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ある魔女のための鎮魂歌【第2部】  作者: ワルツ
第14章:ある罪人の為の序曲
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第14章:第24話

背中が疼く──まるで、自分とは全く違う生き物に寄生されているかのようだった。

師を殺した日に背中に刻まれた魔法陣が脳に欲望を刷り込む。

血をよこせ、魔力をよこせ、もっと神の血が欲しい。まだ強くなれる、まだ足りない。

もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと血を──


俺がリンドウと知り合い、セイラに現状報告をしてから数週間が経過した。

真夜中の民家の片隅で、俺は窓硝子に自分の背を映して、背中に刻まれた魔法陣の様子を確かめていた。リディに血を貰ってから、魔法陣は確実に大きく成長していた。

脳裏に師の言葉が蘇った──お前は、私の研究を継ぐ者になる。あの日アディの研究資料を持ち出した後、俺は資料全てに目を通して覚えた。そして全て焼き払って捨ててしまった。

「神を創る」という狂った野望の全てが記されていた。アディが死ぬまでオズに対して行った実験の詳細、そしてその先のこともだ。資料によると、「神」の完成の為には創造神と破壊神の両方の血が必要とのことだった。創造神の血は俺の背中に仕込まれた魔法陣の起動のために、そして破壊神の血は、実際に神の力を取り込み、その力を増幅させて己の力として定着させるために必要だそうだ。

リディから血を貰ったことで、覚醒の第一段階は完了した。あとは、メディの血をありったけ吸い尽くせば、亡き師の研究は完成する。


「くだらない……」


俺はシャツを羽織り、ボタンを止めながら呟いた。もしもメディの血を吸えることがあったとしたら、それはこの復讐劇のクライマックスだ。メディが消えれば俺がこの先どうなろうと知ったことではないのに、なぜ彼女の血を吸って「模造品の神」にならなければいけないのだろう。

師の研究は俺の手で葬り去ろう。メディを殺し、アディの研究成果を全て消し去る。それでやっと、俺は仇を殺し尽くすことができる。この時の俺はそう心に決めていた。

その時、窓をコンコンと叩く音がした。外を見るとミッドナイトブルーの装束を身に纏った少女の姿があった。


「頼まれたものを届けに来た。さっさと来い、頭を破裂させられたくなかったらな」


セイラは氷のような瞳でこちらを睨みつけていた。俺は大人しく小屋を出て、指示に従った。



「届け物」を見た瞬間、俺は言葉を失った。

目の前には漆黒の棺が置かれている。棺の中には白い花が敷き詰められ、人が横たわっていた。数週間前、俺はセイラに生贄を一人寄越せと頼んだ。セイラはたしかにその約束を守った。だが問題はその人選だ。

アンゼレの街にいた頃、俺に城内を案内してくれた青年、マチカが変わり果てた姿で横たわっていた。


「……人選に注文はつけてなかったはずやけど。なんでこいつなんや」


「知るか。選んだのは私ではない。リディだ」


「あいつは何て?」


「『マチカだったかしら? たしか彼はオズと仲良しだったわよね。彼がいっしょなら、きっとオズも心強いと思うの。だからマチカにしましょ!』……だそうだ」


俺は頭を抱えた。神に人の心は理解できない。奴らは人をゴミのように扱い、掌の上で弄んでは捨てていく──それが「神」だということは重々理解していたはずなのに、その言葉を聞いた時に俺はまた愕然としてしまった。悪意があってマチカを選んだのであればまだわかる。しかし、この凶行は完全な善意によって行われていた。


「何か言いたいことがあるのだろうが…………こちらはお前の要望どおりの仕事をした。とやかく言われる筋合いは無い」


「…………まあええわ。ご苦労さん。あとは互いの情報交換やな」


淡々と話を進めながら、俺は棺の中のマチカを見つめていた。少々間が抜けていたが、彼は善人だった。……また一人死んだ。俺は心の中でそう呟いた。一方で、セイラは俺の様子をじっと観察しながら現状を述べた。


「どこから説明するべきか……、まずこちら側の兵については問題無い。先の戦いではほとんど戦闘には参加していないからな。いつでも動かせる。だがリディ本人の回復にもう数日かかると見たほうがいいだろう。主砲がまだ治しきれていなくてな。メディと退治するには万全の状態で向かわなければならないだろう」


