第10章:第15話
揺らぐことの無い空が光に飲まれ、視界は白に覆われた。かと思うと突如辺りは暗転し、先程までとは全く違う空間へと繋がった。
捻れるような感覚の後、ふわりとセイラの身体は宙に浮かんでいた。目を開くとそこは見たことの無い空間だった。
普段セイラ達が暮らしている世界とは別空間と言っていい。天井は闇、下を向いても闇、辺り一周360度どこを見回しても闇しか見えなかった。
しかし、セイラの真下にだけは闇以外の物があった。ベッドや机など、家具らしきものがいくつか置いてあった。
なるほど。セイラはこの奇妙な空間の正体を掴んだ。おそらくここは魔法によって生み出された空間だ。イオかショコラかどちらかが生み出したのだろう。
しかし、真下に見える家具達は魔法によって生み出された物とは思えない。ベッドなどがあるところを見ると、ここは元々は誰かの私室だろうか。
さて、どうやってここを抜けだそう。イオ達はどこだろう。セイラがそう考えた時だ。
岩を貫くような音が響き渡った。一発、二発、三発。身体を引きちぎられるようた痛みが全身を巡る。
「な……」
セイラは自分の胸に手を当てた。ドクドクと泉のように血が湧き出てくる。セイラの胸に小さな鉱石が突き刺さっていた。色は紅、大きさは指で摘める程度。
それはネビュラの一件の時、ルルカが貰った封筒に入っていた鉱石と同じ石だった。
セイラが石を抜こうとすると、身体が溶けるような痛みが巡る。まるで毒が流れ込んでくるようだ。セイラは宙でバランスを崩して闇の底に落ちていった。
闇の底に強くたたき付けられたセイラは必死で身体を起こそうとした。しかし、胸に刺さった石の力がセイラの邪魔をする。思うように身体が動かなかった。
「お疲れ様。大成功だよ、やったね!」
イオの声だ。誰かに声をかけている。おそらく相手はこの鉱石を放った人物だ。ショコラか、いや違う。ショコラはこの紅の石の力は扱えないはずだし、そもそも飛び道具は使わないはずだ。
身体を横たえたままセイラが顔を上げると三人分の靴が見えた。一人はイオ、もう一人はショコラ、最後の一人は誰のものかわからない。
セイラは最後の一人の顔を見ようとしたが暗闇に阻まれ、三人目の正体はわからなかった。
その時、目の前にイオが現れ、セイラの頬を撫でた。
「ようこそ、セイラ。ここまで来たらもう邪魔者なんて来ないよ。ねっねっ、これからはずーっと一緒だよ」
セイラはその手を払いのけた。意地だと理解していたが、そうせずにはいられなかった。この手を受け入れてしまった先に、この子の幸福は無い。
イオは再び払いのけられた手をガラス玉のような瞳で見つめ、言葉を失った。機械人形のようにぎこちなく首をこちらに向けると、両手でセイラの頭部を押さえ込み、愛憎の篭った声を流し込む。
「なんでなんでなんで! どうしてボクの手を払うの。なんで一緒に居てくれないの、どうして変わっちゃったの! 昔のセイラは優しかったのに! ボク達いつも一緒だって言ってくれたのに! なんで、ねえなんでセイラ!」
イオの目は血走っていた。その顔にはもはや幼さも純粋さも無く、狂気しか残っていない。
変わってしまったのはお前の方だ。セイラは無言で呟いた。昔のイオは無邪気で明るくて、真っすぐな笑顔を浮かべる少年だった。そして誰より脆かった。
だから些細なことがきっかけでこの子は壊れ、壊れたところをメディにつけこまれたのだろう。
イオはセイラを強く抱きしめながら囁いた。
「ねえセイラ、今ならまだ引き返せるよ。僕らの仲間になろうよ。またあの頃に戻ろうよ。二人でメディのお願いを叶えるの。そしたらメディも僕らのお願い叶えてくれる」
心が全く揺れなかったか、と言うと嘘になる。寂しがりやで甘えん坊のこの子が歪んでいく姿を見るのは心が痛む。だがセイラは何度でもその誘いを振り払わなければならなかった。
「……断る。メディの復活を許し、オズを殺すなんて……くだらない。メディの望みを叶えると何が起こるかお前はわかっているだろう。この世界はもとから欠陥品なんだ。バランスを崩して壊れる」
