第12章:第42話
「ほんと、あたしがこれで襲ったりしたらどうする気なのかな」
ゼオンの寝顔をまじまじとみつめながらティーナは呆れた。そのまま暫く寝顔を観察していると、ふと首の後ろに傷があることに気づいた。
何かを刺したような跡だが刃物の形ではない。得物は判別できないが、ゼオンの苦労は読み取れた。
ゼオンが眠ってから、急に辺りが静かになったように感じた。橋の外を見つめながら、ティーナはラヴェルとプリメイ、そしてセイラに想いを馳せる。
ラヴェル、プリメイ、あたしはこんなところでどうして出会ったばかりの少年の世話を焼いているんでしょう。そしてセイラめ、こんな場所に飛ばしてあたしにどうしろというんですか。心の中で手紙を書くように語りかけたが、当然返事は返ってこなかった。
暗闇を見つめながら、「明日はどうしよう」と考えた。生きていく目処を立てなければならない。それ以前に、まずはこの時代と世界について把握しなければならない。
そこまで考えたところで、ティーナの視線は再びゼオンへと向いていた。ゼオンは明日どうするのだろう。それから、またゼオンのことを考えていることに気づいて溜息をつく。
プリメイ、どうしてあたしは出会ったばかりのゼオンのことをこれほど気にしているのでしょう。この気持ちはなんなのですか?
きっとプリメイならこう言うのだろう──「それが、愛してるってことだよ! はわぁー、遂にティーナにも気になる子ができたのかぁ!」
自分で想像して、恥ずかしくて思わず顔を手で覆った。プリメイが語る「愛」や「恋」はティーナには手が届かない美しいものだと思っていた。これが「愛」だとしたら、手が届かないほど遠くはないが、泥臭くみっともなくて夢が壊れるじゃないか。
まだ会って一日も経ってないのに? あたし、そんなに軽い女だったの? 自問自答を繰り返しているうちにティーナは疲れてしまった。そうして今日何度目かわからない溜息をついた時、ティーナの目はやはりゼオンの寝顔へと向いていた。
「いいやつだけど、いずれあんたも壊れちゃうんだろうなあ」
金にも地位にも人にも守られない醜い世界に生きる者は、汚れながら生きるか壊れて死ぬしかない。ティーナはこれまでの人生でそれを思い知らされてきた。そして、ゼオンは恐らく後者だろうと思った。
そう考えた時、急に悔しさが込み上げてきて暴れだしたのだ。「壊されたくない、汚されたくない。どうしてこんな優しく良い人に限って幸せになれないの」と。涙が出る程に、ありったけの破壊の力で世界さえも壊してしまいたくなる程に、幸せになってほしかった。
先程の半分のパンの味が舌に残っていた。ティーナと出会い、見上げることも見下げることもなく、「子供」や「怪盗」や「兵器」などの型にも嵌めず、ただ一人の「あたし」として接してくれた人は初めてだったのだ。
優しくしようという意識すらない、飾らない言葉がティーナにとっては救いだった。革命だった。その一瞬で目の前の景色が違って見える程に。
「対等」でありたい。「平等」でありたい。夢見ることすら諦めてきた夢は決して非現実ではなかったと教えてくれた。きっとその時にはもうゼオンのことが好きになっていたのだろう。
「対等」という願望が「恋愛」とは相容れないものだったとしても。仮にゼオンがティーナのことを好きになる時が来たら、ティーナが夢見た「平等」はその瞬間に崩れ、「愛する人」という型に押し込められてしまうのだとしても、恋して、愛さずにはいられなかった。
だから、キラが居ようと居なかろうと、この恋は破れる定めだったのだ。この想いは、始まった瞬間に矛盾していたのだから。
しかし破れる定めだったとしても、あの時ゼオンに恋し、愛したことに後悔は無い。その気持ちが無ければ夢見ることもできなかったはずだから。
『居るはずがないと思っていた、あたしをあたしとして見てくれる人が居た。ならば、ゼオンみたいな優しい人が幸せになる方法も、探してみれば案外見つかるんじゃない?』
僅かでもそう思った瞬間、様々な願いが溢れ出てきた。幸せになってほしい、平和に暮らしてほしい、笑ってほしい、できればそれを見届けたい。叶う確証は全く無いのに、夢見ているだけで楽しかった。
プリメイ、あなたが言っていた「愛してることが幸せ」って、こういうことですか?
