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ある魔女のための鎮魂歌【第2部】  作者: ワルツ
第12章:ある悪魔の狂詩曲
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第12章:第41話

そうだ、たしかあの日も真冬の寒い日だった。

ゼオンと初めて出会った日。ティーナが運命の人に巡り合った日。始まる瞬間に破れることが定まった恋物語の幕開けだ。


ヴィオレの街は遠く白い光の彼方に消え、セイラの姿も見えなくなり、逆らいようがない力の渦に振り回された末、ティーナは薄暗い通りに投げ出された。

今から丁度三年前のことだ。三百年前の時代から飛ばされたティーナは自分の現在地がわからなかった。民家のような建物の裏らしいということはわかる。しかし、ティーナが知るヴィオレとは建物の造りが違う。上を向くと空からはぱらぱらと粉雪が舞い落ちてきた。

ティーナは言い表しようのない寒さと不安に襲われた。兵士達に刺されたラヴェルのことが蘇り、セイラの言葉が頭を埋め尽くし、心が黒で塗りつぶされたような心地だった。

今がいつだかわからない。何処かも、これからどうすればよいかもわからない。顔を上げることが怖い。この狭い路地から出た途端、大勢の兵士がティーナを捕らえようと湧き出てくるのではないだろうか。ティーナはセイラに託された杖を抱きしめながら目を瞑り、「どうしよう」と何度も呟いた。

その時、何処かから足音がした。こちらに近づいてくる。ティーナは震え上がった。兵士がやってくるかもしれない。ラヴェルもプリメイもセイラも居ない寂しい土地で一人で捕まりたくはない。

曲がり角の地面に人影が映る。もう駄目だ……そう思った時、絶望で塗り固められた世界に一瞬で光が射した。

粉雪の世界で炎のような瞳がティーナの杖を見ていた。茶色の髪の同世代の少年だった。笑顔が無く冷たい雰囲気の割に顔立ちは幼め、しかしよく見ると睫毛が長く綺麗な顔立ちだ。

兵士じゃない。自分と同じ子供だ。そう気づいた途端、ティーナは僅かに落ち着きを取り戻した。

まずは人から聞かなければ始まらない。


「あ、あの、ちょっと聞きたいんだけど……今って何年? それで、ここは何処か教えて欲し……」


「退け」


少年はティーナが言い終わるより先に冷酷に言い放つ。そのままティーナを置いて走り去ってしまった。

ティーナは唖然とした。必要最低限のことも聞き出せないどころか、会話成立すらしなかった。しかし、あの鮮やかな瞳の赤だけは強く目に焼き付いていた。ティーナの髪と目も赤だが、ティーナのものとは違う。後付けで染まったものではない、生まれながらで変えることのできない生命そのもののような赤だった。

綺麗だったな。そう思い出に浸る間もなくまた三人分ほどの足音が聞こえた。しかも「何処だ」という声まで聞こえた。この物の言い方、走る速さ、ティーナが硬直しながら振り返るとそこにはやはり兵士……ではないが警官が三人居た。


「うわ、あああああごめんなさあーい!!」


ティーナは思わず頭を抑えて蹲ったが、


「君、いいから退きなさい!」


捕まらないどころか退くように指示され、警官達は風のように去っていった。こうしてティーナは再び狭い道に置き去りにされた。暫くの間、ティーナは唖然として立ち尽くしていた。

どうやら、この街で赤毛、赤目などは特に警戒する要素ではないらしい。ティーナの存在が広まっていない場所なのだろうか……そう考えた時、頭上から声がした。


「……間違いない。お前、その杖を何処で手に入れた?」


先程の赤い瞳の少年の声だった。ティーナが上を向こうとした時、少年はティーナの背後に降り立ち、首筋に剣の刃を当てた。


「答えろ」


瞳は炎のように美しいのに、冬のように冷酷な言葉だった。そうだ、あの頃のあの人の心は今とは比べ物にならない程暗く凍りついていた。まるであの「杖」に取り憑かれた空の器ようだった。


