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前編

かなめん村長とくまくるの副村長のエッセイ村での企画作品です。

タイトル交換により、白桔梗様のタイトルをいただきました。白桔梗様、素敵なタイトル、どうもありがとうございます。

 うちわびてよばはむ声に山彦の 答へぬ山はあらじとぞ思ふ

 (古今集・詠み人知らず)



 ヒコはラムネが苦手だった。

 僕はラムネが好きだった。

 けれども彼と過ごしたあの夏の日以来、僕はラムネを飲んでいない。


 ♢ ♢ ♢


 ジリジリと照りつける白い陽射しの中、僕はぎこちない手つきでリールを巻いて糸を手繰り寄せ、何も付いていない尖った針先に溜息をついた。


 今朝のことだ。朝食を終え、僕はいつものように居間で漢字ドリルを見直していた。まだ夏休みが始まって十日程だが、漢字ドリルはあらかた埋められている。計算ドリルは昨日終えた。後は読書感想文と理科の観察と工作くらいか。

「裕也君は真面目で勉強熱心で、人の話をよく聞く子ですね」と先生は言う。

「そうなんですよ」と母は微笑む。「家でも聞き分けが良くて、助かっています」

 夏休みとはいえ、家から離れ、友達もいないド田舎に居れば勉強も捗る。まぁ家に居たって塾が忙しくて友達と遊んでいるような暇なんて無いけどさ。

 そんな事をつらつらと考えながら読書感想文用の本を選んでいると、庭先で何やらゴソゴソしていた祖父が縁側から顔を覗かせた。

「夏やいうのに白い顔して毎日毎日家に籠っとるとカビが生えよるで。川にでも行ってこい」と言って、祖父が古ぼけた釣竿を僕の顔の前に突き出した。僕はいつも怒っているように見えるぶっきらぼうな祖父が少し苦手だった。

「餌は?」と小さな声で尋ねると、「餌くらい、ミミズでも地蜂の子でも、探せばなんぼでもあるやろうが」と祖父は言った。

 祖父にはわからないのだろう。都会っ子にとって、ミミズを捕まえるということが如何にハードルの高いことなのかを。地蜂の子なんて探し方どころか見たことすら無い。しかしそれを説明するのも億劫だったので、僕は曖昧に頷き、釣竿を片手に家を出た。


 釣れない釣りほど面白くないものはない。おまけに河原には日差しを遮るものもなく、いかに水のそばでも直射日光で頭がクラクラしてくる。僕は赤い野球帽のつばをキュッと掴んで深く被り直し、日陰を求めて上流へ向かって歩き出した。

 この帽子は父の出張のお土産だ。

「どうだ、カッコイイだろう」と帽子を差し出す父は得意気だった。

「よく似合ってるわ」と母は楽しげに笑った。

 父がお土産を手に家へ帰って来ることは二度とない。父と母は昨年離婚した。父は家を出て行く時、「またな」と言って赤い野球帽を被った僕の頭に軽く手を置いた。

「うん、またね」と僕も言ったが、あまり期待はしていなかった。

 父は優しく、のんびりした性格だったが、ちゃらんぽらんなところもあった。 父が約束を忘れることに僕は慣れていた。そして思った通り、あの日以来僕は父に会っていない。

 母はそんな父に対し、「ま、あんなひとだから」と言って肩を竦めるだけだ。母はサバサバした性格で、仕事熱心で、お給料も父より大分上だった。父がいなくなってから母は益々仕事に熱中し、残業や出張が増えてきた。僕の食事の世話をするために家政婦さんのようなヒトが来てくれるので特に不自由は感じなかったが、しかし夏休みに長期出張が入り、流石にマズイと思ったのだろう。母は祖父母の田舎で夏休みを過ごす気はないかと僕に尋ねた。

「いいよ」と僕は答えた。

 どこにいても独りなら、どこにいようと同じだ。


 日陰を求め、河原を歩いて上流へ向かう。上流に行くにつれて川幅はだんだん狭くなり、河原の石はゴロゴロと大きくなる。グラグラする石から石へ飛び移るのが何だか忍者にでもなったようで面白く、夢中になり、ふと気が付くと両端が崖のように切り立った谷の近くまで来ていた。

 もうそろそろ家に帰った方がいいな、と思いつつ、でも最後のひと飛び、と一際大きくて丸い石へ手練れの忍者のようにひらりと飛び移り……安定の悪い石がぐらりと揺れ、視界が傾いたと思った次の瞬間、見事に滑って川に落ちた。浅い所だったので肘を擦り剥いた程度で溺れるようなことはなかったが、しかし谷川の水はびっくりするほど冷たくて、一瞬にして汗が引いた。焦って立ち上がろうとして足を滑らせ、もう一度水の中に尻餅をつく。全身ビショビショで最悪だ……と泣きたくなった時、きゃはははは、と頭上から甲高い笑い声が降ってきた。

