第14章:第36話
それから夏が過ぎ、秋が来て、木々の葉が色づき始めた頃。リディも村での生活に慣れ始め、言動や振る舞いも人に合わせられるようになってきた。ルイーネやレティタだけではなく、村人たちとも少しずつ交流を持たせるようにして、ようやく村の一員として認知され始めていた。
リディ自身も、生活に慣れてきたことで気持ちに余裕が生まれたのだろうか。最初はあまり俺以外の人に関心を持たなかったが、この頃になると、急にこんなことを言い出した。
「あのね、イクスのことなんだけど。ちょっと気になることがあるの」
爽やかな秋晴れの昼下がり。リディは図書館の本の整理をしながら俺に話しかけてきた。
「気になることって?」
「前から思ってたんだけどね、イクスって誰かに呪われてるわよね?」
「呪……? いや、初耳やけど」
「え、そう? じゃあオズはイクスについて魔法的な意味で何の違和感も持たなかった?」
そう言われてみると、一つだけ思い当たることがあった。
「そういや、あいつの手首になんや黒いもんがあったな……本人が見られるの嫌がってたやつ。なんや魔法が絡んでそうな模様やなとは思っとったけど……」
「そう、それ。多分呪いの類だとおもうんだけど、大丈夫なのかしら」
「呪い」は「魔法」の中でも特殊な性質を持っている。通常、魔法は術者が呪文を唱え、魔法陣が出現してから一定時間しか効力を発しないものだが、呪いの場合はそれを付与した証である紋様が一度刻みつければ、その紋様を消し去らない限り効果が持続する。大抵は付与された側を苦しめるような効果が発動するため、「呪い」と呼ばれている。
「さあ、イクスがそれで苦しんでるとこは見たことあらへんけど……たしかにちょいと気になるな。今度会った時に訊いてみよか」
「そうね。イクスに何かあったら、ミラも悲しむだろうし……」
以前のリディならば、イクスやミラのようなただのヒトを心配することはなかっただろう。神でさえも、時代や環境が変われば人柄も変わるのか……俺が感心していると、出入口の扉が突然開いた。
「こんにちはー! 迎えに来たよー!」
能天気な声と共にミラが図書館に駆けこんできた。ミラは早速リディの手を握ってぴょんぴょん飛び跳ねた。
「なんや、二人共。どっか行くんか」
「今日はミラの家に行く約束をしていたの」
「ふぅん」
リディが身支度を整え始めたのを見て、俺も出かける支度をしようとしたところ、ミラが急に俺の目の前で両手でバツ印を作った。
「オズは来ちゃダメー!」
「は? なんでや」
「どうしてもダメー。二人のヒミツなの!」
何度言ってもミラがバツ印を撤回しなかったので、俺はドスンと音をたててソファに寝転がった。ミラはニカッと笑って俺の顔を覗き込んだ。
「かわりに、今週末に4人で隣町までお出かけしようよ!」
「は? 4人て、俺と、リ……ルシアと、ミラと、イクス?」
「そうそう! イクスがね、今の時期なら隣街に美味しい物のお店がたくさん来てるって言ってたんだ。私、お芋買って焼き芋作りたいなあ。ねえ、みんなで行こうよ!」
「まあ、ええけど」
傍で話を聞いていたリディが口を挟んだ。
「週末か、いいわね。行きましょ。それで、さっきの話もその時に訊いてみましょうか」
「ん、まあ……せやな」
「決まりね! じゃあミラ、行きましょうか」
リディはミラと一緒に手を繋いで出かけてしまった。閉まる扉を横目で見つめながら、俺はごろごろとソファの上で転がっていた。すると、ルイーネがやってきた。
「そんな気はしてましたけど……オズさんって独占欲強いんですね」
「ちゃうわ、全然違うわ。なーんも悔しくもなんともないで」
「ミラさんに嫉妬するのはさすがに大人げないと思いませんか?」
「はー? せやから嫉妬なんてしてへんし。なんも気にしてへんし」
俺が眉間を皺だらけにしながら丸太のようにゴロゴロ転がっていると、ホロが俺の頭に書類の束を落としてきた。
「もうっ。なんも気にしてないんでしたら、勿論ちゃんと仕事してくれますよね? 近隣の地脈についての資料が届いてるんですよ」
そして週末──
約束どおり、俺、リディ、ミラ、イクスの四人は隣町のヴェルトにやってきた。
丁度秋の盛りのため、様々な作物が取り引きされている。また、食物だけではなく衣料品やアクセサリーなどを扱う商人たちが出張に来ているようで、市場はいつにも増して賑わっていた。
「わー、イクスの言ったとおりだ! いろんなものがいっぱいだね!」
ミラは市場の食べ物を見て目を輝かせていた。
「だろ? 僕もこの時期のヴェルトには行ってみたかったんだよね」
俺とリディはイクスの左手に視線を向ける。イクスは両手に白い手袋をしており、手の甲は見えなかった。以前の出来事があったからだろうか。警戒されているのかもしれない。
「全然関係無いんやけど、イクス。なんで手袋しとんの? 別に寒くもないやろ」
