第14章:第13話
クソ師匠は「所長」という立場の癖に、所長らしい施設管理や人員の統制などまるでしないクソ野郎だった。そもそも人とまともに会話が成立しないのだから、「所長」という役職が務まるはずもない。
なので俺がアディの弟子にされたということが施設中に広まると、施設中の現状や問題に関する報告が俺のところに回ってくるようになった。
最初は研究員の中には「なぜ被験体如きが所長の弟子に」という反発もあった。だが暫くすると「会話が通じる人が所長の傍についた」という喜びに変わったようだった。残虐非道の人体実験施設とはいえ、これには俺も多少同情する。
その日も魔物の数が増えすぎて管理しきれないという報告が上がっており、飼育小屋に俺が行かされた。
一通り話を聞き、俺からアディに他の機関に受け入れてもらうよう提案することで話がまとまった。その帰り、俺は階段の手すりに寄りかかってうなだれた。
「疲れる……」
そう呟いた時、アディの研究室の目の前で一組の男女が話しているのが見えた。男の側はアディの弟子にされるきっかけを作ったぼさぼさ頭の研究員。名前はヴェルデというらしい。女の側は零れそうな程に豊満な胸を持つ金髪の女性だった。
ヴェルデは目のやり場に困っているようだった。
「いや、いや、ちょっと、そういうの困るから!」
「あら、こういう姿はお好みじゃなかったかしら。それとも両腕に収まりそうな幼子が好み?」
そう言うと、女性は突然光に包まれて十歳程の幼女に変化した。だが、胸だけは何故か大きいままだった。
「どんな姿でも、あなたの望みどおりにしてあげる。だからほんの少し、私の退屈を紛らわせてくれない?」
そう言って、幼女の姿に似合わない妖艶な手付きでヴェルデの顎を撫でた──ちょうどその時に、俺は幼女の頭をチョップした。
「おいメディ、何しとんねん」
「あら、残念。モルモットのお通りみたいね」
記念すべき本日初の「殺す」を心の中で十回程呟いていると、その間にメディは普段の桃色の髪に紅の瞳の少女の姿に戻った。
「男女問わず誑かして虜にする夢魔みたいな奴が居るってあちこちで噂になっとるんやけど?」
「あら、鼠如きが私を咎めようっていうの? そう言われると泣かせたくなっちゃうわね」
俺とメディが睨み合っている間に、研究員ヴェルデは俺に縋り付いていた。
「うええ、助かったよ!」
「生徒の前で巨乳の金髪美女にグラッときとるたぁ、情けない先生やなあ」
「ち、ち、ち、違うからね!? 別に巨乳がいいとか思ってないからね!」
俺はメディの背後にアディの研究室の入り口があるのを見て、事情を大体察した。つまり、今日もだいたいいつもどおりの流れでメディは部屋を出てきたのだろう。
俺はメディに言った。
「おい、ちょいと話付き合うてくれへん?」
屋上は、施設内よりも空が広く見えた。春先だからなのか、時折薄桃の花弁が舞い上がっては落ちていく。
俺は西を、メディは東を向いたまま、顔を合わせることは無かった。
「あいつの気を引きたいんやったら、その姿は止めた方が賢明やと思うんやけど。毛皮モフモフの獣の姿にでもなれば多分イチコロやで」
「あいつ」とは、勿論アディのことだ。すると、メディは鼻で嘲笑った。
「私があいつなんかの為にこの姿でいるとでも思ったわけ? んなわけないでしょ、私は自分でこの姿を選んでるのよ」
「なんや、その姿にこだわりでも?」
「さあ、モルモットに話すようなことではないわ」
一々癪に触る言い回しをする奴だ。顔は陶器人形のように美しいのに、顔以外の全てがそれを台無しにしていた。
「……なんでよりにもよってあいつなん? ヒトにちょっかいかけるにしても、もうちょいマシな奴探せばいくらでも居るやろ」
俺はそう忠告すると、メディは俺の顔を覗き込んで怪しく微笑んだ。
「あら、そんな話が聞きたくて呼び出したわけ?」
気がつくとメディは俺のすぐ隣に居た。さり気なく手と手を重ねて、指を艶めかしく絡ませてきた。
「私の話が聞きたいなら、陽が昇るまでたっぷり聞かせてあげるわ、ほら……」
そう耳元で囁かれた途端、頭に靄がかかったように意識が薄れ、一瞬、グラリと倒れそうになった。これは呪詛か、少なくとも何らかの魔法にかけられようとしている。俺は咄嗟に手を振り払って距離を取った。容易く獲物が捕まらなかったところを見て、メディは楽しそうに嗤った。
