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ある魔女のための鎮魂歌【第2部】  作者: ワルツ
第13章:儚き影の独唱
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第13章:第21話

その日、キラは夢を見た。


通常、夢の中で「これが夢だ」と知覚できることは極めて稀だが、その夜は即座にそれを認知した。それは夢と呼ぶにはあまりに鮮明で、そして自分とはかけ離れた世界だったからだ。

そこは豪華絢爛な屋敷の廊下だった。床は大理石で赤い絨毯が敷いてあり、天井を見れば廊下なのにシャンデリアが等間隔で並んでいる。隅々まで飾り立てられた屋敷は美しかったが、自分の現在位置がわからなくなる事が玉に瑕だ。少し歩いて窓か出入り口を探そうとしたところ、遠くに六歳程の茶髪の幼い少年の姿が見えた。その少年の横顔はキラの良く知る人物の面影があった。


「ゼオン……?」


炎のような赤い瞳に機械のように変動することの無い表情が今のゼオンとも良く似ている。ただ今と大きく違う点は、光を亡くしたように沈んだ眼をしていた点と、右耳に見慣れない黒いピアスを付けていたことだった。

ゼオンは人目を避けるように無人の廊下を選びながら何処かへ向かっていた。すると、遠くに十六歳程の麗しい少女と十二歳程の整った顔立ちの少年の姿が見えた。少年は気まずそうに黙り込んでいたが、少女は大きく手を振って幼いゼオンを呼んでいた。


「あら、ゼオン! ちょうど良いところで会えたわ!」


少女は小さな包みを手に持っており、そう声をかけるとすぐにゼオンに駆け寄った。少年は少女を一瞬止めたが、少女が話を聞かずにゼオンに駆け寄る姿を見るとすぐに少女の後を追った。


「久しぶりね、ゼオン。よかった。あなたを捜していたのよ」


少女はウェーブがかった滑らかな髪をしており、隣の少年は将来多くの女性が釘付けになりそうな程の美人だった。二人とも翡翠色の瞳をしていることから考えると、少年はゼオンの兄のディオン、少女は姉のクローディアだろう──いや、この時代ならばシャロンと呼ぶべきだろうか。

シャロンが優しくゼオンの頭を撫でると、ゼオンはすぐにその手を退けた。


「俺に関わるなって、何度も言っただろ……」


「久々に屋敷に戻ってきたのだもの。私はゼオンに会いたかったのよ」


「……俺と話すと父様に怒鳴られるんじゃないのか」


「父様は西館にいらっしゃるから今なら見つかることは無いわ。ねえ、留守の間大丈夫だった? あの方に酷い目に遭わされたりしていないか心配だったのよ」


ゼオンは冷たくシャロンを遠ざけていたが、シャロンはそれでもゼオンに優しく声をかけ続けた。二人の話から察するに、この時期はゼオンがクロード家の人々から忌み嫌われていた時期だったらしい。実際、シャロンは臆する事なくゼオンに近づいていったが、ディオンは若干ゼオンよりもシャロンを気遣っているようだった。


「姉さん、早く行かなければ父様が心配する。早く……」


「もう、ディオンはせっかちね。私はゼオンにお土産を渡しに来たのよ。それくらい待ってくれてもいいじゃない」


「だが姉さん、その……あの人の魔力を感じる。急いだ方がいい」


その言葉を聞いた途端、シャロンの表情は険しくなり、ゼオンの表情は少し怯えた顔をした。

キラには「あの人」の正体はわからなかったが、ゼオンがこのように怯える姿は初めて見た。初めて出会った時からそうだ。強大な敵を目の前にしてもゼオンは「怯える」ということをしない。例え自分の身を傷つけられて血に塗れたとしても、ゼオンは淡々と戦い続ける。だからこの時のゼオンの表情は貴重だった。

シャロンはディオンの忠告を聞くと、包みの中身を取り出した。


「そう、それは確かに……少し急いだ方がいいわね。ゼオン。これ、ゼオンにお土産よ。どうぞ」


小さな箱を開けると、そこにはゼオンがつい最近まで付けていた小さな金のピアスが入っていた。今のゼオンならとにかく、目の前のまだ幼いゼオンにピアスというのは少し妙な土産だった。

ゼオンは箱をシャロンに押し付けて冷たく言い放つ。


「いらない。興味無い。大体、俺はまだ子供なのに、どうしてピアスなんて……」


「それは、こちらの台詞よ」


そう言うと、シャロンはゼオンの耳に重くぶら下がった黒いピアスに触れた。六歳の子供の耳には重すぎる禍々しいデザインのピアスだった。シャロンが耳に触れると、ゼオンは慌てて後退りした。


