第13章:第8話
「お前は天才だ。その若さで、女というハンデを乗り越えてよくぞここまで成長した」
父をはじめ、周囲の者はブラックを絶賛した。当時のブラックはその賞賛を素直に喜んだり時に重荷に感じたりしていたが、今思うと自分は本当に恵まれていた。
裕福な貴族の家に生まれ、良い教育を受けて五体満足で生きていけたことがどれほど幸せなことか、一度死んだ後ならばよくわかる。
ブラックの運命が狂ったあの日、弟の見舞い帰りにあいつと出会った日にブラックは自分が住む世界とは違う世界を知った。自分の力と経験をこれからどう使っていくか、その時に悟ったのだ。
その日は本当に穏やかな一日で、まさか後であのような残虐な事件が起こるとは思いもしなかった。
雲一つ無い清々しい快晴の日、ブラックは入院している弟の見舞いに行く途中だった。弟の好物であるシュークリームを購入した後、面会の予約時間まで少し余裕があったので、公園のベンチで一休みしていた。
「ふう……こんな風に公園で一休みできるのって久しぶりかもな」
生前のブラックはゴデュバルトという大貴族の家の長女として生まれた。偶々剣術が得意だったのでそのまま練習を続けていたところ、他所の家の長男や年上の剣士も打ち負かすようになり、気づけば「天才女騎士」などと持て囃されていた。あの事件が起こったのは当時のエンディルス王家──つまりルルカの両親に実力を認められ、王城で働くようになってしばらく経った頃だ。覚える仕事は山ほどあるし、剣の練習も怠ってはならず、一息つく暇も無い日々だった。
なので、偶にはこうして公園で一休みしてみると、普段見ているものとは全く違う景色が見えてくるような気がした。そもそも貴族の一応令嬢であるブラックにはこのような庶民が集う公園で休む機会は滅多に無い。とはいえ首都のど真ん中の公園となると庶民といってもある程度生活に余裕がある人が多いのだが、そのような人々さえ富と力の世界に居たブラックには新鮮なものに見えた。
あいつとはその時に出会った。ブラックには公園に居るどの人も新鮮に見えたが、あいつは新鮮を通り越して異端だった。白い髪は目立つのだ。今でこそあいつは校内で『普通』に溶け込んでいるが、それはあいつの『普通』の演技に誤魔化されているだけなのだろう。
あいつ──白髪の少年はブラックの隣の席に腰掛けた。白い髪が物珍しくてブラックは思わず目で追っていた。
「……何か?」
少年は機械的に問いかける。
「あ、いや、ごめん。ええと……白い髪って珍しくて……。もし気を悪くしたなら、まあ、ごめん」
「気を、悪く……」
この頃のあいつはまだ施設の外の生活に慣れていなかったらしく、素の状態だと時折言葉の意味を思い出せずに考え込むことがあった。だが当時のブラックがそのような事情を知っているわけが無く、少年の反応を見てよほど深く傷つけてしまったのかと勘違いをした。
「うわ、本当にごめん。その、そんな傷つけるつもりは無かったんだ」
「傷つける? ううん、僕は別に傷つけられていないよ。君は刃物を取り出したりしていないじゃないか」
「ん? 刃物?」
ここでようやくブラックは相手と話が噛み合っていなかったことに気づく。首を傾げながらどう訂正しようと考えていると、先に少年の方が誤りに気づいたようだった。
「気を悪く……あ、そうか。精神的な意味でってことか。ごめん、勘違いしてた。僕は特に気にしてないよ、大丈夫」
そう言われて、ブラックはほっと胸を撫で下ろした。それから少年はブラックの格好をまじまじと見つめた。黒い軍服に動きやすいパンツスタイル、最後に腰に付けた剣を少年は目で追う。最後に再び顔を見て、少年は問いかけた。
「えっと……男のような格好をしてるけど、声は女の人みたいだけど……」
「ああ、それね。騎士としての格好をしてるとよく『男?』って言われるんだけどあたしは女だよ」
「騎士?」
「お城の王様とかお姫様とか沢山の人達を守る為に戦う仕事だよ。この剣はその為に使うのさ」
