第14章:第22話
リディが「世界の心臓」と呼んだ存在、世界樹。
俺はリディに手を引かれながらそれを間近で観察してみたが、見れば見るほど言葉で表現することが難しいほどの神秘に包まれた存在だった。離れて見た時は水晶の樹のような外観だったが、触ってみると水晶というより更に繊細で硬質な鉱物のような質感だった。枝葉の内部では歯車がぐるぐると回っている。幹に近づけば近づくほど、内部の機械も構造が複雑になっていた。俺は下を向いてみたが、分厚い雲に阻まれて根は見えなかった。上を向いてみたが、枝先は遠すぎて見えなかった。
この世界樹がどこまで続いているかは不明だが、リディとメディはこの樹に生み出されたのだという。
「はぁ、世界樹か……世界の心臓だか根源だか知らへんけど、ようこないなトンチキ女神生み出したなぁ」
俺が興味津々で樹を見つめていると、リディはこう話し始めた。
「前に、私達がなぜ人の形を取るかという話をしたでしょう。その理由は、私達を生み出した世界樹が『ニンゲン』を脅威と見なしたからよ」
「『ニンゲン』……とうの昔に消えた種族名やな」
俺はニンゲンについてそう詳しくは知らなかった。天使、悪魔、魔術師……その他多くのヒト型種族の元となった種族という程度だ。
「あら、消えたのはつい最近よ。最古の魔法使いはニンゲンだったでしょ?」
「はぁ? あのクソ所長、ニンゲンだったん? 魔術師かと思っとった……」
「だって『最古の魔法使い』だもの。一番最初に魔法に触れたニンゲンはあの人なの。だからニンゲン」
「ったく……あのクソ所長、最後まで自分のこと話すことすら面倒くさがったまま死におったんやな」
脳裏にエルメスを撫でながら研究に没頭するアディの姿が浮かぶ。狭い研究所で過ごしていた頃は気づかなかったが、外の世界を知れば知るほど、アディがこの世界にとっていかに重要な存在か思い知らされた。
「最古の魔術師がどのような人物かは知らないけれど、私達から見て、彼は間違いなく世界の脅威と呼ぶに相応しい存在だったわ」
「そらやっぱ、メディがあいつに執着したからか?」
「彼を脅威とみなしたきっかけは確かにそれだったわね。私達はヒトを世界に悪影響を及ぼさない形で導くための存在なのに、メディは彼一人に過度に肩入れしたのよ。私が彼を殺そうとしたら守ったし、彼の寿命を伸ばしたりしたのだもの。そこまでメディを狂わせるなんて、危険極まりない存在だわ」
俺は頭を抱えて黙り込んだ。リディはアディを歩く洗脳装置か、未曾有の災害か何かと捉えているようだ。「あいつ、本当にモフモフ撫でてただけなんやけど……」──俺がそう考えていると、次にリディはこう言った。
「けれど、それは彼がもたらした影響のほんの一部よ。彼は世界中のヒトにも影響を与えたわ。魔法を世界に広めたのは彼だもの。ニンゲン達は魔法は改良すれば神だけではなく自分達も扱える可能性があると知り、その力を求めるようになったの」
おそらくクソ師匠の研究に興味を持った赤の他人が勝手に広めたのだろう。あのクソ野郎は指一本すら動かしていないに違いない。
「まあ、それまで発達しかかっていた科学が衰退し、魔法に取って換わられたのは私達にとっては好都合だったけどね。ヒト達は私を勝手に崇めてくれたし」
「……ああ、なんとなくわかったわ。お前がヒトの姿を取る理由。ヒトを操るならそら同類の姿のほうが都合ええよな」
「操るという表現は綺麗ではないわ。ヒトと協力したかったの」
俺は眉間に皺を寄せながらそっぽを向いて舌打ちした。神のくせに「協力」という外面だけ美しい言葉を選ぶところが腹立たしい。俺はあからさまにリディの反対方向を見つめながら、半ば強引に話題を変えた。
「あーもうええわ。このクソでかい樹は見た、お前がヒトの姿取る理由もわかった。あと他に何か用があるん?」
「ええ? そんなに焦らないで。もう少しゆっくり中を見ていってよ」
「俺がそないなことに興味があると思っとったん?」
「興味があるかはわからないけど、私達の争いに巻き込まれた以上、知る権利はあるかと思って。それに……」
リディはじっと俺の顔を覗き込んだ。陶器のような肌と海を閉じ込めたような瞳、桜の花弁のような唇が目と鼻の先にまで近づいてくるものだから、俺は片手でリディの顔を隠しながら引き離した。
「一応ガワはお嬢さんなんやから、もうちょい距離の詰め方には気ぃつけや。すぐ近くでダブル姑も見張っとるんやし」