まずは直接理由を訊いてみる。すると、イクスは普段どおりの笑顔を崩さずに答えた。
「ちょっと手を怪我しちゃってね。傷口を見られるのはちょっと恥ずかしいから、手袋で隠しているんだ」
「ふーん……大変やなあ。ミラ、いつごろからイクスはその手袋付けとるの?」
ミラは俺やリディよりもイクスといる時間は長いはずだ。だが、ミラは困った顔で首を傾げた。
「え? うーん、あんまり意識して見てなかったからわかんない……。でも、前にも手袋付けてたような気がするよ」
すると、イクスは急にミラの腕を引いてずかずか前を歩いていった。
「それよりさ、ここからちょっと2人ずつに別れてもいいかな?」
「は? なんや、突然……」
「僕、ちょっと自分の冬服探したいんだよね。ミラに村の学生たちがどの店をよく使ってるか訊こうと思って。だからその間、オズたちは二人だけの時間を楽しんできなよ」
イクスはにやりと笑って「二人だけの時間」の部分を強調する。こちらの心配とは別に、イクスは何か企んでいるようだった。すると、ミラも目を輝かせて俺とリディを突き飛ばした。
「そーだそーだ、二人でデートしてきなよ! ほら、どーん!」
こいつ、はっきり言ったな。そう思った隙にイクスとミラは通りを駆け抜けていき、一瞬で人混みに紛れて姿が見えなくなってしまった。取り残された俺とリディは溜息をつく。
「なんや、こう……」
「うまくかわされたかんじがするわね……」
何が二人でデートだ。この年になって、自分が十代後半の少年少女のような甘酸っぱいデートをするところなど想像もできなかった。女神相手のデートなど、尚更思い浮かばない。
「でも、オズとこうして二人っきりでお出かけするのって……久しぶりかも?」
リディは期待に満ちた目でこちらを見つめていた。
「たしかに……昔は途中から殺し合いしかしてへんかったしな」
「そうね。出会ったばかりの頃に行ったアズュールのレストランが最初で最後だったかも」
「せやな。まあ、イクスのことは追々考えるとして……滅多にない機会やし、たまにはええか……って……」
リディの手を引こうとした時、背後からの視線を感じた。振り向くと、商店の影から二つ物音がした。すぐに相手を追おうとしたが……相手の正体は俺が駆けだす前に判明した。商店の物陰から、ミラの帽子の先の飾りが見えている。イクスとミラめ、俺達のデートを物陰でキャーキャー言いながら見物するつもりのようだ。
「……リディ」
俺はそう言ってリディの手を取ると、黙って指先にキスをした。
「ふぇ!?」
リディが間抜けな声を上げた瞬間、物陰からイクスとミラの顔がひょこと現れる。二人と目が合った瞬間、俺はニヤリを意地の悪い笑みを浮かべ、リディの手を引いて二人と反対方向に駆けだした。
「リディ、まずはガキ共撒くで。邪魔者に見られながらのデートなんて趣味やない」
人の合間を潜り抜け、狭い路地裏に駆けこんだ。背後から足音が二つ追ってくるのを確かめてから、俺は再びリディの手を引いて走り出した。
「ど、どこ行くの? 単純に相手を撒くならもっと手早くできるで……ひゃっ」
「アホ。やるならおもろく撒かへんとデートの意味無いやろ」
俺は上機嫌でリディを抱きかかえると、紅の翼を広げて民家の屋根の上へと飛び上がった。太陽の光と青空が二人を出迎える。この場所なら、ヴェルトの街だけではなく、近隣の山々の景色まで一望できた。
「ちょ、こんな場所に出たら、逆に目立つでしょ!」
「見てみ、リディ。あのあたりにロアルの村があってー、あっちのほうがアズュールで、多分ブランとかはそっちの方やな。結構ええ景色やろ?」
「色々なことがありすぎて景色に集中できないわ!」
リディはお姫様抱っこの状態のまま、パニックになっていた。
「ありゃ、リラがこういうのは本命にやるものや言うてたんやけど……やっぱデートなんて云十年ぶりやし、こういう時どないすればええかとか忘れとるなあ」
「と、とにかく下ろしてよぅ……」
自分の腕の中で、リディが涙目になりながらこちらを見つめている。俺は数秒リディの目を見つめ返して、にやりと笑う。
「嫌や」
リディがますますパニックになった時、背後で壁を蹴るような音がした。振り向くと、ミラが屋根の淵にしがみついていた。さすがあの暴力お転婆アルフェリラ姫の娘。あの一家は脚力だけで民家の屋根に這い上ることができるようだ。
「いたー!」
「お、ミラ。どないしたん。イクスとの買い物は?」
「とぼけないでよぉ。勝手にどっか行っちゃうから心配したんだよ?」
「そーかそーか。なら、あと三時間くらいどっか行くから、お前らも二人でどっか遊んでくるんやで。ほな、さいならー」
そう言うと、俺は屋根の淵に背を向け、リディを抱いたまま空中に倒れこんだ。ミラの絶叫と民衆の騒めきが響き渡る中、二人は屋根から落ちて地面に落下していく。
そして、地面に激突する寸前で瞬間移動の魔法を発動した。