「つ、杖……? これは、あたしの……知り合いに託された」


不安で抵抗する気力も無かった為、ティーナは素直に質問に答えた。


「知り合い? それは誰だ。何処に居る?」


「……わからない。あたしは『タイムスリップ』とやらをしたらしいから、少なくともこの時代には居ないはず」


「タイムスリップ? そんな魔法があるかよ」


その言葉にティーナはカチンときた。馬鹿にされようが、それらしき現象が起こってしまったことは事実なのだ。

少年の振る舞いを見ているうちに徐々に苛立ちが募ってきた。ティーナは少年が一言二言話した時に気づいた。この少年、金持ちだ。

一見乱暴な口調のように見えるが歩き方、仕草、話し方、所々から育ちの良さが抜けきっていなかった。


「五月蝿いなあ、お坊ちゃん。あたしだって何がなんだかわからないんだよ。剣を向ける相手は選びな。その綺麗な目、抉り取って売られても知らないよ?」


ティーナは素早く杖で首に当てられた剣の刃を逸らして相手と距離を取る。そして杖を鎌へと変えて少年へと向けた。


「次はあんたが答えな。今は何年? そしてここはどこ?」


「本気で言ってるのか?」


「本気じゃなかったら、逃げるかあんたをとっ捕まえてお楽しみしてるよ。イケメン鑑賞はたーのしーいなあー。両手両足縛ってやりたい放題。悪くないなあ」


少年の表情が不快そうに歪む。ティーナは冗談のつもりだったが、何か相手の気に障ったようだった。


「今は、40254年。ここはウィゼートのバントアンバーだ」


「いち、にー……三百も未来なの!? しかもウィゼートって、デーヴィアですらないじゃない!」


「五月蝿い、静かにしろ……また追っ手に気づかれるだろ。こっちからも最後に一つ聞きたい。お前、その杖を創った人物を知っているか?」


少年は尚も威圧的な口調で訪ねてきた。しかし、ティーナの側も少し大声で話したら普段の調子が戻ってきていた。

改めて相手の質問、セイラから貰った杖の創造者について考えてみたが、ティーナに心当たりは無かった。


「いや? あたしは全然知らない」


「そうか……なら、もう用は無い」


少年は途端にこちらへの関心を失い、ティーナの目の前から立ち去ろうとしていた。遠ざかる少年の背中を見て、何故だかティーナは寂しくなった。

何よりこれからどうするかの算段も全くついていない。なので、ティーナは少年の後を追って肩を叩いた。


「待ちな、あたしがそう簡単に逃がすと思ったの? ねえあんた、追われてるんでしょ。お坊ちゃんが何で逃げてるの。家出?」


すると少年は先程以上に不快感を顕にしてこちらを睨みつけてきた。ティーナは少し焦る。追われているということの看破以上に何かが少年を不快にさせたようだった。


「あ、あれ、お坊ちゃんって言い方が気に食わなかった? それともさっきとっ捕まえてイケメン鑑賞とか口走ったから?」


「全部だ。これだから女は嫌いなんだ……。それと、家出なんて生易しいものじゃない。いいから俺にはもう関わるな。じゃないと、次はお前の記憶を消す」


ティーナは思わず鼻で笑いそうになった。「関わるな」「記憶を消す」……などと、面と向かって言ってしまうあたり余程の正直者と見た。

にやけながらティーナが近づくと少年は余計に警戒を強めた。見れば見るほどからかいたくなってくる人物だった。


「関わるなと言って関わらない奴が居るわけないでしょ。手を貸してあげるって言ってるの。あたし、逃げるのと隠れるのは得意なの。この街の構造を教えてくれたら、さっきの追っ手から逃がしてあげるけど?」


