第14章:第5話
すると、オズはにんまりと哂って言う。
「へえ、キラがそないなこと言うとはなあ。でも、嫌や」
「なっ!」
あまりに子供じみた言い分に思わず声が出た。
「あれは元からセイラがゼオンに渡すように頼んだ物でしょ!」
「あのロリババアの頼みなんて知らへんわ。なんでお前らに人のプライバシー見せなあかんねん」
「もー……何、またゼオンが脱獄した時のリディさんとのやりとりのことが交換条件とか言うの?」
「いいや、あの情報の価値はとっくに消えたも同然や。条件か、せやな……キラ、お前がもうちょい俺のお喋りに付き合うてほしいって程度やな」
オズがわざわざキラを名指しで選んだので、キラは覚悟を決めてオズと向き合う。すると、オズは引き出しからあのノートを取り出した。間違いない、セイラがあの日手渡した古ぼけたノートだ。キラが手を伸ばすとオズはキラの手が届かない高所へノートを持ち上げ、意地悪く問いかけた。
「これを欲しがるっちゅうことは、お前ら、セイラが消えても尚あのクソ女神達のいざこざに首突っ込む気なんやな」
「うん。あたしはセイラの想いを無駄にしたくない」
オズは益々楽しそうに哂った。キラ自身は精一杯の想いを込めて言っているのになぜ哂うのだろう。キラは少し腹が立った。するとオズはノートの表紙を鷲掴みにして言った。
「阿呆らし。死人は何も語らへん。キラ、お前が死人の代弁者気取ってピーチクパーチク言う気なら、なんもおもろないからこれ燃やすわ。それでお前らも綺麗さっぱりこの話から手を引け」
「待って、そんな言い方! セイラを軽く死人なんて言わないで!」
「死人や。誰であろうと、死ねば語ることは許されず、意志も心も何もかも後の者に踏みにじられて曲解されて何も残らへん。それが運命や」
「あたしが絶対にさせない。絶対に、セイラの意志を守ってみせる」
キラは身を乗り出し、化物に食らいつくように告げる。この話は、キラが自分で相手をしなければならないと感じた。いずれ、いや、必ず「オズを仲間にしたい」と願うならば、オズに信じてもらえるほどの覚悟を見せなければならないと思った。しかしオズはキラの目を指して言った。
「それや。『自分だけは死者の意志を理解してる』っちゅう思い込みが、死人の意志を踏み潰すものや」
キラはぽかんと呆気にとられた。
「思い出は事実よりも美化されるものやろ? 死者への敬意や感傷に自分の都合の良い脚色を混ぜ込むのは容易いで?」
一瞬、キラは納得させられそうになった。しかし、セイラが消えた後のオズの言動を思い返しながら、低い声で言い返す。
「それは、美化だけじゃない。オズ、死者の想いは脚色しやすいことを知っていながら、セイラへのイメージを悪くするような話をわざと振るあなたには言われたくない。死者は何も語らないんじゃない。言い返さないんだ」
するとオズの笑みがこちらを見下すような嘲笑ではなく、面白い玩具を見たような笑いへと変わった。
「なるほど、今のは悪くないな。そのとおり、美化するも悪化させるも後に続く者次第や。つまり、死人の意志の話なんてしても俺にもお前にも脚色しかできへんのや。せやからそないな無駄話に興味は無い。キラ、お前自身の話をしろ言うてんねん」
「あたし?」
「そう、セイラやなくてお前や。お前はなぜこの話に首を突っ込みたがる? お前は何がしたい?」
キラは頭が真っ白になった。そう、セイラのことばかりで頭がいっぱいで忘れていた。キラ達が「部外者」である理由はそこなのだと。
「理由が無いわけないやろ。神を敵に回す理由やで? ただ物言わぬ死人の代弁者やとただのままごとにしか見えへんやないか。後ろの奴らと違って平和に生きてきたただの魔女の癖に、何度裏切られようと殺されかけようと、食いついてくる理由が聞いてみたいんや」
キラは真っ白な頭を必死で回して考える。浮かぶものはこれまで関わってきた人達の顔ばかりだった。セイラ、イオ……リラ、キラの両親……ゼオンとティーナとルルカ……ディオンやクローディア……サバトとサラ……浮かぶ顔が増えるたびに確信する。その理由は自分でもあまりに稚拙で声が震える程だ。声に出すのが恥ずかしい程幼稚なのに、結局キラはこんなところに辿り着くまでその願いを捨てられなかった。