移動した先は街の反対側、閑静な住宅街だった。空中に放り出された俺は、リディを抱えながら体勢を立て直して着地した。ミラやイクスが追ってくる気配は無い。今頃、市場のど真ん中で二人は慌てふためいているだろう。リディを地面に下ろしながら、俺は市場の方角を見て呟いた。
「死神と女神に追いつこうなんざ、100万年早いわ、ガキ共」
クツクツと悪人の笑みを浮かべている横で、リディは顔を真っ赤にしたまま地面に座り込んでいた。パニックで脚の力が抜けたのか、萎れた草花のように動かない。
「ふわぁん、ふにゃあ……」
「女神サマとあろうものが、悪人の前でそないな無防備な顔見せたら取り返しのつかないことになるで。今が真昼間でよかったな」
「な……何よ。夜になったらどうなるっていうのよ」
「そらぁ、とってもええことになってたやろなあ」
「……いいこと? よくわからないけど……と、とにかく、いきなりひどいじゃない! あんな派手な逃げ方がある?」
リディはプゥ、と頬を膨らませる。俺は膨れた頬を指でつつきながらにまにま笑っていた。
「無いからおもろいんやないか。指パッチンのモーション無しで魔法使うの久しぶりやったから、顔とか身体とか化け物の姿にならへんか心配やったけど、なんもなくてよかったなぁ。ハハハハ!」
「ハハハハじゃないわ! 何かあったらどうするつもりだったのよ! 危険すぎるわよ!」
「なんもなかったんやからそれでええやないか。アハハハハ!」
「もう……。やっぱりあなた、ヒト側から見ても神側から見ても狂ってるわよ……」
疲れ果てているリディにそっと手を伸ばす。リディは困惑しながらその手を取って立ち上がった。「狂ってる」という言葉を爽やかな微笑みで受け流し、俺はリディとまるで恋人のように手を繋ぎながら住宅街を歩き始めた。
「そないなことより、デートやろ。疲れたんやったら喫茶店でも入ろか? それとも、服でもアクセサリーでも見よか? こんなド田舎やとできることは限られるけど、どこでも行きたいとこ言ってええで」
「え、ええと……私は特に……。正直、デートっていうのも、行きたいところもよくわからないし」
「へえ、なら俺が行き先決めてええの?」
俺は先程市場でした時と同じようにリディの手を自分の唇に近づけながら、さり気なく人気の少ない暗い通りへと足を進める。するとリディが反射的に手を引いて、足を止めた。
「ちょ、ちょっと」
「なんや」
「なんとなく、オズに行き先を任せたら良くないことが起こる予感がしたから……」
「ははは、さすがに色恋沙汰に翻弄されても神様は神様か。ようわかっとるなあ」
正直に白状すると、リディはますます顔を真っ赤にして怒りだした。とはいっても、鈴を転がしたような声で半ば慌てふためきながら怒っているので、全然怖くはない。むしろ、何か悪だくみする度にこうして反応するものだから、益々困らせたくなってしまう。すると、こちらが全く反省していないことに気づいたのか、リディは口をつぐみ、ジトッとした目でこちらを睨んだ。
「なんだかオズって、底なし沼みたい。絶対に気を許したらダメって感じがする……」
「なんや、今頃気づいたん?」
「元から知ってはいたけれど、改めてあなたの恐ろしさを知ったって感じよ……頭がくらくらしそう」
世界を掌で転がす最強の女神が翻弄され、籠絡されていく様を見るのは気分がいい。封印される前は「デート」というものに何の価値も感じていなかったが、俺はこの時に初めて好きな女とするデートは結構楽しいものだということを知った。
「せやったら、ちょいとペース落としてゆっくり行こか。お前がおもろなかったら意味あらへんしな。あっちの通りにええ店がわりとあるねん。そこ見た後に、喫茶店で一休みってとこでどうやろ」
「べ、別にかまわないけど……」
「ほな、行こか」
そう言って優しく手を握り、今度はリディの歩幅に合わせてゆっくりと歩きだした。小さく、暖かい手だった。静寂の中、二人の足音と呼吸の音だけが響き渡る。神も一応、呼吸しているんだな──そう思った時、リディがぽつりと呟いた。
「……ほんと、ずるい人」
俺とリディは住宅街から市場の裏通りへと出た。ここはミラたちと歩いた表通りと比べると、人通りが格段に少なく、静かな場所だ。他の街から出張で来た店ではなく、この街に長く店舗を構えている店ばかりが並んでいた。俺は女性向けのアクセサリーの店の前で足を止めた。
「あ、ええな。ここ入ってみよか。こういうのは興味あらへん?」
店先には、白や黒のレースに造花が散りばめられたアクセサリーが幾つか並んでいた。
「さあ……わからないわ。あったとしても、この店に入って手に入れる必要性が無いわ。似たような物ならすぐに自分で創れるもの」
「ふーん、嫌いなわけやないんやな?」
「そうだけど……。今の話、聞いてた?」
「聞いてた聞いてた。ほな入ろか」