騎士について説明すると、少年は菫色の瞳を見開いてじっとブラックを見つめた。少年のあまりにも純粋な目つきは幼い子供のものとよく似ている。顔立ちも幼いせいか、ついその時のブラックはその少年を子供のように扱ってしまった。ブラックは弟の見舞いの為に買ってきたシュークリームの袋を開いた。後で自分も食べようと思い多めに買ってきたので一つくらい分けても問題無いはずだ。
「さっきの詫びじゃあないけど、一ついるかい?」
「これは、何?」
「シュークリームだよ。そこらへんの店で買った。なんか人気の店らしいよ」
「しゅー……くりーむ……?」
「あれ、シュークリームって食べたことない?」
少年は小さく頷く。たしかに市販の洋菓子は高級品だ。一般の家庭では食べられないのかもしれないとブラックは考えた。少年は恐る恐る柔らかな生地に齧り付いた。菫色の瞳が光に満ちた。
「おいしい……! 学食を初めて食べた時も美味しいって思ったけど、これはもっとおいしい!」
「そうかい? そりゃあよかった」
少年は無我夢中でシュークリームを平らげ、ブラックは思わず笑う。話が噛み合わなかった時は慌てたが、こうして見ると普通の無邪気な少年だ。このような少年が笑って暮らせるように、騎士として頑張らなくちゃ──その時のブラックはそう自分に言い聞かせるのだった。
その時、ふと少年はブラックに言った。
「君は優しいんだね」
あまりにも直球の褒め言葉なので照れくさかった。
「いや、まあ……ありがとう」
「騎士って、人を守るの?」
「ん? そうだな、ただ守るんじゃなくて、守る為に戦うって感じかな」
「その二つは何か違うの?」
「違うさ。人の守り方は色々あるけれど、守る為に戦うということは守るものの障害になるものは傷つけるってことでもあるからね。よく父に言われるんだ。『いいか、ショコラティエ。騎士に必要なものは迷わない心だ。誰かを守る一方で誰かを傷つける。その矛盾と向き合った上で揺らがず逃げずに在ることが必要なのだ』って」
同じく騎士として生きた父の言葉を今一度確かめる。少年はいまいち意味を理解しきれていないようだったが、話の途中のある箇所で急に大きく目を見開いた。
「ショコラティエ……ショコラ?」
「あたしの名前だよ。ショコラティエ·ゴデュバルト」
「ショコラティエ。あの子の新しい名前と似てる」
その時は「あの子」のことは知らなかったが、少年の知り合いか何かだということは想像できた。
「なんだい、あの子って。知り合い?」
「うん。僕の大切な人」
その話をする時の少年は暖かく笑っていた。雪のように白い頬が春の桜のように色づいていた。その様で、「なるほど、好きな子か」と
理解した。
「あんたの名前は?」
「ロイド……って言ってた」
言ってた、という表現が引っかかったがその時は指摘する暇が無かった。ちょうどその時に、ロイドの連れが来たからだ。黒髪に白い服を着たロイドより更に五から六は年下であろう幼い少年がロイドを呼んでいた。
「あー、こんなとこに居た! 寄り道しないでさっさと来いよ。今日は忙しいんだから!」
「イオ」
「ほら早く!」
ロイドは慌てて立ち上がりイオのところへと駆けていった。
「ショコラ。これ、シュークリームありがと。じゃあね」
「うん、じゃあね」
ブラックがロイドに手を振ると、イオはブラックの顔を見て不敵に笑った。その目つきを向けられる理由がわからずブラックは首を傾げたが、二人はそれ以上何も語ることなく立ち去ってしまった。今思うと、イオはその後ブラックが死ぬことを知っていたのだろう。だがその時のブラックはイオのことを「ちょっと変わった子供」くらいにしか捉えておらず、ロイドのことは「もう出会うことは無いだろうけど穏やかに過ごしてほしい」と思っていたのだった。
「あたしもそろそろ行こうかな」
時計を見て、ブラックも席を立つ。ショコラティエの弟、ヴェルシャドウ。彼にブラックができることは、こうして偶に見舞いに行き、好物を差し入れてやることくらいだった。
ヴェルが寝たきりになったのは六歳の頃だ。馬に乗って出かけた所を魔物に襲われ、落馬して頭を打った。命に別状は無かったが、意識は回復せず、六年の月日が経った。手足を動かせない、瞼は開かず、喋ることもできない。だが心臓は動き続け、脳も活動している。そのような状態が続いていた。
