第14章:第8話
また、昔の夢を見た。
大人に覆い被さられたら容易く逃げ場を失う程に身体は小さく幼くなっていた。腕は「ばんざい」の姿勢で手首に糸が絡みついていた。真っ暗な部屋の中で、何か柔らかい布の上に横たわっていた。
「ふふ……やっと良い子になったわね、ゼオン」
母の声がした。目の前に顔がある。だが、視界がぼやけて表情が良く見えない。
自分が横たわっている布の上には、なにか難しそうな魔法陣が描かれている。身体じゅうに叩かれたような痣がある。今にも咽そうな程の薔薇の香りがする。花の香りを吸い込むと思考が溶けていき、身体に力が入らなくなっていった。
「愛してるわ旦那様。だから死ね、ゼオン。その心だけ」
母はその言葉を耳元で何度も囁いた。「愛してる」と「死ね」が交互に注がれ、耳が支配されていった。
魔法と、薬と、暴力。ありとあらゆる力で自由が奪われる。頭はふわふわ、身体はぐちゃぐちゃ、心はからっぽ。全身を這いずるものが何かもわからない。
反抗の言葉が喉元まで出かかると、きもちわるいものが口の中に入ってくる。舌が絡め取られ、蹂躙される。頭が溶ける。
「うふふ、ふふ……そうよ、いい子にしていればお姉さんもお兄さんも守られるの。いい子のあなたは二人を守るヒーローよ。英雄よ」
まもる、ひーろー。えいゆう。まっしろな頭は容易く言葉を受け入れた。
「ゼオン、英雄になりなさい」
首筋に僅かな痛みが走った。何か失くしてはならないものが吸い取られているようだった。
最初に、花の香りがしなくなった。次に、首筋の痛みが消え去った。その次に、全身と口の中に這いずっていたものが消えた。更に、身体が全く動かなくなった。そして最後に、それら全てに対する「きもちわるい」という解放を願う感情が溶けていった。
吸い取られて奪い取られて、視界は暗くなって、ゼオンはそっと瞼を閉じた。
「英雄、ヒーロー、童話の王子様……そういう輝かしいものはね、消費されるために存在してるのよ」
そして、ゼオンは飛び起きた。瞼を開くと、寮の自室が見えてきた。ひと呼吸遅れて、「きもちわるい」という感情が戻ってきた。
夢の中の母の存在を思い出し、ゼオンの頭は嫌悪感で満たされる。きもちわるい、最悪だ。本当に本当に、夢でよかった。たぶん母に支配された傀儡だった頃、自我を手放してされるがままになっていた頃の記憶。だが、あくまであれは夢で記憶で過去だ。もう二度とあの地獄が訪れることは無い。そう確かめることができた瞬間、ゼオンはほっと胸を撫でおろした。
その後、気分を紛らわせる為にベッドから出てみた。窓を開けてみる。空から白い雪が舞い降りてきた。手に雪が触れたが、冷たくはなかった。
外に手を伸ばしてみた時、ゼオンはようやく白一面であるはずの視界に赤色が紛れていることに気づく。
手首から血が流れていた。何処かで引っ掛けたらしい。しかし痛みは特に無かったので、手当は後回しにしてゼオンはもう暫く雪を見つめていることにした。
冷たさより痛みより白い雪の美しさに釘付けになって思わず身を乗り出し、もうここからおちてもいいのではないかと。ふとそんな気分になった。
最初は温度、次に痛み。そして、最後は────
◇◇◇
最初は、村のはずれの平原で記録再生をしようと考えていた。
しかしキラ達がその場にたどり着くと、そこには予想外のものが出現していた。豪邸だ。首都の一等地にありそうな豪華絢爛な邸宅が草原のど真ん中に出現していた。その周囲にはクローディアが連れてきたと思われる従者や使用人、魔術師達が複雑な魔法陣が描かれた絨毯を草原に広げていた。
「あの姉貴……」
ゼオンが呆れ果てた様子で呟いた。キラ、ティーナ、ルルカも頭を抱えた。これでは記録再生ができない。
すると、当のクローディアが邸宅から現れてゼオンに抱きついた。
「まあ、ゼオン! 私の新居を見にきてくれたのね!」
「いや、違うんだが。村に来るとは聞いていたけど、新居を建てるとは聞いていないんだが。村長の屋敷に泊めてもらうんじゃなかったのか」
「あらぁ、あのお屋敷じゃ、私やディオンくらいならとにかく、この下僕達が入り切らないことに気づいたのよ!」