リディの腕を引いて、早速店内に入る。店内にはネックレス、イヤリング、髪飾りまで……様々なアクセサリーが並んでいた。アンティークドールが身に着けていそうな古風なデザインが洒落ている。店内の商品をじっと見つめていると、黒いストールを巻いた40代ほどの女性が店の奥から出てきた。
「おや、お客さん。彼女にプレゼントですか?」
「せやでせやで。なんやええのあらへん?」
ごく自然に「彼女」であることを肯定すると、リディは顔を真っ赤にして首をぶんぶんと振った。面白いのであと五回くらいは「彼女」と言ってやろうかと思ったが、ぐっとこらえた。店の女性はリディをちらちらと見ながら戸棚からいくつかの箱を出してくる。
「とても綺麗なお嬢さんね。肌真っ白。その白いお洋服もとてもよく似合ってますね。じゃあ、こういう白くてふわっとした印象の物を探してこようかしら」
「ああ、そらええな。頼むわ」
俺がそう言うと、店の女性は嬉しそうに笑って店の奥に向かった。女性が戻るまで待っている間、リディは少し困った顔をしていた。
「あの……オズ。いきなり色々な物を持ってこられても、私……こんなお店来るの初めてで、どれが好きとかよくわからないし、何か選ぶなんてできないとおもうし……」
「はー? お前まさか、俺がお前の好きなもん買うてやるとでも思ってたんか?」
「え、え……っ?」
リディが「違うの?」という顔をする。俺は店内に飾ってあったリボンを二種類手に取り、リディの髪に当てながら見比べてみた。
「お前がいきなりヒトの女みたいにお洒落に目覚めるわけないことくらい、わかっとるわ。俺がこれまでどんだけ神どものことを見てきたと思てんねん」
「な、なら、何の為にこのお店に……」
「俺がお前に付けたいもん探しに来たんや。そのくらい付き合え」
リディは恥ずかしそうに視線を泳がせたまま、黙り込んでしまった。
「ず、ずるいわ……」
まるで着せ替え人形のようにリディを着飾っていると、店の女性が小さな箱をいくつか抱えて戻ってきた。
「お待たせしました……あら、さすが美人さん。どれもお似合いね」
「せやろ? んで、どんなの持ってきたん?」
「髪飾りからネックレスまで色々持ってきちゃったわ。たとえば……ほら、仲の良いお二人にお揃いのペアリングとかどうですか?」
女性は小さな木箱を開く。中には天使の羽根の形の飾りに小さな白い宝石をあしらった指輪が二つ並んでいた。これまで余裕綽々であるかのように振る舞ってきたが、予想以上に恋人らしい物が登場したため、俺は一瞬ぐっと黙り込んだ。指輪と聞いて、ふと脳裏に昔の出来事が浮かぶ。封印される前の死闘のこと、メディに蒼い宝石の指輪を奪われ、紅の宝石とすり替えた指輪を嵌められ囚われかけた時のこと──「正真正銘、女神が創った護りの指輪……それを大事に嵌めちゃって、まるで婚約指輪ね」……メディの声が今にも聞こえてきそうだった。
「いや、指輪はええわ……あ、これ何や。コサージュ? これとかええやん」
俺はつい店員が持ってきた別の商品を手に取って誤魔化した。白いリボンのコサージュをリディの胸元に当ててみる。すると、店員が白薔薇のコサージュを持ってきた。
「コサージュでしたら、これもどうかしら。ほら、イヤリングとか髪飾りとかもあるし、こうして付けると……」
薔薇の蕾とリボンのイヤリング、白い茨のリボン、スワロフスキーのアンクレット。それらを身に着けたリディは誰もが振り返るほどに可愛らしかった。慣れないアクセサリーを身に着けたリディは落ち着かない様子で鏡を見る。
「ど、どう……?」
「よう似合っとるで。素材がええとアクセサリーも映えるなあ」
「……なんというか。そういうとこに騙された人がきっとたくさんいたんでしょうね……」
「あ、なんやこいつ。折角素直に褒めとるのに」
照れ隠しなのか意地を張っているのか、リディは頬を染めたままプイと視線を逸らす。だが、数秒後に再びこちらの目を見つめてきた。
「……オズは、私がこういうの付けてたら、嬉しい?」
大きな丸い瞳を見つめていると、動けなくなりそうだった。
「そら、まあ……嬉しいからこうして色々着飾ってるというか……」
思わず視線が泳いだ自分の姿が鏡に写った。今の芝居の出来はゼロ点だな。仮面が剥がれかけた自分の横顔を見て悔しくなる。いつだって自分が思い描く最高の自分を演じることはできず、どこかで必ずボロが出るのだった。すると、店の女性が声をかけた。
「お客様、いかがですか?」
この場合の「いかがですか?」は「買いますよね?」という意味だ。勿論、ここで気前良く買ってやるのがカッコいい男というものだ。財布を取り出して、代金を渡そうとした時……自分の手持ちが予想よりも少ないことに気づいた。そもそも今日はデートではなく普通の買い物程度の気持ちでやって来たのだから、財布にも普通の買い物に見合った額しか入っていない。この後も店を回ったり喫茶店に寄ることを考えると、ここでリディに買ってやれるものは、今身につけているアクセサリーのうち一つか二つといったところだろう。