「だって……だって、なんかみんな辛そうなんだもん! セイラもイオ君も、リディさんもメディさんも……関わった人たちみんな辛そうなのが悲しいんだもん。せめて自分でも他人でも誰かが幸せになるように争うならまだわかるのに、なんでみんな勝っても負けても悲しい争いしてるの、ばかじゃないの?」
それを聞いた途端、オズはいよいよ本気で笑いだした。キラには何故何を言ってもオズが笑い出すのか理解できない。
「みんな辛そうか、たったそれだけでそこまでするか! 若いってええなあ!」
「むう……なんか馬鹿にされてるみたいで腹立つな……。言っておくけど、『みんな辛そう』のみんなの中にはオズだって入ってるからね」
「俺?」
叶うはずがない、ただの思い込みに違いない、ありえない、そう勝手に結論づけて胸の奥に仕舞い込んでいた泥が溢れそうだ。後ろに居るゼオン達が息を飲む程に、キラはオズの一言一言に強気で食いついた。
「そうだよ。オズさ、なんで村の人達を怒らせるようなこと言うの。なんで自分を心配してくれるペルシアに冷たいこと言うの。何で自分のこと『悪』だなんて言って、憎まれるように仕向けるの」
「あの虫共が気に食わへんから。それ以外あらへんやろ」
「でも、だったら村の人達を憎むならまだしも、憎まれるように仕向けるのはおかしい。オズだけじゃなくてメディさんもそうだけど……自分から『悪者』らしくなろうとするなんて、そんなの辛そうにしか見えないよ」
オズの残虐な部分などキラはもう飽きる程見てきた。この期に及んでオズのことを聖人のように善良で心優しい人などとは言わない。だが……キラはふとレティタを横目で見る。今日は普段より寒いからか、レティタは以前オズに作ってもらったコートを着ていた。これが、キラが今でも稀に「やっぱり良い人なんじゃない?」と騙されかける理由の一つのように思う。オズが本当に本人が演じるような「悪」だとしたら、小悪魔達はこれほどオズに懐いたりするだろうか。
オズはまだ笑い続ける。キラは唇を噛む。何を言えば、この笑顔の仮面を剥がせるのだろう。キラはまだ、その為の手札すら持っていなかった。
「おもろいこと言うなあ。『悪人』になろうとしていると? それが辛そうと? こんなに笑いが止まらへんのに」
キラは先程ペルシアが言ったことを思い出した。オズの笑いを見ていると誤魔化されそうになるが、ペルシアの話を思い返すと違和感が見えてくる。
「オズさ、ルルカがネビュラ様を殺そうとした時のことで濡れ衣着せられそうになってるんだって?」
「その話か、せやな。それで?」
「なんで、こう……濡れ衣着せようとしてる人を放ったままでいるの?」
すると、様子を見守っていたティーナやゼオンが口を挟んだ。
「あーそれ、あたしも気になってたんだよね! 濡れ衣なんて面倒くさいことしてくる人、あんたが放置する?」
「脅すなり記憶消すなり取引するなり物理的に消すなり、変な主張される前に黙らせておいた方が余程面倒が無いし、お前ならやりかねないよな」
オズは紅茶を一口啜りながらゼオン、ティーナ、ルルカの顔を順に見つめ、最後にキラへと視線を戻す。オズの薄い微笑みが揺るぐことはない。その笑みが嘲笑であるのか、それとも他の感情を表すものであるのか、キラには読み取れなかった。
「なるほど、キラ。お前はちょいと見込み違いやったようや。褒め言葉やで。以前のお前はあんまりにも幼かったもんやから、俺もついつい……昔の弱虫と重ねてしもうたとこあるんやけど。少しは変わったようやな、そいつらを束ねる程には。遠いとはいえ王の血筋か。お前をクイーンの駒に例えたのは間違いやなかったようやな」
キラは首を傾げるが、やはりオズは笑い続けるだけだ。一体何を考えているのだろう。今の言葉はどういう意味だろう。そう思考が逸れそうになったところで、ゼオンがキラの肩を叩き、反射的にキラは背筋を伸ばした。
話を逸らされてはいけない。キラは再度オズに問いかける。
「オズ、どうして大人しく濡れ衣を着せられるような真似してるの」
「さあ、なんでやろな?」
「質問に質問で返さないで。……理由は、気になるけど今はいいや。今ので、オズがわざとそれをやってるってことはわかったから」