そう考えた時には、もう明日の指針は決まっていた。ゼオンについていこう。ゼオンを不幸にするものは全て排除しよう。ゼオンを幸せにするものを集めよう。
明日も明後日も、ゼオンを愛していたいから。
しかし、そこでティーナは我に帰った。不幸を排除する方法はわかる。だが、人を幸せにする方法がわからなかった。
殺し、奪い、痛めつけることで生きてきたから、人を幸せにしようなどと考えたこともなかったからだ。そこでティーナが参考にできたものは、やはりラヴェルとプリメイだった。
人に笑ってほしいならばまずは自分が笑わなければ始まらないかもしれない。そう思い、プリメイの笑顔を思い出して真似てみる。
幸せになってほしいなら、行動で示さなければ意味が無いだろう。長い旅だもの、料理はきっとゼオンの役に立つだろう。プリメイから教わったレシピを思い出してみる。
でもやはり、愛しているなら言葉で伝えなければ意味が無いかもしれない。恥ずかしいけれど、プリメイの口調で「愛してるぅ」と小声で言ってみた。
そこでようやく、これは「幸せにする方法」ではなく「プリメイの真似」だと気づいた。しかし、ティーナには他に参考にできるものが無かった。
「真似……か」
ふと、セイラとの別れ際に課した「罰ゲーム」を思い出した。酷いことを言ったと思う。ラヴェルとプリメイを不幸にした張本人はセイラだけではないことくらい理解している。謝りたいが、今セイラが何処に居るかもわからない。
『贖罪しろ。ラヴェルとプリメイを巻き込んだ罪を記憶に刻み付けろ』────自分で言ったことを思い出してティーナは頭を抱えた。
セイラは本当にラヴェルの口調を真似ることで記憶を刻みつけようとしていた。しかし、二人を巻き込んだ罪を償う為に記憶を刻みつけるなら、その罰はティーナにも課せられるべきだ。
そう思うと、心が僅かに軽くなった。「プリメイの真似」でもいい。それで二人との思い出を忘れずにいられるなら。
二人から受けた愛を、今度はゼオンに伝えていけたらそれでいい。ティーナはプリメイの言葉を思い出しながら何度も真似て自分の第一歩にした。
愛情表現としては酷く歪なものだとわかっていたが、それがティーナにできる精一杯のことだった。
「好きです! 愛してます! だからゼオン、一緒に行かせて!」
翌朝、飛び起きると同時にティーナはゼオンに叫んだ。これが恋し夢見て愛し続ける少女「ティーナ・ロレック」の幕開けだと自分に言い聞かせながら。
ゼオンは出発の支度をしながら唖然としていた。
「お前は突然何を言い出すんだ……」
昨日は笑顔の欠片も見せずに乞食を甚振っていた女が翌日突然愛を叫んできたのだ。無理も無い。「やっぱ、そうなるよね」と一瞬冷静になりかけたが、正気に戻ってはいけないと思った。
プリメイはどのように人を愛してきた? その思い出を移し取るようにティーナはゼオンに訴える。
「だから、あんたの逃亡生活について行きたいの! もう一目見た時から好きでした! L・O・V・E・愛してる! 絶対足手まといにならないから連れてって!」
恥ずかしさはかなぐり捨て、半ばやけくそになりながら叫んだ。するとゼオンは冷たく言い放つ。
「嫌だ。断る。その頼みは受け入れられない。愛だとかなんとか……そういう女は苦手なんだ」
今思うと、それは仕方がない答えだったと思う。ゼオンがティーナを好きかどうか以前の問題だ。既にティーナの残忍な一面を見られた上で突然見え透いた芝居を始めたのだから断るだけで済んだことが奇跡に近かっただろう。
しかし、それでもティーナは引き下がらなかった。押してだめなら、方向を変えてみる。
「昨日も言ってたよね、女は苦手って……どうして?」
「昔……『愛』と称して身勝手な自己愛をそこらじゅうに押し付けて回る奴が居たんだよ」
そう言われて、ティーナは一瞬我に返った。ティーナは一人で愛して勝手に指針を決めようとしていたが、それは身勝手な独りよがりではなかっただろうか。
ラヴェルとプリメイが教えてくれた「愛」は決してエゴの押し付けではなかった。こちらの意志を尊重してくれる人達だったからこそ、ティーナは忘れたくないと思い、このように演じている。