「ちなみに……いくら?」
リディには聞こえないように女性に尋ねると、女性は三点それぞれの値段を紙に書いた。予想通り、それなりの額だった。
「オズ……? もしかして、お金あまり無いの?」
リディが背後から値段が書かれた紙を覗き込んできた。
「違う! ある!」
「え、その必死さ何……あまり余裕が無いなら、私も出しましょうか?」
「あかん! 小銭一枚たりとも出すんやない!」
「え……なんで……?」
リディは唖然として首を傾げていた。今日ここまで演じてきた「カッコいい男」の仮面が崩されたため、俺は眉間に皺を寄せる。
「あーくそ、リディ。その中で一つ、自分のお気に入り選ぶとしたらどれがええ?」
半ばやけくそになりながら尋ねたところ、リディはもじもじと視線を泳がせながら笑った。
「そ、そうね……オズが一番、私に付けたいと思った物がいいわ」
「こいつ……」
「えっ? そのために来たんでしょ?」
頬を染めながら首を傾げる顔を見て、「ずるい」と俺は心の中で呟くのだった。
店を出たあと、リディは暫くアクセサリーが入った袋の中を見つめたまま動かなかった。
「そないなことしなくても、逃げたりせぇへんて」
「だ、だって気になるんだもの……オズが私のために選んでくれたのが、なんか嬉しくて」
どのアクセサリーを購入するか迷った末に、俺は白薔薇のコサージュを選んだ。リディはそれが大層気に入ったようで、会計を済ませてからずっと袋の中身にばかり目を向けている。俺は口をへの字に曲げながら、リディの頬を引っ張った。「ひゃっ」という声をあげて、リディはようやく俺のほうへと顔を向けた。
「もう、なあに?」
「なあにやないわ。次、どこ行く? 行きたい店が無いんやったら……」
「あ、それだったら……私、ちょっと行ってみたいところができたわ」
意外な言葉だった。つい先程まで機械のように何の欲も持っていなかった女神の言葉とは思えない。
「紳士服のお店はあるかしら?」
どうやら先程の買い物をヒントに、自分が欲しいものではなく、相手に与えたいものを探すことに興味を持ったようだった。行きつけの紳士服の店へと足を運ぶと、店の奥から清潔感のある服装をした五十代ほどの男性が現れた。彼がこの店のオーナーだ。
「おや、オズ様。いつもお世話になっております。今日はどのような……おや」
オーナーの視線がリディの方へと向いた。
「あー、なんや、気にせんといて。ちょいと寄っただけやから」
その間にも、リディは店内の商品を興味津々で見つめていた。そして、リディは棚の上にある白い帽子を指した。
「オズがあれを被ったところ、見てみたいわ」
「あれか? 俺の服て黒系が多いし、白はあんま合わへんと思うんやけど」
「そう……」
リディが別の商品に目を向けようとした時、オーナーが俺達二人の肩を叩いた。白い帽子と合わせたシャツ、ズボン、ジャケット、ネクタイ、靴、靴下……全身コーディネート一式が揃っていた。
「お嬢様、そちらの帽子とお似合いの服ならこちらにございますよ。オズ様、いかがでしょう。是非そちらのお嬢様のご期待に応えて、一式試着してみては?」
「わぁ、とっても素敵だわ! ありがとう!」
目を輝かせるリディの隣で、俺は苦笑いした。さすが商売人。儲け時をよく理解している。
俺は「しゃーないな」と呟きながら、大人しくオーナーが用意してきた服に着替え、リディが選んだ白い帽子を被った。リディの瞳に着替えた俺の姿が映った途端、丸い瞳が今までにない輝きを見せた。
「ひゃ、ひゃぁ……」
「どやろ、これ」
リディはまた顔を真っ赤に染め、視線がこちらに釘付けになっていた。これまでの照れた顔とは違い、頭から足の先まで舐めるようにじっくりと見つめられたので、俺は少し居心地が悪くなった。リディも、このような目をするようになるのか。封印される前、俺はこのような目をした女たちの想いを散々弄んできたため、よくわかる。心惹かれた者が自分好みの恰好をして現れた時は、つい普段よりも欲が表に出るものだ。
「あ、あ、あの……その、すごく……かっこいいとおもうわ」
「そらどうも。俺としては、普段と全然違う雰囲気やからちょいと落ち着かへんけどなあ」
「ええ、でもとっても素敵よ?」
リディはいつにも増して綺麗な瞳でこちらを見つめ、背後ではオーナーが期待に満ちた眼差しで俺の背中を見つめていた。両者の期待は当然理解していたが、問題は予算だ。自分の服を買う予定は無かったため、ここで残金を使いすぎると後で休憩の為に喫茶店に入ることができなくなる。「もう少し考える」という名目で取り置きしておいてもらおうとした時、オーナーが再び肩を叩いた。
「オズ様、よろしければ、そちらの帽子の代金は『ツケ』ということにいたしましょうか」
「なんや、珍しいな」
