第14章:第9話
歯車が回る音、真紅のカーテンが風に揺れ、黄金の薔薇の花弁が舞う。誰かの記録というよりは、一つの演劇を見せられているようだった。
キラは歯車や薔薇やガラスの破片と共に何処かへ落下している最中だった。最初は驚いたが、「これもブラン聖堂で見たセイラの過去と同じ仕組みのはず」と言い聞かせて自分を落ち着かせた。
そんな最中、突然オズの記録書がキラの周囲を飛び回り、セイラの声で話し始めた。
『さて、紳士淑女の皆様方……なんて格好つけた文句は非効率的ですね。この術式を発動させた時点で演目は理解しているでしょうが、これはオズさんの過去の物語です。まあ、あの最低最悪の屑が出ずっぱりの演目なんて視界に入れるだけで目が穢れるでしょうけども、これも全て皆さんを馬車馬のようにこき使ってイオを取り戻す為の手ですので、せいぜいあの屑の闇堕ちを堪能して己の目を潰してくださいねぇ、クスクスクス……』
セイラ特有の過剰なまでの毒吐きだ。なんだか懐かしい気分になる。言葉は呆れる程に毒に塗れているが、これは確かにセイラが残した希望なのだと感じられた。
キラが安心した時、突然視界にノイズが走った。周囲が突然黒いバツ印で塗りつぶされていく。司会進行役の記録書も例外ではなく、黒いバツ印に纏わりつかれた末に、落下していってしまった。
「せ、セイラ!?」
キラが思わず叫んだ瞬間、視界は暗闇に覆われて、
────舞台は、幕を上げた。
瞼を開くと、そこにはロアルとは違った村の景色が広がっていた。キラ達が住むロアルは森に囲まれた地域だが、こちらは山に囲まれていた。
キラはぐるりと周囲を見回す。ぽつりぽつりと集落がある。遠くに池がある。人影もある。しかし、ゼオン達の姿が無かった。
「ゼオン? ティーナ、ルルカ? 居ないの?」
これまでの記録、あるいは記憶再生は全て同行したゼオン達が傍に居てくれたが、今回はゼオン達が居ない。何処かに飛ばされたか、それとも一人ずつ記録を見せられるパターンもあるのか。
キラがおろおろとしていた時、
「おにーさま、おにーさま!」
無邪気な少女の声が聞こえた。声がした方を向くと、一組の兄妹が居た。……多分、兄妹だと思う。
妹はふわふわの長い髪を二つに結んでおり、ビー玉のような澄んだ瞳が可愛らしい少女だった。兄は十四歳程、思わず魅入ってしまいそうな綺麗な顔立ちの少年だった。二人の髪は菫の花のような紫、瞳はエメラルドのような緑色。そして兄の方の顔を見た時、キラは自分がよく知るあの人物と似ていると感じた。
それは勿論オズだ。しかし、だとしたら一つ奇妙な点がある。オズの瞳は真紅色だったはずだ。よく似た別人かな……そう考えた時、妹らしき少女が目を輝かせながら言った。
「お話、すごーく面白かったのです! おにーさまと同じ名前の絵本があるなんて、ボク吃驚なのです!」
よく見ると、兄妹は生垣に座って絵本の読み聞かせをしていたところのようだった。兄の腕の中にある絵本のタイトルは「オズの魔法使い」だった。
先程、妹は「おにーさまと同じ名前」と言っていた。だとしたら、ほら、やっぱりこの兄がオズだ。
オズって妹が居たんだ。この村はオズが生まれ育った村なのかな。様々なことを考えながらキラが二人の様子を見守っていると、少年姿のオズが口を開いた。
「楽しめたようならよかった。しかし、この悪い魔法使いと同じ名前ってのも失礼な話だよなあ……」
ん? オズの喋り方にキラは首を傾げた。
「オズおにーさまは、優しくてかっこよくて、いいおにーさまなのです! でも、『ほなドロシー共、俺の代わりにせいぜい頑張って東の魔女を倒してくるんやでー!』って言うオズの魔法使いさんもおもしろいのです! ボクはどっちも好きなのです!」
妹さん、絵本の魔法使いと自分のお兄さん間違えてない?