幼い頃はヴェルが男だったこともあり、父はブラックよりヴェルの方に跡継ぎとしての期待をしていた。しかし、ヴェルが所謂植物人間となったことで父をはじめ家族は皆悲しみに包まれた。
初めの頃は、誰もが頻繁にヴェルのもとを訪れて回復を祈っていた。ブラックも毎日のように見舞いに行っていた。しかし、二年三年と続くと徐々に周囲は回復の希望を失っていく。見舞いに行く人は次第に少なくなり、両親も顔を合わせるのが辛いのか見舞いに行かなくなっていった。
ブラックが剣の才能を開花させ、一気に注目を浴びたのはその頃だったのだ。ヴェルへの憐れみの目はブラックへの賞賛に変化した。おそらく皆、悲しみを癒やすような明るいニュースを求めていたのだろう。父の跡継ぎとしての期待はブラックへと向き、ヴェルのことは人々の話題から消えていった。
それでもブラックは弟の見舞いに行き続けた。もしかすると、人々の関心を奪ってしまったことに負い目を感じていたのかもしれない。寝たきりの弟に意識は無いかもしれないが、好物のシュークリームを買ってきてみたり、最近の出来事を話したりしてみた。そうして、弟が独りぼっちにならないよう努めてきたのだ。
だが、想いはあっても現実が許さないこともある。ブラックの実力が王家に認められ、王城に務めるようになってから見舞いに行く機会は一気に減った。
あまりに多忙で休みが取れなかったのだ。弟のことは気がかりだったが、責任感の強いブラックは父や皆の期待を裏切ることはできなかった。
だから、ようやく休みが取れたこの日は随分久しぶりのお見舞いだった。
「やあ、元気かい……んなわけないか。しばらく来れなくて悪かったね」
弟は手足の筋肉が衰え、目を覆いたくなる程に痩せ細っていた。瞼は閉ざされ、動くことは無い。
「ちょっと、城で働くことになってから忙しかったんだ。なんでもゆくゆくは王女様の護衛として働いてもらいたいとかで、仕込みが厳しくてね」
話しかけてみても返事は無い。ブラックは買ってきたシュークリームを皿に乗せて机に置いておく。まるで墓に花を供えるように。
「いつもの、買って来たよ。行列だったから買うの時間かかっちゃちゃってね。……また食べられるようになるといいね」
そう言って机回りの整理を始めた時、ふとブラックは花瓶に花が生けてあることに気づく。身内か、友人か、誰か見舞いに来たのだろうか。不思議に思ったが「まあいいや」ということにして、ブラックは程々で面会を終えた。
「忙しくて、次いつ来れるかわからないけど、なるべく早くまた来れるようにするから。じゃあね」
そうしてブラックは部屋を出て行った。動くことも目を覚ますこともできない弟に自分ができることはこれくらいしかない……見舞いに来る度に胸が締め付けられるような気分になり、思わず俯く。
弟の顔を見るだけで苦しくなるので長居はできない。結局は、ブラックも他の家族や友人と同じく痛ましい姿を見ることが辛くて逃げていただけかもしれない。
だから彼は追い詰められてしまったのだろう。そして、ブラックは最期まで彼の本心に気づくことができなかったのだろう。
見舞いの後、突如城から呼び出されたブラックは仕事に追われていた。ブラックが雪崩のように降り掛かった仕事を片付けた頃にはもう夜中になっていた。窓の外を見ると街が煌々と輝いている。普段よりも一層灯りの数が多いので、「祭りでもやってるのかな」とブラックは呑気なことを考えていた。
その時、部屋の扉を誰かがノックした。
「どうぞー」
「失礼します。夜遅くまでお疲れ様です。お茶などいかがですか」
「ああ、ありがと。そこ置いておいて」
入ってきたのは使用人のようだった。提出書類にミスが無いか確認している最中だったので、ブラックは使用人の顔も確認せずにそう指示した。
そして、使用人が部屋を出てからそのお茶を飲んだ。それだけの話で、ブラックは死んだ。
何のドラマも無いつまらない幕切れだった。身体が痺れ、呼吸ができなくなり、床に倒れてのたうち回るが一向に痛みは引かない。
苦しみ藻掻く最中、廊下から人の悲鳴が、血飛沫が上がる音がした。窓の外の眩しすぎる灯りは街が燃える光だった。
