第10章:第2話
キラは困惑した。ゼオンが怒っている。詳しい事情はわからないが、とにかくものすごく怒っている。放課後、キラが図書館を訪れた時には既にこの状況だった。
ゼオンの前にはチェスの盤があった。ゼオンの側である白の駒は殆ど残っていないが、相手の黒の駒は殆ど残っていた。ゼオンの向かい側では、オズが腹を抱えて笑っていた。
「弱っ! よっわ! 弱すぎて暇潰しにもならへんわ、アハハハハ! 普段あんだけクールぶっといてこの惨敗やで、ハハハハハ! なあキラ、こいつはなあ……」
オズがキラにそう言うと、ゼオンが耐え兼ねたように言った。
「おい、いい加減にしろ。こっちは初心者なんだ。仕方ないだろ」
「それがどうした、弱いのは事実や。弱いのが悪いんや。悔しかったら打ち負かしてみろ。あー弱い弱い、クソ弱い。自分からクイーンの直線上に駒持ってくとかどこまでアホやねん。なあキラぁー?」
同意を求められたがキラは反応に困った。どうやらゼオンがチェスでオズに負けたらしいということはわかる。だがキラはオズと一緒にゼオンを馬鹿にする気にはなれなかった。キラは横目でゼオンを見た。オズへの無言の殺意が透けて見える。
キラは困惑して周りを見回した。図書館の中にはいつも通りのメンバーしか居ない。
セイラは絵本を開いたまま、ゼオンとオズのやりとりを観察していた。ルルカは二人のやりとりには目もくれずに少し離れたところで何かを考え込んでいた。ティーナは今日はまだ来ていないらしい。小悪魔達はせかせか上空を飛び回りながら、時折オズ達の様子を気にしているようだった。
すると呆れ返った様子でセイラが口を開く。
「チェスを一度もやったことがないゼオンさん相手にこの全力投球……オズさんはどこまで大人げないんですかね……」
すると急にゼオンの無言の殺意がおさまり、セイラに言った。
「いや、初めてじゃない、一度だけやったことがある。いつも大体のことはお見通しのお前なら知っていそうな気がしたんだがな……?」
「えっ? そうでしたか、それは失礼しました。ならやはりゼオンさんが弱っちいんですね。ねぇ、キラさんもそう思いません?」
どうしてオズもセイラもキラに話題を振るのだろう。戸惑っている間に再びゼオンはじとっとした目つきでセイラやオズを睨みつけていた。オズはゼオンの無言の圧力などものともせずに笑いつづけた。
「あー雑魚や雑魚。こんな無能にキラを馬鹿やなんや言う資格あらへんやろ。ま、お前が無能なおかげでこっちは毎度『お前ら』のこと動かしやすくて助かるんやけどなぁ」
そう言ってオズはキラに微笑みかけた。ついにゼオンは低い声で言った。
「……次は後悔させてやる」
するとオズはゼオンを見下しながら高笑いした。
「ハッ、やれるものならやってみろ! もし勝てたら頑張ったご褒美でもやろうか?」
「何が褒美だ。お前が負けるとこが見れたらそれで十分な褒美だよ」
「ま、お前ごときに俺が負けるわけないんやけどな。何度でも返り討ちにしたるわ。キラの前でな」
それからゼオンは上空を飛び回る小悪魔達に声をかけた。
「おい、チェスの指南書ってどこにある。オズが置いてないはずねえだろ」
するとシャドウが下りてきた。シャドウは図書館の奥の方を指さしてゼオンに言った。
「チェスの本ならこっちだぜー!」
ゼオンが立ち上がり、本を探しに行こうとした時、セイラがますます呆れた様子で声をかけた。
「ちなみにゼオンさん。さっきのようにゼオンさんを挑発して、ゼオンさんが再びオズさんに挑むように仕向け、その度キラさんの前で返り討ちにしてまた挑発する。それを繰り返すことでゼオンさんにチェスのやり方を身につけさせる。そうして新しい遊び相手を作るところまでがオズさんの悪巧みかと思いますが、そこについてはいかがお考えですか?」