「なるほど、師弟揃って似たもの同士ってわけ」
「……女神の癖に下品な真似するんやな。このクソビッチ。神にそないな下劣なこと楽しむような感覚あるん?」
「無いわよ。でも、ヒトってああやってヒトを愛するのでしょう?」
その時のメディのさり気ない一言は俺に強烈な違和感を残していった。ヒトを「鼠」と見下す癖にヒトの姿を取り、ヒトを真似る矛盾した行動を取る。けれど、ヒトに拘っている限り、アディは決してこの少女の姿をしたメディに関心を持つことは無いのだろう。
「お前、それだけがヒトの愛し方やと思っとるんやったら、そら致命的すぎる間違いやで……」
「さあ、間違いでも正しくても構わないわ。報復の一種として捉えただけよ」
「報復て……そらもっと間違いやわ。そもそも他の連中ならともかく、あいつはまっとうなヒトの内に含めない方がええと思うんやけど」
「だからよ。私は、下等で脆弱なヒトの癖に私の思い通りにならなかったあいつが憎くて仕方ないの。その報復がしてやりたいの。つまらない愛憎一つでピーチクパーチク喚いて、自分の指先みたいに踊るような愚かなヒトに堕としてやりたいのよ」
俺はさすがに頭を抱えた。個人の力としては世界最強と謳われる破壊の女神であるはずなのに、これほど勝ち目の無い挑戦は後にも先にも無いだろう。それほどに、たとえどのような誘惑やら事件やらが起きようともアディは絶対に変わらないだろうという謎の確信があった。
メディは眉間に皺を寄せ、歯を食いしばりながら憎悪を込めて語る。
「鼠にはわからないでしょうけどね、『神』はヒトにとっての万能でなければならないの。世界を一つの生物に例えるとしたら、世界樹は心臓で、ヒトは無様に増え続ける癌細胞、そして神は癌から世界を守る抗体のようなもの。だから、制御できない癌があってはいけないのよ」
俺は急にこの破壊の神が哀れに思えてきた。俺はメディの想いと行動の理由を本当に単純な一言で言い表せるのに、当の本人は途方も無い矛盾した思考と行動を重ねている上に肝心な一言だけは絶対に口にしようとしなかった。
メディは青空に向けて恨みを語った。
「あいつのせいで私は万能じゃなくなった。あいつさえ現れなければ私は完璧で居られたのに。赦さないわ、アディ」
赦さない。その言葉を聞いた時、今度は俺の頭に魔が宿った。この女神を哀れだと思いながら、同時に心の何処かでほくそ笑んでいた。この関係は「使える」と。
「あいつが居なければと思うんやったら、さっさと殺した方がシンプルでええんやないか? お前の行動は矛盾しすぎやねん。あいつを『赦さない』と言う癖に……自分であいつの寿命を伸ばしとるんやから」
故郷でアディと出会った時から現在まで、あいつは歳を取っていない。神ではないただのヒトであるはずなのにそれは何故なのか。神の魔術を扱えるようになってしばらく経った頃に、俺はその理由に気づいた。
「あいつの仮面の下にあるもの、あれ、お前の仕業やろ」
「あら、出来の良いモルモットであるのは間違いないようね。ちょっとブラン聖堂のお土産を分けてあげただけよ」
アディの仮面の下はまだ見たことが無かった。だが、仮面の下に何らかの魔力源があり、それが老化を抑えて無限に近い命を与えていることは伝わってきていた。
「あいつの存在が赦せへんのやったら、命を延ばすのは矛盾やろ。あれの影響、命だけやなくて精神にも及んでるかもしれへんで」
「あら、だってあいつを負かす前に死なれたら勝ち逃げじゃないの」
「……めんどくさい奴やなあ」
「面倒なことをしているのはあなたも同じよ」
会話に気を取られた一瞬の好きに陶器のような指が頬へと滑り込んだ。頬骨から耳にかけて、指で触れながらメディは囁く。
「あなたも、何か企んでいるのでしょう?」
「さあな」
「ふふ、素直じゃないわ。応援してあげると言っているの。あいつについて私から情報を引き出したいのなら、折角なら私達もっと仲良くしましょ。……ねえ?」
青空に赤味が差し、陽が落ち始めた。メディの手が自分の腰から背へと回る。もう片方の手の指は耳から胸へと下ろされ、こちらの心臓に向けて蠱惑的に囁いた。