今頃背後ではセイラとイオが般若のような顔でこちらを睨んでいるのだろう──そう思った時、雷の音がして、轟音と共に風が吹き荒れた。空の色が灰色へと変化し、遠くから竜巻のようなものが近づいてくる。今すぐ逃げ出さなければ数十秒後には直撃するだろう。
咄嗟にリディの手を引いて駆け出そうとした時──
「わあ、よかった。やっと来たわ。えいっ!」
リディは目を輝かせながら、俺を竜巻の中心に向けて投げ飛ばした。
俺は宙に投げ出されたまま力を込めて叫んだ。
「何が『えいっ!』だ、このクソ女神!!!」
灰色の渦と轟音に呑まれた数十秒後、徐々に視界が晴れてきた。水と風の音は鳥の囀りへと変わり、灰色の空は青空へと変わっていった。
どこか懐かしい香りがする。井戸から水を汲み上げる音がする。子供たちの声がする。
俺は両足を地面に付けて立っており、目の前には──ノイズに塗れた故郷の村があった。
近所のおばさん、いつも面倒を見ていた子供達……大切だった人達の顔は全て黒く塗りつぶされており、嗄れた声で俺の名前を呼び続けていた。
「なんや、これ……幻覚、か? だとしたら随分下手な幻覚やな……」
俺は偽物の故郷を睨みながら、正しい故郷を頭に思い浮かべようとした。だが、できなかった。あの故郷こそ、自分の復讐の原動力であったはずなのに、自分の家族の顔すら思い出せなかった。
俺は愕然としたまま、村を彷徨い歩いた。俺が面倒を見ていた子供たちの家がある。子供たちの母親が俺に手を振っている。「こんにちは、オズくん。今日はどこに行くの?」──そう尋ねる声は人のものとは思えない程に汚く掠れているのに、なぜか「子供たちの母親の声だ」ということははっきりわかった。
一歩足を前に出して土を踏みしめる度に、地面が黒く染まり、足場が崩れた。現在地はわからないが、ここに留まるのは危険だ。
俺が村の出口へと駆け出そうとした時、背後から声をかけられた。
「おにーさま、どこに行くのですか。おにーさま!」
その時の自分の感情を何と表現すればよいだろう。嬉しさ、虚しさ、やるせなさ、怒り──複雑に絡み合う感情全てに蓋をして、俺は後ろを振り返った。
「マオ」がいた。だが顔は他の住人と同じように黒く塗りつぶされ、声は老婆のように枯れ果てている。にもかかわらず、俺は目の前の粗末な偽物を「マオ」だと認識していた。壊れかけた記憶が、必死に砕けた欠片を拾い集めるかのように、「これがマオだ、俺の原点だ」と叫んでいる。
「おにーさま、おにーさま、明日のサーカス楽しみですね!」
偽物は無邪気にはしゃぎ回る。
「ああ、せやな……」
俺はそう呟いた瞬間に痛感する。どれほど強く望んでも、あの日々にもあの時の自分にも戻れない。優しいおにーさまは、黒く塗りつぶされた故郷と同じように汚れて消えてしまった。
そう思っていると、マオは俺の手を握って歩き出した。
「そういえば、ボクはおにーさまが学校の先生になりたがってるなんて知らなかったのです」
「そら、言わへんかったからな」
「でも、おにーさまならきっとなれるのです!おにーさまはボクの自慢の、優しくてかっこいいおにーさまなのですから!」
俺は立ち止まってマオの手を離した。進路と退路が同時に崩れ始めていた。マオは幽かな記憶と同じように崩れた進路に向けて歩いていく。俺はマオが漆黒に呑まれて消えていく様子を見つめながら呟いた。
「なれへんよ、マオ。そんな兄はもう、どこにもおらへん」
そして、俺自身も背後から闇に呑まれて消えていった。
たとえ復讐を果たしても、その先に生きる理由も護りたいものも無い。しかし、縋りたい記憶すら荒れ果てて、一体俺はどこに向かうのだろう。そう考えながら、俺は瞼を閉じた。
再び光が射し込んだ時、まずふわりと花の薫りが漂った。次に薄桃のカーテンが光を遮るように視界を覆う。
意識が戻って数十秒後、俺はようやく目の前にリディの顔があることに気がついた。俺は地面に横たわった状態だったが、なぜか頭の下にだけ何か柔らかい物がある。
「オズ、大丈夫……?」
しばらくして、俺はようやくこれは俗に言う「膝枕」の体勢になっていると気づいた。ということは、今自分の頭の下にあるものはリディの太腿だ。
どうしてこうなった。おそらく先程の渦に巻き込まれた後、リディに救出されたのだろう。よりによって神の前で意識を失い、無防備な状態を晒すことになるとは。俺は屈辱で歯ぎしりしながら、同時に心のどこかで「もう数秒だけこのままでもいいかもしれない」と思っていた。
