10章:記録と予言のオラトリオ(前) 第1話
消灯時間はとっくに過ぎていた。窓の外を見ると群青の夜空に星がちらちらと浮かんでいる。赤い星が危険を表すように瞬いていた。ショコラ・ブラックはランプに明かりを点した。その明かりを頼りに自分の剣の点検を始めた。
ブラックは黄金の薔薇の装飾がついた剣を掲げた。刃がランプの明かりを反射して煌めいた。この剣はエンディルス国の騎士だった頃からの相棒だ。その時だった。左の耳元で声がした。ブラックが左耳につけている赤い石のイヤリングからだ。
『はぁーい、こんばんは。窓、ちょっと開けてくれない?』
無邪気な子供の声だった。ブラックは窓を開けた。黒髪に蒼の瞳、そして白い服を纏った少年が微笑んでいた。
「イオ……何の用?」
「んー、ちょっと今後の打ち合わせ」
イオはひょいとブラックの部屋に入り込むとベッドにぴょんと飛び込んだ。
「わぁいベッドだーふかふかー!」
「ちょっと、泊まるならあたしのとこはやめてよ。人のベッドで遊ぶのやめてったら……」
「ぶー、しょうがないなあ。まあいっか」
イオはそう言うと、ちょこんとベッドの上に座った。ブラックはため息をついて剣の手入れを止めた。ブラックの肩に緊張が走る。この少年の邪悪さと歪みはよく知っている。
「で、打ち合わせって何だい? またあたしが動かなきゃいけないの」
「まあそういうことだね」
「ネビュラが村に来た時にルルカを誘導するのもあたしだったし……あたしばっかりじゃないか、たまにはあいつにも役割回してよ」
「んー、まあそれはボクも思うんだけどね。どう考えてもあいつよりお前の方が芝居が下手なんだよ。ごまかしができる方はもう少し泳がせておきたいの。キラ達から見てもボクから見てもあんたは怪しく見えるんだよねえ……あんた、ボクとメディ以外からのお願いもちょこちょこ聞いてるみたいだし」
ブラックは黙り込んだ。それを見たイオが意地悪く笑った。
「ほら、そこで黙り込んじゃうからあんたは下手なんだよ。もっとすらすら笑顔で受け答えしないと」
「うるさいな。……で、次は何するの。打ち合わせなんでしょ。さっさと教えてよ」
するとイオは「それもそうだねっ」と笑った。ブラックはイオのこの含みのある笑い方が嫌いだった。イオは人形のようにカクンと首を傾け、楽しそうにショコラ・ブラックに言う。
「セイラを迎えに行く。あんたにはそれを手伝ってほしい。」
ショコラ・ブラックは呆れた。イオのセイラに対する執着心は尋常ではない。だがセイラは既にイオの誘いを断っているはずだ。果たして「迎え」と言う程穏やかにセイラを連れていけるのだろうか。
「それ、あんたの独断じゃないよね?」
「メディからも許可は出てるもんっ。メディにとってはセイラは邪魔みたいなんだよねえ。早くキラ達から引き離したいみたい。杖を奪う手筈も整えつつ、セイラを奪還するってのが今回の作戦」
「っていっても、あのセイラがはいはいとついてくるわけないだろう。力ずくで連れてく気?」
イオはウィンクしながら頷いた。
「そういうこと! そのための戦力としてあんたの力を借りたいんだよねっ!」
ショコラの背筋が一瞬震えた。「戦力」ということは、イオと共に堂々とセイラやキラ達の前に出ろということだろうか。
「それ、あんたと一緒にセイラ誘拐の為にあの子らと戦えってこと? ……ばれるよ、あたしとあんたがグルだってこと」
するとイオは枕を天井に放り投げた。そして怪しく微笑みながらブラックに言った。
「いいよ別に、もうばれても。ってか、あんたがボクらと繋がってることはもうそろそろあいつらにバレるんだよねえ。あんた、いかにも怪しいから。だったら、いっそもう堂々と動いてもらった方がいいかなって。あいつらに直接攻撃仕掛けるからボク一人じゃきついなって思ってたとこだし、ちょうどいいよ」
ブラックは思わずイオから目を逸らした。代わりに相棒の剣が視界に入る。この剣を鞘から抜く時がとうとう来たということか。ブラックの脳裏に昨日までの記憶が浮かんでは消えていく。キラやルルカにある日突然ほいほいと剣を向けられるほどブラックは軽率な人ではなかった。昨日までの日常をほんの少し惜しみながらブラックは呟いた。
「馴れ合いごっこの終わりが来たってことか……」
「そういうこと。ゼオン転入の合図の日から、あんた達はよくやってくれたよ。でももう茶番劇は終わり。で、本来のお役目を果たしてよね」
その言い方は少しブラックの勘に障った。
「本来の役目って……勘違いしないでよ。あたしはあんたやメディに仕えた覚えは無い。勝手に戦力に加えられるのはごめんだね。あたしの主は……」
「その主はあんた達に命令したはずだよ? ボクの指示に従って協力してって」
ブラックは言い返せずぐっと黙り込んだ。確かに、「主」はブラックにそう命令したのだ。主の命令である以上、ブラックがそれに逆らうことはできない。だが正直なところ、ブラックはメディやイオのやり方には不満を持っていた。
ブラックが頑なに賛同の返事をせず、イオを睨みつけていると、イオはこちらをからかうように言った。
「しょうがないなあ。あんたが動きたくないならいいよ。……こっちに頼むから」