確かにその点については間違いないので益々頭を抱えてしまった。
「だから、おねーさまはこうして簡易的な邸宅を出現させる魔法具をちゃあんと用意してきたのよ! 少し狭いけれど、きちんとうちの下僕達もディオンの下僕達も面倒見てあげられるわ!」
えへん、とクローディアは胸を張る。周囲では専属の魔術師達が平原に広げられた魔法陣付き絨毯を取り囲み、呪文を唱えて新たな邸宅を出現させていた。
洒落た邸宅が立ち並び、ちょっとした住宅街のようになった平原を、キラ達は呆然と眺めていた。
「ええっと、どうしよっか……」
「場所を変えるしかないな……。なるべく、万一襲撃が来ても周りに影響が無い場所……いつもの、あれだ。森の中の湖があるあの場所。あそことかどうだ?」
「いいけどまた遠いなあ。そんなに都合よくイオ君達の襲撃が来たりするかなあ?」
「相手にイオが居なかったらここまで警戒しないんだけどな。俺がもしあいつらの立場で『未来を識る』だなんてトンデモ能力持ってたら、これ以上の好機は無いと考えるし、この時に備えて確実に仕留める準備をするだろうな」
「ううー……確かに。でもあっちは杖が欲しいんでしょ。こっちの記録再生を邪魔したらあたし達ごと消えるなら、ウコツに攻撃はできないんじゃない?」
「ウコツって何だ、迂闊だろ。確かにそうだが、俺達が戻ってくるまでの間に、確実にこちらを降伏させたり、仕留められるよう準備することはできるだろ。例えば、近隣の住民を盾にする……とかな」
「あー……確かに、周りに迷惑かけるわけにはいかないね。それに、ゼオンはそういう人質作戦に弱いし」
キラが意地悪くそう呟くと、ゼオンがグッと言葉に詰まる。親しい人が人質に取られた途端にゼオンが戦うことを躊躇った事は何度もあった。
キラ達が相談をしていると、急にクローディアがパチンと手を叩いてこちらの話を遮った。
「そうだわそういえば、ゼオンと、ルルカちゃん! 二人に渡す物があるの!」
突然名指しで呼ばれたゼオンとルルカが唖然とする。クローディアは使用人に二つの細長い包みを運んでこさせた。事情もわからないまま二人は包みを開いてみる。ゼオンの包みからは白銀の獅子の飾りが付いた剣が、ルルカの包みからは純白の翼の紋様が付いた弓が現れた。
「二人とも、新しい武器が必要なのでしょう? ゼオンの剣は私から、ルルカちゃんのは陛下からの贈り物よ。遠慮せずに使ってちょうだいな」
そういえば、ゼオンもルルカもイオ達に杖を奪われた直後だった。ゼオンはまだしも、ルルカは差出人の名前を聞いた途端に頬を真っ赤に染めていた。
「そ、そんな……全く、サバトさんのお人好しっぷりにも困ったものだわ。……私なんかに構ってる暇無いでしょうに」
「そんなことないわ。陛下ってば、いつもルルカちゃんのことを気にかけているみたいよ」
「……余計なお世話よ。でも、その……お礼は言っておきます。こちらからも手紙は書くけれど、もし陛下にまた会う機会があれば、『ありがとうございます』と伝えてもらえますか?」
「勿論よ」
ルルカは弓の感触を確かめるふりをしてこちらから顔を背けていた。一方で、ゼオンは不思議そうにクローディアに尋ねた。
「正直、新しい剣が必要だったし、素直に感謝してるんだが……俺とルルカにだけ武器が必要だと、誰に訊いたんだ?」
「あら、ゼオン達が頼んだわけじゃないの? そう、ふぅん……じゃあ、ちょっと内緒にしておこうかしら」
「頼んだ……? 誰がだよ」
「内緒と言ったでしょう。まあ、おねーさまのお心遣いと思って素直に貰っておきなさい」
ゼオンは真新しい剣を見つめて首を傾げていた。その時、待ち合わせ相手がやってきた。イヴァン•ヴェルナー。ディオンと共にやってきた獣人の兵士。そして、今回の記録再生の際の見張りを頼んだ人物だ。
「ちーっす、キラちゃん達、お待たせしやした!」
イヴァンはボリュームたっぷりのコートを着込んでやってきた。マフラーを巻き、手袋をして、スキーにでも行くような格好だった。
「いやー、この村寒いっすね! 皆、寒くないっすか?」
