝床から起き出して暗い部屋の隅で地図を調べた。そして日が登ると同時にポケットにありったけのお小遣いを入れて、そっと家を出た。


「ヒコ!」

 朝靄に霞む谷でヒコの名を連呼すると、椎の枝の間からヒコが顔を覗かせた。嵐のせいか、椎の木は一昨日よりも更に傾いでいるようにみえる。それを見た途端、じりじりと焼け付くような焦燥感に喉の奥がひりついた。

 なぜ気付かなかったのか。この樹は、初めて見た時から毎日、少しづつ少しづつ傾き続けていたのだ。知っていたはずなのに。悪い変化はある日突然訪れるわけではない。それは雨風に削られる崖のように、少しづつ積み重なり、気が付けば手遅れになっているのだ。

「ヒコ、樹を探しに行こう」

 木から飛び降りたヒコの肩を揺さぶるようにして僕は言った。

「き?」

 ただならぬ僕の形相にヒコが面喰らったように息を飲んだが、そんな事に構っている暇はない。

「この椎の木の代わりになるような、大きな樹を探すんだ」

「かわり……」と呟き、ヒコが困った顔で傾いだ椎の大木を見上げた。

「ヒコがその樹が大好きだって知ってるよ。でも、それって今にも倒れそうだろ? その樹がダメになったら、もしかしたらヒコだって……」

 ヒコが俯き、そっと木の肌を撫でた。ヒコの困惑に構わず、僕は地図を開いて指差した。

「ねぇ、ほら、ここ見て。ここね、電車で三〜四時間で行けるんだ。そんな大きくないけど綺麗な湖があって、その周りの山が国立公園になってるんだ」

 数年前、父と母に連れられて行った深く豊かな山々を思い浮かべる。

「ここならきっと古くて大きな樹があるよ。それに国立公園だから、そんな簡単に伐採とかされないはずだしさ」

 自信があった。いいアイデアだと思った。しかし地図を覗き込んでいたヒコは、僕と目が合うと怯えたように後退りした。

「ヒコ……」

 傾いた大樹の陰に隠れようとするヒコに僕は懸命に追い縋った。

「僕はヒコに消えて欲しくないんだ。たとえこの樹がなくなっても、ヒコを失くすわけにはいかない。ソレだけは、絶対に、絶対にダメだ」

 僕は必死だった。けれどもそれは決してヒコのためなどではなかったことを、当時の僕はまだ気付いてはいなかった。

「僕はヒコとずっと一緒にいたい。でも僕は都会に帰らなくちゃいけなくて、僕の住んでいるところにはこんな立派な樹はなくて……でも、いつも一緒にいられなくても、ヒコがどこかに元気で、幸せでいてくれることが大切なんだ」


 僕はいつも君を想う。

 雨垂れに耳を澄ます君を、吹き荒ぶ風に笑う君を、鳥と共に歌う君を。

 世界の片隅に生きる僕は、この世界の何処かに君がいる限り、決して独りなんかではない。


 お願いだよ、と僕は震える声で呟き、赤い野球帽を脱ぐとそれをヒコに差し出した。

「知らない土地に行くのは不安かもしれないけど、でも約束するから。僕、絶対にヒコに会いにいくから。絶対に君を独りぼっちなんかにしないから。だから僕と一緒にいこう。新しい樹を探しに……」

 ヒコは長い間、ただ無言で椎の木を撫でていた。しかしやがて顔を上げ、金色の木洩れ陽に染まる瞳で僕をひたと見つめると、コクリとひとつ頷き、差し出された帽子を手に取った。



 ……ヒコ。

 大人になった今でも、僕はよく君の夢をみる。寝苦しい夏の夜、夢から醒めた僕は、君があの日見せた静かな微笑みを思い浮かべる。

 僕が自分自身のために君を生かそうとしていたことを、ヒコ、君は知っていたのだろうか。


 ♢ ♢ ♢


 ガタン、と電車が大きく揺れて、僕は目を覚ました。

 夢の続きのように頭がぼんやりして、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。昨晩は結局全然寝れなかったからな。ついうたた寝したみたいだ。どれ程の間眠っていたのだろう。

