第14章:第33話
ロアル村に来て二十年以上が経過した。
昔は埃臭かった図書館も、この頃にはルイーネによって整理整頓され、俺の城に進化した。それに伴い、少し利用者も増えた……ということにしておく。
年月が経つにつれて、俺の周りの人々の生活も大きく変化した。あの蛇のような目をしたクソ村長は代替わりし、カルディスの父が新たな村長となった。カルディスはソマリと、リラはウルファと結婚して子供を作り、その子育てもひと段落しつつあった。また、村に来た頃は何かと俺とリラが顔を合わさないように仕向けられていたが、リラの結婚を機に徐々にその縛りも弱まり、この頃には特に誰に阻まれることもなく話をしに行けるようになっていた。
順調に大人になり、家庭を築いて年をとっていく二人とは対照的に、俺とルイーネは外見上年を取ることも家庭を築くようなこともなく、図書館でマイペースに日々を過ごしていた。
変化があったことといえば、レティタがルイーネと同様に図書館に住まうことになったことだろうか。レティタは偶々村の付近で魔物に襲われて怪我をしていたので、拾って手当てをしてやったところ、なぜか懐かれて図書館に居座ることとなった。
そして同時に、ある時期からリラの娘のミラが図書館に頻繁にやってくるようになった。毎日午後3時頃、ミラはおやつをもらいにやってくる。
「オズー、オズー、今日もおやつもらいにきたぁ」
「その日」のミラは友達を連れて図書館にやってきた。ミラと共に金髪碧眼の可愛らしい顔立ちの少年が図書館に入ってくる。俺はちょうどチェス盤に駒を並べて遊んでいるところだったが、ミラが友達を連れてきたと聞いて手を止めた。
「お、友達か。へえ、なかなかの美少年連れてきたやないか。お前、名前は?」
「イクス・ペルセウスです。えっと、あなたがその……」
「オズ・カーディガルや。あ、タメ口でええからな。よろしく」
そう言うと、ミラは嬉しそうな顔でイクスに俺を紹介した。
「えへへ、イクス。オズのことは知ってるよね? オズはすごいんだよ。なんでもできるし、おやつくれるし」
「おい、ミラ。『俺=おやつをくれる人』みたいな紹介をするんやない」
「ええー? でもくれるでしょ。おやつおいしいよ?」
ミラはニコニコしながらイクスと一緒に椅子に座り、おやつが出てくるのを今か今かと待っていた。ミラが来るたびに、立ち話もなんだと思いお茶とお菓子を出すようにしていたのだが、そのせいでミラはここでおやつを貰うのが癖になってしまったらしい。これはそろそろリラに「お菓子を与えすぎるな」と怒られるかもしれない。少しお菓子を出すのを控えるか……と考えた矢先に、ルイーネとレティタが紅茶とお菓子を持ってやってきた。
「ミラさん、イクスさん、こんにちは。今日は夏みかんのゼリーがあるんですよ。カルディスのお家からの貰いものでして」
「それと、今日はちょっと熱いから、冷たいアイスティーを作ってみたの! ほらほら、二人共召し上がれ!」
ルイーネとレティタはいつにも増して張り切って支度をしていた。目を輝かせるミラとイクスを前に「片づけろ」と言うこともできなかったため、お菓子制限キャンペーンの実施は明日からということにした。
「しゃあないなあ。ほら、ルイーネとレティタも皿持ってこい。ゼリーまだあったやろ」
そう言って、ミラとイクス、ルイーネとレティタ、そして俺、5人の賑やかなティータイムが始まった。
「いただきまーす!」
ミラは世界一幸せそうな顔で夏みかんのゼリーを頬張った。俺はアイスティーを飲みながら、ミラの顔をじーっと見つめる。元々の気質なのか、それとも育った環境の差なのか、ミラはリラと比べるととても素直で無邪気な性格だった。一方で、漆のような黒く長い髪、林檎のような赤い瞳、そして少し幼い顔つき──外見はリラととてもよく似ている。すると、こちらの視線に気づいたのか、ミラは不思議そうに首を傾げた。
「オズ、どうしたの?」
「いやぁ、年月経つのは早いなぁ思て。もうミラもボーイフレンド連れてくる年やもんなぁ。ちょっと前にババアの結婚式やったばっかやのに」
「ボーイフレンド」という言葉を聞いた途端、イクスが咽て咳きこんだ。ミラはイクスの背中をトントンと叩きながら、ぶぅと頬を膨らせて俺に言った。