なら、ティーナもゼオンの意志を尊重しよう。頼めるだけ頼みこんで、それでもゼオンが嫌がるようならその時は諦めよう。そう決めて、ティーナはゼオンに言う。
「なら、あたしは絶対にゼオンの嫌なことを押し付けたりしない。身勝手な自己愛とは違うって証明するし、絶対ゼオンの役に立つ。ほらあんた、これからも逃げ続けるならこういう無法地帯はうまく使えた方がいいでしょ。それに、一応……料理もできるよ。だから、お願い」
ゼオンは冷え切った目でこちらを見つめる。そんな哀しい目さえも、ティーナは綺麗だと思った。
長い沈黙の末に、ゼオンはぼそりと呟いた。
「もういい、好きにしろ」
それは了承の合図だった。ティーナの顔が綻ぶ。しかしその後ゼオンはこう付け加えた。
「ただし、一つ約束しろ。お互いの個人的な事情は詮索しない。俺が投獄された理由もだ。こちらも、お前の過去は詮索しない」
一つ、線を引かれたような気がした。少し寂しかったが、好都合でもあった。ティーナも、実験体だったことや怪盗をしていたことはあまりゼオンに知られたくはなかった。
「わかった、いいよ。じゃあ……よろしくね」
ティーナは笑顔で手を差し伸べた。必死で顔の筋肉を引き上げた作り笑顔だった。ゼオンもきっと見抜いていただろう。しかし、それが「あなたに笑ってほしい」という願いを込めてできる精一杯のことだった。
ゼオンはティーナの手を無視して歩きだした。ティーナも後を追う。冷たい言葉を吐く癖に、ティーナが遅れるとゼオンは少し待ってくれる。そんな優しさがたまらなく愛おしい。
「ありがと、ゼオン。大好き、愛してる!」
そうして、「ティーナ・ロレック」の恋物語は幕を上げた。
それからの生活は決して楽なものではなかったが、ティーナにとっては夢のような時間だった。
ティーナの経験は確実にゼオンを手助けになったと実感できたし、ティーナが助けた分だけゼオンもティーナを助けてくれた。
ゼオンに「笑ってほしいと」願いながら、いつしかティーナ自身が心から笑っていた。幸せになってほしいと願う時間そのものが幸せだった。ゼオンを愛することでティーナは自分に対しても前向きになれた。
「ティーナ・ロレック」というキャラクターの始まりは確かにプリメイの真似事だったかもしれない。しかし最初はぎこちなく言っていた「愛してる」もいつしか自然と口走るようになり、自分の言葉となっていった。
「恋の魔法」というと途端に胡散臭く聞こえるが、この恋がティーナを大きく変えたことは間違いない。
だから、ティーナにとってゼオンは運命の人だった。たとえ報われない恋だとしても、ティーナにゼオンを笑わせることはできなかったとしても、愛したことに後悔は無い。
一年の終わりの日は世界が真白に染まっていた。降り積もった雪に音が吸い込まれ、時の流れが止まってしまったかのように錯覚する。
広場で愛する人を待ちながら、ティーナはちらちらと雪が舞い落ちる空を見上げていた。息を吸い、吐く。毎日のように伝えてきた言葉であるはずなのに、いざ畏まって伝えようとすると緊張して胸の鼓動が激しくなる。
鏡を取り出して髪型が崩れていないか確認する。今日は普段のポニーテールは止めて髪を下ろしていた。大切な黒いリボンはサイドに結んで普段とは少し雰囲気を変えてみたのだ。
服も今日はシックな黒のコートにワンピース。普段よりも大人びたファッションを目指した……つもりだ。
今日はゼオンに伝えたいことがあった。先日の出来事の後、はっきり告げようと決めた。もう二度と半端な関係を続けて皆に迷惑をかけることがないように。そして、メディが悪戯にまき散らした偽りの愛を訂正する為に。
鏡を閉じて顔を上げた時、遠くの人影を見てティーナの胸は高鳴った。そして両腕を広げ、精一杯の想いを込めて叫ぶのだ。
「きゃっわあーん、ゼっオーン! 愛してるぅ!!」
今日もゼオンは眩しすぎて失明しそうな程にかっこよかった。ゼオンは慣れた様子でティーナの愛の叫びを無視すると早速尋ねた。
「待たせたか。突然どうしたんだ。話したいことって」
「うん、ちょっと伝えたいことがあってね」
ティーナは大きく深呼吸すると、喉が張り裂けそうな程に強く想いを込めて叫んだ。