「ヒコ、僕、どれくらい寝てた? さっき教えた乗り換えの駅、まだ通り過ぎてないよね?」

 隣に座っているヒコに声をかけたが、ヒコは何やら真剣な表情で窓に張り付いていて振り向きもしない。

「どうしたの? なに見てるの?」と言って僕も窓の外に目をやった。

 目の前を飛ぶように過ぎてゆく木々の梢の向こう側に、きらきらと輝く銀色の水平線が見えた。

「う、海っ?!」

 僕は焦って思わず大声を上げてしまった。完全に寝過ごした。ほんの数分と思っていたが、どうやら一時間以上眠っていたらしい。それにしてもまさか海まで出てしまうとは、快速特急だったのが仇になった。早く降りて乗り換え駅まで逆戻りしなければ。

 窓の外の景色に見惚れるヒコを急かし、大慌てで荷物をまとめてドアの前に立ったが、さすが快速特急、無慈悲にも次々と駅を素通りしていく。ようやく停まった駅で電車を飛び降りると、強い潮の香りに全身を包まれた。

 階段を駆け上り、反対側のホームに停まっている電車に向かって駆け出そうとすると、ヒコがグズグズと足を止めた。

「ヒコ、どうしたの? 早くしないと、電車が出ちゃうよ」

 焦っている僕を尻目に、ヒコは何やらうっとりと目を細めて犬のようにふんふんと鼻をうごめかせている。

「ダメだよ、ヒコ。早く行かないと。海に樹なんてないよ」

 しかしヒコはガンとして動かない。

「……海が見たいの?」

「うみ」と呟き、ヒコが頬を紅潮させ、柔らかな髪を乱す潮風に目を細めた。「うみがみたい」

「海なら駅を出て、歩いてすぐだよ」と通りかかった駅員さんが笑いながら言った。「でも今の時期はクラゲが出るから、泳いだりしたらいけないよ」

 少しだけなら、と僕は考えた。まだお昼を過ぎたばかりだし、朝食抜きだったからお腹だって空いている。お弁当でも買って海で食べるのもいいかもしれない。時計がないから時間がよくわからないけど、でも少しくらいなら大丈夫だろう。だってこれを逃したら、山に棲むヒコが海をみる機会なんて二度とないかもしれないから。


 クラゲのせいか、夏の終わりの浜には殆ど人影が無かった。

「ざっぱーん」とヒコが笑った。「ざざざざ、ざっぱーん」

 波打ち際に駆け寄ったヒコが、足が濡れるのにも構わず目を細めて波の音に耳を澄ます。足元の砂と共に波が引くザーッという音。プチプチと、波打ち際に残された泡の弾ける微かな音。海鳥達の独特な鳴き声。ヒコの笑い声が遥かに海を渡る。

 見晴らしの良い岬の外れで潮風に吹かれながらお弁当を食べ、時間が経つのも忘れて浜で遊んだ。ヒコと二人で過ごす、こんな時間が永遠に続けばいいのに、と思い、しかしそんな願いは胸の奥に封じ込め、僕は足元の白い石を拾った。

「ヒコ、これ知ってる?」

 凪いだ水に向かって、僕は石切りをしてみせた。ピンピンとまるで生きているかのように水の上を跳ねる石に、ヒコが目を丸くした。

「何回跳ぶか、当てっこしよう」と僕はヒコに言った。「こんな感じの、平べったい石がイイんだよ。ほらコレ、何回跳ぶと思う?」

 丸くて平べったい石を見せると、ヒコは真剣な顔で石を見つめ、指を三本出した。

「三回か。じゃあ僕は四回!」

 投げた石は綺麗に四回跳び、最後に小さくもう一回跳んだ。きゃははは、とヒコが楽し気に笑い、次の石を差し出した。

「う〜ん。コレはちょっと難しそうだな。精々二回くらいかな」

 ヒコがニヤリと笑うと指を一本立てた。

「え?! たった一回?! よーし、目にモノ見せてやる!」

 なるべく水平に綺麗に投げたつもりだが、石はやっぱり一回しか跳ばなかった。僕が頬を膨らませるのを見て、ヒコが腹を抱えて笑う。

 そうやって、海に向かって何度も何度も石を投げた。ヒコにも投げ方を教えたが、でもヒコの石は精々一回、良くて二回しか跳ばない。手頃な石を探して僕たちは浜辺をうろついた。