一応キラ達もコートやマント等で防寒対策はしていたが、今は一月、つまり真冬だ。季節を考えると当然の気候だった。
「うーん、確かに寒いですけど冬だし、気温は例年通りのような? ゼオンは寒くない?」
「いや、全然」
するとイヴァンは獣の耳をしゅんと折りたたみながら呟く。
「いやあ、一月に例年通り冬が来るっていうのは結構特別なんすよ。アズュールのあたりは今真夏のような暑さっすからね。こう地域によって気候差があるとキツイっすわあ」
「ええ、そうなんですか。そういえば、周りの地域は異常気象って言ってたような……」
夏にヴィオレに行った際は厳しすぎる暑さだったし、アズュールに行った際は夏の終わり際なのに冬の初めのような寒さだった。異常気象は今も続いているようだった。
「それはそうと、記録再生、ここでやるんすか? 姐さん達が家作りしてるっすけど」
「そうなんですよね……。ちょっと場所を変えようかなって思ってるんです。少し森の中を歩くけどいいですか?」
「いいっすよぉ。俺は姐さんや旦那より庶民的っすから、泥道も雪道もどんとこいっす!」
それは良かった。早速キラ達四人とイヴァンは森の中の湖に向けて歩き出した。その時、イヴァンは急にルルカに話を振った。
「それにしても、ルル嬢もあの森を歩いていくのに躊躇いは無いんっすね。ルル嬢のような娘さんは姐さんのように靴が汚れるのを嫌うかと思ってやした」
「生憎、私はもうゼオンのお姉様のような高貴な生活とは無縁なの。雪でも泥でも炎の中でも、自分の足で歩くわよ」
そう言って、ルルカはイヴァンには見向きもせずに歩き出した。
「一途だねえ。チャラ男のキャラ付けなんて止めたらいいのにい」
置いてきぼりになったイヴァンに声をかけたのはティーナだった。イヴァンは気さくな笑みを崩さない。
「お互い様っすよ、ティーナちゃん」
「マイナス80点。モテ男にはあともうひと磨き足りないなあキツネ君。あんたがお互い様呼ばわりするソレに、あたしはそれなりに愛着持ってるんでね」
「そうっすか。そいつは失礼しやした。それと、俺はキツネじゃなくて、可愛いワンちゃんの獣人っす」
そう言って、イヴァンはルルカの後を追った。数秒前まで大人びた口調で話していたティーナだったが、イヴァンが通り過ぎた途端に「きゃわぁん、ゼオぉン!」と黄色い声をあげながらゼオンの後を追いかけていった。
◇◇◇
あの湖には何度も足を運んだ。そういえば、セイラと初めて出会った時、キラの杖を巡るゲームをした際もこの湖を訪れたっけ。
湖の畔にある父の墓の前に立ち、キラは墓石に話しかけた。
「また騒がせちゃって悪いね、お父さん」
まるでそこに父が居るかのように微笑みかけた。それから、父が眠る墓に背を向けて覚悟を決めた。
「じゃあ皆、始めようか」
キラは順にゼオン、ティーナ、ルルカに目を向け、三人もキラに頷いてくれた。ゼオンは早速セイラのノートを広げながら地面に何か文字や記号を書き始めた。ティーナがそれを手伝い、ルルカは何かゼオンから何か手渡されたようだった。
ルルカはそれを近くで待機していたイヴァンに渡した。
「これを持っていろって、ゼオンの指示よ」
そう言って手渡したものは、紙の切れ端だった。その切れ端にはまた何か複雑な文字列が書かれていた。
「基本的には、術式の発動中に邪魔が入らないように見張ってくれればいいわ。邪魔者は適当に追い払って」
「へいへい。因みに、俺一人じゃ捌ききれない緊急事態の際はどうすりゃいいっすかね」
「今渡した紙がその緊急事態用よ。それを破れば術式が強制解除されて、私達もこっちに戻るらしいわ」
「了解っす。じゃあルル嬢、良い旅を」
キラは二人のやりとりを眺めながら「イヴァンさんってなんとなく対応が大人っぽいよなあ」と考えていた。
暫く経つと、ゼオン達の準備が完了したようだった。あとは呪文を唱えればオズの過去を巡る旅が開幕する。キラ達は魔法陣の上に円形に並んだ。
「じゃあゼオン、お願いね」
「わかってる」