「好きだああああああああっ、ゼオン! 結婚してくれええええええええええええぇぇぇっ!」
全身全霊を込めた告白は白銀の世界を突き破りそうな勢いで響き渡った。広場の人々が「結婚?」とこちらをちらちらと見ていたが、ティーナは怯むことなく仁王立ちをしていた。
一方のゼオンは唖然としていた。数十秒間言葉を発さずに黙り込み、数度頭を掻いて、それからようやく聞き返してきた。
「結……婚……?」
「そう、結婚! あたしの愛を受け取ってくれ!」
「いきなりどうしたんだ……」
「どうしたもこうしたもないよ。やっぱり一度はっきり伝えておかなきゃいけない気がしたんだよ。ゼオン、結婚してくれ! ウェディングドレスでフィーバーしながらハネムーンだよ! 絶対幸せにする!」
ゼオンの思考は停止しているようだった。だが、ティーナは続けて穏やかにこう尋ねる。
「だから、ゼオンの気持ちを聞かせて?」
この一言でゼオンの表情が険しくなった。ティーナは無言で頷く。口調や声色は「普段通り」演じているが、求めている答えは普段通りではなかった。ゼオンの本心をはっきりと聞きたかったのだ。
やはり、ゼオンはティーナが夢見た王子様だ。その想いをしっかりと読み取ってくれたことが表情の変化からわかる。
ゼオンは目を伏せ、唇を噛み、黙り込んだ。返答までに随分と時間がかかった。まるで喉になにか詰まっているかのように何度も口を開いてはまた閉じた。
しかし、それでも最終的に、ゼオンははっきりと答えた。
「ごめん」
長い夢から醒める時が来た。だが不思議なことに、恋が破れても絶望に染まることはなかった。むしろ光が射したように空が明るく見えた。
「よかった、『いいよ』なんて言われたらどうしようかと思った」
重い荷物を下ろしたように肩が軽くなった。頬が自然に緩んでいた。ほんの少し胸は痛むけれど辛くはなかった。
しかし、一方のゼオンはなにかとてつもない罪を犯したような暗い顔をしていた。それはゼオンと出会った時に見た表情とよく似ていた。
ティーナは優しく微笑みながらゼオンに言う。
「そんな顔しなくていいんだよ。これは悲しいことじゃないんだよ。むしろほっとしてる。正直に言ってくれてありがと。それでこそ、あたしが愛してるゼオンだよ」
ゼオンは沈んだ瞳のまま、小さく呟く。
「何一つ応えられなくてごめん。お前の要望にも……ラヴェルとプリメイも……セイラを助けることも、何もできなくて」
まるで懺悔のようだった。ティーナは驚き、それから「気にしないで」とゼオンを慰めた。告白のことはともかく、ラヴェル達やセイラのことはゼオンが責任を感じる必要は全く無いのだ。
死にかけの小鳥のように黙り込むゼオンを見て、ティーナはゼオンも「自分自身を嫌っている」のだと察した。
あの日の願い事が叶うより先に恋が破れてしまったけれど、ゼオンを愛する気持ちは変わらない。ティーナはこれまでの感謝とこれからの祈りを込めて、出来る限り素直に、誰のものでもない自分の言葉を伝える。
「ううん、何もできなかったなんてことは無いよ。ゼオンはあたしの全てを変えた王子様なんだから。ゼオンが居てくれたからあたしは『ティーナ・ロレック』になれました。ゼオンを好きになったことで自分のこともちょっとだけ好きになれました。あの時ゼオンが『必ず全員無事に連れて帰る』って言ってくれて本当に嬉しかった。だから、ゼオンはそこに居るだけであたしを幸せにしているの」
「それで、そんなことでいいのか……」
「いいの、いいんだよ。それで、一つだけお願い。あたしが幸せにしてもらった分、今度はゼオンが大切な人と幸せになってね?」
今すぐには伝わらないかもしれない。しかし、きっといずれその意味が伝わる日が来ると信じてティーナは想いを伝える。
「いつかゼオンが笑顔になれる日が来ますように」
ティーナは笑ってゼオンの頬を撫でた。降りしきる雪のように冷たかった。
けれどこの頬にも、この人の心にも、いつか必ず春が来る。そう、誰よりも信じてみせる。
好き、好き、大好きだから。
炎のように美しくて、壊れそうな程に優しくて、残酷な程に正直な、
そんなあなたを世界で一番愛してる。