キラは大きく深呼吸した。オズから返ってくる言葉一つ一つに表現し難い圧がある。一言返すだけで凄まじく疲れる。ゼオンやセイラはいつもこのような圧を受け止めてきたのか。すごいなあ。キラはそう深く噛み締めながら、とうとうこの話を振った。
「じゃあ、オズ。もう一つ聞きたいんだけど、村の人達、皆オズにひどいこと沢山言ってたけど……十年前もあんな感じだったの。リディさんが帰ってこなかった時、村の人達の記憶が消された時」
その瞬間、オズの微笑みが急に蝋人形のような淡白なものへと変化した。やはり、あの出来事はオズにとって鬼門なのだと再確認する。
「……やっぱり、村の人達、全然話を聞いてくれなかったんだね」
「ま、そのへんは否定せえへん。あいつらあのとおりや」
「だったら、あたしはオズの立場を変えたいよ。皆の記憶が消えているからオズの言うことを信じないのなら、その記憶を取り戻したい」
キラはオズに手を差し伸べた。もし、セイラが少しでもキラの意志を汲もうと思ってあの術式を残してくれたのだとしたら、きっとこれがキラがすべきことだ。
「オズ、あたし達の仲間になってよ。皆で協力して村の人達の記憶を取り戻そうよ。そして、みんなでリディさんも連れ戻そう」
ゼオン達が息を呑む。これが今のキラにとっての精一杯の勇気だ。無知の村人の包囲網へ立ち向かうことも、リディを連れ戻すことも、イオを立ち直らせることも、メディを止めることも何もかも、皆で協力して行うべきだ。幾多の裏切りと絶望を経ても尚、キラは心の底からそう思う。
しかし、キラがどれほど勇気を振り絞ろうと現実は想いには左右されない。オズは優しく微笑んだ。
「構へんで、お互い仲良う協力しようやないか。これまでどおり」
キラは唇を噛む。最後の一文が深く突き刺さる。キラの想いは全く届いていない。「これまでどおり」一方的に利用しあい、互いの腹を探り合う関係を変える気は無い。そう言っている。
「むうぅ、オズってば、あたしだってもうそんな上っ面の笑顔に騙されたりしないんだから」
「上っ面か、失礼やなあ。楽しんどるのはほんとのつもりなんやけどなあ。ほな、信用ならへんいうんなら、俺はそれで構へんけどな」
狡い。キラは悔しくて机に立てた腕で板の表面を引っ掻いた。オズは草場の猫を見るような目でキラを見下ろしていた。
「キラ、その提案、後ろの奴らは納得しとるん?」
痛いところを突いてきた。ゼオン達は黙って見守ってくれてはいるが……おそらく、いくらキラがオズを仲間にしたいと主張しようと、これまでの行いを考えると信用できない。というのが本音だろう。
キラは歯を食いしばり、強くオズに突きつける。
「多分、まだ納得しきっていないと思う。だからこうして目の前で提案してるんだよ。オズも、皆も、必ず信じさせてみせる。信じてもらえるようなあたしになる」
「随分と意気込んどるんやなあ。なるほど、その気合いだけは認めよか。けど、自分の意志を貫くことばかりに気を取られて、視界が狭くならへんようにな」
オズの視線はキラからゼオン達へと移っていた。ゼオン達は緊迫した表情を浮かべながらも、キラを黙って見守っていた。オズは警戒心剥き出しのキラ達をからかうように笑うと、とうとうセイラのノートをキラに差し出した。
「最後に一つ。キラ、お前、クッキー焼いたんやろ? それ、ちょいと俺らにくれ。こっちもマカロンあるんや。それでちょいとお茶しよや。そしたら、このノートはお前にやるわ」
「え、クッキー? いいけど……皆、それはいいよね?」
バスケットから香りが漏れていたのだろうか。キラは戸惑いながらゼオン達に問いかける。お茶は先程したばかりだが、このくらいの事でセイラのノートを渡してもらえるのなら断る理由は無いように思えた。
「まあ、いいんじゃないかしら?」
「そうだな」
ルルカとゼオンはあっさり了承したが、ティーナは、
「構わないけど、あんまり良い気分しないから紅茶に砂糖は入れないで、全員分」
と厳しく言った。ゼオンとルルカも「確かに」と頷いた。何しろゼオンが倒れたきっかけとなる血は砂糖入れに仕込まれていたのだ。キラもそれは仕方がないと思った。砂糖が無いと紅茶は苦いが、クッキーとマカロンの甘さで中和するしかないだろう。オズはレティタに耳打ちし、お茶の準備を始めた。
「おおきにおおきに。せや、キラ。先にこれやるわ」
