第14章:第7話
セイラのノートに書かれた呪文は、以前ゼオンに手渡されたもの以上に長く難解だった。ノートの初めから終わりまで、キラには読むことすらできない言語がぎっしりと敷き詰められていた。
キラ達は再び宿屋に集まり、手に入れたノートについての検証を始めていた。ゼオン達によると、ノートに書かれた魔法はやはり特定の記録に関するもの、魔法陣の傍に書かれたメモ書きにもオズの過去に関する記録だと書かれていた。
「ゼオン、展開できそう?」
「一応、前に貰ったノートのブラン式魔術で展開はできる。が、記録があまりに膨大だ。難易度は高いのもあるが……単純に再生時間が随分かかりそうだ。記録の再生の際の体感時間と現実の経過時間は異なるだろうが、それを踏まえてもかなりの時間がかかるだろうな、現実の経過時間の方な。小分けされた一つ一つの陣に含まれる記録量が膨大すぎて……」
途中からキラには内容がさっぱり理解できなかったが、ひとまず問題は「とにかく再生に時間がかかる」ということだった。
「再生時間が長いと何か問題あるの?」
「記録の再生の際はこの本を中心に小さな結界を張ることになるんだが、再生中に外部から結界を破壊された際、俺達は現実に帰ることができずに消滅する」
「やばい」
「そうだ。余程の衝撃が無い限りそんな事態は起こらないが、万一の事態に備えて見張りを立てるべきだろうな。……この再生中にイオ達の襲撃を受けたらまずいしな」
そうなると、ある程度の戦闘能力のある者を見張りに立てなければならない。キラ達の知り合いの中で、オズ以外にそれほど戦闘能力がある者など居ただろうか……何人かの候補を上げた後、キラ達は早速協力を求めに向かった。
「んで、俺にその見張りをしてほしいってわけっすかあ」
狐によく似た耳がぴこぴこと愛らしく動いていた。キラ達が依頼した人物は、ディオンの護衛としてやってきたイヴァンだった。彼は王城直属の兵士なので、戦闘能力は高いはずだ。
村長の屋敷のすぐ近くの木陰でキラ達は身を隠しながらイヴァンに頼み込む。
「そうなんです。誰も入らないように見張っててくれれば大丈夫なんで、お願いします!」
「話はわかったっすけど、なんでそんな隠れながら話してるんっすか?」
「あ、いや……ちょっとこの前村長さんちで悪さして怒られちゃったから気まずくて……」
「ははぁん、そうっすかあ。若いっていいっすねえ」
イヴァンはにまにまとキラ達の顔を順に見つめ、キラの目をじっと覗き込んだ。急に顔が近くなったので思わず肩が強ばる。
「至高の美少女キラちゃんがちょいとお茶付き合ってくれたら、考えてもいいっすよう?」
キラは「美少女」なんて呼ばれたのは初めてだった。軽いティータイム程度で手伝ってもらえるなら、断る理由は無いだろう。そう考えたキラは快く返事をしようとしたが、何故か突然ゼオンがキラの服の襟を引っ張り、イヴァンから引き離した。
「却下だ」
キラは何故突然ゼオンが怒ったのか全く理解できなかった。
「あちゃあー、そりゃあ残念。ならティーナちゃんとかどうっすか。俺とティータイム!」
イヴァンは次にティーナの手を取って微笑んだ。キラはようやくイヴァンの人柄について思い出した。そういえば、よく女の子を口説いてはディオンに叱られていた。
ゼオンが再び口を出そうとした時、ティーナはゼオンを制止し、自分でイヴァンにこう問いかけた。
「このティーナちゃんに目を付けたのは褒めてあげるけどぉ、本命には声をかけなくていいのかにゃあ?」
イヴァンはニッコリと微笑んだまま黙り込んだ。ティーナの隣では、ルルカが全く興味無さそうに欠伸をしてきた。
ティーナはにやにやとほくそ笑んだ。
「苦労するねえ、あんたも。残念だけど、あたしはあたしが認めるイケメンにしか興味無いんだよね。まずはこのパーフェクトでエレガントで星もひれ伏す程のスーパージャスティスのゼオンより魅力的になってから出直してきて」
イヴァンは眉間に皺を寄せているゼオンへと目を向けた。
「ちぇー、残念ながらナンパ失敗っすねえ。ゼオン君がモテモテで羨ましいっす。流石、旦那の弟さんっすわぁ」
「そういうのいいですから、手を貸すのか貸さないのかはっきりしてくれ」
ゼオンは穢れたものを見るような目をしていた。
「んー、協力してあげたいっんすけど、俺も旦那の護衛があるんっすよねえ。でもまあ、旦那は何回か来ているせいか村側もさほど警戒してないし、今回は人員も居るからちょっとの間くらい他に任せてもいっか」