「知らない、そんなのもうどうでもいいよ。世界なんてどうでもいい。僕は……僕のお願いがかなったら、そんなのどうでもいいよ……」
セイラは自分やイオに与えられた機能のことを考え、ため息をついた。
世界なんてどうでもいい。その言葉が出てきたことが、この世界が欠陥品であることの何よりの証だと思った。
セイラは胸の痛みを振り払い、イオに訴えた。
「いいかイオ、お前の願いの為にメディに力を貸すというのならはっきり言っておく。メディはお前の望みなど叶える気は無い。そもそもお前の望みとメディの理想は矛盾している。お前は騙されているんだ。だから、メディから離れろ」
「そんなことない。メディは約束してくれたもん。セイラはボクを見捨てたけど、メディは見捨てなかったもん……!」
イオは声を振り上げた。セイラは呆れてうなだれた。約束した。それが何の保証になるというのだろう。メディに手酷く裏切られ、身も心も擦り切れていくイオの姿が目に浮かぶ。
無駄だと理解しつつも、再びセイラはイオに呼び掛けようとした。だがイオはこう続けた。
「それに、ボクはメディの考えに賛同してる部分もあるんだよ。確かにメディの復活に協力してるのはボクの願いの為だ。でも、もう一つの目的。オズを殺すこと。これはメディだけじゃなくてボクの願いでもあるんだ。あいつだけは生かしておけない。セイラはそうは思わないの?」
セイラは答えが見つからなかった。イオと決別する前のセイラなら迷わず「オズなんて死ぬべきだ」と答えていただろう。
オズは罰されて然るべき悪人だという認識自体は今も変わらない。だが、今のセイラはイオの考えに同調できなかった。同調できない理由があった。
答えを返さないセイラを見て、イオの手に力が入った。ギリギリとセイラの腕を締め付けて怒鳴る。
「なんで……そもそもあいつが全部悪いんじゃないか! そりゃ確かに、元からこの世界にも仕組みにも欠陥があったよ。でもその欠陥を決定的なものにしたのはあいつとリディじゃないか!
あいつはリディを裏切って神様と同じ力を手に入れた。あいつは罰されて殺されて消えるべきだった。それなのにリディはあいつを殺さなかった!
メディが実体を失っている以上、リディが責任持ってあいつを殺すべきだったんだ。在るべき状態に戻すべきだったんだ。
けどリディはその役目を放棄した! リディがオズを好いたりなんかしたから! なんであいつなんか!
神と互角に渡り合える程の力を野放しにしていいわけない。しかもその上あいつはあの通りの悪人でクソ野郎だ。あんな奴、生かしておいたら世界中の毒なんだよ。
リディが役目を放棄するなら、ボク達がやるしかないじゃないか」
イオは力と憎しみを込めて語った。
「まあ確かに、オズが悪人でクソ野郎で、生かしておいたら世界の毒になりえる程の力があることは確かだし、リディがオズを好いたことには正直私も『なんでリディはあんなクソ野郎を好きになったんだ』としか思えない。
だがイオ、ついさっき世界なんてどうでもいいと言ったお前が言えることかは疑問だな。私には、妬みのようにしか聞こえんが」
セイラの目はイオの瞳の奥を見透かしているようだった。腕を締め付ける力が強まる。
が、突如ふっとその力が緩んだ。イオは何か一つ謎が解けたような顔をした。
「そっか……そうだ、忘れてた。なんだ、そんなことだったんだ。わかったよ、なんでセイラがあいつに肩入れするのか。
多分、セイラがこの村に来たのもそれが理由なんだね。そりゃあ確かに、『オズなんて死ねばいい』って言えないわけだよ」
まるで首根っこを捕まれた兎に囁くようだ。
「セイラはオズに助けてって言いに来たんだ。セイラ一人じゃメディに敵わないもんねえ。僕やショコラ達も居れば尚更だ。リディを頼ろうとしても、リディは脅されて動こうとしない。
オズなら、って思ったんでしょ。神様に匹敵する程の力を持っているオズなら敵うかもって。ねえ、違う? そうでしょう?」
セイラは言葉を返せなかった。かつての敵に、憎むべき世界の毒に助けを求めたことを認めたくなかった。
「可哀相なセイラ。騙されてるのはセイラの方だ。オズがセイラに手を貸すわけがない。リディを見つける為だけに利用されてるって気付かないの?