リディの白い指先が自分の頬に忍び寄る。その瞬間、仄かな期待と雷撃のような危機感が同時に訪れた。相反する感情のぶつかり合いは、後者の勝利に終わる。「神に心を許すな。魅入られれば、囚われる」──本能の言葉に従い、俺はリディの手を振り払って飛び起きた。
「何の真似や」
「えっ。だってあなた、意識を失ったまま倒れていたのだもの。だから介抱していただけよ」
「膝枕なんて俗っぽいもの、知っとったんやな」
「ずっとヒトたちを見ていたんだもの。それくらいわかるわ。でも、ちょっとドキドキしちゃった。眠っているオズが自分の腕の中にいるの。ふふ、オズの寝顔、こんなに近くで見れるとは思わなかったわ」
リディは頬を淡い桃色に染めて、今にも吸い込まれそうな丸い瞳をこちらに向ける。確実にリディはこれまでの無機質な神ではなくなってきている。それを実感する度、俺の頭に師と仇の関係が浮かぶ。
俺はこれまでどおり、リディを自分から引き離し、冷たく罵ろうとした──が、開きかけた口からは、声にもならない掠れた息が虚しく吐き出されるだけだった。
黒く塗りつぶされた故郷の記憶がまだ頭にこびりついていた。俺が全てを失ってからの五年余り、一時も中断されることがなかった「復讐者オズ」としての芝居が、崩れかけていた。
罵ることも泣き出すこともできないまま、俺はたった一言、こう告げる。
「……あの記憶は、あれはなんや」
リディは心配そうに俺の顔を見つめたまま告げる。
「追憶の渦……呑まれた者の記憶を上映する場所よ」
「なんのつもりで、俺に過去を見せた?」
リディは俺の顔を覗き込む。おそらくその時の俺は本当に酷い表情をしていたのだろう。
「オズは……故郷が大好きだったんでしょう。そこに住む皆に会いたかったんでしょう。だから、会わせてあげようと思って……」
無垢で残酷な神は、白魚のような指で俺の目元をなぞった。まるで視えない涙を拭いているかのようだった。
「あなたは、力を得て、仇を殺して、その後何をして生きていくの? 故郷の人達に会いたいなら会わせてあげる。地上に行く場所が無ければ、全てが終わった後、ここに居てもいいのよ。そう思って連れてきたのだけど……」
人外の言葉は甘く、優しく、傷口に染みた。今のリディには確かな心が生まれていた。彼女は俺の手を握り、祈りを捧げるように瞼を閉じて囁く。
「私は、オズに幸せになってほしいの。私、どうしたらあなたが心の底から笑ってくれるのか、ずっと考えているわ。頭から、離れないの」
俺は死人のような目をしたまま、薄く微笑む。
「幸せ……か。さっき見た幸せな故郷は、村も人も空も真っ黒に塗りつぶされてたけどな」
「え……っ?」
リディは驚いて口元を抑えた。どうやらリディにとっても予想外のことだったらしい。
「そんなはず……たとえ忘れていたり、魔法的操作がされてある記憶であっても、巻き込まれた者の身体が体験した出来事ならば引き出せるはずなのに……まさか、あなたがされた人体実験のせい? 紅の力は、ヒトの記憶も破壊するのかしら……」
「ようわからんけど、計算違いがあったみたいやな。せやけど、そないなことはわりとどうでもええねん」
俺はそう言ってリディの胸倉を掴み、静かに呟いた。
「お前にヒトの心はわからへん。記憶に縋っても、失った物を取り戻しても、それは俺の『幸せ』やない。神め、よう覚えとけ。幸福はそない容易く掴めるものやない」
リディは哀しげな瞳でこちらを見つめながら尋ねる。
「……なら、なぜあなたは復讐するの」
「知るか。ただ、そうせずにはいられないからそうするだけや」
「あなたの幸せって、何なの?」
「さあ、何やろな」
「幸せを掴みたいとは、思わないの?」
自分でも意外に思うほど、その問いの答えは自然に口から出た。
「お前が思い描くような幸福なんざ、願い下げや」
「どうして……」
リディは俯き、黙り込む。蒼の瞳が涙で潤んでおり、小さな肩が弱々しく縮こまっていた。薄桃の髪が揺れて、偶然白い首筋が顕になった。この肌に爪を立てれば、鮮やかな赤い血が湧き出てくるのだろうか。想像すればするほど、喉の奥が乾いた。その瞬間、俺は思いもよらないことを口走っていた。
「……掴みたい幸福はあらへんけど、満たしたい欲ならある」