「妙な自信だな。そういう経験があるのか? 例えば、泥棒とか」


「やぁだな。そんな生易しいものじゃないよ」


そう話していると、再びあの足音が近づいてきた。やはり人数は三人。こうもしつこく追ってくるところを見ると、余程複雑な事情があるようだった。

「さあどうする?」とティーナが挑戦的に尋ねると、少年は渋々頷いた。


「……仕方ないな」


「ふん、じゃあ早速街の地図を見せて」


少年が地図を手渡すと、ティーナは早速隠れ場所に使えそうな家屋を導き出し、追っ手を迷わせる罠を仕掛けながらそちらへと走り出した。同年代の少年、それも自分と同じく何かに追われてきた人物と出会うのは初めてだった。


「ねえあんた、名前はなんていうの?」


気づくと、ティーナは少年に名前を尋ねていた。その少年はティーナがこれまで出会った誰とも違った。


「お前に教える必要は無い」


少年は冷たく真っ直ぐ言い放つ。やはりそうだ。少年は追われる立場には似つかわしくない程に、自分を「飾る」ことを知らなかった。下品な言葉を使って強がったスラムの子供達とは違う。白衣に身を包み野心を隠していた研究者とは違う。そしてティーナの暴言すらも受け止め、「親」で在ろうとしたラヴェルとプリメイとも違う。

「この人、根はどうしようもなく正直なんだろうな」とティーナは思った。だとしたら……と、ティーナは少し卑怯な手に出た。


「名前くらいいいじゃない。あたしはティーナ。ほら、あんたは? こちらもリスクを犯して手を貸したのに名乗りもしないわけ?」


ティーナが先に名乗り出ると少年はぐっと黙り込んでこちらを睨み、暫くしてボソボソと聞き取りづらい声で答えた。


「……ゼオン・S・クロード」


名前もご立派だ。ミドルネームなんて贅沢なものがついているあたり、やはり裕福な家庭の子だったのだろう。かなり複雑な事情を抱えているようだが。


「お前、苗字は? こちらはそこまで名乗ったんだ。お前も名乗るのが筋だろ」


ゼオンにそう言われてティーナは戸惑った。自分の苗字など持ったことがなかったのだ。自分の家の名前──ラヴェルとプリメイの姿が浮かび、「アルミナ」と口走りそうになった。が、すんでのところで止めた。彼らを巻き込み、酷い怪我を負わせだ自分にそれを名乗る資格は無い。

だから適当にでっち上げることにした。「ティーナ」は実験施設の薬剤から取った名前だった。ならば、苗字も自分のスタート地点から取ることにしよう。「609番」────今はもう真紅に塗りつぶされて消えてしまった黒髪黒目の少女の名前から。


「ティーナ・ロレック。これで満足?」


本当は何一つ偽らずに、剥き出しの素の姿を晒しても誰かに愛してもらえる人になりたかった。物心付き、願う前に儚く散った願望を込めて。





二時間に及ぶ兵士との追いかけっこの末に二人がたどり着いた場所は川にかけられた橋の下だった。

そこにはズタ袋や木片をかき集めて作られた寝床が並んでいる。おそらく自分の家すら持つことができない貧民達の溜まり場となっているのだろう。いつの時代も貧富の格差は消えず、貧民の世界は進歩しないようだ。


「しまったなあ、これほど先客が居るのか。でも、ま、木を隠すなら森の中ってね。これほど人や物があったら隠れやすいでしょ。どうせここに居る奴も警官には見つかりたくない奴ばかりだろうし」


ティーナはそう言って橋の下の小さな町へと入っていく。ゼオンも少し躊躇いながらも後をついていった。

町では薄汚い人々が寝転んだり飲んだくれたりしていた。ティーナには見慣れた光景なので今更見向きもしないが、ゼオンは時折道に倒れた人々を目で追っていた。ティーナはゼオンに言う。


「ふぅん、こういうとこは慣れてないんだ。貧乏人に同情でもした?」


「いいや、それはしない。外見や生まれだとか……血筋とか……そういう枠に嵌めて人を憐れんだり崇めたりはしたくない」


益々状況相応しくない清廉さだと思った。逃亡には向かない性質だ。根が素直な癖に中途半端に冷淡な点が特によろしくない。傍から見て「からかいたくなる」こと程、生きることに不向きな性質は無い。