ねえセイラ、ボクはセイラに傷ついてほしくないよ。あいつはきっとセイラから情報を奪えるだけ奪ったら捨ててしまうよ。そうに決まってる。そんなの見てられないんだよ」
イオはセイラと同じ瞳でこちらを見つめた。今までの欲望や恨みとは違う、純粋な問いがぶつかってきた。
「ねえ、セイラはどうしてそこまでするの? なんで意地でもボク達を止めようとするの。どうしてボクを拒んで、オズなんかに助けを求めてまでメディの望みを潰したいの。ねえ、何の為に?」
深く深く鐘が鳴るようにその声は響いた。今更言わせないでほしい。セイラは変わり果てたイオの頬に手を伸ばした。
「お前の為だよ」
「わからない」
イオは即答した。また、届かなかった。その直後はそう思っていた。だがイオはこう続けた。
「わからないよ。ボクの為なら、どうしてセイラはボクの味方になってくれないの。セイラさえ一緒に居てくれたら、ボク幸せだよ。他に何もいらないよ」
「けどお前は自分の願いを捨てないし、メディには手を貸し続けるだろう?」
「それじゃ駄目なの? どうして駄目なの。 メディが身体を取り戻したら世界を壊すから? なんでセイラは世界の肩を持つの?」
しんと、セイラの心は湖面のように一瞬静まり返った。続けて喉元にたくさんの言葉が込み上げてきた。頭が思い出と痛みでいっぱいになったが、その先に続く言葉が声にならなかった。
その答えをセイラは確かに持っていたはずなのに、なぜかうまく表現できなかった。
急かすようにイオは問い続ける。「どうして? どうして?」と。セイラが答えを返せないことを知ると、イオはにんまりと笑みを浮かべた。
「可哀相なセイラ。その理由もわからないのに、ただ意地で、意地だけで一人ぼっちでボク達に歯向かい続けてさ。それもこれもオズのせいだ。全部オズが悪いんだ」
それは違う。確かにオズはどうしようもないクソ野郎だが、セイラが戦う理由は、意味は、セイラだけのものだ。オズは関係ない。
「ボクが助けてあげるからね、待っててね。オズなんかぶち殺して、セイラを解放してあげる……ふふふ……キャハハハ……」
狂気じみた笑い声の中に突如全く違う声が飛び込んできた。
「イオ」
ショコラの声だった。『耐え兼ねた』ようにイオの邪魔をした。
「外が騒がしいみてえだ。もしかしたらキラ達がここに気づいたかもな。『記録』の消去、やるならさっさと済ませた方がいいんじゃねーのか」
「あ、そういえばそうだった。メディからの言い付け忘れてた」
イオはセイラから離れ、ぴょこぴょこと距離を取る。セイラはショコラを見上げた。だが正確にはその人はショコラ本人ではなくその弟だ。本来黄金色のはずのショコラの瞳は今は真っ赤に染まっている。
今意見を述べたのはその「弟」の方だ。彼は何に『耐え兼ねた』のだろう。
首を傾げている間にもイオは着々と次の行動の準備をしていた。確か『記録』の消去と言っていた。
セイラは起き上がろうとしたが、全身を巡る痛みに阻まれ、再び地に伏せた。原因は胸に刺さった紅の石だ。
この石はセイラの身体を構成する力と真反対の力を持っている。この石をセイラに撃ち込むということは、氷に火をあてるような、林檎に芋虫をほうり込むような、そんな行為に等しかった。
セイラの最大の弱点であり、イオの弱点でもある。そんな力を扱える者がイオの側に居たのか。
そうこうしている内にイオが魔法陣を呼び出した。海の底のような蒼が闇の大地に広がっていく。
イオが呪文を唱えると、セイラの頭に割れるような痛みが襲う。それと同時に頭上にいくつかの映像が浮かび上がった。
その映像は誰かの物語だった。「誰か」とはセイラが会ったこともない人々が大半だが、中にはセイラが知っている人の物語も紛れていた。
それらは風船のようにぽつりぽつりと空へと浮かんでいく。「知らないはずのことを知っている」「だいたいのことはお見通し」──そのからくりの正体がこれらの物語だ。
セイラの頭にしまい込まれたはずの物語達をイオは次々と呼び出した。
「あれと、それと、これ」
そのいくつかをイオは指さした。途端、
ガツンッ ガツンッ ガガカガガ
あの石がセイラの胸に突き刺さった時と同じ音がした。頭上からガラスの欠片のような煌めきが降り注いだ。割れた物語の破片だった。
セイラの頭に再び地震のような衝撃が襲い、意識が薄れていく。
曖昧な意識の中で、イオの位置、ショコラと三人目の位置、空間の構造を探り、考えた。
さて、ここからどうするか。どうやって逃げ延びよう。
もはや意地を通り越して呪いのようだった。諦めることなど遠い昔に置いてきてしまった。たとえかなわなくても、砕け散るまで止まれないのだろう。
意識が途絶えるその瞬間まで、セイラの頭は回りつづけていた。