「やめろ、それ……触るな」


「そのピアス、どうしたの。まだ耳に穴を開けてピアスを付けるだなんて早いでしょう。どうして付けているの。それ……変な魔力を感じるわ」


「いいから、いいから消えてくれ。構わないで……」


そして、シャロンはその黒いピアスをゼオンの耳から外した。その途端、ゼオンの首が無数の赤い傷で覆われた。首だけではない。白いシャツの下にも薄っすらと赤い線が何本も見える。

それを見た瞬間、キラの脳裏にゼオンが倒れた時に見た首筋の傷が浮かんだ。傷を隠す癖はこの頃からあったものなのか。

シャロンはその傷を見た途端、幼いゼオンを抱き締めて頭を撫でた。


「やっぱり……! ねえ、一体その傷はどうしたの? あの人のせいなの? 早くお医者様に見せた方がいいわ。こんなの……」


「やめ、やめろ……放せ、やめてくれ!」


ゼオンはシャロンを突き飛ばした。ゼオンは明らかに怯えた様子でシャロンから距離を取った。それを見たディオンがシャロンに駆け寄る。


「姉さん!」


「ディオン、いいのよ。大丈夫」


それでもシャロンはゼオンの警戒を解こうと優しく話しかけ続けた。


「驚かせてごめんなさい。その怪我のことが気になってしまって……」


「いいから、もう、いい。俺に関わると録なことにならないって、わかってるだろ……!」


「それでも、それでもよ。ゼオン。あなたを独りぼっちにはしたくないのよ」


ゼオンのこの気の遣い方はキラにも見覚えがあった。初めてディオンが村にやってきた時もゼオンは冷たくこちらを突き放してキラを危険から遠ざけようとしていた。

この幼いゼオンも同じだ。本心ではシャロンとディオンが大切で、傷つけたくないと願っている事は痛い程に伝わるのに、口は禁句を冷たく紡ぎ出した。


「俺を独りにしたのは、姉貴。お前自身なのに?」


シャロンの表情が凍りつく。そう、キラはもうゼオンの過去を聞かされている。ゼオンが吸血鬼の血を引くことを暴き、一族から孤立させた張本人はシャロンとディオンだ。ゼオンの言葉は残酷な程に正しい。


「罪滅ぼしがしたいなら、その意味は無い。別に俺は姉貴達に報復しようだなんて考えない。ただ、迷惑だから立ち去ってくれ」


そう言ってゼオンは来た道を戻ろうとした。しかし、シャロンはそれでも諦めなかった。手を伸ばして、ゼオンの腕を掴む。


「待って」


「……っ、放せ……」


「せめて、お土産だけは受け取ってほしいわ。ほら、こっち向いて」


ゼオンは手を振りほどこうとしたが、シャロンは決して放すことは無かった。ゼオンは暫く悪態をつきながら黙り込んでいたが、とうとう諦めてシャロンの方へと振り向いた。

シャロンは安堵の笑みを浮かべながら、お土産の金のピアスをゼオンの耳に付けた。先程の黒いピアスと比べると小さい上に軽そうなデザインで、耳への負担も少ないようだった。ピアスを付けた途端、淡い翠の光が宙を待った。その途端、ゼオンの身体じゅうの傷が少し塞がり、赤味も引いていった。


「それ、少しだけ治癒の力が宿っているの。応急手当てくらいの効果はあるはずよ」


ゼオンは困ったようにシャロンから目を逸らして黙り込んでいた。シャロンはゼオンの頬を撫でながら言った。


「ゼオンの言うとおりよ。あなたを独りにしてしまったのは私だわ。本当にごめんね。でも、だからこそ、放っておけないのよ」


「……馬鹿だな。本当に」


「わかっているわ」


「…………その、あり……が……」


言葉の最後ははっきりと聞こえなかったが、ゼオンの想いはシャロンに伝わったようだった。姉弟の不器用な優しさを垣間見たような気がした。ゼオンは本当に良い姉を持ったと感じた。シャロンは幼いゼオンにとって貴重な支えだったのだろう。しかし、この悪夢は、ここから始まったのだ。