「もう、オズ。おかーさんのことババアって言ったら、またおかーさんに怒られるよ?」
「だって事実やし。ババアをババアって言って何があかんねん」
「もー、昔のオズはおかーさんに優しかったんでしょ? おかーさん言ってたよ。勘違いされがちだけど、あいつ結構不器用だし、悪いやつじゃないって。どうしてそんな意地悪言っちゃうのかなあ……」
すると、ミラは俺の瞳をじーっと数秒覗き込んだ。ミラは、相手の気持ちを知ろうと思った時、こうして相手の瞳を覗き込む癖があった。
「あ、わかったあ。オズはおかーさんがババアになっちゃったから、ちょっと寂しいんでしょ」
「……なんや、お前もババアって言っとるやないか。ババアに言いつけたろ」
「えーっ、ちがうよ、オズがババアって言ったからつられちゃっただけだよ!」
「言ったのは事実やし。ババアに百回言いつけたるから覚悟しとくんやで。あ、そういやイクス。おまえ、アイスティーにはレモンとミルク、どっち派?」
俺はレモンとミルクを持ってイクスの傍に言った。イクスはやっと気分が落ち着き、もう一口アイスティーを飲もうとしていたところだった。すると、ミラが俺の上着を引っ張ってきた。
「ねーねー、そういえば私、不思議に思ってることがあるんだあ。おかーさんはババアになったのに、どうしてオズはおにーさんのままなのかなあ。とうして?」
「ははは、なんでやろなあ。俺の日頃の行いがええからかもしれへんなあ」
実のところ、その理由は俺にもわからない。おそらくメディの血を飲んだ影響だということは知っている。だがどういう仕組みで身体が老化しなくなったのか、「老化が止まり不老不死になった」か「老化が遅くなり超長寿になった」のかどちらなのかもわからない。自分の身体の具体的状態が何一つわからない状況だ。流石にそろそろ情報が欲しいところなのだが、神や世界のシステムたちはここ二十年近い間一切俺の前に現れなかった。
「それよりミラ、イクスとはどういう友達なん?」
あまり触れてほしくない話題だったので、わざと話を逸した。幸い、ミラはそれ以上追求はせず、嬉しそうにイクスについて話し始めた。
「学校の友達だよ。イクスはねー、とっても賢くて優しいんだよ。髪も目も綺麗だし、王子様みたいでしょ」
イクスはまたアイスティーを気管に詰まらせてむせていた。俺はリラがウルファを連れてきた時を思い出しながらニヤニヤしていた。どうやらミラは外見はリラに似ているが、性格は旦那に似たようだった。
「イクス、大丈夫か。さっきからむせてばっかりやで」
「ご、ごめん。ちょっとびっくりして……」
「まあ、まずは落ち着いてな。ところで、ミラの学校の友達てことは、この村で暮らしとるんやな。家はどのへんなん?」
「あ、僕は寮生活組なんだよ。親はその……色々あってね」
「ああ……そら、無神経なこと聞いたわ。堪忍な」
この村の性質上、親元を離れて暮らしていたり、親が亡くなっている子供は珍しくない。そういった子供は学校の寮で生活していることが多かった。イクスは親については深く語らず、小さく微笑んでから図書館の中を見回した。
「それにしても、ここの図書館は面白い物がたくさんあるんだね。本だけじゃなくて、お菓子とか、トランプとか……あ、チェス盤もある。チェスをすることもあるのかな?」
イクスは俺が先程まで遊んでいたチェス盤を指した。すると、レティタとルイーネがゼリーを食べる手を止めて話し始めた。
「そうそう、よくオズが一人で遊んでるの。本来二人で遊ぶもののはずでしょ。一人チェスって楽しいのかしら?」
「さあ? オズさんはトランプも一人で延々と遊べる人ですから。時々私がチェスのお相手をすることもあるんですけど、私はあまり強くないので退屈しのぎにもならないみたいです」
うちの小悪魔二人は辛辣なことばかり言っていた。チェス盤を弄って遊ぶのは、大抵リディのことを思い出した時だ。あいつはどこにいるのか、今の自分は何者なのか──そう考えた時、俺は向かい側にリディがいるかのようにイメージして、一人でチェスをする。あいつにチェスで完敗した時のことを思い出しながら、次は絶対に負けないと誓って練習をしていた。……勿論、次に出会った時は呑気にチェスなんてしている余裕は無いとわかってはいたけれども、時々ふとそんなことを考えてしまう。