 慌てて声のした方を見上げた。

 なんでこんな所に、と思うような切り立った崖の端に張り付くようにして、一本の大きな木が生えていた。木の根っこは半分以上露出していて、太い幹は少なく見積もっても45度くらい谷底へ向かって傾いている。

 その谷へ突き出した枝に足を絡めるようにして、ひとりの少年が逆さにぶら下がっていた。


 ♢ ♢ ♢


「まぁ遅かったやないの。どこまで行ってきたん?」

 夕方、家に帰ると台所から祖母が顔を覗かせた。

「山の、谷のほう」と僕が答えると、祖母がまぁ!と言って目を剥いた。

「危ないやないの、ひとりで谷なんか行ったらアカンで!」

「大丈夫だよ」

「あかん!」

「だって僕だけじゃなかったよ。男の子がいたもん」

「男の子って誰や、村の子か?」

「知らない。木に登ってた」

「……どの木ぃや?」老眼鏡を掛けて夕刊を読んでいた祖父が不意に顔を上げた。

「え?」

「その子は何の木に登っとったんや?」

「何の木って、知らないけど、なんか崖の上の端っこで傾いちゃってる木だよ」

「椎の木やな」と言うと、老眼鏡を外した祖父が新聞を丁寧に畳んだ。「椎の木におるようなもんと口利いたらあかん」

「は? なんで?」

「谷の椎の木に棲んどるんは鬼っ子やからの」

「……は?」

「ぼけぼけしとったら、取って喰われよるで」

「おじいさんったら、何言うとるんですか」と呆れたように祖母が溜息を吐いた。全くだ、と僕も頷く。「谷んとこおるんは鬼やのうて、天邪鬼(あまのじゃく)ですよ」

「……え?」何かの冗談でも言っているつもりかと思ったが、祖母は至って真面目な顔だ。

「天邪鬼ゆうたら鬼やろうが」と祖父が顔をしかめる。

「せやけど天邪鬼はヒトは食べへんと思いますよ? 騙くらかしたりして遊ぶだけと違いますか?」

「そない言うたかて、山ん中で都会もんが騙されよったりしたら危ないがな」

「まぁそりゃそうかも知れへんねぇ」

「…………」

 僕に御構い無しに話す祖母と祖父を交互に見つめる。いやホント、田舎の老人ワケワカラン。

「とにかく」祖父がジロリと僕を見た。「もう谷には行くな」

「……行かないよ。行く理由がないもの」

 小さな声でそう答え、僕は風呂場へ向かった。まだ少し湿っていた服が気持ち悪かった。脱衣所で服を脱ぎかけて、不意に気付いた。


 ……野球帽が無い。


 ♢ ♢ ♢


 翌日、僕はこっそり家を出て、再び谷へ向かった。

 滑って転んだ拍子に失くしたらしい赤い野球帽を捜して慎重に石から石へと飛び移り、岩の陰や水際に生い茂る藪の隙間を覗いて回った。小一時間程捜したが、下流に流されてしまったのか、赤い帽子は影も形もなかった。諦めて水際に腰掛け、透明な水の流れに疲れた足を浸し、ふっと溜息をついた。

 この世は諸行無常。形あるものが、いつまでもその形を保つことは叶わない。

 ショギョウムジョウ、ショギョウムジョウ……と薄暗い図書館の片隅で見つけた(まじな)いのような言葉を、口の中で幾度も繰り返す。

 不意に視線を感じて顔を上げると、川の真ん中の一際大きな岩の上に昨日の少年が座って僕を眺めていた。僕と目が合った途端に少年が立ち上がり、僕に背を向けてスタスタと歩き出した。

「あっ、ねぇ、ちょっと待ってよ!」僕は慌てて少年を呼び止めた。「あのさ、君、昨日もここにいたよね? 僕、昨日この辺で帽子を失くしたんだけど、知らない?」

 ちらりと僕を振り返った少年は、ただ微かに笑い、何も言わずにいきなり走り出した。

 石から石へ、ひらりひらりと音もなく軽やかに飛び移る少年の後を、僕はわけも分からず夢中で追った。川岸の藪へ飛び込み、獣道を掻き分け、ふと気がつくといつの間にやら崖の上に出ていた。崖の端で斜めに傾いた木の根元で少年が足を止めた。