「あ、すごくイイの見っけ! ほら、ヒコ。これでやってみなよ」

 特別に薄くて良さそうな石を見つけ、大喜びでヒコに手渡そうとすると、ヒコがふと微笑んで首を横に振った。

「これでやってみなよ」とヒコが言った。

「え? そうじゃなくってさ、これならきっと良く跳ぶからさ、ヒコが投げてみなって」

「きっとよくとぶから」と言って、ヒコが夏の終わりの深い翠色の海を指差した。「……きっと」

 そう言うと、ヒコは僕に向かって両手の指を広げた。

「えぇっ?! 十回跳ぶってこと?! いかになんでもそれって多過ぎない?」

 しかしヒコは潮風に金色の瞳を細め、世界を抱き締めるように、そしてまるで風に乗って羽ばたこうとするかのように、笑いながら両腕を大きく広げた。

「仕方ないな。よし、よく見てろよ!」

 僕は軽く助走をつけ、凪いだ海へ向かって水平に腕を振った。

 白くて丸い石は、傾きかけた夏の陽の光の中、幾度も幾度も、信じられないほど遥か彼方まで飛び続け、やがて遠い翡翠色の波間に消えた。

「やったぁ」と僕は歓声をあげた。「今のすっごい跳んだね! 何回跳んだか数えてた?!」と僕は笑いながら振り返った。


 白い砂浜にぽつんと赤い帽子が落ちていて、そしてそこには誰もいなかった。


 ♢ ♢ ♢


 陽の落ちた暗い森に帰って来た僕は、足を引きずるようにして崖の端へ歩み寄った。酷く疲れていて、何も考えることが出来なかった。

 椎の木のあった地面は大きく抉れ、黒い穴が口を開けていた。まるで墓穴だ。これは誰の墓なのだろう。崖の端ににじり寄り谷を覗いてみたが、谷底は余りに暗く、何も見えなかった。


 僕はいつも君を想う。

 雨垂れに耳を澄ます君を、吹き荒ぶ風に笑う君を、鳥と共に歌う君を。

 この世界の片隅で、僕は独り、君と過ごした日々を胸に抱く。


 不意に雲間から月明かりが差し、暗い墓穴の奥で何かが光った。

 湿った土の間を手探りして、封の開いていないラムネの瓶を見つけた。瓶の下には小さな椎の実がひとつ隠されていた。

 手にした瓶をしばらく眺め、やがて僕はラムネの硝子玉をグッと押し込んだ。プシュッと音がして、シュワシュワと泡がたつ。しかし幾ら耳を澄ませても、「しゅわしゅわしゅわ」と笑う声は聴こえなかった。

 艶やかな椎の実を手に握りしめ、僕はその生ぬるいラムネを喉に流し込んだ。しゅわしゅわしゅわと、無数の泡が僕の中で弾ける。胸の中で次々と弾けるその泡が苦しくて、生ぬるいラムネが不味くて、目からとめどなく汗が滴り落ちる。

 ふと思った。コレを一気飲みしたら、ヒコが帰って来るかもしれない。だってコレはヒコのラムネだから。このラムネを飲み干して、淡く光る硝子玉と一緒に椎の実を植えよう。そしてヒコが戻ってくるまで、僕はラムネを飲まない。そうすれば、いつの日か、きっとまたヒコに逢える。

 それは本当に愚かな願掛けだったのかもしれないけれど、でも愚かだからこそ僕は真剣で、全ての祈りと願いを込めて、僕はあの夜、汗みどろでラムネを飲んだんだ。


(END)

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