「へえ、オズは結構強いんだ?」
イクスはチェス盤に興味を持ったようだった。
「その口ぶり、お前も強いんか?」
「強いってほどじゃないけど、チェスは好きだよ。楽しいよね」
「よし、せやったら今日からお前はチェスの練習相手や。ミラぁ、お前の友達、ええ奴やなあ」
俺はイクスの返事も聞かずにいそいそとチェス盤を持ってきてゲームの準備を始めた。するとルイーネがホロでぴしゃりと俺の額を叩いた。
「ちょっとオズさん、まだみんな食べてるところなんですよ! 遊ぶのは次にイクスさんが来た時にしてください!」
「だってえ」
「だってじゃありません!」
冷酷無慈悲なルイーネはホロに駒を片付けさせてしまった。眉間に皺を寄せて不貞腐れた俺を見て、ミラとイクスは楽しそうに笑っていた。
「オズ、変な顔してる!」
「ははは、大丈夫。また来るから。次はじっくりひと勝負しようね」
「はー、イクスはええやつやなあ。どっかのぼんやり娘とは大違いや」
「ぼんやり娘って私のこと? ひどーい、せめてのんびりって言ってよ!」
「おい、のんびりならええんか」
ミラとイクスと小悪魔たちと過ごす何気ない日常。復讐の為に生きていた頃は想像することもできない光景だった。昔の俺が最初に望んでものは、こんな穏やかで暖かい日々だったのかもしれない。──実際そんな日常を手に入れてみると、「幸福」という言葉以外にも様々な感情が湧き上がってくるのだが。
その時、突然手元のカップがパリンと音を立てて弾けた。
「うわっ!」
「ひえ、びっくりした!」
ミラとイクスはすぐに弾けた破片から離れ、ルイーネが破片の片付けを始めた。
「お前ら、怪我無いか?」
「大丈夫だよ。突然どうしたんだろうね?」
「さあなあ。元からヒビとか入ってたんやろか」
そう言いながら、俺は自分の手を見つめた。片付けをしながら、ルイーネが心配そうにこちらを見つめていた。
「ほな、お前ら、こっちも片付けとかあるし、それ食ったら今日はお開きにしよか。また来た時にいっぱい遊んだるから」
俺はミラとイクスにそう言って、なるべく早く図書館から離れさせた。今も自分の中で膨れ上がる強大な力で、この穏やかな日々を壊してはならない。かつては想像もできなかった穏やかな暮らしを手に入れたからこそ、その過ちを犯してしまうことが怖かった。
ミラとイクスが帰った後、片づけをホロとレティタに任せて洗面所に直行した。俺はナイフを手に取り、自分の腕を切り付けた。みるみるうちに腕から赤い液体があふれ出てジャバジャバと流れていく。血が流れ出ていく度に、足元が少しふらついたが心は少し落ち着き、力が溢れ出ることもなくなった。
「オズさん……そんなに血を流して大丈夫なんですか?」
ルイーネが不安そうな表情で後ろから覗き込んできた。
「平気や。この程度で死んだりどうこうなったりせえへんて」
「……『俺は強くて死なないからどれだけ自分を傷つけてもいい』みたいな考え方、やめてください」
「せやかて、どないしろ言うねん。ホロかて蓄えられる魔力には限界あるやろ」
「そうですけど……でも……」
十分な血を流した後、布を巻いて止血をする。傷口は憎らしいほどすぐに塞がり、ナイフで切り付けた跡すら残らなかった。
「……栄養剤を用意しますから、これ以上腕を切ったりしないでくださいね」
ルイーネはそう言って台所の方へと姿を消した。俺は大きな溜息をついて床に座り込む。ここ数年、力の制御がうまくいかなくなってきていた。何もしていないのに、カップや窓ガラスが割れたり、本が吹き飛んだり──幸い、人への被害はまだ出ていなかったが、このまま状況が悪化するといつか封印が解けたあの日のように誰かを傷つけ、殺してしまう日が来るかもしれない。
それだけではない。精神にも少しずつ異変が現れていた。この穏やかな日々がずっと続けばいい──そう思う一方で、時折相反する感情が湧き上がってくることがある。憎悪だ。この時代の何もかもが憎らしく感じ、何もかも破壊してしまいたくなることがある。この時代は、この村は、人が死なない。突然理不尽な理由で命を奪われることも無いし、何の力も持たない人でも生きていける。俺が生まれ育った時代は、場所は、そうではなかった。だからこそ俺は「誰にも負けない最強の力」を望んだ。もう何も、誰も失わずに済むように──今ここで何も考えずに生きていられる人々と、かつてどれほど生き残ろうと知恵を絞ったにもかかわらず無惨に死んでいった人々の差はなんだったのか。「時代」か。たったそれだけの差で「生きる人」と「死ぬ人」に分けられてしまうのだとしたら、人の意志に意味なんてあるのだろうか。世界を傾けられるほどの力を手に入れても、その流れを変えられないのだとしたら、俺は何の為に──