「ここはやめた方がよかったかもしれない」とティーナは後悔した。持たざる者の醜い世界ではこのような清い者を貶める事ほど甘美な娯楽は無いのだ。

そして案の定、ボロ布を被った女性が啜り泣きながらゼオンに話しかけてきた。


「すみません、そこの方……少しだけ、お手を貸してくださいませんか」


女性は足を引きずりながらゼオンに手を差し出してきた。


「足が痛くて……でも、橋の外まで歩かなければ……」


ゼオンは足を止めた。が、突如女性に冷たく言い放った。


「……待て、懐に何を隠している?」


なるほど、あの勘でこれまでの逃亡生活を乗り切ってきたのかとティーナは感心した。しかし、女性の真意を見抜く力はあっても、手の打ち方があまりにも正直すぎる。女性の目つきが醜悪に変わっていったので、やれやれとティーナは再び杖を鎌へと変えた。

そして女性が伸ばした手を止めた瞬間、ティーナは迷わず女性の中指を切り落とした。指は宙で孤を描いて地面に落ち、切り口から流れた血が地面を汚した。


「い、あ、ああああああああ!!!」


更にティーナは女性の髪を掴んで顔を蹴りつけて尻に敷き、袖口を切り裂いた。袖には布袋が仕込まれており、ティーナはそれを魔法で焼き尽くした。焼けた袋からは蜂のような形をした魔物の死骸が何十匹も出てきた。

ゼオンはティーナの行いに暫く絶句していたが、魔物の死骸を見ると首を傾げて呟いた。


「蜂……?」


「そう、多分睡眠薬を仕込んだやつね。刺されてあんたが眠り込んだ隙に、臓器とか目とか取り出していくのさ。あ、イケメンや美少女ならそのまま奴隷として売られるパターンもあるし、売られなくても変態に玩ばれるかもね。あとは睡眠薬と一緒に麻薬を仕込んでるパターンもあるよ。微睡んだ隙に気持ちいーい薬を大量に打ち込んで目覚めた時にはお薬中毒みたいなやつ」


「……考えたくない話だな」


「うん、だから気をつけな? あんた、とっても餌食にしたくなるタイプたから」


ティーナは捕らえた女性の頭を地面に打ち付け、靴のヒールを耳に刺してぐりぐり捻る。引きちぎった布で口を塞いでから、耳元でそっと囁いた。


「お前の見る目だけは評価してあげる。でもね、あいつ希少価値が高いからお値段も増し増しなの。だから、観察料は一秒につき指一本となっておりまぁす」


「ヒィ……ひ……すみません、おゆるしください……もうしませんから……」


「いい言葉だ、誠意は全く篭ってないのが残念だけど。とりあえず、少し落ち着いて休めるとこが欲しいな。さあ、二秒以内に教えな?」


「こ、この先に行けば……」


その言葉を聞き出すと、ティーナは一発首に踵落としを打ち込んでから更に指を三本切り落とした。苦しむ女性には目もくれずに指示通り再び町を歩いていくと、後ろでゼオンが言った。


「……助けてくれたことは礼を言う。でもあまり騒ぎは起こすな。……あれは、やりすぎだ」


お行儀の良いことを言うあたり、やはり根が優しいのだろう。

しかしまさか礼を言われるとは思わなかったのでティーナは何故か照れくさくなって早足で歩いていく。そして本心を隠すように辛辣に言った。


「馬鹿じゃないの。舐めれたら終わりの世界だ。最初に思い知らせておいた方がいいんだよ」


そこまで話したところでティーナはハッと我に帰った。なぜ自分はゼオンを助けたりしたのだろう。いや、そもそもなぜゼオンに手を貸したりしたのだろう。これほど自然に人を助けたことなどこれまで無かった。ティーナは急に自分がわからなくなった。

しかし、このままゼオンを放置していくこともできなかった。境遇に似つかわしくない程に高潔なこの少年が醜い者達に穢されることは我慢ならなかった。このような感情、ラヴェルにさえ抱かなかったのに。