こちらは一言も「買う」とは言っていないのに、あたかもあちらが大変気前の良いサービスをしたかのような物言いをするところが、筋金入りの商人らしい。
「ここは是非こちらのお嬢様のご期待にお応えするべきかと思いまして。代金は後日お持ちいただければ結構ですよ。そして、本日試着いたしましたこちらの品々も念のためお取り置きしたおきますので、よろしければ是非ご検討ください」
俺は悟り切った表情でオーナーの話を聞いていた。これはつまり、「帽子の代金を払う時に、ついでにその他のコーディネート一式も是非買ってください」という意味だ。早速帽子を包み出したオーナーの背中を見つめながら、俺はこの先何十年もこの店と付き合っていくのだろうと確信した。
「オズ、よかったわね」
リディは嬉しそうに微笑んだ。俺はこの女神が悪いヒトに誑かされたりしないか、一瞬心配しそうになった。
帽子を購入した後、俺はリディを連れて高台にある喫茶店へと向かった。コスモスの花が咲き誇る庭園を通り、白い石畳の道を進んでいくと、レンガ造りの可愛らしい小屋が現れた。
「ここが、オズのオススメ?」
「せや。庭も綺麗やし、高台やから空と街の景色が結構ええんやで」
早速俺がリディの手を引いて中に入ると、この店の店主である初老の男性が二人を出迎えた。
「おや、オズさん。いらっしゃい……おや?」
店主は早速リディに目を留めた。今日何度も見た反応だ。数秒黙り込んだあと、店主は「どうぞどうぞ」と窓際の席へと案内した。この妙な沈黙も、飽きるほど見た。俺が女を連れてきたことに余程驚いたようだった。
「何を頼もうかしら。オズは何にするの?」
「フルーツポンチ」
「意外。紅茶って言うと思ってたわ」
「今日は全身がフルーツポンチを求めとんねん。んで、お前は何がええんや」
「私はローズヒップティーにするわ」
こうして少し洒落た喫茶店でメニューを選んでいると、まるで普通の男女のデートをしているような気分になる。リディもだいぶヒトの感覚に慣れたのか、普通に自分の頼むものを決めることができるようになったようだ。少し楽しそうにメニューを見て頼む物を考えている様子は、普通の女の子と何も変わらなかった。
オーナーを呼び、フルーツポンチとローズヒップティーを頼む。すると、オーナーは厨房を指してこう言った。
「もうすぐレモンパイができあがるとこなんですけどねぇ。どうですか、お二人とも」
俺とリディは顔を見合わせた。
「そういやここのレモンパイ、気になっとったけど食うたことないなあ」
「でもオズ、お金……」
「あー、それは平気や。ここのために温存しとったから」
リディが少し安堵したところを見て、俺は少し自分の財布が恨めしくなった。急な出来事だったとはいえ、デートの最中に相手に金の心配はあまりさせたくなかった。
注文を終えると、すぐにリディのローズヒップティーが運ばれてきた。
「いい香りね」
「お前、図書館でもわりとローズヒップティーよく飲むよな。気に入ったんか?」
「そうね、これ好きよ。爽やかな香りよね。でもオズは嫌いなのよね? 勿体ないわ」
「俺は酸っぱいのは嫌なんや」
リディは「勿体無いわ」と言いながら、ローズヒップティーを口に運ぶ。丁度窓から穏やかな風が吹き、彼女の髪が揺れた。
「今日は素敵な一日だったわ。ずっとオズと二人きりだなんて、ドキドキしちゃう」
いつものようにからかうこともできない程、俺はその言葉に深く共感した。
「本当、こんな日が来るだなんて思わなかった。夢みたい……本当に」
尻すぼみに声が弱まっていき、リディは窓の外へと視線を向ける。俺も外の街の景色を見つめながら、今日一日の出来事を振り返ってみた。正に「夢」としか表現しようのない時間だった。二人で買い物をして、互いに贈りたい物を選び、喫茶店で穏やかな時間を過ごす────これまでの二人の殺し合いのことをふまえると、このような普通の少年少女のようなデートが実現したこと自体が奇跡だ。だが、同時に俺も、リディも理解している。この恋は成就してはならない。この幸福を享受していること自体が「罪」であり、俺もリディもいつか必ず「罰」を受ける。俺とリディと、ミラとイクスと、ルイーネやレティタやリラやカルディスや……その他大勢の人々との穏やかな日々も必ず終わりが来る。
「ほんま、夢みたいやな。頬つねったら覚めるんとちゃう?」
そう言うと、リディは寂しそうに微笑んだ。
その時カランと音を立てて、俺とリディの間に硝子の器に入ったフルーツポンチが置かれた。
「お待たせいたしました」
オレンジやグレープフルーツ、白桃などの果物と共に、青・紫・黄緑などの色とりどりのゼリーが乳白色のシロップの中で揺れている。窓の外の光を反射し、まるでステンドグラスのように輝いていた。
リディはカラフルなゼリーを見て目を丸くし、フルーツポンチを運んできた店主は少し得意げな顔をしていた。