「夜が来るわ。あなたが教えてほしいことは何でも教えてあげる。あなたの望む姿で導いてあげる。あなたの望む全てを与えてあげる。私を好きなように利用すればいいわ。私もそうするから。うふふ……ねえ、オズ。仲良くしましょう?」
それが甘い毒の言葉であることは勿論気づいていた。だが相手が毒であるのならば、それを上回る程の毒物になって、皆殺してしまえばいいとその頃の俺は本気でそう思っていた。
メディはぴったりとこちらにくっつき、妖艶に微笑む。お互い愛情など全く無かった。少なくとも、俺はアディとメディの二人に如何にして最大の絶望を与えてやるかしか考えていなかった。
先程、俺はメディに「愛情というものを致命的に間違えている」と言ったが、後から考えてみるとあまり他人のことは言えなかったかもしれない。
俺が感情を偽り、自分を切り売りしていくことへの躊躇いを失くしたのはこの頃からだろう。
「構へんけど」
「ふふ、じゃあ交渉成立ね」
メディは俺の顔を引き寄せて、唇を近づけた。そういえば、まっとうな恋愛ってしたことなかったな。他人事のようにそう思いながら、「別に、まあ、いいか」とその感情も道具にすることを受け入れた。
だが唇が触れる直前に、メディはその唇の前に人差し指を立ててからかった。
「ざぁんねん、冗談よ」
メディは猫のように素早く俺から離れていった。俺は餌を寸前で取り上げられた犬のように怨めしくメディを睨んだ。
「あなたに手は出すなと言われちゃったものね。でもその死人みたいな目、面白かったわ」
「そんな言いつけを律儀に守るたぁ、やっぱお前、色々間違えとるわ」
「ふん、やっぱり、止めておいて正解だったみたいね」
メディは突然外見に似合わない腕力で俺の首を締めた。息ができなくなる。苦しい。それを見て、メディは醜悪に嗤っていた。
「だってあなたに手を出したら、弾みでついうっかり殺してしまいそうなんだもの」
意識が途切れる寸前でメディは手を離し、それこそ猫のように気まぐれにその場から立ち去ってしまった。
俺は咳き込みながら、「女心とは、怪物だと思った方がいい」と学んだ。
何が彼女の気に障ったのかは結局わからなかったが、そもそもこの話に至る前から、俺はメディに随分嫌われていたようだった。
今日は疲れた。首を締められた跡が気になって、爪で掻きながら俺は研究室に戻った。
「遅かったな」
クソ師匠は呑気に魔物エルメスをモフモフと撫でていた。今すぐ首を締めてやりたくなった。
アディに魔物小屋からの報告を突きつけようとした時、自分の机に見慣れない布袋が置いてあることに気づいた。開けてみると、中から金貨と銀貨が数枚出てきた。
「……なんやこれ。なんやこの金額」
「給与、というらしい。お前の分だ」
今日は本当に疲れる日だ。明日は霰が降るかもしれない。数秒黙り込んでから、俺は恐る恐る尋ねた。
「生活に必要なもんは施設の金で出してもろてるんやけど、手違いやないか?」
「知らん、違う。『給与』というらしい」
「所長が自分で考えたことやないやろ。誰の入れ知恵や」
「わからん。顔も名前も思い出せん。頭髪がモフモフのようで愉快だったことだけ覚えている」
恐らく、あのぼさぼさ頭の研究者ヴェルデだ。
「なんて言われたん?」
「お前に『働きに見合った給与を与えてはどうか』と。全く興味無い発想だったが、そういえばお前は魔物小屋の衛生管理にも貢献しているようだったので、研究の成功とモフモフの安寧を願って少しばかり与えておくことにした」
アディは益々首を締めたくなるようなことしか言わなかった。それはそれとして、給与はありがたく受け取っておこうと袋に手を伸ばし──昼間のヴェルデとメディのやり取りについて思い出す。メディはあのようなことを他の研究員にも、施設外でも続けているのだろう。数度、施設外でメディの被害に遭った者の噂を聞いたことがあった。被害者は魔術で記憶を破壊された上に洗脳され、虚ろな目をしながらメディを崇拝する廃人に成り果てたらしい。
「そういや昼間、メディが来てたやろ。何の用やったん?」
「さあ、知らん。いつもどおりだった」
「まあ、せやろな」
「丁度、お前の給与を袋に入れていたところにやってきた。先程の頭髪が愉快な男について名前を知っているか尋ねたところ、『さあ? 抱いたり抱かれたりした相手の名前も覚えてないのに、そんなの知るわけないじゃない』と言って出ていった。本日の滞在時間は普段より短かった」