自分が抱いた感情の正体がわからないまま、ティーナとゼオンは開けた空き地に出た。そこではやはり飲んだくれが数人転がっていたが、ゴミの寝床が無い分開けた場所で、他人に邪魔されずに話すことはできそうだった。

空き地の隅にあった煉瓦に腰掛けようとしたところ、一人の男性がゼオンの顔を見て言った。


「おー……? 小僧、お前の顔たしか見たことあんぞ。たしかあれだあ、手配書だ。脱獄したんだってえ?」


その言葉を聞いたゼオンは杖を取り出して身構えたが、ゼオンが動くより先に男性は瓶一本の酒を飲み干したかと思うとそのまま倒れてしまった。

ティーナは唖然としているゼオンに「放っときな」と伝え、ようやく休憩に入った。


「しかし、連れてきたはいいけれど、長居はしない方がいいかもね。あんた、根が良い子ちゃんすぎてここじゃ鴨にしかならないよ」


ゼオンは苦い顔をして呟く。


「良い子? 馬鹿言うな、俺はそんな人じゃない……」


ゼオンは目を伏せ、後悔に浸っていた。そうして罪悪感を感じ、後悔ができること自体、ティーナには眩しく見えた。

ティーナは改めてゼオンをまじまじと見つめた。顔立ちは悪くないがラヴェル程の完成された美男子でもない。根は素直のようだが表面的な言動は冷たいものだ。今、自分がなぜゼオンに対して世話を焼いているのかティーナは改めて考えてみたが、全く答えが出なかった。

考え込んでいる最中、突如自分の腹から「ぐぎゅうううう」と間の抜けた音がした。恥ずかしさで思わず腹を抑えた途端、激しい空腹が襲った。


「……確かに、腹減ったな」


ゼオンはそう呟くと、短い呪文を呟き、宙に指で線を引いた。すると空間に小さな裂け目が生まれた。どうやらその空間に生活に必要な物をしまい込んでいるようだった。

しかし、食料はあまり入っていないようだった。ゼオンは小さなパンとチーズを取り出す。


「これしか無いな……買い物の途中で追っ手に見つかったから」


小さなパンを見つめてティーナは懐かしい気分になった。孤児院に居た頃は子供達とパンを奪い合っていた。実験施設ではあの力を得るまではパンなんて贅沢な物は食べられなかった。怪盗をしていた頃は強さこそが得られるパンの数だった。

そして、ラヴェルとプリメイはティーナがどれほど卑屈で暴言を吐いても、望むだけのパンを無条件で与えてくれた。まるで我が子を育てるように愛を注いでくれた。

嬉しかった。嫌いになれるはずがなかった。でも、本当は「対等」になりたかった。そんな想いを抱えていたからこそ、ティーナにはゼオンがどうしようもなく眩しく、尊い存在に見えてしまったのかもしれない。


「ティーナ」


ゼオンはナイフでパンを丁度二つに切ると、チーズを乗せて片方をティーナに手渡した。


「なにこれ」


「腹が減ったんだろう。食えばいい。俺も腹が減ったから食う」


「なんで半分?」


「なんでって、二人で分けるしかないんだから、半分だろう」


ゼオンはそれがごく自然なことであるかのように言った。しかし、自然ではない。ティーナが歩んできた世界ではそれは決して普通のことではないのだ。

強欲な者はパンを分けることなく独り占めした。優しすぎる者は一つまるまるを分け与えた。弱い者は震えながらパンを差し出した。豊かな者はパンが食べられない貧民になど見向きもしなかった。

ティーナは雷に打たれたような気持ちになった。これまで誰もが自分を、相手を、力や性別や財や人格や生い立ちや自己か他者かといったフィルターに通して捉えていた。

ティーナは誰もが持ち合わせるそのフィルターを憎み、誰よりもそれに囚われてきた。そのフィルターを持ち合わせておらず、そのことを疑問にも思わない人は初めて見た。存在するとも思っていなかった。奇跡だとさえ思った。