「そりゃどうも。んで、マオ。これが明日のサーカスの演目なのか?」
「そうなのです。よしゅーふくしゅーは大事、なのです!」
「そいつはそうだな、間違いねえや。けどな、サーカスだけじゃなくて学校の復習もちゃんとやらないと、突然竜巻がやってきて悪い魔法使いの国に飛ばされるぞ」
「ふにゃー!」
そう言って、オズはマオという妹の頬を引っ張ったり、頭を撫でたりして戯れ始めた。
キラは唖然としていた。なんだその普通の喋り方は。なんで妹の面倒を見るような優しいお兄さんしてるの? どうせあれでしょ、全部芝居で後から地獄に叩き落とすんでしょ。あたしは詳しいんだぞ。
しかし、その後もオズに妹を泣かせたり悲しませたりする素振りは全く無かった。
「ところで、明日のサーカスは誰と行くんだ」
「リオンとー、クロウと、ティーチと、あとー……」
「おいおい、大所帯だな。で、大人は?」
すると、マオは突然黙り込んで俯いた。オズはすぐに事情を察したようだった。
「居ないのか。サーカスはあれだろ、山を越えた先の町でやるんだろ。マオみたいな小さな子供だけで行っていいわけがないだろ」
「で、でも、明日は大人はみんな、その……お祭の準備で忙しいのです。だから、誰もついて行けないのです。だから、その、子供だけでこっそり行こうと……」
「馬鹿。山には危険な魔物も沢山居るんだろ。危ないじゃないか」
「あう……」
マオは泣きそうな顔でしゃがみ込んでしまった。オズは蹲る妹を見て、やれやれと頭を掻きながら立ち上がった。
「しょうがないな。俺がついていってやるよ」
マオの瞳が輝きを取り戻した。オズはマオにそっと手を差し伸べた。
「そうとなりゃ、まずはお前の友達の親御さん達に事情を説明しに行こう。大丈夫、俺は魔物退治もわりと慣れてるし、俺がついていくって言えばきっと許してくれるさ」
マオは頬を染めてもじもじと恥ずかしそうに俯き、それからオズの手を取って立ち上がった。
「はいなのです、おにーさま! 本当に本当に、ありがとうなのです!」
キラは急に自分が置いてきぼりにされたような気分になった。この時代のオズはキラが知るオズとは正反対だった。優しく、善良で、気が利いて、家族想い、妙な関西弁は喋らない。キラは現在とのギャップの大きさに衝撃を受けて硬直していた。
現在と何より違う点は近所からの評判だ。オズとマオが手を繋いで友達の母親達に話をしに行くと、皆口々にオズを褒め称えた。
「まあまあ、オズ君が居るなら心強いわ。うちの子をよろしくね!」
キラの村でこんな評判聞いたことがない。なにそれ。
「オズ君は本当に立派よねえ。頭脳明晰、才色兼備。その上優しくて面倒見も良いなんて、もう非の打ち所が無い完璧超人じゃない。聞いたわよう、首都の学校に推薦の話が出ているんですって? うちの子にもその才能を少しでも分けてほしいわ」
なにそれ。そんなオズ知らないんだけど。
「マオちゃんが羨ましいわあ。こんなに完璧でかっこよくて優しいお兄さんが居るなんて」
「はい、おにーさまはとっても優しいのです!」
知らねー! そんなオズ知らねー! 誰だそれ!
「それにしてもオズ君、面倒かけちゃって申し訳無いわね。ちょっと、その……明日は皆どうしても子供達を見ていてあげられないから。年頃の男の子には子供達のお守りなんて面倒なだけでしょう?」
すると、オズは妹の頭を撫でながら爽やかに微笑んだ。
「いえ、そんなことはありませんよ。むしろ俺はこうやって子供の面倒を見るのが性に合ってるみたいです。妹や、お宅のお子さん達が楽しそうに遊んでいる様子を見守るのはとても楽しいです」
今にも白薔薇の花弁が舞い散りそうな笑顔だった。マオと夫人が熱の籠もった眼差しでオズを見つめている十数歩後ろでキラはあんぐりと口を開けていた。
誰だこれ。だれこれ、だれ。オズは面倒臭そうな素振りなど全く見せなかったし、妹のマオの態度からしても、全て素で言っているのだろう。勿論、いつものようにキラが紳士的な振る舞いに騙されている可能性もあるのだが、それにしては一つ一つの言動に生っぽい感触があった。
「オズ君ってば、今でもこんなにしっかりしているのに、将来はどうなっちゃうのかしら。頭も良いし、偉いお医者様とかになってたりしてね」
「はは、俺は多分医者には向かないですよ」
「そう? じゃあオズ君は将来の夢って何?」