イオはある物を取りだしてちらちらとブラックに見せつけた。それを見てブラックはますます苛立った。それはブラックの左耳についているイヤリングの片割れだった。このイヤリングの片割れに封じてある「人」を想い、ブラックは俯く。
イオはブラックの周囲をくるくると跳ね回ると、面倒臭そうに言った。
「もしキラやルルカに情が移ったっていうなら昨日までのことはさっさと忘れるべきだね。あんたが今までやってきたことを知ったら、あいつらだってあんたとこれまで通り過ごすことなんてできないよ。わかってるよねえ?」
ショコラ・ブラックは不愉快そうに俯いた。イオの言うことは正しかった。ブラックは今まで密かにイオやメディ達から命令を受け、その指示どおり行動してきたのだ。その行動の中にはアズュールの反乱時のサラ・ルピアへの支援なども含まれる。イオはブラックの耳元で意地悪く囁いた。
「あの反乱の直前にキラを攫った犯人があんただと知ったら、あいつらどう思うだろうねえ」
イオの言うとおりだ。ブラックが今までしてきたことを知ったら、いくらキラ達でもこれまで通りブラックと接することはできないだろう。ブラックは再びため息をついた。そして一つ諦めることにした。馴れ合いごっこの終わりが来ることは最初からわかっていたことなのだ。
「わかってる。別に今更こちらを裏切って奴らに味方する気はない。あんたの言う通り、昨日までのことは忘れるよ。けどね……」
ブラックは次にこう続けた。一つ諦めることは決めた。だが譲れないこともある。
「オズさんとあの怪力の魔女……多分主は最低でもあの二人だけは傷つけたくないって考えているはずだ。もしこの二人と直接戦闘になるようだったら、あたしはこの件には協力しないよ」
「強情だねえ」
「あたしだって、どうせ仕えるなら本当の望みを叶えてやりたいのさ」
イオは腕を組み、考え込んでからこう答えた。
「オズは滅多なことがなければ動かないとは思うし動いたらボクだって敵わないから即撤退だけど、キラの方は難しいな……んー、じゃあやっぱり今回はこっちに頼むよ」
そう言ってイオは再びブラックのイヤリングの片割れを揺らした。「これ」でイオは毎度無理矢理要求を通すのだ。ブラックはその片割れを強く睨みつける。それは元々ブラックの物だ。ブラックがその昔、イオ達と出会う前に自分の弟から受け取った大切な贈り物だった。
「それさ……返してよ」
「いーやーだーねっ。飼い犬に首輪はちゃんとつけとかなきゃダメなんだよ」
ブラックは再び黙ってイオを鋭く睨む。悔しそうに黙り込むブラックを尻目に、イオはぴょこんと窓の方へと飛び上がるとするりと流れるように暗闇の空に飛び出した。
「じゃあ、今後はそういうことで。また頼み事があったら連絡するよ。ばいばーい」
イオは無邪気に手を振ったがブラックは素直に手を振り返す気にはならなかった。遠ざかっていくイオの姿、耳に時計の針の音が走る。イオの姿が見えなくなると、ブラックは自分の剣に目を向けた。
そして心の中で呟いた。とうとうこの時が来てしまった。日常が終わる時。化けの皮を剥がす時が。突然のことだった。昨日までの日々はもう戻らないのだ。
ブラックは先程のイオの言葉を思い出した。胸の奥でふつふつと感情がマグマのように湧き上がる。ブラックは自分の左耳のイヤリングを揺らした。すると、イヤリングの赤い石が淡く光り始めた。このイヤリングには所謂通信機能がついている。ブラックは自分が仕えている「主」に連絡を取ることにした。
「もしもし……聞こえる、リディ?」
ブラックは自分の主の名を呼んだ。鈴の音のような美しい声が返ってきた。
「その声……ショコラね。こんな夜中にどうしたの」
「さっきイオが来たんだ。今度はセイラの誘拐だって」
「そう……」
主の少女──リオディシアは憂鬱そうに呟いた。その声を聞いてブラックは確信した。やはりリディはメディとイオの企みに賛同していない。リディはキラやオズの平穏と幸せを望んでいるだろう。そういう人だとブラックは思っていた。
「リディ……あんた、本当にこれでいいのかい? メディやイオを放置していいのかい?」
リディは返事をせず黙り込んだ。肯定の返事はない。だが、否定して二人への反撃を指示することもしない。ただただ、まるで無力な少女のように口を閉ざすだけだった。こうしてまた時は進む。
月が雲に隠れた。風が一つ吹いた。また月が顔を出した。誰の声も響かなかった。また、リディは動かず、イオ達の企みは止まらない。ブラックはだんまりを決め込むリディに仕方なくこう言った。
「……ねえ、またお願いごとがあったらいつでも言って。オズさんへの忠告とか馬鹿魔女達の誘導くらいならまた引き受けるから」
「……ごめんね、ありがとう」
その声を聞いてから、ブラックは通信を切った。ブラックは夜空を見上げた。11月の終わり頃、寒い夜だった。そろそろ雪が降り始める頃だろうか。暗闇の空にまばらに雲が散っていた。
冬が来る。凍えるような冬が来る。暖かい日々はもう終わったのだ。ブラックは再び相棒の剣を手に取った。
とうとうこの時が来たのだ。ブラックは月に剣を掲げた。きらりと月が刃に映る。穏やかな日々に幕を下ろす時が来た。