「え、ええ、フルーツポンチってこういう感じだったの?」
「珍しいな、お前が興味持つて」
「だって、もっとこう、赤とかオレンジとか黄色とか、そういう色合いだと聞いていたから……ヒトの食物に青や紫の物って殆ど無いでしょう。美味しいの?」
俺は二つあったスプーンのうち、片方をリディに手渡した。
「気になるか?」
リディはスプーンを手にじーっとフルーツポンチを見つめる。俺はわざとフルーツポンチの器を手元に抱え込んで食べる素振りを見せた。
「その……ひ、一口だけ……」
「あー聞こえへんなー。なんて言ったかわからへんなーもっとはっきり言わへんとなーんにも聞こえへんなぁぁー」
「も、もう……一口ください! 言えばいいんでしょ、言えば!?」
俺は満面の笑みを浮かべながらフルーツポンチの器をリディに手渡した。
「……オズ、こういうことして楽しい?」
「めちゃくちゃ楽しい」
リディは「もう……」と口をへの字に曲げながら、フルーツポンチを口に運んでいた。再び店主がやってきて、二人分のレモンパイをテーブルに乗せた。しっとりとした褐色の生地の上に綿のようにふっくらとしたメレンゲが載っており、レモンの爽やかな香りがした。早速、口に運んでみると、メレンゲが泡のように溶け、甘酸っぱい味で口の中が満たされた。
「はー、ええやないか。美味い美味い」
「よかったわね。昔のオズは、こういうもの美味しく食べられなかったもの」
「……せやなあ」
レモンパイを頬張りながら、いつかのアズュールのレストランで過ごした時間を思い出してみる。あの食事も愉しかったが、料理の味だけは理解できなかった。神の血を飲んだことで、ヒトの食事の味が理解できるようになったというのは皮肉な話だ。だが、心惹かれた女とこうして普通にティータイムを楽しめることが、嬉しくて、愛おしくて、つい「まあ、いいか」と思ってしまうのだった。
「ふふ、このフルーツポンチも『美味しい』。青や紫って普通の食物にはなかなか無い色だけど……それでも、美味しいのね」
「お前がそう言うてくれるんやったら何よりやな」
「オズも食べてみて。美味しいわよ」
リディはそう言ってフルーツポンチの器をこちらに手渡した。早速スプーンを手に、色とりどりのゼリーを掬ったところで、これは所謂「間接キス」をすることになると気づき、数秒硬直した。
「どうしたの?」
「いや、なんやこう……キマらへんなあと思て」
リディは首を傾げながら「間接キス」の意味を知らない顔をしていた。俺は結局、その意味はリディに教えずにフルーツポンチを食べきった。その間、リディは俺が食べる様子をじっと観察していた。
「なんや、見てておもろいもんやないやろ」
「面白いわよ。オズがどんなことしていても、ずっと見てたいわ」
リディは幸せそうに微笑んだ。神として、その言葉とその表情はどうなんだ。そう思ったが、それを黙認している時点で俺も共犯としか言えなかった。
その時、窓の外から涼しい風が吹き込んだ。視線を外へと向けると、山々に半分顔を隠した太陽が黄金色に輝いていた。──「ああ、夕焼けだけは悪くなかったな」……そんな言葉を、ふと思い出した。あれはアディリシオにメディとの関係について尋ねた時の言葉だ。今の俺とリディの関係はかつての悲劇の再生産に過ぎない。メディレイシアが起こしたものと同じバグがリオディシアに起きている。それだけの話であり、人にもシステムにも世界にとっても絶望しか生まない関係だ。だが、この日、リディと共に見た夕焼けは胸が痛くなるほどに美しかった。この一瞬の為に世界を敵に回した女に、共感してしまいそうな程に。
「ねえ、オズ。ちょっといい? 渡したい物があるの」
リディは突然そう言って、小さな紙袋を渡した。袋はドライフラワーとリボンで飾り付けていた。袋を開けてみると、甘い香りが漂ってきた。
「あのね、ミラにね、クッキーの作り方を教えてもらったの。受け取って……もらえるかしら」
少し形が崩れたクッキーが袋の中に沢山詰まっていた。あの人を人とも思わなかった神が、ミラと一緒にせっせとこのクッキーを作ったかと思うと、可笑しくて思わず顔が綻んだ。
「……ありがとな」
俺はコソコソと厨房の方を見て、店主がこちらを見ていないことを確認した。
「オズ、どうしたの?」
「いや、こういうとこで外から持ち込んだ物ってあんま食わんほうがええやろから」
「そうなの? なら、帰ってからゆっくり食べて」
「いや、今食うのが一番美味い」
「えぇ……」
クッキーを一つ摘まみ上げて、口に放り込んだ。素朴で、少し甘味が足りなくて、粉っぽい舌触りだったが……
「美味いよ」
自然と、そう言っていた。本当は、もっと伝えたいことがたくさんあった。きっと、慣れない料理を必死でがんばったのだろう。本当の意味で理解できるはずもない「クッキーの味」を情報として分析し、魔法を使うことを禁じて再現しようと試みたのだろう。その努力に対する労いと感謝の言葉を全て並べていたら日が暮れるだろうと思い、この一言しか言えなかった。