「こっち側で引き込めたグループは7組くらいってとこやな。けど、そっちには悪いけど、正直こっちは早く動きたい。メディの体制に不満を持っていて、寝返ってくれる奴もおったんやけど、そうでないやつも当然おる。反逆者が動いてることは、遠からずメディに伝わる。その前にこっちは動きださへんと俺らもお前らも何もできずにお陀仏や。せやろ?」


「その意見には賛成だ。リディ本人が動き出すまでの時間稼ぎが必要だな……」


俺は頷きながら、棺の中の遺体に視線を向けた。


「しゃーない、この遺体使うか」


「なんだ、その既に本来の想定から外れた状況になっているかのような言い草は。生贄はお前の要望だったはずだが?」


俺は眉間に皺を寄せながら幼女にぶちぶちと文句を言った。


「実際外れとんねん。まあ、俺が言葉足らずやったせいもあるんやけど……たしかに生贄とは言うたけど、既に死んだ状態で寄越されるとは思っとらんかったんや」


俺が棺の中のマチカに視線を向けると、セイラは呆れ果てた顔をした、


「なんだ、生かした状態のほうがよかったなら先に言え」


「まさか、わざわざ自分のところの兵士を自分の手で殺してから連れてくるとは思わへんやろ」


「殺してはいない。リディがマチカに敵軍との衝突が激しい地域での任務を指示したら、死体となって帰ってきただけだ」


「名指しで生贄指名しておきながら自分の手を汚さへんとこ、ほんま最低やわ」


今の一言は心の底からの軽蔑のつもりだったが、セイラは羽虫を追い払うかのような仕草をしながらこちらを睨みつけるだけだった。


「で、この死体をどうする?」


セイラは機械的な口調で尋ねた。


「……これを、今の俺の姿に変える。そして、『叛逆を企んだ首謀者の死体』としてメディのもとに届けさせる。そこから……」


すると、セイラはクスリと嗤った。


「芸が無いな、若造。また死体への細工か」


俺は眉を潜めた。たしかに、俺は以前にも死体への細工をして窮地を乗り切ったことがあるが、それをセイラが知っているはずがない──そう思っていた。当時の俺はセイラが「記録書」と呼ばれる特殊な存在であることなど知る由もない。なのでセイラがこう言った時、俺は少なからずセイラを訝しんだ。


「メディを欺き、最古の魔術師を殺した時もそうしたのだろう? 遺体を自分の姿に変えた上にもう一度殺させるだなんて、正気の沙汰とは思えんな」


俺は唇を噛んでセイラを睨みつける。誰が好んでこのような外法を取るものか。それしか思い浮かばなかっただけだ。いくら人体実験から生還しようと、神の血を得ようと、俺は神そのものには成れない。愚かで脆弱な人が神に抗う為には、自分が殺されることなど「大前提」とした上で取りかからなければ、傷一つ付けることすら叶いはしないと考えた。だからこうしただけだ。


「……せいぜい言ってろ、人外ども」


俺はマチカの遺体が入った棺に手を沿えながら、小さく呟いた。

棺の中のマチカは、幸福な夢でも見ているかのように穏やかな顔をしていた。






創造と破壊の女神の一騎打ちから数週間が経過した。

世界を巻き込むほどの死闘の末、破壊の女神メディレイシアは撤退を余儀なくされ、侵略から防衛戦へと移らざるおえなくなった。

メディレイシアの傍で世話をしていた者たちはこう語る。


「女神様はご自身の傷を癒すことに専念しておりました。さすがに創造の女神との戦いは応えたのでしょう」


「破壊の女神の軍勢は創造の女神の軍からの侵略を抑えるので手一杯でした。そんな状況でしたから、どう足掻いても、あの出来事を抑えるのは不可能だったと思います」


「まさか内部での反乱が起こるなんて。内側の反乱と外からの侵略、破壊の女神の軍勢は正面と背後の敵を一度に相手にする羽目になり、壊滅へと向かっていました」


「ですが、ある時突然、一人の遺体が女神様の前に届けられたのです」


玉座に座るメディの前には若い青年の遺体が置かれていた。遺体を運んできた兵士たちは、反乱の首謀者の遺体だと説明した。遺体の心臓部には大きな刺し傷があり、全身に殴られたような跡があった。メディは遺体の状態を確認すると、突然楽しそうに笑いだした。メディが笑ったのは数年ぶりだったという。そして、同時に遺体を運んできた兵士達の身体が爆発した。ポップコーンのように弾けた頭を見つめながら、メディはこう言ったという。