そう言ってオズはあっさりノートを引き渡した。結局オズは何がしたかったのだろう? 未だにオズの謎の行動の理由を推測すらできない自分が腹立たしい。
そう考えているうちに、目の前に赤銅色の紅茶が並々と入ったカップが置かれた。レティタが一つ一つ、ゼオン達の前にもカップを置いていく。皿の上にクッキーとマカロンを置き、準備が整ったところで、オズは早速キラが作ったクッキーを一つ摘んで口に運んだ。
「うん、美味いやないか。あの一家の味やな、ようできとる」
「それは、ありがと……」
キラは戸惑いながらも素直にお礼を言った。単純に皆でお茶したいだけだったのかな。そう思いながら、キラはオズが用意したマカロンを一つ口に運ぶ。濃厚なチョコレートの甘みが口に広がった。
「おいしい……!」
続けて紅茶を一口含む。チョコレートの甘みが紅茶の苦味で和らぐ。砂糖の入っていない紅茶は甘ったるいチョコレートと相性が良かった。
考えてみれば、あのパーティの際はメディ達の策で罠が仕掛けられていたが、普段のお茶の際にオズの意思で食べ物や飲み物に罠が仕掛けられたことはない。警戒しすぎだったかもしれないな、とキラは思った。ティーナもゼオンも最初は恐る恐るだったが、紅茶にもマカロンにも特別異常は無かったようで、やがて普段どおりに口に運ぶようになった。よかった……と安堵した時だ。突然カップをテーブルに叩きつける音がした。ルルカが鬼のような形相でオズを睨んでいた。
「ちょっとオズ? こんなに堂々とどういうつもり? ついさっき砂糖は入れないようにって言ったはずよね?」
「えっ、え、砂糖?」
キラが許可を貰ってルルカのカップの紅茶を飲んでみると、まるで砂糖の固まりを流し込んでいるかのように甘かった。キラのものとは甘さが全く違う。ティーナとゼオンの様子を見る限り、わざと大量の砂糖が入れられていたのはルルカのものだけのようだった。
オズの隣で俯きながら肩を竦めているレティタの姿が目に入る。まさか……とキラがレティタを問い詰めようとした時、オズが間に入った。
「レティタを責めるな。指示したのは俺や。安心しろ、正真正銘ただの砂糖や。害は無い。やろ?」
オズがルルカに視線を向けると、ルルカは絶対零度の瞳で睨み返した。
「確かに、異変は無いわね。けど、こんなつまらない嫌がらせして、どういうつもり?」
「おお、悪い悪い。ちょいと悪戯してみとうなったんや、堪忍なー。今取り替えるわ」
あまりにも単調な棒読みでそう言ったかと思うと、オズは指をパチンと鳴らして新しいカップと紅茶を用意した。恐る恐るルルカが再び紅茶を口に運ぶ。
「確かに、今度は砂糖は入っていないわね。……そもそも取り替えれば済むという問題ではないことはさておき」
ルルカは益々強くオズを睨みつけた。キラは肩を竦める。これでは皆とオズの溝を埋めるどころか深まる一方だ。オズはこのような幼稚な真似をしてまで皆を拒絶したいのだろうか。
ルルカに加えてティーナまでもがオズを睨みつけた。
「あたしが言ったことを数秒で破るたぁ良い度胸してるじゃん。ねぇ、クソ野郎」
「待って、待って二人共! 確かに今のは酷いけど落ち着こう? だって、砂糖だし、毒みたいに身体に異常があるわけじゃないし! 紅茶だって取り替えてもらったし、セイラのノートだってちゃんとくれたし!」
キラは二人を必死で制止した。こうしてオズと皆が啀み合い、対立してしまうことが悲しかった。説得の末に、どうにかルルカとティーナは怒りを抑えて席に戻ってくれた。険悪な空気になってしまったが、あとは紅茶を飲んで、お菓子を食べて帰れば済む話だ。ノートが手に入ったのだからそれだけで目的は十分達成されたはずなのだ。
そう言い聞かせて、キラ自身も席に戻る。そうしてティータイムを再会しようとした。その時だ。
「それでええんか?」
罠に掛かった鼠へ向けるような嘲笑だった。キラは何を言われているか理解できずに戸惑うが、オズは下種な笑みを浮かべ続けるだけだ。
「俺、砂糖はお前らのうち二人のカップに入れるよう指示したんやけど」
「え……?」
キラは立ち上がって三人の顔を見回す。だが、先程のルルカ以外に砂糖が入っていたことを申告する者は居ない。勿論、キラのカップにも入っていなかった。あの脳が痛くなりそうな程の甘みに気づかないはずがない。一体、どういうこと……?