「そうだな、学校の先生にでもなろうかな。こうやって、ちび達の面倒を見るのは好きだし」
その一言で、キラはオズと小悪魔達の日常を思い出した。優しく、誠実で、紳士的。目の前の少年はキラが知るオズのイメージとかけ離れていたが、ただ一点、子供のような小さくか弱く無邪気な生き物をいつも見守っている点だけは同じだった。
妹と手を繋いで帰るオズを、キラは複雑な想いで見守った。陽が沈もうとしていた。昼と夜の境目だからこそ、太陽は鮮やかに輝く。夜など来なければ良いのに。そう願わずにはいられないほどに。
舞台が暗転した数分後に翌朝が来た。
オズの家の周りには早速子供達が集まっていた。オズは両親とサーカスに行く旨を話していた。厳格そうな父とおおらかな母、どちらも兄妹を深く愛しているようだった。
「山道は危ないからね、ちゃんとマオや皆から目を離さないようにね」
「わかってる、気をつけるよ」
「サーカスの入場料はちゃんと持ってるね? 予備に少し多めに持っていくんだよ」
「大丈夫、ちゃんと持ってるよ」
その後、オズの父親はこのようなことを呟いた。
「わかってると思うが、街に着いたら吸血鬼とは知られないように気をつけなさい」
「……そうだな。皆にも言い聞かせておくよ」
オズと家族とのやりとりはキラにとってかなり衝撃的だった。というのも、ゼオンといいティーナといい、これまでの仲間たちは家族に恵まれない人が多かった。しかしオズの場合は真逆だった。両親とも妹とも確かな絆があり、互いを想い合っている。
初めは「一見、オズが一番考えが読めない人なのに意外だな」と思っていた。しかし、次第にキラはこの暖かな家族の様子に何か不気味さを覚えるようになっていった。理由はわからない。だが、このような村と家族の関係を何処かで見たような気がした。
その時、
『妹も、父も母も、子供達も村の人々もみんな、仲良く幸せに暮らせれば……他には何もいらなかった』
突然少年姿のオズの声でそう聞こえた。しかし、目の前で両親と話しているオズはそのようなことは一言も言っていない。
するとあのオズの記録書が現れ、ふわふわとキラの周囲を飛び回った。
『皆が俺を支えてくれた。だから、俺も皆を守ってやる。それが正しいんだと信じていた』
この独白はこのオズの記録書から聞こえてきていた。これは、この少年オズの心情なのだろうか?
この言葉はキラ自身の記憶と重なった──。胸の奥がむず痒い。キラはこの形容し難い不気味さの正体を知った。
この少年姿のオズは、キラと少し似ているのだ。
オズと子供達は山を一つ越えて街を目指していた。オズは子供達から大層人気があり、どの子供もオズと手を繋ぎたがったり、肩車をしてもらおうとしていた。
「お兄ちゃん、次は俺!」
「あーずるい、オズお兄ちゃんは私と一緒に行くの!」
「順番だ順番。俺は一人しか居ないからな、みんなで取り合ったら十個くらいに割れちまう」
「ねえ、お兄ちゃん、魔物とか出てこないよね? 怖いの居ないよね?」
「さあどうだろうな。良い子にしない奴は魔物の晩飯にされちまうかもしれないな」
「怖いよう」
「大丈夫、良い子にしてりゃあ俺がなんとかしてやる」
そう言ってオズがパチンと指を鳴らすと、木の葉が光り輝きながら降り注ぎ、子供達は歓声を上げた。
キラはその様子を見つめながら時折ちらちらと空を見上げた。空には偶に雷のように煌めく黒い雲が現れた。オズは子供達に気を配りながらも、その雲の様子を注意深く見つめていた。
そもそも、何故山に囲まれた辺境の地に村があるのだろう。あと、あの黒い雲は何なのかな。疑問を抱いたあたりで再びオズの記録書が現れて話し始めた。
『あの黒い雲は戦場の証ですよ』
戦場。普段聞きなれない言葉に、キラは飛び上がる。記録書はこの時代の背景について語り始めた。
『オズさんが生まれ育った時代はですね、俗にブラン聖戦と呼ばれた大戦の真っ只中だったのですよ。ニンゲンという種族名が過去のものとなり始め、世界には天使や悪魔、魔術師等が闊歩しはじめた時代です』
「ブラン聖戦なにそれ……戦いの名前、難しくて覚えられない……。」
『メディがリディと決裂し、喧嘩を始めてから百年近く経った頃です。初めは本人達同士の小競り合いだったのですが、この頃には天使や悪魔を従えて文字通り戦争としか呼べない事態に発展しておりました。あの黒い雲はその戦争の片鱗ですよ』