すると時の流れが止まったようにゼオンが動かなくなった。しばらくの沈黙の後、ゼオンはぼそっと呟いた。
「……わかってる。薄々気づいてはいる。……けど、その……悔しい……」
そうしてゼオンは本棚の森の中へと消えていった。セイラはゼオンの言葉を聞くと、何やら感心した様子でキラに話しかけた。
「なるほど。ああも感情に振り回されるゼオンさんというのも貴重ですね。あれがティーナさんの言っていた『乙女心』というやつなのでしょうか?」
セイラはまたキラに話題を振ったが、そう言われてもこちらも返答に困った。
「セイラ……ゼオンは男だから、乙女とは違うと思うよ」
「そうですか。乙女心という言い方が適切ではないのであれば、男心と言えば良いのでしょうか」
「うーん、そうなのかなあ。でも勝負に負けて悔しい気持ちはわかるなあ。あたしも婆ちゃんに喧嘩で負けたら悔しいもん」
するとセイラが哀れむような目でキラを見た。
「……予想の範囲内ではありましたが、やはり気づいていないんですね」
それを聞いたキラは首を傾げた。キラは自分が何に気づいていないのかさっぱりわからなかった。
そうしているうちにゼオンがチェスの本を抱えて戻ってきた。その時、キラは自分が図書館に来た理由を思い出した。
「そうだ忘れてた。修行! ゼオン、チェスもいいけど修行つきあってよ!」
「……それ、まだ続いてたのか。悪いけど後にしてくれ」
ゼオンはチェスの本をめくるのに忙しいようでこちらを見てくれなかった。キラはぶぅっと頬を膨らませた。
「えー修行! あたしはあんたを越えて、婆ちゃんに勝つのが夢なの! ねえ修行ー!」
すると興味深そうにオズが尋ねた。
「修行? なんや、そんなことしてたんか。修行してゼオンを越えるんか?」
キラは目を輝かせながら話しはじめた。以前抱いたオズへの憤りなど、その時は忘れてしまっていた。
「気になる? あのね、あたしもっと強くなりたいの! 強い敵に会っても、ゼオンみたいに怖がらないでバーンバーンって戦って勝てるようになりたいの! あんなふうになりたいの!」
オズは笑いをこらえながらそれを聞いていた。馬鹿にされているようにしか見えなかったので、キラはぶうと膨れた。オズはセイラにひそひそとこう言った。
「なりたいんやって、あいつみたいになるんやって」
「なっちゃうんですね、ゼオンさんみたいに」
「なんや、近そうに見えて遠そうな予感がするんやけど、どう思う?」
「例えるなら、地図上で見ると近いけれど間に大陸を横断する規模の山脈がある……といった感じでしょうか」
「その例えすごいな。とりあえずまだまだ遊べそうやな」
「そうですね」
二人の会話は丸聞こえなのだが、何についての話をしているのかキラにはいまいち理解しきれなかった。
キラがふてくされていると、ゼオンがキラを呼んだ。
「修行ならルルカに付き合ってもらえよ」
ゼオンはルルカを指さした。ルルカは少し離れたところで何かを考え込んでいた。キラはルルカのところまで行ってみたが、修行に付き合ってほしいとは言い出しづらい雰囲気だ。
ネビュラが来た時のように思い詰めている様子ではないが、何事も無い普段のルルカとも様子が違う。
「あのー、ルルカ? ちょっと修行に付き合ってもらいたいんだけど……」
そう話しかけた時に、ルルカは初めてキラが隣に居ることに気づいたようだった。
「え……あ、キラ。どうしたの、私に用?」
普段のルルカならキラが隣に居ることくらい気づくはずだ。やはり様子がおかしい。