今思い出しただけで身の毛がよだつエンディルス国のクーデター。ブラックはこの事件でのごくありふれた犠牲者の一人となった。
意識が途切れる直前、誰かがブラックの隣に立った。
「姉様、聞こえるか」
声だけではそれが誰かわからなかった。しかし、眼前にぼんやりと浮かぶ顔には覚えがあった。昼間病院で見た弟が居た。使用人の服を着て、血に濡れた剣を持っていた。弟の背後には鎧を身に纏った兵士達が並んでいる。
痺れた指先を動かし、自分の腹に触れると、指が生暖かいものに触れた。ああ、刺されたのか。そう理解した。
「……ごめん、姉様。ごめん……」
そう言って、弟は剣をブラックに突き立てた。
絞り出すような言葉とは裏腹に、剣を付き立てる手は、目には、激情が篭っていた。その激情の正体が恨みか、憎しみか、妬みかはブラックにはわからない。
「やっぱり、あたしが周囲の関心を惹き付けたせいで一人になってしまったことが許せなかったのかな」──薄れゆく意識の中でそう考え、瞼を閉じた。
そしてもう光を見ることは無いのだと思っていた。しかし、まるで死など日々の睡眠と同じとでもいうようにブラックはあっさりと目を覚ました。
自分に意識があると気づくまでに随分と時間がかかった。しばらく呆然と遠くに見える壁を見詰め、やがてそれが天井だと気づいた。誰かの話し声が聞こえ、その後自分がベッドの上に居ることに気づく。そして最後に、今の状況が本来ありえないものであると気づいた。
ブラックはあの時間違い無く死んだはずだ。毒を飲まされた後、剣を突き刺されて。ブラックは飛び起きて周囲を見回す。すると少年の苛立った声が聞こえてきた。
「はぁ? なんでこんな死人助けなきゃいけないんだよ。その上お前と同じように生き返らせるなんてそんなの認められないよ。そもそもお前だって本当なら生きてちゃいけない奴なんだからね? リディとメディが言うから仕方なく認めてるんだから」
昼間広場で会った少年、イオの声だった。イオの向かいにはロイドが居て、何か叱られているようだった。二人の傍には薄桃色の髪に白いワンピースを着た美しい少女が居る。状況が全く理解できないが、どうやら自分が話題に上がっているらしいということはブラックも読み取った。
その時、妖艶な女の声が耳元を通り抜けた。
『二人共、当事者が起きたようよ』
声の主の姿が見えないことにブラックが戸惑っている間に二人の視線はこちらを向いていた。
「全く、余計なことを……」
イオはブラックがこうして生きていることが大層気に入らないようだったが、ブラックとしてはその怒りを受け止めるより先に状況を把握したかった。
「あんたたちは誰? あたしは……多分死んだはずじゃ……」
「そうだよ、死んだよ。あんたは死体だ。『予言』によると『弟に毒を盛られて、倒れた隙に刺されて死んだ』はず」
「じゃ、じゃあ、なんであたしは動けるんだよ」
すると、桃色の髪の少女が傍に寄り、説明した。
「私の力で一時的に生き返らせているからよ」
天女のように優雅で、その上可愛らしい少女だった。魅力的な女とはこのような人のことを言うのだろう。少女は軽くお辞儀をすると薄く微笑みながら自己紹介した。
「はじめまして。私は創造の神リオディシア」
「神」という単語にブラックの思考は彼方に吹き飛んだ。「生き返らせた」という意味もわからない。
「ちょ、ちょっとまって、冗談でしょ……そんなことできるわけないし、あんた達にあたしを生き返らせなきゃいけない理由無いでしょ」
「私達にはね。でも、この子が頼んできたのよ。あなたを助けてほしいって」
リディはロイドを指した。イオの文句を受け止めながらロイドは何と返すべきか必死に考えているようだった。
ブラックは益々混乱した。この集団の存在も目の前の「神」もロイドがブラックを助けるよう頼んだということも、何一つすんなり飲み込むことができなかった。
「ちょ、ちょっとあんた、あたしを助けるよう頼んだって、どうして?」
ブラックがロイドに問いかけると、ロイドは言った。
「ねえ。騎士は、人を守る為に戦うものだって言ってたよね」
「言った。けど……」
「君に、守ってほしい人が居るから。それが、君を助けた理由だよ」




