第9章:第10話
少し重たい杖を抱えながらルルカは駆けた。波のように攻めてくる大人たちから必死に逃げ、ルルカは東門を目指す。行く手を塞がれた時は一度立ち止まり、お勉強の時間に習った魔法で兵達を凪払った。
手加減というものを知らなかったこともあり、兵たちは真っ赤に染まりながらバタバタ倒れていった。
ルルカは震えながら倒れた兵に近づいた。まるで石のようだった。「死んでしまったのかしら?」と恐ろしい考えがよぎった。必死でその考えを振り払い、先へ進もうと兵士に背を向けた。
突然髪の毛を強く引っ張られてバランスを崩しかけた。ルルカは驚いて杖先を後ろへ向け、無我夢中で呪文を唱えた。背後で悲鳴が聞こえ、人が倒れる音がした。髪を掴んだのは先ほど倒したはずの兵士だった。
ルルカのふわふわの長い金髪は兵士の血でべったり汚れていた。泣きだす余裕すら無く、ルルカはひたすら逃げた。
あの騎士に言われた通りに東門へと行くと、そこには気絶した兵士がたくさん転がっていた。兵士達を倒したのはあの謎の騎士だろうか。
城門は開いていて、見張りは一人も居ない。この門さえくぐればルルカは自由だ。しかし、その時懐かしい声がルルカを引き止めた。
「ルルカ、待って!」
振り返るとそこにはネビュラが居た。
「ネビュラ! よかった、無事だったのね。怪我は無い? 私、色々あって、すごく怖くて、会えてよかった。」
ネビュラは答えなかった。それまで見たことのない堅い表情でこちらを睨んでいた。よく見るとネビュラの服装は以前よりも煌びやかで質の良いものへと変わっていた。
「どうしたの?」
ネビュラはこちらを睨んだままだ。その時、ネビュラの向こう側から数人の兵士がやってきた。
「ネビュラ様! ご無事ですか!」
「この者はすぐ捕らえますのでお下がりください。」
兵士はネビュラの盾となるように前に出て、じりじりとルルカに近づいてくる。
「どうして……ネビュラ? どういう……」
ようやくネビュラは口を開いた。
「わからない? ほんと、バカなお姫様だな。ああ、もうお姫様じゃなかったか。」
氷のように冷たい言葉だった。今までの友人はルルカを鼻で笑って言った。
「父上がお前の親から王位を奪ったんだから、今じゃ俺が王子なんだよ。元王家の生き残りを逃がすわけにはいかないんだ。大人しく捕まってくれる?」
「え……そんな……何を……私達、友達……」
「友達? ほんと愉快だなあ。脳みそにお花畑あるんじゃない? 俺がお前と仲良くしてたのは、俺たちエヴァンス家がお前の両親の信頼を勝ち取るためだよ。信用させて、油断した隙にこうして王位を奪うためだよ。その為に仲良くしてやれって父上に言われてたんだ。」
頭の中が真っ白になった。ネビュラは俯きながら笑っていた。見慣れた軍服の兵士たちが一歩一歩こちらに近づいてきた。全て虚像だったのだ。ルルカが今まで信じていた人々はもう全て敵に回ってしまっていた。
無邪気なお姫様の為の楽園を支えていた父と母はもう居ない。ルルカはかつての友人を見つめた。何度叫んでもこちらを向いてはくれなかった。
裏切り者。心の底でその言葉が強い熱を帯びて湧き上がった。兵士達がじりじりこちらに近づいてきていた。
あの騎士の声が頭の中で蘇った。「あなたの為にあなたが戦わなければ、誰もあなたを守れません」と。
ルルカは震えながら杖を掲げ、ネビュラの頭に狙いを定めた。
「吹き飛べ……この裏切り者……!」
そしてルルカは呪文を唱えた。ルルカにとってそれは呪いの言葉だった。憎しみと恨みを込めた光は膨れ上がって眼前を覆っていく。兵士達はすぐに取り押さえようと駆けだしたがルルカの怒りの方が強かった。
そして怒りの刃は眼前の物を凪払っていった。兵士はネビュラを守ろうと戻った者も居れば負けじとルルカに立ち向かった者も居た。どちらにしてもルルカの魔法に凪払われたので大した問題ではない。光が消えた後、目の前は土埃で何も見えなくなっていた。
ルルカは無言で土埃に背を向けて城門をくぐっていった。
自分の息の音だけが頭の中を駆けた。涙も声も枯れ果てて、ルルカはただひたすら目の前の道を走っていた。しかししばらくして息が苦しくなってルルカは立ち止まった。息切れしながら顔を上げると遠くに城下街が見えた。
「逃げなければ」と再び走り出そうとした時、なぜか背中の方が重く感じた。
ルルカは自分のふわふわの長い髪の毛を触ってみて、髪の毛に血がべったりとついていることに気づいた。
これでは街に入れない。ルルカはあの騎士にもらった短剣を取り出した。刃に映った自分の顔に数日前の夢はなかった。