すると、レティタがか細い声で言った。
「ごめん、ごめんね。その……本当に気づいていないの? ……ゼオン」
ゼオンはその一言で蝋人形のように硬直した。キラは一瞬、何を言われたか理解できなかった。
「ゼオン? 砂糖、入ってたの?」
ゼオンは黙り込んだままだった。
「入ってなかったの?」
ゼオンは一向に口を開かない。唖然とするキラの横でオズがクツクツと嗤い続ける。キラはつい先程宿屋での出来事を思い出していた。キラのクッキーを食べた時のゼオンのことを。気づくと、オズはキラの目の前に居た。
「なあ、キラ。お前はさっき俺にも、こいつらにも信じてもらえるような自分になるって言うてたな」
言った。そのつもりでいた。
「味覚の異常。いや、味覚だけでは済まへんかもな。リディの血は劇薬や。熱が下がったからもう大丈夫と思うたか。阿呆か。あの血は永遠にゼオンを蝕み続ける。これは、その結果や」
キラは唇を噛む。また、気づけなかった。オズはキラと目線を合わせると、奈落に突き落とすように告げた。
「自分を想うてくれる仲間に目もくれず、異変にも気づかず、仲間を傷つけてきた奴にばかり構う。そないな奴、誰が信用すんねん」
返す言葉は無かった。紅茶の水面に愚者の顔が映る。水面に映った自分は、悔しさで今にも泣き出しそうな顔をしていた。
ああ、こうだから何時も庇われてしまうのだろう。庇われてしまうから、優しい仲間達をまるで英雄のように錯覚し、異変に気づくことすらできないのだろう。
もっと強くなりたいな。何百万回でも繰り返した台詞をまた胸の中で呟く度に……オズは何か哀れむような笑みをこちらに向けるのだった。
無事にセイラのノートを手に入れたはずなのに、キラの胸は敗北感に支配されていた。四人が図書館を出てからしばらく歩いた後、キラはゼオンに問いかける。
「ゼオン、味覚がおかしくなってるって、本当?」
「……みたいだな。砂糖の甘味なんて……全然わからなかった」
ゼオンの声から感情の起伏が感じられなかった。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの。あたし、そんなに頼りない? どうして何度言っても一人で抱え込むの。いつになったら……」
キラは半ば八つ当たりのように怒鳴りかけた……が、途中でゼオンがはっきりとこう言った。
「違う、隠していたわけじゃない。俺自身も、今日気づいたんだよ。今日、お前のクッキーを食べて、味の感想を求められて……その時になってやっと、何の味もわからなくなってることに気づいた」
「え……」
「でも、その一回だけじゃ確証が持てなくて、もしかしたら偶々調子が悪いだけかもしれないし、一日様子を見て考えようと思った……そしたら、その二回目が……」
「さっきの紅茶、だったってこと……」
ゼオンが頷き、「自分がおかしくなってることに、俺自身すら気づかなかった」と付け加えた。キラは一瞬でもゼオンに当たろうとしたことを深く反省した。ゼオンはキラの様子を見て口を閉ざして俯く。キラはそのゼオンの表情を見て更に傷つく。
そうじゃないのに、そんな悲しい顔ではなくて、皆に笑ってもらえるような自分になりたいのに、なぜ現実は自分を嫌うのだろう。
すると、ティーナが優しく肩を叩いた。
「ほら、そんなに落ち込まないで。あんなクソ野郎が言ったことなんて気にする必要無いよ。大丈夫、誰もキラに幻滅なんてしてないし、ゼオンの感覚のことだってこれから皆で治す方法を探していけばいいんだよ」
「で、でも、オズの言ったことは事実だよ。あたし、ゼオンの様子がおかしいことにも気づかないで一人で勝手にはりきって……」
がっくりと肩を落とすキラにティーナは後ろから抱きついて額を撫でた。
「ゼオンの異変に気づかなかったのはあたしやルルカも同じ。だからキラを責める資格なんて無い。ってか、年中ゼオンを愛して止まないこのティーナちゃんが気づかなかったことにすぐ気づいたオズが気色悪すぎるんだよ」
「あはは……確かに、なんで気づいたのか不思議だけど」
「だから、キラが悲しむ必要は無いの! 出会った頃はただのお子ちゃまだと舐めてたけど、今はみんなキラのこと大好きなんだから! ぎゅーっ!」
ティーナは優しい。いや、ティーナも出会ったばかりの頃は陽気に振る舞いながらもこちらを警戒していたように思う。だとするとこの励ましは一種の信頼の証なのかな。そう思うと、僅かに気分が安らいだ。
それから、ティーナはゼオンに声をかける。
「それよりゼオン、今のところ症状は味覚だけなの? 昨日はちゃんと味はわかってたの?」
「多分……。違和感は特に無かった、はず」
「はず、とは?」
「……いや、自分が信用できないんだよ。さっきのことも、ああも『味覚が消えてる』ってはっきり指摘されなかったらきっと深く考えずに流して忘れてた。自分でも驚いているくらいなんだ」
ぞわり、と胸騒ぎがした。以前見た幼いゼオンの夢を思い出した。ゼオンの苦しみを一人で抱え込む癖は幼い頃からの出来事が原因なのだろうか。だとしたら自分の苦しみに気づきすらしないことも、もしかするとその延長線上のもの……?