過去を知り、オズと二人の神々を取り巻く事情を知ったところで何が変わるかはキラにもわからない。もしかすると、何も変わらず、何の進歩も無いかもしれない。
それでも、キラはその過去を識りたい。人を人とも思わないような目でこちらを見下すオズの姿を思い出す。しかし、今ならキラにもわかる。あれは仮面だ。気さくな微笑みにも残忍冷酷な眼差しにも、その両方に「芝居」が混じっている。
何故自分の振る舞い一つ一つにその芝居を混ぜるようになったのか。キラは単純な興味として、オズという人物がなぜあのように成ったのか識りたいと考えた。
ゼオンがセイラのノートを開き、呪文を唱える。
「この世を創りし蒼き瞳の女神よ……我が声に耳を傾けたまえ……旧き記録が蘇る時、世界の果てへの扉が開く! レーヴ・ドルチェ!」
蒼い光が舞い、キラ達を包む。森も湖も遠のき、カタカタと歯車が廻るような音がした。
オズ•ガーディガルの物語が、幕を上げた──
◇◇◇
「そろそろ、やろか……」
蒼の魔力の気配を感じて、オズはベッドから身体を起こした。カーテンを開け、窓の外を見つめるが、視覚的な異常は無い。しかし、ただでさえ希少な蒼の魔力の気配は隠しきれていない。
支度をしよう。そう思い、オズがカーテンに触れた時、カーテンが突然焼け焦げて溶け始めた。魔力漏洩、暴走の気配。オズは瞬時に手を引っ込め、自分の魔力を抑え込もうと試みた。幸い、カーテンの融解は すぐに収まったが、オズの心臓の音は今も耳の奥で鳴り響いていた。
「最近、多いな……薬はちゃんともろたし、侵食は一時期より抑えられとるはずなんやけど」
脳裏に一つのイメージが浮かんだ。もし、今指先にあったものが、カーテンではなく、人の顔だったなら……そのように想像しかけた途端、オズは近くの椅子を蹴飛ばしてそのイメージを「見なかったことにした」。
オズは着替えるという名目で部屋に鍵をかけ、再びベッドの上にダラリと寝転んだ。ゴロゴロと転がりながら自分の胸に手を当てると、肩から胸を通って腹へと伸びる古傷に指が触れた。昔、リディに付けられた傷。これほど深い傷なのに、心臓の音を止めることはなかった。オズは今でもあの時リディが「手を抜いた」ことを恨んでいた。しかしそのはずなのに、心の何処かでこの傷が今も残っていることに安心している。
オズは自分の傷を抱きかかえるようにうつ伏せになった。傷が何一つ疼かず、痛むことも無い一方で、背中は焼けるように熱かった。
オズの背には、最古の魔法使いアディリシオが残した魔法陣が刻み込まれていた。陣の中心から黒い手が身体中に伸びている。それは今も効力を発揮し続け、オズをただの吸血鬼から世界の毒たる模造品の死神へと書き換えている。
もし、いつかその書き換えが完了しきった時、オズの自我は完全に消滅するだろう。破壊の本能に身を任せて、神の力を奮い、全てを破壊するだろう。
だからこそ、オズは自身が「悪」となるように振る舞う。人々がオズを「悪」だと罵る度にオズはほくそ笑む。自分の指先のように踊る人々を「それでいい」と見下し、嘲る。
全て自身で望んで振る舞っているからこそ、オズにとって煩わしいものはむしろオズを想い、慕い、「仲間」のように付き合おうとする人々だった。
オズは寝返りを打って、天井へ手を伸ばす。先程の溶けていくカーテンのイメージをある個人のイメージへと変換してみた。
「仲間になってほしい」
と言ったキラ•ルピアの姿に。神ではない、英雄ではない、魔法もろくに使えない為「魔女」としても半端者の少女の姿は、オズにとっては眩しく見える。
「もっと強くなりたい」
キラはいつもそう言っていた。
「強くなって、皆を守れるようになりたい」
無邪気な願いだ。輝かしい夢だ。焼いて、溶かして、踏みにじりたくなる程に。ただのヒトから模造品の神まで登りつめるほどの力を得たオズだからこそ、キラの願いに対して、こう贈ろう。
強さが皆を守るなどまやかしだ。十年前の悲劇を間近で見ておきながら、まだ事実を直視できないのか。
強い力が欲しかった。神にも世界にも何も奪わせない最強の力が欲しかった。
最強の力を手に入れても、何一つ変わらなかった。