和やかなやり取りをしていた二人の横で、急にディオンが緊迫した声を上げた。


「まずい、姉さん!」


「何、ディオン。突然どうしたというのよ」


「……あの人だ」


ディオンはそっと廊下の反対側を指した。遠くに一人の女性が立っていた。背筋が凍る程の美女だった。長い茶色の髪をサイドに纏め、身体のラインがくっきりと出るドレスを身に纏っており、瞳はゼオンと同じく炎のように赤かった。キラは一目で確信した。彼女こそが、ゼオンの実の母親だ。名前は記録書で見た覚えがある──たしか、ゼルナーシャだ。

彼女の姿を見るなり、ゼオンの表情は凍り付き、シャロンは即座にディオンの前に立ち、ゼルナーシャから遠ざけた。


「ディオン。先に父様の所へ行きなさい。呼んでいたのでしょう」


「馬鹿言うな、姉さん! 姉さんを一人で置いていけるわけないだろう」


すると、シャロンは冷静に言った。


「全く、おねーさまの言うことが聞けないなんて悪い弟だわ。邪魔だと言ってるのよ。よく考えなさい? この中で、一番あの女に目を付けられるとまずいのは、次期当主になる可能性が一番高いあなたなのよ。あいつはどんな手を使ってくるかわからないわ。とにかく付け入る隙を与えないで。目を合わせずに、早く行って!」


「くっ……なら、姉さんは?」


「私は、ちょっとあの女に言ってやりたいことがあるのよ。女の敵は女ってね」


そう言うと、シャロンはゼオンに接する時とは全く違う挑戦的な表情を見せ、指をボキボキと鳴らしながらゼルナーシャを睨みつけた。

ディオンはシャロンを止めたが、状況は理解しているようだった。やがてディオンはシャロンにこう告げる。


「なら、俺は父上に伝えておこう。あの人の勝手を許さないようきつく言っておいてくれって」


「そうね、それがいいわ。頼んだわよ」


「父上に話をつけたらすぐ戻る。姉さん、気をつけろよ」


そして、ディオンは素早くその場を立ち去った。ディオンの姿が見えなくなった後、ぼそりとゼオンがシャロンに告げる。


「姉貴も、早く行けよ。多分用があるのは俺だ。わざわざ巻き込まれる必要は……」


すると、シャロンはゼオンの髪の毛をくしゃくしゃと撫で回し、威勢よく言った。


「馬鹿ね。独りにしないわ」


シャロンはゼオンの頭をポンと軽く叩く。そして、二人の前にその人は立ちはだかった。ゼルナーシャ・クロード。ゼオンの実の母であり、シャロンとディオンの母の死後、父を一瞬で我が物とした女性だった。一見すると淑やかな女性に見えるが、仕草や目つき、ドレスの趣味など、所々言葉で表現し難い妖艶さがあった。

ゼルナーシャはゼオンを目で捉え、続けてシャロンの姿を捉えると、まずは柔和に微笑みながら挨拶した。


「あら、ごきげんよう、シャロンさん」


「ごきげんよう、お義母様」


「ゼオンを捜していましたの。あなたが見つけてくださったのね。助かるわ。さあゼオン、行きますわよ」


ゼルナーシャはゼオンに手を差し伸べたが、ゼオンは凍りついた表情のまま動かなかった。すると、シャロンは二人の間に無言で壁を作った。 ゼルナーシャは笑顔を崩さず、口調だけは穏やかにシャロンに問う。


「あら、シャロンさんどうなさったの? 私、ゼオンとお話したいことがございますの。退いてくださらない?」


「その前に、私はお義母様に少しお話したいことがございます」


すると、ゼルナーシャは僅かに鼻で笑いながらシャロンに問うた。


「構わなくてよ。シャロンさん、お話って何かしら」


「ゼオンの首から身体にかけて、信じられない数の傷があるようなのですけどこれはどういうことなのですか?」


「子供の悪戯でしょう。この年頃の子はふとしたことで怪我をするものですわ」


「首やシャツの下、服で隠れるような場所ばかり、これほど集中的に?」


「偶然ですわよ。ねえゼオン?」


ゼルナーシャはねっとりと舐めるようにゼオンに囁いた。普段鈍感なキラでさえ、一瞬で理解できてしまった。この心ごと絡め取ってしまいそうな妖しい声色は母から子に向けるべきものでは決して無い。