ゼオンはティーナを「対等」と捉えていた。ラヴェルやプリメイさえ認めてくれることがなかった関係が成立していた。

豊かな貴族の家に生まれたとはいえ、ゼオンは複雑な事情を抱えて苦しい生活を送ってきたのだろう。そのことはこれまでの様子を見てティーナも察していた。にもかかわらず、自分と相手を対等と見る精神を保ち続けていることがティーナには信じられなかった。

人が困難を乗り越える為には自分に降り掛かった困難を解釈しなければならない。多くの場合、人は「自分」か「世界」のどちらかの価値を諦め、貶め、歪めることで精神を保つ。そういうものだとティーナは諦め続けてきたのだ。

これはティーナの理解の範疇を越えた人だ。そう気づいた途端、ティーナは目の前の少年が恐ろしくなり、思いもしないことを口走り始めた。


「何、なにそれ……それはあんたのなんでしょう。半分こって、馬鹿でしょ。なんで一人で食べないの。哀れんでるの? 偽善者ぶってるつもり?」


「そんなつもりは無い。一応助けられたんだ。相応の礼はするものだろ。とはいえ、俺もまだまだ逃げなければならないし食事は必要だ。だから分けられるのはこれくらい……ってところだ」


「馬鹿だよ。あんた、あたしが怖くないの? さっきの乞食の女にあたしがしたことは見てたでしょ。あたしもあれと似たようなもんだよ」


「確かに随分と乱暴なことをするとは思ったけど、怖くはないな。さっきの男が言ってたように、俺も脱獄なんて褒められないことをしてきたんだ。お互い様だ」


ティーナは俯きながら鼻で笑った。ここまで考えたことをオブラートに包むこともせず正直にぶつける性質だとさぞ生き辛いことだろう。

実際苦労を重ねてきたのか、ゼオンの根がどうしようもなく素直な善人であることははっきりとわかるのに、ここまでゼオンはニコリとも笑わなかった。


「いらないのか?」


その言葉には嘲笑も無ければ半端な気遣いも無かった。おそらく「いらない」と言えばパンを引っ込めるだろうし、「いる」と言えば差し出すだろう。

ティーナは捻くれ者の口に手で蓋をし、深呼吸してから、


「いる」


と答えた。するとやはりゼオンは無言でパンを差し出してきた。ティーナは顔を隠すように俯いてパンに齧り付いた。それから、気にしていないふりをしながら目だけを動かしゼオンの横顔を見つめる。

どうしてそうも綺麗に物を食べるのだろうと思った。醜い貧民の掃き溜めを背景とすることが勿体無いほどに丁寧にパンを千切っては口に運ぶ。それを見ていると、いきなり齧り付いた自分が恥ずかしくなって、ティーナは肩を竦めた。

気づくと、橋の外では既に日が落ち、月が登り始めたようだった。淡く青白い光が差し込み、ゼオンの頬を照らしていた。

綺麗だと思った。しかしやはり、感情が凍りつき時が止まったように無機質な目をしていた。


「あんたみたいなお人好しが脱獄って、そもそもなんで投獄されたの」


すると、ゼオンは苦い顔で、


「お前に言う必要無いだろう」


と拒絶した。痛みを堪えるような表情を見て、ゼオンの優しさを再認識した。そしてティーナは再び世界を恨んだ。「やはり、この世界では優しい人から犠牲になるのだ」と。

ゼオンもきっとそうだろう。いくら勘が良くても戦闘能力があっても、いずれ根の優しさが仇となる。

実際もう、何か悪いものに取り憑かれているのかもしれない。感情が凍りついたような横顔がそう予感させた。例えるなら、凍土で死にゆく花のよう。このままではいつかその優しさまで凍りついてしまうのだろうと思った。


「……もう夜か」


「うん、長居するべきじゃないとは思ったけど、今から別の場所探すのは大変かも」


「ここで朝まで待つしかないな。どうせ呑気に寝こけていい場所でもないんだろ。二時間ごとに見張りを交代ってことでどうだ」


「……いいよ。じゃああたしが先に見張りするから寝てなよ」


ティーナがそう言うと、ゼオンは使い古されたマントに包まって眠ってしまった。

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