「嬉しい。頑張ってよかった」
あいつがこちらの想いに応えてくれる度、この恋が報われてはならないことが悔しくなるのだった。
ティータイムを終えて、会計を済ませようとした時、店主がなぜか小さな木箱を二つ手渡してきた。中を開けてみると、色違いのマグカップが入っていた。
「なんやこれ」
店主に尋ねると、
「貰い物なんですが、うちは使う人がいないのであげます。ああ、お代はいりませんので」
「なんて勝手なヤツや。なんでどいつもこいつも、頼んでもいないサービスばっかするんや」
「どいつも……って、他にも何かいただいたんですか」
「貰ったわけやないけど、帽子ツケで買うたら頼んでもいないコーディネート一式取り置きされた。図太い商売人ばっかで困るわ」
すると、店主はおつりを数えながら、ちらりとリディのほうへと視線を向けた。リディは宝物を手に入れたかのように瞳を輝かせていた。
「まあ、売り時と思ったのもあるでしょうけど、単純に面白かったからじゃないですかね」
「なんやそれ」
「そりゃ面白いでしょ。オズさんがまともなデートしてるとこって想像できないじゃないですか。顔は女性百人泣かせてそうなのに」
俺は眉間に皺を寄せて豚のような顔で店主を睨みつけた。店主はにこやかにおつりを返してきた。俺の行きつけになる店は、なぜか店主がクソヤロウばかりだった。
「また来てくださいね。小悪魔の皆さんにもよろしくお伝えください」
店主はマグカップを木箱にしまい、綺麗にラッピングして手渡してきた。店を出た後も、リディはマグカップの入った箱を大事に抱えていた。
「せやから、そないに抱え込まんでも逃げへんて」
「だって、嬉しいんだもの。私にも、自分のカップができたのね」
「自分の?」
「ほら、オズもルイーネちゃんもレティタちゃんも、自分専用のカップがあるでしょ。これからは、私もティータイムの時は自分のカップがあるのね」
たしかに、ルイーネたちにはそれぞれ専用のカップや皿を用意していたし、おやつやティータイムの時はそれを持ってくるように言っていた。リディはこれまでずっと「欲しい物なんてない」と言っていたが、そのわりには「まだ自分専用のカップが無い」ということをはっきり認識していたようだった。
「せやったら、今度来る時は皿も買わへんとな」
「そうね。楽しみだわ」
「また二人きりでもええけど、今度はルイーネたち連れてみんなで買い物でもええかもな。お前、どっちがええ?」
「どっちもがいいわ。この街に何回も来ればいいだけの話よ」
「贅沢なヤツやな。なにが『欲しいものなんて無い』や。欲望まみれやないか」
「そうかもね。でも、どうしてかしら。反省なんてしたくない気分だわ」
夕暮れの道を二人で並んで歩いた。石畳に響く足音をいつまでも聴いていたいと思った。
「今日は、楽しかったわね」
俺は無言で頷いた。過去も未来も、血と惨劇と絶望だけが約束されている自分の生に、これほど眩しい時間が生まれたことが怖かった。いつか必ず、終わりが来る。そんな醜い現実を頭の隅にでも置いておかなければ受け止めきれないほど、幸せな時間だった。
「なあ、リディ。ちょっとええか」
俺が神妙な面持ちで足を止めた。「え?」と声をあげて、リディが立ち止まる。彼女がこちらに振り返る瞬間、俺はリディの肩を引き寄せて唇を重ねた。ほんの数秒の出来事だった。
「さあ、はよミラたちとも合流して帰らへんとなあ」
キスを終えた直後、俺は何事も無かったかのように再び歩きだした。一方で、リディは頬が火照った状態のままぼうっとしていたので、俺は黙ってリディの手を引いて歩いた。今なら世界最強の女神をあっさり誘拐できそうだな……そう思った時、リディはハッと我に帰った。
「ふ、ふぇ、え、え……だ、だからオズってば! ひどいじゃない! キ、キ…… どうしてこういつも突然なの!?」
「そら、お前……」
俺は、リディの手を強く握りしめながら、ニヤリと嗤った。
「そういう反応がおもろいからに決まっとるやろ」
「む、むぅ……」
「あはは。もっと堕落してもええんやで?」
リディは少しムキになって、黙って首を振った。その様が、また面白くて仕方がなかった。
「もうっ、よーくわかったわ。やっぱり、オズに絶対気を許しちゃいけないわね」
「そらええわ。溶かしがいがある]
「……ふふ。そういうオズも、気を付けることね」
夕焼けが俺とリディの背を照らし、正面に暗く影が伸びていた。行く先が暗闇だと知っていても、今握っている手が暖かくて、離そうと考えることすらできなかった。
昔々の出来事。過ぎ去りし幸福。俺以外の、誰も憶えていない物語。
あの頃と完全に同じ時間は戻らないとしても、もうミラやイクスは帰ってこないのだとしても……
いつかまた、俺はお前に会えると信じている。