シャロンはゼオンを庇い、ゼルナーシャから守り続けた。棘に満ちた言葉でゼルナーシャに対抗した。


「見え透いた嘘ね。我が子を傷つけ、あろうことか魔法具で傷を隠させて、親として恥ずかしくないんです?」


「親? シャロンさんてば、変わったことを仰るのね」


ゼルナーシャは口元に手を当てて「ふふふ」と笑った後──信じられないことを言い放った。


「私の腹から沸いて出たものを私がどう扱おうと自由ですわ。私の所有物ですもの。そうでしょう?」


キラは耳を疑った。恐らくシャロンもそうだっただろう。この人はゼオンを「もの」だと断言した。我が子どころか尊重すべき生命とすら認めず、「所有物」だと言い放った。まるでキラの胸中を反映しているかのように、シャロンの目は怒りと軽蔑で染まっていった。


「なんてことを! ゼオンを物扱いだなんて! そんな下品な方に大切な弟を任せるわけにはいかないわ! 立ち去りなさい! ゼオンは私がお医者様に連れていって、この傷を治療してもらうわ!」


「弟? あなたにその子を弟などと呼ぶ資格があって? その子を一族から孤立させておきながら偉そうなことを仰るのね。とんだ偽善だわ」


「偽善は承知の上よ。たとえそう罵られようと、ゼオンがあなたの所有物扱いされるのは見過ごせないわ」


シャロンはあまりに純粋にゼオンの身を案じていた。ゼオンがシャロンを気遣って母の下に戻ろうとしても、必死に盾になった。

二人の抵抗をゼルナーシャは草場の猫を見るように嘲笑った。


「うふふ、滑稽だこと! 所有物扱いが許せないですって? 自分の身から生まれた物に権利が必要とでも仰るの? シャロンさん、あなた、ご自分の汗やフケの権利を主張したりするというの?」


「滑稽なのはあなただわ。子供を汗やフケと同一視するあなたが一番狂っているのよ!」


「うふふ、あはは! 私が狂っているですって? 私、ただ愛しているだけなのに!旦那様が大好きで、旦那様と私の一部をこれほど愛して愛して愛しているだけなのにぃ」


女の戦い、という言葉が一番よく似合う。互いに毒に満ちた言葉をぶつけ合って火花を散らしていた。その様子を見つめていたキラは──やはりシャロンの方を応援したくて仕方がなかった。ゼオンが母親の元に戻ればまた傷つけられることは目に見えていた。

シャロンとゼルナーシャが口論している間、小さなゼオンはシャロンの後ろでシャロンの背中を無言で見つめていた。キラはこの幼いゼオンと今のゼオンにかなり大きな隔たりを感じた。確かに元から一人で物事を抱え込もうとする癖はあったが、今のゼオンならば母親に大人しく痛めつけられることなど無いだろうし、この状況で為すすべなく黙り込んでいることも無いだろう。この頃のゼオンが今のように強く在れなかったのは、年齢のせいが大きいのかもしれない。幼い子供にとって、母親の支配力は大きいはずだ。


「それにしてもゼオン、あなた、私が折角あげたピアスを外したのね。悪い子ね……後でお仕置きが必要だわ……ふふ、うふふふ……!」


ゼルナーシャの不敵な笑いにゼオンは小さく震え上がる。ふとゼオンが視線を母親の顔へと向けた時、ゼルナーシャはゼオンに手を差し出して手招きした。彼女の指には巨大な宝石の指輪が幾つも嵌っており、手の甲には魔法陣が刻まれていた。そして指輪の宝石が煌めいた瞬間、キラは「あ、魔法を使う気だ」と気づいた。

その瞬間、翡翠色の光が陣を描いてルビー色の閃光を弾いた。シャロンは羽根部分に魔法陣が刻まれたペンを握りしめ、ゼルナーシャの魔法に対抗していた。


「防御結界……一応仕込んでおいて正解だったわ。屋敷の中での戦闘行為は禁じられているわ。この件はお父様にきっちり報告させていただくわよ」


「戦闘? 私、そんなことしていなくてよ? 言いがかりはよしてちょうだい」


周囲を見回すと確かに建物に損傷は見られない。攻撃魔法ではないことを理由に惚けているようだ。


「補助魔法……そうね、精神汚染系の魔法かしら。ゼオンを洗脳でもするつもり?」


「人聞きの悪いことを仰るのね。親の躾に口を挟まないで頂きたいのだけど」


そう穏やかに微笑んでいる最中も、ゼルナーシャの指の宝石は瞬き続け、シャロンの張った防御結界の向こう側のゼオンを狙い続けていた。キラはすぐに気づいた。ゼルナーシャという女性、卓越した魔法の使い手だ。今のゼオンと同等か、それ以上と言っても過言ではないだろう。詠唱無しで様々な魔法を使いこなし、周囲の建物には損傷を与えずにシャロンの防御結界だけを切り崩す手段を身に着けていた。