「それって……」
「いいっすよ。ちょいと旦那や他の兵に話つけるまでは待ってもらうことになるっすけど、ちゃんと協力するっす!」
「わあ、ありがとうございます!」
キラは何度も頭を下げてお礼を言った。
「これで見張りのことは大丈夫だね!」
宿に戻ったキラ達は実際にセイラの残した魔法陣を展開する為の最後の調整に入っていた。キラは無事イヴァンが手を貸してくれるようになったことに安堵していた。
だが、キラが一息ついている間にもゼオン達はセイラが残したノートの分析に熱中していた。相当に難解な術式らしい。ゼオンだけではなく、ティーナやルルカもノートを覗き込み、ああだこうだと議論を交わしていた。
「やることは既に出来上がってる魔法陣の展開でしょう?」
「それはそうだけど、ブラン式魔術の言語にまだ慣れてなくてな。解凍から展開に以降する為の呪文とかがいちいち覚えづらくてな」
「これは蒼なんだっけ。紅とはやり方が何もかも正反対なのかあ。うっわややこしい」
「親陣と子陣で展開時の入力呪文が全く違うんだよな……どうしてこんな手間のかかる魔法ばかり使うだろな、あいつらは」
こんな調子で、三人が盛り上がっている中、キラは話題に乗れず、一人ぽつんと正座していた。魔法の話はやっぱり難しい。
すると、突然ゼオンがキラを呼んだ。
「そうだ、お前もちょっと」
「どうしたの?」
「一つ気になることがあって。この術式、一度完成した後にもう一度手を加えられた形跡があるんだよな」
よく見ると、時々浮かび上がっている文字の下にうっすら別の文字が見える箇所があった。
「まあ術式自体には何の影響も無いから気にする必要も無いかもしれないけど」
そう呟いて、ゼオン達は再び作業を続行した。そのノートに死神が込めたメッセージが隠されているなど、キラ達は想像もしていなかった。
◇◇◇
久しぶりに他人とチェスをした。このところは一人チェスばかりだったので楽しかった。
白黒の盤面の上で、黒の女王が白の王を仕留めると、向かい側に座る女性は悔しそうに呟いた。
「また負けちゃったわ」
「俺の二連勝やな、クローディア」
オズは満足げに奪い取った白の王をクローディアに見せびらかす。最高のゲームには程遠い戦いだったが、やはりゲームをするなら一人より二人の方が良い。
上機嫌でクローディアにお茶とお菓子を勧めると、相手は一気に紅茶を飲み干しながらカップで自分の顔を隠した。
今日は良い客が来たのでオズは満足していた。やはり紅茶はチェスのできる相手と飲むに限る。クローディアはぐるりと図書館を見回しながら呟いた。
「いい場所ね。あなた、折角こんな素敵な図書館を与えられているのだからもう少し真面目に働いたら?」
「俺はいつでも真面目で勤勉な好青年やで?」
「どの口が言うのかしら」
そう言って、クローディアは「ふふふ」と笑った。それから、クローディアは小声で
「そういえば、ゼオンの様子はどう?」
と尋ねた。以前、オズはクローディアにゼオンが倒れた時のことを手紙で伝えていた。クローディアは心配そうな表情を浮かべており、つい数分前の敗北など忘れてしまったようだった。
オズは少し考えてから、
「今は熱も下がったしあのとおり元気や。けどちょいと色々あった。せやから、滞在中にその話もちょいとするわ」
と答えた。
「あら、そうなの。心配だわ……」
「それよりお前も、俺に用があるんやろ?」
「ええ。でもその話も滞在中にするわ。今日は着いたばかりだもの。難しい話は後日にして、紅茶とお菓子だけいただくわ」
ディオンの来訪と「スカーレスタ条約」についての話には不快感しか沸かなかったが、クローディアの来訪はオズにとっても喜ばしかった。突飛な発想と行動力、そして無茶を財力で押し通す自由奔放さは見ていて退屈しない。
すると、クローディアはこんな話をした。
「そういえば、キラちゃん達があなたの過去を探ってるみたいね」
「せやな。あっちこっちから注目されるスーパースターで俺大変やわー」
「あなたの口から直接話してはあげないのね」
「そらそうや。俺の昔話なんて始めたら退屈すぎて俺が寝てまうわ」
オズはその場で居眠りするふりをした。クローディアはオズを手持ちの扇でピシャリと叩き起こすと、あくまで優雅にこう話し始めた。