「これはブラフよ。こんな簡単に捕まってリンチに遭うような奴が、反乱なんて器用なことできるわけがないわ。それにこのやり口……ふふ、うふふ、あはは、あははは!!!」


メディがパチンと指を鳴らすと、死体の人相が変わった。頬骨が張った鼻の低い青年の顔が、利発そうで穏やかな顔へと変化した。


「死体への細工か、懐かしいわ。やっぱり生きてたのね」


その時、メディの下半身が蜘蛛のような形状へと変化し、漆黒の闇が足元全体に広がった。闇から黒い糸が伸びて青年の遺体を捕らえる。メディの腹部がぱっくりと割れ、青年の遺体は頭からメディの中に呑み込まれてしまった。遺体はメディの身体に入った途端にラムネのように溶けて消えていった。


「ああ不愉快、ああ愉快。ふふふ、あいつをどうやって食べてやろうかしら。自由を奪ったうえで、徹底的に心を溶かしてやらなくちゃね」


そして、メディは玉座から離れて外出の支度を始めた。驚き慌てふためく兵士たちに対して、メディはこのように命令を下した。


「全ての兵に告げなさい。オズ・カーディガルを捕らえろと。そして、私のもとに連れてきなさいってね」






「反乱」が始まってから四日ほどが経った。破壊神の軍勢内部は、こちらの狙い通りの混乱状態に陥っていた。外からは敵が攻めてくる。内部では反乱が起き、首謀者捜しで皆が疑心暗鬼になっている。なんでも、メディが「反乱の首謀者、オズ・カーディガルを捜し出して捕らえろ」という命令を出したそうだ。

現在、メディの占領下の土地はリディの軍に攻め込まれている状態だ。本来なら、各隊一丸となって防衛にあたり、侵略を阻止しなければならない。だが現状は協力しあうどころか、互いを疑い合った末に、味方同士で戦闘になることすらあった。軍の崩壊は時間の問題だった。だが、崩壊が早すぎても計画に支障が出る。この反乱の目的はあくまで時間稼ぎと、洗脳装置の破壊のための足がかりを作ることだ。

俺は後にヴィオレと呼ばれることになる港町の倉庫でそのための下準備をしていた。そこには既に洗脳された100人ほどの奴隷たちが座り込んでいた。俺とリンドウ、そしてセイラは、蒼い水晶の欠片に穴を空けては糸を通し、奴隷たちの首から下げる作業をしていた。


「にしてもさあ、俺、少しショックだよ」


作業の最中、リンドウが不貞腐れた顔をしていた。


「なにがショックやねん」


「お前の素顔がイケメンだったことだよ。くそっ、お前、さぞモテるんだろうな。腹立つな」


俺は反乱を実行に移した時から変装をやめ、リンドウにも「オズ」という本名を打ち明けた。変装を解いた途端、リンドウが眉間に皺を寄せて絶叫したことをよく覚えている。姿と名前を偽っていたことに対しての怒りかと思いきや、リンドウの怒りの原因は「顔の良さを隠していたところ」らしい。