対して、シャロンの装備は万全とは言い難かった。そもそも触媒として使っている羽根ペンは本来このような魔法のぶつけ合いに使うべき代物では無いのだろう。シャロンの後ろで、ゼオンは小さく訴え続けていた。


「無理だ……だから構うなって、言ってるのに……」


ゼオンの言葉通り、シャロンが張った防御結界は徐々に削り取られ、追い詰められていく。起こっている出来事は紛れもない魔法と魔法の争いであるはずなのに、ゼルナーシャは「ただの口論」を装って牙を剥こうとしていた。

そして、とうとう翡翠色の光が消え去り、結界が破れ去った。シャロンはすかさずゼオンを庇った。だがゼルナーシャが指を向けた先はゼオンではなく、シャロンの眼だった。


「血の繋がりは無いとはいえ、母ですもの。教育してさしあげるわ、シャロンさん」


指の宝石達が煌めいた時、ゼオンが声を上げた。


「もう止めろ」


ゼオンはシャロンの静止を振り切ってゼルナーシャのもとへと向かった。母親は満足げに微笑み、幼いゼオンの顎を掴んで自分の傍へと引き寄せた。


「あらゼオン、ちゃんと言うことが聞けましたのね。良い子だわ」


「話は聞く……聞きます。だから……」


「ええ、シャロンさんのことを許してあげてほしいのよね? わかっています。あなたの母ですもの。素直な子にはちゃあんとご褒美があるものですわ」


その瞬間、指の宝石達の光は収まり、シャロンにそれ以上危害が加えられることは無かった。ゼルナーシャは恍惚の笑みを浮かべて幼いゼオンを引き寄せ、シャロンは悔しそうに唇を噛んだ。


「ゼオン。そんな馬鹿なことしないで……」


そう訴えても、もうゼオンがシャロンの方を振り向くことは無かった。吐き気がした。キラの脳裏で記憶が共鳴した。ゼオンのこのような「守り方」は何度も見覚えがあった。そして、ゼオンが自分の身を犠牲として差し出す瞬間は何時もキラをはじめとした仲間を守りたい時だった。

ゼルナーシャはゼオンの首から顎にかけて指でなぞりながら問いかける。


「さあ、行きますわよ。ちゃんと言うことに従えますよね。さあゼオン、お返事は?」


「…………はい、従います……お母様」


その一言は、キラの記憶の中の何かを砕いた。

ゼルナーシャは満足げに微笑むと幼いゼオンの腕を強引に引いて連れ去ってしまった。シャロンは遠ざかるゼオンの背中を見つめ、唇を噛んで悔しそうに叫ぶ。


「…………くそっ、くそくそくそくそクソッ! ゼオン……ゼオン……私が頼りないばっかりに……!!!」


キラはシャロンと同じく歯を食いしばりながら小さなゼオンの背中を見つめていた。母親に服従するゼオンの姿はキラの中のゼオンのイメージと一致しなかった。ゼオンはいつも勇敢で、どのような敵にも億せず立ち向かって……まるで童話の勇者のような一面ばかり見てきた。無力な幼いゼオンはキラの中のゼオンのイメージを傷つけた。

しかし、同時に記憶は「これもゼオンの一部だ」と囁く。キラの為にならオズやセイラに従うゼオン、仲間の為になら危険の最前線にも億せずに向かうゼオン。そして、この幼いゼオンはあの時のゼオンの印象と特に深く結びついた。誕生日の祝いの日、女神リオディシアの血を飲まされ、熱を出した時のゼオンの姿。

夢の中であるはずなのに頭痛がした。アズュールの戦いの時、絶体絶命の瞬間に現れたゼオンを見て、キラはゼオンのように強くなりたいと願った。まるで英雄のような、ヒーローのような、お姫様を助ける王子様のような勇敢さに憧れた。

そのはずなのに、この悪夢はその勇敢さとは真反対の面を映し出していた。幻滅した──という感覚とは少し違う。ゼオンが倒れた日、自分の中で崩れたゼオンのイメージが更に強固になる。

しかし、それでもこの悪夢は終わらない。キラにはこのまま幼いゼオンを黙って見送ることはできなかった。自分には干渉のしようがない悲劇だと理解していても、キラの足は自然とゼオンを追っていた。


小さなゼオンは半ば引きずられるように母親の部屋と思しき場所に連れて行かれた。歩いている最中、キラはゼオンが時折ポケットの中に手を入れたり、不自然な動作をしていることに気づいた。何かタイミングを見計らっているようだった。