「さっきルイーネちゃんとも話していたんだけれど、あなたって素直じゃないわよね。もっと正直にあの子達に優しくして可愛がってあげればいいのに」
「俺はいつでも皆可愛がっとるつもりやで」
「また、茶番はよしなさい。あなたはそのつもりでも、あの子達にはあんまり伝わってないみたいだったけど?」
「そら伝えるものが無いんやから当たり前や」
クローディアは呆れ果て、オズはけらけらと嗤った。
「何も無いわけはないでしょうに。あなたがあれだけ構って、わざわざ旅行に連れてきたりするくらいなんだから、多少の興味はあるんでしょ?」
「まあ、村のクソ連中よりかは見てて飽きひんのは事実やな。玩具としては上々や」
「玩具扱いじゃなくて、ちゃんと仲間になって協力してあげればいいのに」
オズはクローディアの言葉を聞き流しながら、角砂糖のピラミッドを作り始めた。するとクローディアは折角作ったピラミッドの上から角砂糖を奪い、自分の紅茶に放り込んでしまった。
「あなたはよくわからないわよね。なんで人を玩具扱いなんてして、半端に印象を悪くしようとするのかしら。印象は悪いより良い方がお得じゃない?」
「人生得とか損とか効率で語るんやったら、印象なんて不確かなもん飾るより初手自殺で結論づける方が余程効率的や」
「まあ酷い。全ての命が時間の無駄とでも言いたげね」
「効率で語るならな。生命なんて生まれようが、どうせ何しても死ぬんやから」
オズはピラミッド作りを諦め、机の上の砂糖を一つ紅茶に入れ、残りは全て捨て去った。
「確かに人はいずれ死ぬものだけどそれはあまりに極論じゃないかしら」
「そうか? 俺には、人の命なんぞ瞬きと同じように見えるんやけどな」
そう、もはや人とは呼べない程に長い時を生きると、次第に命が軽く見えてくる。生き生きと輝く命もほんの些細な事で消えていく。消えなくても老いて腐っていく。
生き物とは、生物だ。旬を逃せば途端に不味くなる。一瞬の眩しさに目を奪われて「仲間」だなんて重い繋がりになって心を砕くには……賭け金と利益が釣り合わない。
キラ達の言葉を思い出す。愚直に食ってかかっていた時の顔を思い出す。若さとは甘い罪だ。その時を生きる若者は、素直に輝かしく生きる事自体が人をどれほど傷つけるか気づかないまま正義を求めてひた走る。
生まれては輝き老いては死んでいく人達を、オズは子供にも大人にもなりきれないままずっと見つめてきた。
「じゃあ、あのリディって子はどうなのよ。あなたが追っかけてる美少女。あの子のことも無駄なんて言うの?」
「いいや、あれは無駄とか有益とかそういう次元やない。あれは瞬きなんて空虚なもんやなくて……楔や。毒のように粘っこく付き纏うのに、綺麗なのは間違いないからタチが悪い、憎い楔やわ」
「ふうん。いまいちよくわからない表現ね」
「そら理解させようとしてへんしな」
オズはそう言うと、空になったカップを手に取り、ローズヒップの茶葉を戸棚から取り出した。色と香りだけ可愛らしく着飾ったレモン汁のようなこの茶葉がオズは大嫌いだった。
クローディアは先程の言葉について考えた後、急ににんまりと笑った。
「でも、口では憎いというわりに、結局あなたがその子にゾッコンなことは理解したわ。大好きならはっきりそう言ってもいいのではなくて? 捻くれ者さん」
「可愛ええ弟と子供におべべ与えて優しゅうするだけのピュアっピュアの情愛ばかりやないっちゅうことや。お若いお嬢さん」
「まあ、この年になってお嬢さんなんて呼ばれるとは思わなかったわ。あなたの真意はともかく、私はピュアっピュアだから褒め言葉として受け取っておくわ」
ローズヒップの茶葉が入ったカップにお茶を注ぐ。甘酸っぱい香りが充満する。大嫌いだったはずのものを手に取らせ、自ら毒の香りに身体を浸し、最終的に大嫌いだったはずのものを自分の意志で「大好きだ」と言うようになるように誘う。それがあの女の手腕だ。
オズがブラン聖堂に封印された時期に起こった大戦────あの争いの際、メディ、アディリシオ、そしてオズ……この三人の中心人物を全て押しのけて一人勝ちしたのは紛れもないリディだ。アディは別として、オズやメディと比べると一見気弱で善良そうに見えるリディが何故一人勝ちすることができたのか。
理由は単純で、気弱で善良、清楚で可愛らしく見えるからこそ……彼女は人を操ることが誰より上手いのだ。