ルルカは短剣で長い髪を切り落とした。何か憑き物が落ちたように頭が軽くなった。
「もう、お姫様じゃない……」
そう呟いて、ルルカは切り落とした髪を道端に捨てた。
その後の逃亡生活は決して楽なものではなかった。旅先で出会った人はよくルルカに食料を分けたり泊まる場所を紹介してくれた。
そしてその人達が食料と一緒に兵士を連れてきた回数も数え切れなかった。その度に「嘘つき、裏切り者」と恨みながらルルカは逃げるのだった。その度にネビュラの姿が浮かぶのだった。
信じてもいい、そんな人が捜せば誰か居るのではないかと何度も期待して昔の知り合いの家を回った。しかしその度に期待は裏切られた。
初めは裏切られる度に泣いていた。少しして、裏切られないようにすればいいと考えた。最終的に、そもそも信用しなければいいのだと思った。
少しずつ「逃げ方」も覚えてきた。お姫様だった頃習った弓矢の技を活かし、行く手を阻む者は誰だって殺した。
そうしてかつての無邪気なお姫様の面影は失せ、今のルルカになったのだった。
◇ ◇ ◇
見えているのに何も見てない、聞こえているのに何も聞いてない、そんな時間が延々と続いた。
部屋の中は明かりもついてなくて薄暗かった。開け放されたままの窓のカーテンだけが時の流れを告げていた。
ルルカは自分の部屋の隅でうずくまっていた。自分以外誰も居ないこの部屋は、ルルカを責めることも慰めることもしてくれなかった。ルルカは何度も、何度も、脱獄したあの日のことを頭の中で再生し続けた。
その度に、ネビュラへの憎しみが強くなっていくのだった。ルルカの手足が震えた。まだあの日起こったことが怖くて仕方がないのだ。
ルルカは必死で震えを止めようとする。「弱いわ」と、誰も居ない部屋の隅で呟いた。
ルルカは杖を手に取った。銀の柄に青い宝石の杖。今日までルルカの武器として、常にルルカの傍に居た杖である。
これを渡すなんて――
「できるわけないよね?」
誰かの声がした。ルルカは思わず震え上がった。ルルカは立ち上がって、杖を構えて辺りを見回す。しかし部屋にはルルカ以外誰も居ない。当然だ。ルルカはずっとこの部屋で独りだったのだから。
しかし先ほどの声が頭の中でガンガン響いた。その声の主を引きずり出し、追い出さなければ気が済まなかった。
その時、テーブルの上に何か置いてあることに気づいた。近寄ってみると、そこには一通の手紙があった。
ルルカは背筋が震えた。ルルカはこんな物を置いていない。一体誰が置いたというのだろう。おそるおそるルルカは封筒を開けた。出てきた手紙にはこう書いてあった。
『30秒後に窓の外を見ろ』
いつ、誰が、この部屋に入り、こんな手紙を置いたというのだろうか。この部屋には鼠一匹入れた覚えは無いというのに、手の中の手紙は確かにそこにあった。
ルルカは窓を見た。カーテンがふわふわと揺れていた。26……25……と、無意識に数を数えながらルルカは窓の方へと向かっていた。
ちょうど陽が沈む時間帯だった。太陽が地平線に光の筋を描いて消えていく。宿の前には誰も居なく、風の音だけが聞こえていた。
ちょうど30秒経った時である。宿の前に人が現れたのだ。ルルカの心臓がドクドクと音をたてた。
現れたのはネビュラだったのだ。ネビュラはキョロキョロと辺りを見回しながら宿屋に近づいてきた。
「なぜここに」――苛立ちと恐怖がルルカを支配した。なぜこの宿屋の場所がわかったのだろう。何をしに来たのだろう。
今すぐ消えてもらいたい。沸き立つ感情がルルカの手をじわじわ動かしていく。まだネビュラはこちらに気づいていなかった。ルルカは杖を弓に変えた。矢を取り、構え、狙いを定める。確実に、一撃で、仕留められるように。
今ならできる。今なら恨みを晴らせる。狙いはネビュラの頭だった。どこかで誰かが呟いたような気がした。
「やっちゃえ。」
ルルカは矢を放った。矢は寄り道せず目標へ突き進む。風を切り、ひたすら進んだ。そして目標を抉り散らそうとしたその時だ。紅蓮の魔法陣と共に光の盾が現れて矢の行く手を塞いだ。
矢はあっけなく弾かれ、盾の向こうのネビュラは硬直したままこちらを凝視していた。
ルルカはハッと我に帰った。失敗した。
盾を出したのはネビュラではなかった。ネビュラから少し離れたところで誰かが杖を構えていた。
それが誰か、わかった時の衝撃は思いの外大きかった。ゼオンの炎のような瞳がこちらを捉えていた。
ゼオンは息を切らしながらルルカに言った。
「おい……どういうことだ。お前、何をしているんだ。」
ルルカは弓を下ろした。それはむしろ、ルルカがゼオンに言いたい言葉だった。