「オズさん、お待たせしました。ほら、ちゃんと栄養取って、休んでください」
顔を上げると、ルイーネが水と栄養剤のビンを差し出していた。
「そらどうも」
俺は素直に栄養剤を口の中に流し込んだ。すると、僅かに気分が落ち着いた。この「吸血鬼としての栄養を取ると、破壊衝動が収まる」という現象も不思議なものだ。俺はもう「吸血鬼族」と呼べるような存在ではない。それなのに、元々の種族の食事がまだ意味を成しているのはなぜなのだろう。自分のことが何一つわからない。この先何年俺は俺でいられるのか、長いのか短いのか、それすらも不明なまま年月ばかりが過ぎる。穏やかな暮らしによる幸福と、未来への不安を抱えながら日々を過ごしていた──そんな時期に、「その日」は唐突に訪れた。レティタが俺を呼んでいた。
「オズ。ちょっといいかしら。ミラとイクスが戻ってきたの。オズに用があるらしいわ」
「俺に? なんや、急な用なんかな」
「オズを捜している人がいるらしいわよ」
その日、特に人と会う用事は無かった。村の者か、それとも村の者を通して近隣の街の誰かから連絡が入ったのか。どちらだとしても連絡役にミラとイクスを使いはしないだろう。
不思議に思いながら二人のところに向かうと、ミラはぐいぐいと俺の手を引いて図書館の外に連れ出そうとした。
「なんやなんや、どないしたん」
「あのねあのね、オズのことを捜してるって人が外で待ってるんだ」
「外? なんでや、連れてこなかったんか」
「なんかね、外で話がしたいんだって」
ますます話がわからなくなってきた。念のためルイーネを呼び、ミラとイクスを連れて俺は指定された場所へと向かった。そこは村の中心から外れたところにある草原だった。村の入口の方へと続く道の真ん中に女の人影が見えた。
「あ、いた。あの人。おーい、オズをつれてきたよー!」
その女の顔を見た瞬間、言葉を失った。桜の花弁のような髪が風に揺れ、サファイアのような瞳がこちらを見据える。背中には機械と水晶でできた片翼があり、白いドレスはまるで夜空に浮かぶ月のよう。忘れるはずもない最愛の宿敵、因縁の想い人──女神・リオディシアだった。
「お……まえ……」
俺が声をかけると、リディは丸い瞳を潤ませ、口元が僅かに綻んだ。同時に、リディの両脇に蒼い魔法陣が浮かび、巨大な水晶のポーンが現れた。
「……久しぶりね、オズ。会いたかったわ」
そして、ポーンの頭が巨大な銃口へと変化し、こちらに狙いを定めた。
「ミラ、イクス……逃げろ!!!」
俺の声と同時に、水晶の駒は蒼い弾を放つ。俺はパチンと指を鳴らして光の盾で攻撃を防いだ。ミラとイクスは狼狽えながら俺の身を案じるばかりで、逃げようとしなかった。
「オズ! なんで、どうして……!」
「僕たちだけで逃げるなんてできないよ! ねえ、そこの方! どういうこと、君がオズと話したいって言ったから連れてきたのに、この対応は酷くないか!?」
リディは無言で攻撃を続けるばかりで、二人の問いかけには一切応じなかった。それどころか、新たにナイトの駒を召喚し、更に攻撃の勢いを強めた。こちらの盾は万一力が暴走してミラとイクスを傷つけることが無いように強度を抑えた仮の盾だ。女神のナイトの刃を防ぐことはできず、光の盾は敗れ去った。
ナイトの駒は盾を破壊すると、俺達を三人纏めて斬りつけようとした。
「チッ……」
俺は両腕でミラとイクスを突き飛ばし、後ろで待機していたルイーネに告げた。
「ルイーネ、今すぐ二人を逃がせ」
「で、でも、オズさんが……!」
「黙れ、村人の安全確保はお前の役目やろ……っ!」