「ねぇ、君、名前は?」ようやく少年に追いついき、息を切らせながら尋ねた。「僕は裕也。君は?」

 少年が僕の口許を見つめ、僅かに首を傾げた。

「名前だよ、な・ま・え」

「……なまえ」と小さな声で呟き、少年が僕を上目遣いに見た。その窺うような不思議な目付きに、ふと昨夜の祖父母の言葉を思い出した。まさか、と思ったが、ふと冗談のつもりで、「君は鬼なの?」と言ってみた。途端に少年がにたりと紅い唇を歪めるようにして笑った。その奇妙な笑いに何だか背筋がぞくりとして、思わず一歩後ろに下がった。

「……鬼、じゃないよね? 天邪鬼とか?」

 あぁ、僕は一体何を口走っているのだろう。時々自分で自分が嫌になる。しかし僕がそう言った途端、少年は明るい瞳をくるくると動かしてけらけらと笑い出した。そして笑いながら足元に転がっていた石を掴み、不意にそれを谷へ向かって投げた。石が岩にぶつかり、跳ね上がる音がカランコロンと谷に(こだま)する。崖の縁にしゃがみ込んだ少年が目を細めるようにして石が転がる音に耳を澄まし、微かな笑みを口許に浮かべると「からーんころーん」と呟いた。

 僕も少年の隣にしゃがみ、恐る恐る谷を覗いた。下から見上げている時はそんなに高いとは思わなかったけれど、崖の上から見下ろす谷底はやけに遠く、深く見えて、背筋がむずむずした。と、川の中ほどに転がる大きな岩の陰に小さな赤い点を見つけ、僕は思わず、あっと声を上げた。

「僕の帽子!」

 ボウシ、ボウシ、ボウシ……と谷に幾重にも僕の声が響いた。何だか面白くなって、「おーい」と叫んでみる。オーイオーイオーイと谷が応える。

 思いっ切り息を吸い込み、「ヤッホー」と叫んでみた。ヤッホーヤッホーヤッホーと柔らかな声が途切れることなく重なり、響き合う。

「すごいね、やまびこ……」と言いかけて少年を振り返ったら、少年は何やらうっとりとした表情で目を細め、「ヤッホー」と呟いていた。

 それは、谷に谺する僕の声そのものだった。

 ただ少年の声は僕の声よりも遥かに柔らかく、甘く、風に溶けるような透明な響きがあった。その声を聞くうちに、何かぴんと来るものがあった。子供の勘ってヤツだ。

「……君はやまびこなの?」と僕が小さな声で尋ねると、少年は驚いたように目を見開き、そして一瞬の間を置いて、はにかんだ笑顔をみせた。


 ♢ ♢ ♢


 走ったせいか、無性に喉が渇いた。取り戻した帽子を被りながら、「ヒコ、ノド渇かない?」と隣に立つ少年に尋ねた。ヒコというのは、その不思議な少年に僕が勝手に付けたアダ名だ。と、ヒコが黙って川の水を指差した。ヒコは基本的に無口だった。

「え? 川の水を飲めってこと? それはちょっと良くないんじゃないかな……」

 山に棲むヤマビコならいざ知らず、都会っ子の僕が生水なんか飲んで無事でいられるとは思えなかった。少し悩んでポケットを探り、取り出した小銭を数える。二人分のジュースくらいなら買えそうだ。

「えっと、確か山を出た辺りに駄菓子屋さんがあったよね? ジュースでも買いに行かない?」

「じゅーす?」と言って首を傾げてから、ヒコはこくんと頷いた。


 これで商売が成り立つのかな、と他人事ながら心配になってしまうような小さな駄菓子屋でキンキンに冷えたラムネを二本買い、一本をヒコに渡した。ゴクゴクと喉を鳴らしてラムネを飲む僕の隣で、ヒコは手の中のガラス瓶を()めつ(すが)めつ眺めていた。冷たいガラス瓶はあっという間に汗をかき、陽に透ける雫がちらちらと煌めく。

「ヒコ、早く飲まないとぬるくなっちゃうよ?」と僕が言うと、ヒコは何だか困ったような顔でラムネの瓶をジッと見つめた。

「あ、もしかして開け方が分からないの? 貸して。開けてあげるから」

 僕は瓶の口に付いていたプラスチックの玉押しで、硝子玉を瓶の中にグッと押し込んだ。プシュッといい音がして、淡いブルーの瓶の中に細かな泡が立つのをみて、ヒコが目を見張った。

「しゅわしゅわ」とヒコが言った。「しゅわしゅわしゅわしゅわ」

「わかったから飲んでみなって」と僕が苦笑すると、ヒコは僕と手元の瓶を何度も見比べ、やがて、恐る恐る瓶に口をつけた。

「しゅわーーーーっっっ」



 ……ヒコ。

 口も目も真ん丸くして胸を掻きむしる君の顔がおかしくて、あの日、青い空と白い入道雲の下、僕達はいつまでも笑い転げた。そして僕は明るい瞳と柔らかな声を持つ君の虜になった。


(To be continued)

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