俺はまた眉間を梅干しのように皺だらけにした。呆れて物も言えなかった。俺はメディに締められた首を指でなぞりながら、念の為こう尋ねた。
「なあ、その『抱いたり抱かれたり』の意味……わかってて言っとる?」
するとアディはきょとんとした顔をして、魔物エルメスをモフモフと抱きかかえた。
「こういうことだろう?」
こりゃ駄目だと思った。二人の関係はあまりにも歪んでいた。
一日の仕事を終えて、エルメスに餌をあげている時に俺はふとアディに尋ねてみた。
「なあ、所長とメディってどういう経緯で一緒に居るん?」
「一緒に居るわけではない。あいつが頻繁に押しかけてくるだけだ」
「……まあ、そこんとこはどっちでもええんやけど、いつ、どうして出会って、こうして頻繁に押しかけるようになったん?」
するとアディは作業の手を止めて地図を取り出した。
「お前、ブランの場所はわかるか」
「行ったことはあらへんけど、名前くらいは知っとる」
地図を広げて、アディはブランの場所を指す。まだ世界がウィゼート、エンディルス、デーヴィアの三国に分かれる前の時代、ブランは神を祀る神秘の地と言われていた。だが、それは俺が生まれるより更に昔の話だ。俺の少年時代、リディとメディの戦争が勃発していた頃、ブランは戦乱に巻き込まれていた。
「メディとはブランの付近で出会った。ブラン周辺の鉱物調査の最中だった」
「戦乱真っ只中の危険地域やないか。いつもボーッとしとる所長がよく帰ってこれたな?」
「いや、あの頃はまだ神の戦いは起こっていなかった。戦乱が起こったのは俺がメディと出会った後だ」
俺は暫く考え込む。嫌な予感がする。アディがメディに与えた影響は少なくないはずだ。
アディは続けて机の上にある小瓶を手に取った。蒼く輝く鉱石。その石からは神の魔術に近い力を感じた。
「この石の調査の最中だった。私はメディに突然背後からボコボコにされた」
「初対面で?」
「初対面で」
俺は苦笑いした。アディも大概だが、メディの思考も常人には理解できないところがある。
「そういえば、初めてあいつと出会った時はヒトの姿ではなかったな。大変美しく興味深い姿だったのだが……なぜかすぐにヒトの姿になってしまった」
アディは現在目の前で起こったことのように深く落胆していた。
「それから、白い髪は珍しいだの眼の色が少しリディと似てるだの、色んなことを言われたような気がするがよく覚えていない」
まるで想い出を語るというよりかは初めて見る書物を朗読するような話し方だった。きっと同じ記憶でもメディに語らせると、恨みつらみをたっぷり込めて感情豊かに語るのだろう。ここに来て仇を観察するようになってから俺はずっと違和感を感じていた。神がメディで人がアディであるはずなのに、メディの方がアディより余程人間味があった。
「ああ、そういえば、『アディリシオ』という名前はあいつに貰ったものだったな」
「……なんで名前なんて貰うねん。それ偽名やったんか。せやったら本名は?」
「知らん、興味無いので忘れた。」
何処の世界に「興味無い」などという理由で自分の名前を忘れる輩が居るというのだろう。
「名など忘れたと言ったら、あいつが寄越してきた名が『アディリシオ』だ。私自身は名など無くても構わないのだが、ヒトは頻繁に個の識別を求めるからな。役には立っている」
「なんやかんやで、貰った名前を使っとるんやな」
「神から貰った名だ。無下にするわけにはいかんだろう。それに私にとっては自分とあの美しい翼を繋ぐきっかけだったからな」
やはり、アディはメディを『神』としてしか見ていない。俺はメディの一言一言を思い返して溜息をつく。神が人の真似事をしようと知ったことではないが、何度見ても相手が悪かったとしか思えなかった。
「あいつが頻繁に付いて来るようになったのはそれからだったな。氷菓子を買えだの服を買えだの興味の無いことばかり言ってきたが……ああ、夕焼けだけは悪くなかったな。ヴィオレの港に強制的に連れて行かれたが、あの時の夕日は美しかった」
人ではなく神なので、メディとの記憶は他の人物との想い出よりも深くアディの記憶に残っているようだった。しかし、神として惹かれているので、決して神は人として見てはもらえない。