ナイトの駒が刃で俺の肩から背中にかけてを斬りつけた。強い痛みが走り、衝撃で膝を着く。ヒトの身で俺にこれほどの痛みを与えられる者はいない。紛れもなく、これはあいつの力だ。ましてや、背中はアディに植え付けられた魔法陣がある箇所だ。全身を引き裂かれるような痛みがじわじわと広がり、頭痛がした。その間に、リディは俺のすぐ目の前にやってきた。
「……まさか、こんな唐突やとはな」
リディの背後にナイトの駒が控えていた。リディ本人ならともかく、手駒の一撃で即死することはないだろうが、場所が悪すぎる。せめて隙を見て逃げ出し、場所を変えたいところだが……そう思った時、急にナイトの駒が刃を引っ込めた。
「なぜ反撃しないの。あなた……本当にオズ?」
リディは首を傾げながら尋ねた。
「は? いや、俺やろ。お前に偽物やと思われるなんて、ちょっとショックやで」
「うん、それはわかってるわよ。偽物なわけないわ。こんな力を持っているの、オズしかいないもの。ただ、ちょっとびっくりしちゃったの。まさかあなたが身を挺してヒトを護るだなんて思わなかったから」
「……まあ、たしかに。以前の俺はこんなことしなかったかもな」
「そうよね、すごいすごい。でもね、ごめんなさい。もっとオズの話を聞きたいんだけど……ほら、私が何の為に来たか、わかってるわよね」
あの日俺の胸に傷を付けた時と同じように、リディは水晶の剣を取り出して、こちらの首に添えた。そして、今にも泣きだしそうな顔で言った。
「……本当に、ごめんなさい」
だがその時、急に背後が騒がしくなり、魔女帽子の少女がリディの腕にしがみついてきた。
「ストーーーーップ!!! 待った待ったストーーーーップ!!!」
「ミラぁ!? おいまてルイーネ、二人は逃がせ言うたやろ!」
振り向くと、ルイーネとイクスは真っ青な顔で慌ててこちらに向かってきているところだった。どうやら、ミラがルイーネの言うことを無視して勝手に飛び込んできたようだった。リディは視界に映るものが俺ではなくミラになった途端、氷のような瞳でミラに言い放った。
「退いて。大人しく去れば、私は無駄な労力を裂いてヒトを殺したりしないわ」
「待って、待ってよ。何があったかわからないけれど、一回落ち着こうよ。いきなり殺したらだめだよ。その……あなたの為に、ならないと思うの」
「私の為? それは与えられた使命を中断するに足る理由にはならないわよ。ねえそこのヒト、三度目は無いわ。退いて」
「で、でも……あなた、泣きそうだよ。そんな顔しながらオズを殺したら、絶対後悔するよ。その、使命とか事情はわからないけれど……中断するまでしなくても、一回落ち着いて話をしたらどうかな……」
「神」としての眼をしたリディにこの程度の説得は通用しない。そう思った俺はすぐにミラの腕を引き、後ろに放り投げた。すると、その様子を見たリディは驚いて俺に問いかけた。
「……不思議。オズ、前と随分変わったのね。本気でその子を護ろうとするなんて。その子が特別なの? それとも、あなたに何かあったの?」
「いや、どっちも間違いや。変わったものがあるとすれば、多分それは時代やで」
「…………」
リディが一瞬黙り込み硬直した時、急に何かが俺の服の襟を掴んで空中に持ち上げた。巨大なホロが、ミラとイクス、そしてルイーネのいるところまで俺を運んだ。
「おま、ルイーネ、アホか。ミラとイクスの居るところまで俺を運んだら何の意味も無いやろが!」
「アホはオズさんです! それでお二人を護ったつもりですか、カッコ付けたつもりですか! さっき私が言ったこと、全然わかってくれてないんですね! もう……もうっ!!」
「今、そないなこと言ってる場合か!」
「言ってる場合ですよ! オズさんは勝手にお二人を護ったヒーロー気取りになってるみたいですけど、オズさんの身柄にはこの村の安否とウィゼート国との関係がかかってるんです! ①オズさんの配慮は有難いですけれど、この村がオズさんを受け入れているのには外部からの侵入者の排除も狙ってのことですので反撃してくれなければ困ります。ここでオズさんがむざむざやられたら、次に危険に晒されるのは無力な村人たちですよ! ②オズさんを倒せるほどの方が存在すること自体が世界全体を揺るがす大問題です! もしオズさんがやられたとして、もしその方が逃げ去ってしまったらこの村はウィゼート国に何の説明もできないんですけど!? これはこの村というよりこの世界中に影響を与える問題です。紅の死神を殺せる力が存在する。その正体はわからない。ウィゼート国にとっても脅威でしょうけど、エンディルスやデーヴィアがそのことを知って、もし新たな兵器の出現……みたいな勘違いをされたらどうしてくれましょうか! ウィゼート国は両側から攻められて世界大戦に……」