「……腹立つのそこなん? 別にええやろ。顔が良かろうと悪かろうと殺されたら全部一緒やで」


「これだから顔がいいやつはムカつくんだよ。あ、じゃあもしかして、前にお前が言ってた好きな女のタイプも嘘か? 『俺を飽きさせない女』ってやつ」


これまで黙って作業をしていたセイラが手を止めた。俺はわざとセイラによく聞こえるように答えた。


「あれはほんとや」


「そうか、じゃあ許す」


「それでええんか? おまえ、アホやなあ」


セイラが拳を握りしめながらこちらを睨んでいたが、俺は見えなかったふりをした。リンドウは倉庫の隅で座り込みながらぶちぶちと呟いた。


「くそー、ずりぃな、イケメン。俺も三日で顔面偏差値70くらいになりてえ。そして女を侍らせてえ」


俺はニヤリと笑い、蒼い水晶の欠片を一つ差し出して、リンドウに問いかけた。


「なら、お前も俺にしたろか?」


俺は倉庫に座り込む奴隷たちを指した。首から蒼い水晶の欠片を下げた奴隷たちは全員俺と全く同じ身長、顔、服装をしていた。


「いや、それは遠慮しとく。スケープゴートになったら、戦争が終わるところ見られないしな」


「賢明やわ。命あっての物種やしな」


俺がそう言うと、リンドウは急に神妙な顔つきになり、俺と同じ顔をした奴隷たちをじっと見つめた。この奴隷たちの役割は言うまでもなく、囮だ。遺体に細工をした程度でメディを騙せるとは思っていない。ここまでは想定内だ。木を隠すなら森の中、メディが俺の捕獲を命じたのであれば、俺を増やして攪乱させようという作戦だ。


「おまえさあ、自分の顔の価値をわかってないよなあ。やっぱムカつくな」


俺は首を傾げた。


「利用価値ならようわかっとるつもりやけど。実際女はよう寄ってくるし……あと腹立つけど、メディに出会った途端に殺されへんかったのはこの顔のせいもあったやろしな」


「そういうところなんだよなあ」


どういうところなんだ。俺はリンドウの言葉の意味が本当にわからなかった。

その時、セイラが俺とリンドウの間に割って入ってきた。


「馴れ合いの最中に悪いが、ここからの流れについて確認したい」


俺は一度咳払いをして頷いた。ちょうど、こちらも数点、セイラに確認したいことがあった。三人は倉庫の隅で座り込み、打ち合わせを始める。


「お前の計画はだいたい把握した。この囮の奴隷たちを各地に送りこみ、メディの手がお前へと伸びるのを遅らせるところまでは良しとしよう。だが、それでは時間稼ぎはできても、洗脳装置の破壊には至らない。お前、リディからの依頼内容を忘れたわけではないだろうな?」


「あー、そら、俺の計画自体がちゃんと伝わってへんわ。ま、それは後でちゃんと共有するわ。その前に、いくつかお前に確認しときたいことがあるんやけど」


「なんだ」


俺は奴隷たちが首から下げている蒼い鉱石を指した。


「あれの効果って、お前が前に説明したとおりで間違いないな?」


「そのとおりだ。あれは『創造』の力を宿した石だ。効果は大まかに分けて二つ。『創造』の力を貯蓄、または放出することと、『破壊』の力からの干渉を防ぐことだ。リディの軍では主にメディからの精神干渉を防ぐ為に配布されているが、このように対象の外見をしばらくの間変えることもできる」


「よし、それが確認できればええ。せやったら、こっからのことを説明するで。耳の穴かっぽじってよう聞くんやな」


俺はリンドウとセイラに説明を始めた。セイラが表情一つ変えずに計画を聞く一方で、リンドウは時折「うわぁ」と声をあげて悍ましいものを見たような顔をしていた。自由を奪われ、人格を剥ぎ取られた奴隷100人の命をすり潰すような計画だったが、俺は一欠片の罪悪感すら感じなくなっていた。



その夜、俺と同じ顔をした奴隷たちは反乱の協力者たちの元へと運ばれていった。メディが俺の顔を伝えるのが先か、それとも同じ顔の人間が何人もいることに周囲が不審に思うのが先かはわからないが、これから何人もの「俺」が各地で殺されることだろう。

その翌日には、メディの伝令役の兵士がリンドウのもとにやってきた。内容は「オズ・カーディガルを捜し出して捕らえよ」という命令が下されたことと、そしてオズと思しき外見の青年が各地で見つかっている、という二点だった。中には、既に殺されたり、捕らえられたりした「オズ」も大勢いるらしい。ここまではこちらの狙い通りだった。