ゼルナーシャは自室の扉を開くと、先にゼオンを中に放り込む。大きなダブルベッドが一つあり、鏡や戸棚、小さな椅子とテーブル──一見何の変哲も無い寝室だ。灯りもついていない寝室へゼオンが足を踏み入れると、突如何かがゼオンの足を絡め取った。ゼオンはバランスを崩して倒れ込み、その隙に更に別の黒い物体が手足を絡め取る。すると、ゼオンはポケットの中から小さな赤い石を取り出して呪文を唱えた。


「火の精よ、我が声に耳を……ぐ、うっ……!」


しかし、呪文を唱え終える前に黒いリボンがゼオンの口を塞いだ。僅かに生まれた炎はゼオンを救う前にかき消され、ゼオンは両手を頭の上で縛られた状態でベッドの縁に叩きつけられた。


「全く、魔法で抵抗しようだなんて生意気なことを覚えたわね」


母親ゼルナーシャはシャロンの前での柔和な振る舞いは捨て、乱暴にゼオンを壁際にもう一度叩きつけた。それから再び魔力の篭った指輪をゼオンへと向ける。壁に魔法陣が浮かび、ゼオンは魔法陣に吸い寄せられ、黒いリボンで二重に拘束された。やはり、この人の魔法の腕は凄まじいとキラは再確認する。ゼオンに決して抵抗の意志が無かったわけではなかった。ポケットに小さなナイフを、隙あらば呪文を唱えて逃げ出そうと努めていたが、ゼルナーシャはゼオンのあらゆる抵抗を潰して無力化した。


「さて、そろそろあなたの反抗も終わりのようね。お説教を始めますわよ」


「な……んで……」


「なぜ気づいたかって? たいしたことじゃないわ。ただの勘よ」


キラの背筋が凍りついた。「ただの勘」──それはゼオンの口癖だった。言い回しから声色までゼオンとよく似ており、キラに「紛れもなく彼女はゼオンの実の母だ」と突きつけてくる。

小さなゼオンは長く抵抗していたせいで疲れ切っているようだった。ゼルナーシャはゼオンの胸ぐらを掴んで囁いた。


「あの二人と話すんじゃないって何度も言ったわよね。本当に悪い子」


ゼルナーシャが指輪が嵌った人差し指をゼオンに向けると雷がリボンを伝ってゼオンを苦しめ、更に蠍の形の使い魔がリボンを伝ってゼオンの首に毒針を刺した。


「これでもう逃げられないわね。安心なさい、身体を麻痺させるだけの毒だから死にはしないわ。親子水入らずでゆっくりお話しましょうね」


幼い頃に亡くしたとはいえ、親から確かな愛情を受けて育ってきたキラには想像を絶する光景だった。子を叱るのに魔法を使う親があるか。あろうことか使い魔を使って毒を打ち込む親があるか。所詮夢、事実かどうかはわからない。そう思い込もうとしても、幼いとはいえゼオンが痛めつけられている様子はキラには衝撃が大きかった。

毒が回って身体が痺れてきたのか、最初は苦しそうに声を上げていたゼオンは徐々に呂律が回らなくなり衰弱してきた。ゼルナーシャは比較的新しい魔術書を取り出してとある頁を開いた。


「さて、今日のお仕置きは……『心殺しの術式』。これにしましょうか。ヴィオレの連中の試作の術式らしいけど、本当にうまくいって精神だけ殺して器を確保できたら嬉しいですわよね」


この人何を言っているんだ? 正気? 自分の子を何だと思ってるの? これまでキラは何度も他者の記憶や過去を覗き見てきた。多くの理解し難い人々とも出会ってきた。しかし、これ程に強く「理解したくもない」と思わされた人物は初めてだった。これ程の拒絶心、あのメディレイシアにさえ抱かなかったのに。


「百万の欲を呑んだ禁忌の扉よ……此の者の心を喰らい尽くせ……ル・カッスール・エスポア!」


ゼオンの胸の前に扉のような形の紫の魔法陣が現れる。黒いリボンがゼルナーシャの意思のを反映するようにその扉をこじ開けようとした。ぐったりと倒れ込んだ幼いゼオンの口から悲痛な声が漏れる。