「あー! あーあーあー!!! 長い! うるさい! せやったらどないしろってんねん! 俺がここで全力投球してもええんか!? 攻撃魔法禁止破るで、ええんか!?」
リディは俺がルイーネと言い争っている様子をぽかんとした顔で見つめていた。そして、急に水晶の剣を下ろし、駒たちを退かせた。
「そこの小さいヒト」
リディはルイーネを指した。ルイーネは強張った表情でおそるおそる返事をした。
「わ、私ですか? ヒトじゃないですけど……えっと、何でしょうか」
「ここで私とオズが争うと世界に大きな影響が出る。それは事実?」
これは俺にとっても予想外の反応だった。以前のリディは戦闘で世界を巻き込もうと気に留めたりしなかった。それこそ、俺との戦いの為に容赦なく世界を焼き払うほどにヒトの世界に対して無頓着だった。
「そ……そうですけど。ウィゼート内戦の終結時にこの村とウィゼート国の間には密約が結ばれていまして。その中にオズさんの扱いについての記述もあります。オズさんが非常に強大な力を持つことはウィゼート、エンディルス、デーヴィアの三国共認知していますし、オズさんがここで殺されると全世界に大きな影響を与えると思います」
ルイーネがそう言うと、リディは駒達を消して何か考え込んだ。攻撃の手が止まった。それを好機と捉えたのか、イクスがリディに声をかけた。
「あなたは、世界に影響を与えるようなことは避けたいの? だったら、さっきミラも言ったことだけれど……いきなり殺すのは危険だと思うよ。一度場所を変えて、落ち着いて話をしたらどうかな」
リディは返事をしなかったが、少なからずイクスの言葉に耳を傾け、自分の意思決定の材料にしようとしているようだった。リディを、神を、説得できるかもしれない。ここで殺し合わずに済むかもしれない。たった数分のことだったが、俺にとってはこれまでの運命を覆したと言っても過言ではない出来事だった。
俯き、悩んでいるリディを見て、ミラが再びリディの傍に駆け寄り、顔を覗き込んだ。
「迷ってるの?」
「…………」
「じゃあ、ゆっくり考えたらどうかな。図書館に行こうよ。オズがおやつ出してくれるんだよ。紅茶もくれるの。それでさ、一度リラックスして考えてみたらどうかな」
「…………」
「泣かないで。焦って決めないで。ここでオズを殺したら、きっともっと泣きたくなっちゃうよ。あなた、オズのこと嫌いじゃないでしょ。たぶん、大好きなんでしょ」
ミラがはっきりとそう言った瞬間、リディは頬を真っ赤にして視線を泳がせ、困り果ててしまった。すると、ミラはリディの両手を掴んで陽だまりのように微笑んだ。
「ね、一回素直になって、ちょっと考え直してみようよ。そうだ、あなた……名前はなんていうの?」
リディはちらちらとこちらを見つめ、悩んだ末にようやく口を開いた。
「私は、リ……えっと、えーと、ル、ルシア・グリンダっていうの」
「そっかあ、ルシアちゃんだね! よろしくね!」
いや待て、誰だそいつ。俺は眉間に皺を寄せたままぽかんとした顔でリディを見つめていた。偽名だ。あまりにもわかりやすい偽名だ。昔は自分は神様だとおおっぴらに宣言して闊歩していたくせに、何を雑に正体を隠すような真似をしているのだろう。どうやら、この20年ほどで変化したのは俺だけではないようだった。
リディはミラの言葉にゆっくりと頷き、頬を真っ赤に染めながらこちらを見つめて言った。
「その……たしかに、あなたたちの言う事にも一理あると感じたわ。世界にどのような影響があるか見極めるまで、ひとまず停戦ということにします。だから、そ、その……私も、一緒にその『図書館』に行ってもいいかしら」
リディが図書館にやってくる。ミラとイクスと小悪魔たちと、笑い合いながらティータイムを過ごしたあの場所で、彼女はどんな顔をするだろう。俺は背中の痛みを堪えながら、笑顔で見栄を張って彼女に手を差し伸べた。
「ったく……そら勿論、喜んで」