こちらの企みが無事進み始めたことを確認すると、セイラは再びリディたちのもとへと戻っていった。そこから数日間、俺は再びリンドウと数人の奴隷たちと共に行動していた。


「あと何日くらい稼げばいいんだ?」


「二、三日程度ってとこやな。それまではひたすら鬼ごっこしつつ、捕らえられた『オズ』の足取りを追う……ってとこやな」


俺たちは山奥の村の小屋を一つ借り、そこに身を隠すことにした。一日か二日、ここで過ごした後はまた別の場所へと移動する予定だ。小屋に到着後、荷物を解いている最中に、リンドウが呟いた。


「しかし、少しうまくいきすぎてる気もするよな」


俺は荷物を解く手を止めて黙り込む。リンドウの言う通りだ。こちらの策が狙い通り進んでいるのは喜ばしいことだが、メディがこちらの策に嵌ったまま大人しくしているとは思えない。数年前にメディと対峙した時の記憶が蘇ってきた。蝿を見るような目つき、指先一つでこちらを追い詰め、甚振る残虐さ。胸の奥から憎悪が湧き上がってきた。そのたび、俺は何度でも「殺してやる」と小さく呟く。だが、最近その決意にノイズが混じるようになった。メディのことを思い出すたびに、ふとリディの顔が浮かぶのだった。そのたび、俺は何度も「リディとメディは別人だ。混同するな」と自分に言い聞かせるのだった。

その時、あらかた荷物解きを追えたリンドウが俺に声をかけてきた。


「ちょっと、村のやつらに挨拶してくるよ。一日、二日とはいえ、一応しておいたほうがよさそうだろ」


俺は頷き、リンドウは外へ出て行った。リンドウが立ち去った後、俺はふと窓の外に目を向けた。ここは名前もよく知らない辺境の村だったが、世の中の情勢に反して穏やかな空気が流れているところが故郷の村と少し似ていた。遠くに、村人と話しているリンドウの姿が見える。その様子を見て、ここは早めに出発しようと思った。

その時、すぐ近くの茂みで物置がした。咄嗟に俺は身構え、その茂みを睨みつける。物音がした場所の高さを考えると、おそらく人ではないだろう。しかし、魔物を使って奇襲をかけてきた可能性も否定できない。ナイフを一本掴んで外に出て、茂みの中を覗きこもうとした時、「ぶにゃあ」という鳴き声がした。聞き覚えのある声だった。


「……エルメス?」


俺がそう呼ぶと、茂みから猫のような姿の魔物が現れた。間違いない。当時よりもぽっちゃりした体型になっていたが、アディが飼っていた魔物……エルメスだ。エルメスはぐるぐると俺の周囲を回って匂いを嗅ぐと、毛づくろいを始めた。そして、大きなあくびをして寝てしまった。相変わらずのんびりした奴だった。


「生きてたんか、こいつ……」


俺はナイフをしまおうとした。だが刃を鞘に収める寸前で、ここにエルメスがいることの意味に気づいた。アディの傍にいたはずの魔物が、元研究所から遠く離れた村にいるはずがない。さらに、当時よりも太っていることから、餌も充分にくれる飼い主がいると考えられる。

俺は即座に警戒態勢に入り、その場から立ち去ろうとした。だが、甘かった。その程度のことは、「神」にとって抵抗のうちにも入らなかった。

突如、巨大な地震が起こった。走ることもできずに蹲った時、遠くに見える山々が「沈んでいる」ことに気づいた。だが、茂みを掻き分けて身を乗り出した瞬間に、それは誤りだと気づいた。俺がいた小屋の周囲の土地が宙に浮いていた。下を向くと黒く巨大な手が俺と小屋を取り囲むように伸びていた。

そう、既にここは神の檻の中だ。すぐに翼を広げて飛び立とうとした時、空が紅に光った。そして、空から紅蓮の炎が滝のように流れ落ち、リンドウたちがいた村を一瞬で焼き払った。心臓が締め付けられるような気分だった。