「……ぐ……っ、や、……っ、い、た……」


「ああ痛い、大丈夫? 内臓とかが傷ついたりしたら困るのだけど。なるべく傷つかずに精神だけ消えてちょうだいな。残った器は私が大事に大事に扱ってさしあげるわ」


しかしその瞬間、魔法陣に無数の亀裂が入り、爆発して砕け散った。


「何これ、失敗じゃない! 全く、ヴィオレの連中も使えないわね!」


ゼルナーシャは本を投げ捨てて憤慨し、キラは密かに安堵した。しかし彼女の欲と怒りはその程度で収まるはずもなく無抵抗のゼオンの顔を引き寄せて言い放つ。


「全く、なんでお前の精神はこうもしぶといのよ。早く絶望して死になさいよ。その器だけ、旦那様の器だけ差し出しなさいよ」


そう言うと彼女は幼いゼオンの腹をヒールで踏みつけた。ゼオンは虚ろな目のまま苦しそうに呻くだけだった。


「あなたの精神に価値など無いの。私が興味があるのはその顔と身体だけよ。ねえ旦那様、旦那様?」


ゼルナーシャがそう囁くと、黒いリボンがゼオンの赤い目を隠す。ゼルナーシャは再び恍惚の表情を浮かべて涎を垂らした。正気とは思えない声を上げてゼオンの頬に触れた。


「あぁ……ああ、あああああああああああ……やっぱり顔だけは似てるわ、旦那様、旦那様旦那様旦那様旦那様! うふ、ふふふふふ……愛してるわ、愛してるわ愛してるわ愛して愛して愛して旦那様! 私達の愛の証、うふふ、ふふふふふふふふふふ!」


キラは今にも吐きそうだった。これが、ゼオンの母。挙動、言動、行動、何一つ共感できそうに無かった。どれほど外見の醜い怪物よりも邪悪な破壊神よりも醜悪な化物だと感じた。


「愛してるわ、旦那様」


キラの激しい絶望はやがて強い怒りへと変わっていった。ゼオンを「もの」扱いした口でゼオンに話しかけることが赦せない。ゼオンを痛めつけた指で首に、頬に、耳に触れることが赦せない。

第一……


「旦那じゃない……だろ……!」


ゼオンが手の拘束を片方振り切って母親の手を引っ叩いた。手をはたかれたゼルナーシャは途端に冷めた目でゼオンを見つめた。


「本当に、害虫のような精神だこと。全く、悪い虫に近づけるものじゃないわね。早く処分しなきゃ」


そう言うと、ゼルナーシャはゼオンの肩を壁に押さえつけ──ゼオンがシャロンに貰った金のピアスに触れた。「害虫」の意味を教えこむように彼女はゼオンの耳を舐めながら囁いた。一度は母親の支配を振り切ったゼオンの目が途端に光を失っていった。


「綺麗なピアスね。シャロンさんに頂いたの? うふふふ……ふふふふふ……今度、ちゃあんとお礼しなくてはね」


ゼオンの声が出なくなる。ああ、これはキラもよく知っている。ゼオンはこの手に、弱い。


「今日はディオンさんとお会いできなくて残念でしたわ。シャロンさんはともかく、彼はとっても綺麗な殿方なのに。ええ、ええ……真っ先に潰してさしあげたくなる程に。そうしたら、ほら、ゼオン。あなたももしかしたらクロード家の当主になれるかもしれないでしょう?」


「やめろ……それは……」


ゼオンの声は震えていた。ゼオンが本心では兄と姉を大切に想っていることは痛い程に知っている。


「うふふ、ならゼオン、あなたに良いことを教えてあげますわ」


そう言って、ゼルナーシャは一旦ゼオンから離れた。そして、アクセサリー入れから何かを取り出した。それを見た途端、キラは心臓が止まるかと思った。

ゼオンの見舞いに行った時に見た黒いチョーカーだった。ゼルナーシャは幼いゼオンの首にそれを付ける。途端に、ゼオンの全身の傷は隠されて見えなくなった。

ゼルナーシャはチョーカーと首の隙間に指を滑り込ませながらゼオンに囁いた。


「人の『守り方』を教えましょう。それはね、あなたが盾になることよ。あなたが傷ついてほしくないと願う人、そのあらゆる痛みをあなたが引き受けるのよ」


息が詰まりそうになる。その言葉はゼオン以上にキラに衝撃を与えた。そのような歪んだ『守り方』を受け入れたくないはずなのに、それはあまりにも自然にキラの記憶と一致した。キラが絶望に染まりそうになった時、キラの前に勇ましく立ち、守ってくれたゼオンの姿と。


「誰もが痛みを味わいながら生きているの。だからあなたに守りたい人が居るのなら、その痛みを代わりに背負いなさい。その痛みを引き受けても耐え切る程に強くなりなさい。人を『守る』とはそういうことよ」