戦争が身近にあった時代。そういえばオズ達が住む村も世間から隠れるかのように、山に囲まれた場所にある。キラは自分と同い年くらいのオズの背中を見つめながら考えた。穏やかに過ごしているように見えるが、その戦争の爪痕はオズの中にも残っているのだろう。
『ああ、そうそう。この時代、吸血鬼は他種族から忌み嫌われ、差別されていたんですよ。オズさん達の村があんな辺境にあったのはそれが理由です。元々吸血鬼という種族はリディがメディ側の陣営にスパイ行為を仕掛ける為に悪魔に姿を似せて創った種族なのですよ。メディに味方する悪魔からすると敵側の種族ということで嫌われ、リディ側に味方する天使からすると敵と外見が似ているので嫌われるというまあ損ばかりの種族です』
「損ばかりって、ひどいこと言うなあ……」
『それで吸血鬼達の中にもリディに忠誠を誓って戦線に積極的に参加する者と、戦いを嫌いリディから離反して人里離れた場所でひっそりと暮らす者達に分かれていました。オズさんが属する集落はその後者ですね。戦いを避けて平穏を選んだ人々です』
キラは今一度、オズが連れている子供達の外見を確認した。犬歯が生えていたり翼を持っている吸血鬼の子供が三分の一ほど、残りは魔術師と獣人族のようだった。
陽が登りきる時間になった頃、ようやく街が見えてきた。オズは子供達に呼びかける。
「いいか皆、この中には吸血鬼の奴も居ると思うが、街に着いても人の血は絶対に吸っちゃ駄目だぞ」
「はーい!」
子供達は元気よく返事をした。オズは全員に目を配りながら先頭を歩いていった。
キラはその背中を複雑な想いで見つめていた。自分と似た願いを抱いたオズ。きっとこれが赤の他人ならば素直に親近感を抱き、皆に頼られている姿に憧れたのだろうが──
未来のオズの姿を想うと、喉の奥に石が詰まったような気分になるのだった。
サーカスの演目は「オズの魔法使い」。どうやら童話のストーリーに準えて芸を披露していくらしい。
街に着いたオズ達は真っ直ぐサーカスのテントへと向かった。巨大なボールに乗る象、空中ブランコをする猿……子供達は未知の世界に目を輝かせていた。
「おにーさま、おにーさま、こっちなのです!」
オズの妹マオが自分の隣の席に呼ぶ。兄が他の子供達にばかり構うので少し嫉妬したのか、座席を何度も軽く叩いていた。
「わかったわかった、ちょっと待ってろ。ほら、お前はそこの席に座って……」
他の子供達がすぐに席から立とうとするのでオズはなかなか落ち着いて席に座れずにいた。こうしてみると、本当に「頼りになるみんなのお兄さん」に見えてくる。
それがどうして、あんなふうになっちゃったのかな。キラはそう思いながらオズ達の背中を見つめていた。
その時、開演の合図が鳴った。子供達はステージに注目しておとなしくなり、オズはようやくマオの隣に座れた。
「おにーさま、遅いのです」
「ごめんごめん、でも、これでやっと落ち着いて見れるな」
真紅の幕が上がり、ポピーの花弁が吹き荒れた。座長と思しきエメラルド色の外套の人が深く頭をさ下げて開演を告げる。
「紳士淑女の諸君、本日はウチらの公演にお越しくださり、ほんまおおきに。今回、ウチらの一座がやるんは『オズの魔法使い』。ドロシーっちゅう可愛らし女子はんの大冒険のお話なんやけど……」
冒頭の解説の最中、座長はジャグリングを始めたり口からボールを出してはまた隠したりした。その様子はオズの魔法使いというよりかは道化師のよう──いや、サーカスであるのだからおどけ役が現れるのは当然のことなのだが、キラとしては観客席に座っているオズに目を向けずにはいられなかった。
座長の挨拶の後、公演が始まる。主人公のドロシーが空中を舞い、ライオンの火の輪くぐりやカカシ役が綱渡りをして、ブリキの兵隊役が吹雪を吐く。キラの目から見ると曲芸と簡単な魔法を組み合わせた芸だったが、子供達はその芸に釘付けになっていた。
「おにーさま、オズの魔法使いさんは、悪い人なのでしょーか」
唐突にマオがオズに問いかけた。中盤、オズの魔法使いがエメラルドの都の人々を騙していたことが判明した時のことだった。たしかこの後は、ドロシーが帰る方法を用意する代わりに、ドロシー達に東の魔女を倒してくることを要求する──このような展開になるはずだ。
臆病な人物であることは間違いない。だが悪人かと言われると、人を直接傷つけてはいない。しかし、ドロシー達に危険な役目を押し付けている。キラがそう考えていると、オズはその質問にこう答えた。