空を見上げると、視界を覆い尽くすほどに巨大な龍が大きく口を開け、今にも俺を飲み込もうとしていた。もはや、どう足掻いても手遅れだと認めざるおえない距離だった。

次の瞬間、全身に痛みが走り、胴体が地面に叩きつけられた。小屋の屋根と同じくらいの大きさの爪先が腹に刺さった。


「ぐ……っ、あ……!!!」


逃げようとしても、身体が動かなかった。なぜ、どうしてここが、と尋ねる時間も与えられず、脚を斬りつけられた。

打てる手は全て打とうとしたが、神は足掻くどころか起き上がることすら赦してくれなかった。炎が逃げ場を奪い、爪で全身を傷つけられ、抵抗一つできなかった。頭から飲み込まれそうなほど巨大な瞳を見た時、俺は悔しさで唇を噛んだ。これが、本当の神の力だ。人類を爪先だけで死に至らしめる圧倒的な力だ。師を殺した日のメディがどれほどこちらを見下し、手を抜いていたのか、この時徹底的に思い知らされた。

龍から蠍へ、蠍から蜘蛛へ、蜘蛛から黒豹へ。神はあらゆる生物に姿を変えて弱者を甚振り続けた。武器は奪われ、地面に横たわったまま四肢を拘束され、そのまま殴られ、蹴られ、切り付けられ続けた。もはや声も掠れてきたころ、神はとうとうあの少女の姿になった。桜の花弁のような色の髪が風に揺れている。そして、艶やかな女の声が聞こえた。


「久しぶりね、オズ」


もしも手が動くなら、今すぐに耳を塞ぎたかった。相手は殺すべき相手のはずだった。そのはずが、顔を見るたび、声を聞くたび、別人のことが頭にこびりついて離れなかった。


「メ……ディ……」


俺はやっとのことで名前を呼んだ。メディは俺の腹を踏みつけたあと、小さな肉片を取り出して地面に投げた。すると、先ほどまで居眠りをしていたはずのエルメスが起き上がり、落ちた肉を食べ始めた。メディはエルメスを睨みつけながら不満げに呟いた。


「まったく。あいつ、人が折角餌をやっているというのに、全然懐かないのよ」


そう言ってメディが一瞬目を逸らした隙に、俺はメディの足を蹴飛ばし、起き上がろうとした。だが、すぐにメディは脚で俺の頭を地面に叩きつけた。俺は再び四肢の自由を奪われたまま、無防備に横たわる羽目になった。


「ふふ、逃げないで。せっかくの再会じゃない。もっと楽しみましょう?」


メディは馬乗りの姿勢になり、俺の頬に手を添えた。彼女の顔が目の前にある。真紅の瞳を見ればメディとリディは別人だとわかるはずなのに、耳元で囁かれるたびに長年研ぎ澄ましてきたはずの憎悪が溶かされてしまいそうになった。

脳が警報を鳴らし、自分自身に問いかけた。「お前は、この少女を、本当に殺せるのか?」と。蜘蛛の糸で捕らえられた左手に、白魚のような指が重ねられ、絡め取られる。少女の舌が首筋から耳の裏へと這っていく。


「相変わらず、顔だけは悪くないわ」


「お前も……相変わらず、女神の癖に……下品な真似ばかりしとるんやな」


強気に言い返しはしたものの、左手に絡められた指を振り払うことも、覆いかぶさるような姿勢で顔を覗き込んでくるメディを退かすこともできそうになかった。メディは頬に沿えてた手をこちらの口の中に突っ込んだ。指先で舌を撫でながら、彼女は耳元で囁く。


「抵抗もできないくせに、元気がいいのね。でも、まだ足りないわ。神に楯突いたこと、悔やんでも悔やみきれないくらいに絶望させてあげないと。うふふ、ああ楽しみ。やっと捕まえたわ、オズ」


昔、アディが「綺麗」と言った鉱石の翼が、鉄格子のように俺の周りを囲んでいた。漆黒の鉱石が炎の光を反射する。淡い光に照らされた少女は艶やかで……美しかった。

こちらが抵抗の術を失ったことを確認すると、メディは胸元から黒い小瓶を取り出した。中には何か液体が入っているようだった。繊細な指からは想像もできないほどの力で口をこじ開けられ、無色透明の液体が喉の奥へと流し込まれた。咽て吐き出しそうとしても、口を塞がれ、力づくで薬を受け入れさせられた。

蜜のような甘味が口の中に広がり、不意に強い眠気が襲った。身体がゆっくりと痺れてきて、視界が霞み始めた。


「さあ、おやすみなさい」


メディが俺の視界を手で隠す。そのまま、静かに瞼が下りて、意識が途切れた。










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