「あいつと出会って、神について研究しているうちに、神に興味を持った者が集まってきた。そこで、このような研究所を創って研究を始めた。あいつが創造の女神と戦争を始めたのもたしかその頃だ。そこから、神に関する情報も頻繁に入るようになり、天使や悪魔などの新たな種族も生まれた。時々あいつが拷問を終えた捕虜を押し付けに来たこともあったが……まあ、結果的に研究が捗った」
メディとのすれ違いも、戦乱の記憶も、アディは全て機械のように淡々と語る。その内容からは様々なことが推測できたが、俺はそれを語ることなく胸の内に仕舞い込んだ。
「オズ、これで質問の回答として適切か」
「……大体は。それと、もうちょい聞きたいことがあるんやけど」
俺は仮面で隠れた右眼を指した。
「その仮面の下、何があるん?」
これは、ちょっとした賭けだった。おそらく仮面の下にあるものは、アディの研究、不老不死の理由、扱う魔法、全てに関わる切り札だろう。なので、この質問に相手が答えない可能性も大いにあり得た。アディの仮面の下からは、メディの魔力とは真逆と思われる力の気配を感じた。
「ああ、これか。メディからの貰い物だ。ブラン聖堂で取れる鉱石だそうだ」
そう言うと、アディは自分の仮面を外した。その下にあるものを見て、俺も流石に多少動揺した。本来眼球があるべき場所に眼球が無かった。代わりに蒼く輝く鉱石が眼球が存在すべき孔から生え、右目周辺の皮膚を侵食していた。
俺はこれまでの出来事を思い返してみる。故郷が滅んだ時の行動からアディも優れた魔法の使い手であることはわかっている。そして、戦乱が起こる以前から現在まで……アディはかなりの永い年月を生きてきたことがわかっている。その全ての原因がその蒼い鉱石にあるのだということは一目でわかった。
「お、ま……なんでそないなことに」
「ある日突然メディに右目を抉られた。代わりにこの石を埋め込まれた。それだけだ」
自分の身体の一部を奪われても尚、アディは淡々と語り続ける。俺はこれまで憎み続けてきた仇が、ここにきて突然恐ろしい怪物に見えた。
「いや、いやいや……どう見てもそれだけで済ませられる状態やないやろ。それ、痛くないんか?」
「知らん、興味無い。恐らく、痛覚は死んでいる」
「お前は……そないなことをされても、あいつを恨まなかったんか?」
「質問の意味が不明瞭だ。なぜ恨む必要がある?」
「……必要なんて問題やないやろ。他人に危害を加えられたら、誰だって悲しむか、怒る。内に貯め込むか外に吐き出すかの差はあるやろけど、何らかの形で受け止めるのがヒトの……いや、生物の生存本能やろ」
アディは暫く沈黙して考え込んだ。俺はその沈黙自体にゾッとした。その先に続く答えが想像できてしまったからだ。
「確かに、生物が己の身体の状態を意識するのは自然なことだ。その一部分が欠損するようなことがあれば、その事態に対応していくのは自然な現象だ。だが……」
それでも、この男は、こう言うのだった。
「知らん、興味無い。私がどうなろうとどうでもいいことだ。故に、憎悪という現象は起こり得ない」
きっと、あいつは恨んでくれた方が救われただろう。アディはどこまでも、人でありながら人外のような精神のまま在り続けるのだった。
俺は屋上から去っていくメディのことを思い出しながら、もう一度、アディの顔を蝕む鉱石を見つめた。
「なあ。その石でそこまでの強い力を得られたんやったら……自分が神になろうとは思わなかったんか?」
そこで、初めてアディは憂いを見せた。
「私なんかが神になって、何が面白いんだ?」
「少なくとも強くはなれるやろ。神にも、世界にも、何も奪われずに済む」
「しかし、美しくないだろう」
アディにとっての「美しいもの」とはヒトではないもの全てだ。鏡を覗き込みながら、鉱石に蝕まれていない左半分の顔を隠して仇は呟いた。
「強くても、死ななくても……美しくなければ意味が無い。いつか、お前にも理解できる時が来ることを願っている」
そう言うと、アディは戸棚から消毒液と綿を取り出して俺の目の前に置いた。それからアディは俺の首を指した。鏡で確認すると、メディに首を締められた箇所が小さく傷になっていた。恐らく爪か何かが引っかかったのだろう。
俺は黙って傷の手当をした。その間に、アディはエルメスを連れて出ていった。
消毒液が傷に沁みた。痛かった。