キラがそう考えていると、ティーナはじっとゼオンの顔を覗き込んだ。
「ううん、自分自身すら気づいてないかぁ。それも血の影響だったりするのかな」
「わからない。今のところわかるのは味覚の異常だから、戦闘では迷惑かけなさそうなのが幸いだけどな」
「いやぁ、ティーナちゃぁんとしては、ゼオンの今の一言に『そういうとこだよ』って言いたいけどね。どっからどこまでが血の影響なのかわからないとこが太刀悪いな」
冷静にそう話していたが、ティーナの表情は険しかった。余裕があるように振る舞っているものの、心配で堪らないのだろう。
キラは唇を噛む。悔しい。オズが唐突にゼオンの味覚の異常を指摘したのは、キラの「オズを本当の意味での仲間になりたい」という淡い願望に対する「お断り」の返答だ。結局オズの思惑に乗せられていることは理解しているのに、こうもはっきり正論を突きつけられてしまうと否定して進むことはできなくなってしまう。
どんな時でも自分を助けてくれたゼオンの異変を放って進むことはできない。それをしてしまったら、キラのしていることはこれまでキラの信頼を裏切ってきた人達と大差無いのではないか。
キラがまた俯きそうになった時、ルルカが肩を叩いた。
「貴女が何をそんなに落ち込んでいるのかさっぱりわからないわ。セイラのノートはちゃんと貰えたのだから何も傷つく必要無いじゃない」
「そういう話じゃないよ。ゼオンの様子がおかしいのなら、確かに先にゼオンの心配をすべきだし……」
「ゼオンの異変をどうにかしたいなら尚更足を止めるべきじゃないわよ。味覚の異常の原因はリディの血なのでしょう? なら尚更あの神々連中とオズのことについて詳しく知るべきよ。あの神々についてもっと情報を得なければ血の性質や対処法もわからないし、オズはゼオンと似た道を辿ってるのだからあいつの過去は何か対処法を考える参考になるかもしれないわよ?」
そう言われた瞬間、キラの視界が晴れた。顔を上げると、ティーナが微笑み、ルルカは足を止めてキラを待っていてくれた。
そして、キラの隣にはゼオンがこれまでと変わらず立っていてくれる。
「ルルカの言うとおりだ。現状、あの血がもたらす影響と対処法を知ってそうな奴はあの神々とオズしか居ない。目標を何処に定めるとしても、やることはこれまでの想定と変わりないだろ」
「そう……だね。あんた、もっと怒ってもいいんだよ」
「何にそんなに怒る必要があるのかわからない」
「……ばかだなあ、あんたも」
ゼオンが普段通り仏頂面でそう言ってくれることに安心した。
「お前が思う程、誰もお前に失望したりしていない。だから、安心しろ」
キラは深く反省した。これまで自分が当たり前のように他人に期待していた想いとはどれほど重いものだったのか。そして、三人の想いに心の底から感謝した。敵か味方もわからないこの世界で、こうして皆がキラの傍に居てくれる。それがどれほどに貴重なことか。これまで重ねてきた時間がどれほど尊いものだったのか。その重みを噛みしめながら、その重みに釣り合う自分になれますようにと。祈りを込めてキラは想いを伝えた。
「ありがと……本当に、ありがと! みんな、みんな大好き!」
太陽のような笑顔を見て、ゼオンは密かに安堵した。これでいいのだと。