なにをいっているのだろう。俺は自分に問いかけたが、身体は既に感情も思考も無視して暴走していた。俺はリディを強く抱きしめた。リディの華奢な身体は硝子のように冷たかった。俺は小さな頭を抱き寄せて、耳元で囁く。
「俺に喜んでほしければ、お前の血を寄越せ。最初から言うとったやろ。それが俺の望みや」
「オズ……?」
リディは突然の出来事に混乱しているのか、頬を紅潮させたまま虚ろな目をしていた。ほんとうに、おれはわるいやつだな。幼い自分が心の底で冷たく呟く。だが、次第に感情も思考も状況に流されていった。
なるほど、確かに心惹かれた相手が自分の腕の中でされるがままになっている状況は気分が良い。白い頬に滑らかな髪、薄い唇。どこかに触れる度にリディは小さく震えて声を漏らすものだから、俺はついつい気分が高揚した。
欲が故郷への想いをかき消し、俺自身も過去の自分から現在の自分へと戻っていく。
思えば、この頃から俺とリディの駆け引きは「より深く惚れたほうが負け」というルールの戦いだったのだろう。今ならばあの双子も傍に居ない。俺は片手でリディの耳を塞ぎながら、もう片方の耳に囁き続けた。
「確かに幸福は容易く掴めへん。せやけど、僅かな欲を満たすことは一瞬や」
「欲……」
「そうや、惚けても無駄やで。お前にはヒトの心はわからへんけど、ヒトの欲は理解してもうた。もう無機質で完璧な神には戻れへん」
「……っ!? なんのこと……」
思わず俺は意地悪く笑い声を上げていた。世界を掌で転がすほどの力を持つ神が、自分の腕の中でヒトに堕ちていく。ヒトに惹かれ、欲を持ち、神から少女へと変化していく様が面白くて仕方がなかった。
そうして、リディを唆していけばいくほど──俺自身も、ただの復讐者から世界にとっての「悪」へと変化していったのだろう。
「お前はさっき、己の欲を吐露したやろ。『俺に幸せになってほしい』と。それが欲や」
「ち、違うわ。私はただ、手を貸してくれるヒトたちに神として……」
その時、俺はリディの顔を引き寄せて唇と唇を重ねた。リディは意外な程に抵抗しなかった。俺は舌を唇に割り込ませ、貪るように舌と舌を絡ませた。リディの足元がおぼつかなくなっても、俺は彼女を離しはしなかった。互いの唇が離れて、舌と舌の間に唾液で糸ができる。リディは頬を真っ赤に染めながらふらふらしていた。
「抵抗してもよかったんやで?」
「なに、なんなの……あ……」
リディの足がもつれたところで、すかさず両腕で身体を支えた。
「なあ、いい加減、与える一方の神様面はやめようや。俺がお前の血を欲するように、お前も俺に対して何かを望んどるはずや。これは欲と欲の取引や。さあ、言うてみ。お前は、何を望む?」
我ながら、卑怯なことをしたと思った。恋愛も、誰かに触れることの意味も知らない純真な神を、ヒトの欲望で絡め取っていく。「まあ、ここで止めるんやからまだ優しいほうやろ」──俺はほくそ笑みながら、一秒一秒、もじもじと俯いてはこちらを見上げるリディをじっと見つめていた。
「さっき、言ったとおりよ。あなたに……幸せになってほしいの。心の底から、笑ってほしいの……」
「どこまでもめでたい頭やな……」
「お願い、全てが終わった後……もう一度、私のところに来てほしいの……。一緒にあなたの幸せにを探しましょう?」
鈴の音のような声が、ささくれた自分の精神に堪らなく染みた。俺は指先でリディの肩に乗った髪を払い除ける。首筋、髪の毛、腕も脚も指も、溜息が出るほど美しかった。
「それが、お前の望みか?」
「ええ」
「かまへんで。約束する。お前が俺に血を捧げるなら、俺はお前の頼んだ仕事を果たし、望みどおりお前の下に戻ってくる」
「……約束よ。これで、」
「契約成立や」
そして、俺はリディの首筋に牙を立てた。甘く、熱い何かが喉の奥に流れ込み、全身が痺れた後に力が湧き上がってきた。まるで自分の全てが書き換えられてしまうような一瞬だった。喉の渇きが癒えれば癒えるほど、欲望は深まる。純真な女神を貶めてやりたい、支配したい、汚してやりたい。虚しさを埋める物を探し求めるかのように、俺はリディを強く抱きしめた。
そして、首筋から牙を抜き、リディを縛り付ける腕を離した時、俺はリディに残酷な願い事をした。
「ならば、リディ。全てが終わって、お前の下に戻ったら……お前が俺を殺してくれへんか。これが、俺の『幸せ』や」
俺は今も、この時のリディの悲痛な表情を忘れていない。