「うん、ちょっと修行に付き合ってほしいなー……って思ったんだけど、今ルルカ考えごとしてたみたいだね。何かあったの?」
ルルカは神妙な面持ちで話した。
「ちょっとね……ネビュラが帰ってから不思議に思っていたことがあるのよ。クーデターが起こった後、私を牢から出してくれた騎士……結局その人は何のために私を助けたのか、ちょっと気になったの」
ルルカは喉に何かが引っ掛かったような、すっきりしない様子で黙り込んだ。だがしばらくして気を紛らわせるように深呼吸すると、ようやくキラの顔を見てくれた。
「まあ、そのことはいいわ。別に今すぐどうにかしなくちゃいけないことでもないしね。それで、用は何だったかしら。修行? 前にゼオンにボロ負けした時の続きがしたいということ?」
「ボロ負けって言わないでよ、いつかゼオンにだって勝つんだから! でもまあ、つまりそういうことだよ。修行修行!」
キラが目を輝かせながらそう言うと、ルルカはこう言った。
「修行といっても……私が貴女に教えられることがあるかしら。貴女って、殴ったり蹴ったり、魔法を使わないでとにかく接近戦をするタイプでしょう。私は弓矢で遠距離から攻撃をしたり、魔法で支援をする方が得意なのよ。正反対なのよね」
「うーん、そっか。じゃあその……この前みたいに実際に戦ってやるかんじの修行じゃなくて、戦いの心構えとか気をつけることとか……あ、そうだ、不意打ち! 不意打ちにはどう気をつけたらいいと思う?」
キラはパチンと手を叩いた。キラはこれまでの戦いを思い出す。前に指摘された通り、キラは不意打ちに弱い。思えば反乱の直前にキラがさらわれた時も後ろからの攻撃で気を失ったので、不意打ちに近いだろう。強くなるための第一歩はここだとキラは意気込んだ。ルルカは言った。
「不意打ちね。やっぱり常に周囲への警戒を怠らず、人の気配を察知するよう気を配ることが第一かしら。特に……」
その時、ルルカは一瞬口を閉ざした。キラは首を傾げた。
「あれ、どうしたの」
「いえ、なんでもないわ。特に後ろや上からの気配や物音には気を配るべきでしょうね。そうしないと……」
その時、キラの背中に何かがぶつかった。キラが後ろを振り向くと「バカ」と書かれた紙飛行機が落ちていた。
「ぶぁっ、バカじゃないもん、ばかやろー!」
キラはそれを拾い上げてあたりを見回した。
ゼオン、オズ、セイラの三人はこちらを見向きもせず、それぞれの本や書類を読むことに熱中している。が、おそらくこんなものをぶつけたのはこの三人のうちの誰かだろう。
「誰がぶつけたの!」
三人共「知らない」と答えた。誰も白状しない。キラはルルカに言った。
「ルルカ、見てたんでしょ。誰!?」
「さあ、自分で捜して。後ろへの警戒の大切さはわかったでしょう。これも修行よ」
キラはぶぅと頬を膨らませてふてくされた。キラはバカと書かれた飛行機を抱えながら三人をじーっと見つめたが、誰が犯人かはさっぱりわからない。
その時、図書館の入り口の扉が勢いよく開いた。赤毛の少女が空中で三回転を決めながら飛び込んできた。
「ティーナちゃん只今参上! ああんやっぱり居たぁ。ゼッオーン愛してるぅ!」
ティーナは現れるなりゼオンに抱き着こうと飛び掛かった。当然、ゼオンはそちらを見向きもせずに避けた。その様子を傍から見ていたオズが一言「難儀やなあ」と呟いた。ティーナの表情が一瞬曇り、横目でオズを睨んだ。それからティーナはオズに素っ気なく言った。
「そういえばあんた、お客さんだよ」
ティーナは入り口を指差した。そこには長い黒髪の少女が大きな袋を抱えて立っていた。少女はオズの前までやってきて軽くお辞儀をした。来客はショコラ・ホワイトだった。