「どうだろうな。狡い人物ってのは間違いないだろうが……もしオズの魔法使いが東の魔女のように本物の魔法が使えたなら、きっと堂々と魔女に立ち向かって、都を本物のエメラルドで満たしたんだろうな」
「オズの魔法使いさんは……寂しい人なのですね」
「そうだな。寂しかっただろうな。魔法なんて使えない癖に、異世界でずっと独りで偉大な魔法使いを演じていたわけだから」
その言葉とは裏腹に、舞台の上の魔法使いは笑顔を浮かべており、おどけた演技や手品で観客を笑わせていた。その後物語は進み、ドロシーは東の魔女を倒して、エメラルドの都に戻ってくる。オズの魔法使いは気球を用意してドロシーを故郷へ帰そうとしたが、出発の直前でドロシーの飼い犬トトが逃げ出してしまう。ドロシーはトトを追ったが、気球はそのまま出発した為、オズの魔法使いとは離れ離れになってしまう。再び帰る手段を失ったドロシーは、今度は南の善い魔女グリンダの元に向かうのだった。
兄妹は素直にその公演を楽しんでいた。未来のオズには一欠片も残っていない無垢な笑顔がそこに在った。一方で、キラはその公演を笑って観ることができなかった。未来を知っているキラにはその芝居は全く他人事とは思えない。
その時、観客席の笑いがしんと静まり、舞台に釘付けとなる。
「何も悲しむことはありません。あなたが求める力はもうあなたの手の中にあるのです。さあ、ドロシー。帰るべき場所へお帰りなさい」
南の魔女グリンダの台詞だった。そう彼女が告げた瞬間、桜の花弁、砂糖のような雪、水晶の欠片、考えつく限りの美しいものが空から降り注いだ。舞台の中央には純白のドレスに身を包んだ女性が居る。ドロシーは魔法の銀の靴の力で故郷へと帰ってゆき、舞台は幕を下ろした。
マオを含め、子供達は幕が降り切る瞬間まで目を輝かせて舞台を見つめていた。そして、オズはその子供達の様子を穏やかに微笑みながら見つめていた。
公演が終わった直後の街はまだ舞台の余韻で浮かれているようだった。ラッパの音と動物達の鳴き声が街中に広がっている。だが、オズ達は足早に街の出口へと向かっていた。というのも、もう暫くすると陽が沈み始める。オズ一人ならばまだしも、子供達が居るとなるとあまり帰りが遅くなってはいけないのだろう。
「にーちゃんも魔法使いみたいに宝石いっぱい出せよ!」
「サーカスすごかった、もう一回観るー」
「はいはい、また今度機会があったら連れてってやるから、早く帰るぞ」
まだはしゃぎ足りない子供達の腕を引きながらオズが歩いていくと、目の前を真白のドレスを身に纒った女性が通り過ぎた。ぶつかりそうになった為、慌てて立ち止まる。
「うわ、すいません。お怪我はございませんか」
「お気遣いありがとう。大丈夫よ」
後ろでその様子を見つめていたキラは息を飲んだ。その美しい少女には見覚えがあった。薄桃の髪、サファイアのような瞳、服装は以前見た時と違っていたが女神リオディシアだ。オズを含め、周囲の人々は彼女が女神だとは気づいていないようで、リディ自身も一般人のふりをしているようだった。
「ところで、一つお尋ねしてもよいかしら」
直ぐに立ち去ろうとしたオズをリディは引き止めた。
「私とよく似た顔の女性を見かけなかったかしら」
目と目が合った。オズは食い入るように薄い微笑みを見つめていたが、すぐ首を横に振った。
「いや、見かけてないな。お力になれず申し訳ございません」
「そう……こちらこそ、突然おかしなことを訊いてごめんなさい。最近はずっとこの姿だと聞いていたのだけど……まあいいわ、ありがとう。帰り道、どうかお気をつけて」
そうして、オズとリディはそれぞれ反対方向へと立ち去っていった。互いの事情を知らなければ、数秒も経てば忘れてしまいそうな程ありふれた出会いだった。しかし、キラも今なら察することができた。この邂逅がオズの物語の始まりの鐘なのだろう。
「すっごく綺麗な人でしたね、おにーさま!」
オズの隣でマオが言った。
「え……? うん、まあそうだったな」
「まるでグリンダ様みたいだったのですー。真っ白できらきらだったのです!」
マオの例えは巧かった。創造の女神リオディシア。誰もが振り返る程に美しく、優しく、誰からも愛される。その在り方はあの公演で見たグリンダとよく似ていた。彼女こそ、世界で最も強力な魔法の使い手である部分も含めて。