ゼルナーシャはゼオンを押さえ込み、耳を通して脳に『守る』という呪いの言葉を刷り込んだ。

杖に身体を乗っ取られた時、アズュールでサラと戦った時、イオに裏切られた時──キラを守ってくれたゼオンは輝いて見えた。その在り方が歪んだ自己犠牲の上に成り立っていたと信じたくなかった。これが憧れたヒーローの土台だと信じたくなかった。

今すぐここから幼いゼオンを連れ出したかった。手を引いて駆け出したかった。しかし、狂った母親はゼオンとよく似た長い指を背中へと回し、誰の手も届かない場所へ誘うのだった。


「だから、優しいお姉さんとお兄さんを守りたければ、あなたが『良い子』にしてるのよ。私は、良い子にはちゃあんとご褒美をあげますからね」


ゼオンは手を振り払って拒絶したが、六歳の儚い力では到底逃げられなかった。彼女の唇がゼオンの首筋へと近づき、唇から尖った犬歯が見えた時、キラは生まれて初めて怒りを超えた感情を抱いた。

キラは我慢できずに、大きく息を吸って力いっぱい叫んだ。


「違う、違う違う違う違う違う! そんな守り方間違ってる! 絶対に、絶対に、絶対に認めない!」



その瞬間に、夢は覚めた。瞼を開いて見えたものは、よく見知ったキラの寝室だった。悪女ゼルナーシャも幼いゼオンも存在しない。散らかった机と、0点テストと、可愛い猫のぬいぐるみが転がっているだけの平和な部屋だった。

それでも、目覚めた瞬間にキラはパニックになった。あまりにも鮮明な夢だった。あれは本当に夢? それともゼオンの過去そのもの? 傷つけられたゼオンはどうなった? 今も苦しんでいるのなら絶対に救い出さなきゃ────そう考えたところで、その心配は全て杞憂だったと気づく。

もし仮に全てが過去ゼオンの身に起こった事実だったとしても、ゼルナーシャは既に死んでいる。七年前、ゼオンがメディに身体を乗っ取られて街を焼いた時、既にゼオンは彼女の魔の手から救われている。

だから、何も心配すべきことは無かった。今日も学校に行けばゼオンは無愛想に「おはよう」と言ってくれるだろうし、ゼオンの兄ディオンと姉シャロン──今は、クローディア。この二人も離れた地で平穏に暮らしている。

そう気づいて、キラは心の底から安心した。


「よかった……そっか、本当によかった」


このようなことは倫理的に見て言ってはいけないのかもしれない。だが、メディの悪意によってのみ引き起こされたはずの事件が思わぬ救いを与えていた。そう考えると不思議な気分だった。

キラはベッドから出て身体を大きく伸ばす。カーテンを開くと、今日も雲一つ無い青空が広がっていた。

その時、机の上に置いていたセイラの絵本が眩く光を放っていることに気づいた。良く見ると、光を放っていたのは本に挟まれている栞のようだった。

栞を手に取ってみると、そこには魔法陣と共に謎の文字がぎっしりと刻まれていた。そして光はその文字と魔法陣から放たれているようだった。しかし、しばらく経つと光と共にその魔法陣と文字も消え去ってしまった。栞が無地となった後、今度は別の一文が栞に浮かび上がった。


『おはようございます、キラさぁん。昨晩の夢見はいかがでしたかぁ?』


その一文はセイラを彷彿とさせた。キラは首を傾げた。あの夢はセイラが見せたものなのだろうか? セイラの絵本に挟まれていた栞なので、その可能性は大いにある。

しかし、だとしたら最大の疑問はこれだ。セイラは何の為にこの夢を見せたのだろう。キラは首を捻って考えたが、全く理由は思い浮かばなかった。

そうして時間が経つうちに、「ぐぅ」とお腹が鳴った。同時に一階から罵声が飛んだ。


「おいキラ、いつまで寝てんだい! 朝ご飯できてるよ!」


「やばっ、はぁい! 今行く!」


キラは慌てて着替えて部屋を飛び出した。一先ず、疑問は脇に置いておくことにした。しかし、キラは一つ気づいた。セイラは消えてしまったが、絶望は全くしていない。そう思うと、僅かに胸の痛みが和らいだ。

そしてキラは決意した。まずは、セイラが言い残したことを思い出そう。そして実行していこう。そして、一つ一つ、セイラの意志を紡いでいこう。

そう心の中で呟き、キラは新たな一日の幕を上げた。


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