オズは自分の手を見つめて考える。何故自分がここに居るのか。リディを欺き、途方も無い力を手に入れ、世界を混乱に陥れた時点で処分されて当然のはずの罪人が何故まだ生きているのか。
世界はこう言うだろう。「お前が世界をも踏みにじる悪だからだ」。だがオズはこう思う。「リディが欺かれた『ふりをした』ところから現在まで、その全てが彼女の欲の内だからだ」……と。
世界はオズを閉じ込める鳥籠で、永遠と錯覚するほどの命は鳥籠にオズを繋ぎ止める鎖だ。生きては死ぬ事が当然の世界で、リディはお気に入りの人形の命を凍らせて、永遠に自分の箱庭に閉じ込めることに成功した。あとは心さえ明け渡してしまえばオズの全てはリディのもの。
そう考えるとこの世に無駄な出来事など一つも無い。創造の女神は運命すらも創り上げるのだと。そう気づいた時、オズはあまりの気持ち悪さに寒気がした。
だから、オズは憎んだ。リディ本人も、リディに誘われ惹かれて心奪われかけている自分自身も。憎みながら愛し、愛しながら憎んだ。
「誰があれへの愛情なんぞ認めるか」
そう呟きながら、オズは淹れたてのローズヒップティーにミルクを並々と注いだ。綺麗な薔薇色も甘酸っぱい香りも一瞬で濁った。
リディに告げるものがあるとすれば、純粋な愛ではなくこの言葉だ。
『絶対に殺させてやる』
誰が神の箱庭に囚われてやるものか。誰が身も心もくれてやるものか。絶対に死んでやる。それもメディにではなく、血の侵食による自我の喪失や力の暴走でもなく、オズを生きながらえさせたリディ自身に殺させてやる。陶器人形のような顔を涙でぐしゃぐしゃにさせて、真っ白なドレスを自分の血で汚してやる。あの女神を一人残して高笑いしながら骨に、肉に、灰になって死んでやる。
それでオズ・ガーディガルの長い長い舞台に幕を下ろせるのなら、これ以上に愉快な最期は無い。
そう胸に秘めたまま、オズはミルクで薄まったローズヒップティーを飲み干した。
「全く、素直じゃない男って見苦しい。『俺の視界にはあの女以外入っていない』て言ってるようなものじゃない。女に依存するとろくな事無いわよ。女のことだけじゃなくて、友達とか家族とか、他の人間関係も大切になさい?」
「さあて、俺にそないなもん居ったっけな」
「あら、そっちも認めないのね、本当に嘘つきさんだわ」
世話焼きのクローディアは、また決して受け入れられることのない忠告をした。
「ねえ、人の世界は強者ほど暴力ではなくて言葉で築いていくものよ。穏やかに生きたければもう少し人付き合いには気を遣うべきだわ。あなたがそれほど頑なな態度を取るのにはどういう理由があるのかしら」
ノイズが走る。五十年前、ブラン聖堂の封印を解き、ウィゼードの三分の一が灰になった光景が頭に浮かぶ。小石のように無数に転がる遺体を思い返し、その全ての記憶を飲み込んで、オズは素知らぬ顔をした。
「さあな」
「ふうん、本当に困ったさん。あなた、あれだけ多くの人に構っておきながら、自分は誰一人仲間も友も家族もいらないと主張するのね」
そう聞いた時、ふと懐かしい記憶が蘇った。ふむ、と考え込み、オズはこう言う。
「いや……俺も昔は、『友』と認めてもええと、そう思えるような奴が居ったわ」
「あら、それだあれ?」
「もう土の下と悪食女の腹の中で眠っとる奴」
クローディアはまた困った顔をした。
イクス•ルピアとミラ•ルピア。キラの両親。あの二人は、ただの人の身でありながら、もはや人とは呼べないオズやリディを友達として扱った。脆弱な人の癖にオズとリディの事情に首を突っ込み、身体を張って二人の「殺され合い」を止めようとした。
特にキラはあの頃のミラとよく似ている。外見は勿論、殺されかけようと決して立ち止まらない無謀さも。オズは思い出し笑いをしそうになって、紅茶を飲むふりをして誤魔化した。
それから、先日のキラの様子を思い出してみた。キラとミラを重ねてみた。そして結論を出す。「協力、仲間……そういった重い繋がりに乗ってやる程の価値は無い」と。
人はやはり「こちら側」の世界と関わるべきではないのだ。
「さあ、あいつは何になるんやろな。俺の結論を覆すほどおもろい奴になるやろか」
キラ•ルピア。もし彼女が死神の意思を覆し、死神が創造の女神以外の存在に価値を見出し認めることができるようになったとしたら、それは奇跡と呼んで良いだろう。




