第12章:第31話
墨を溶かしたような夜空にぽっかりと月が浮かんでいる。チラチラと金箔を散らしたように街の家々に光が灯り、怪盗に相応しい舞台が用意されつつあった。
ティーナは物陰に隠れてアルミナ家の様子を探りながら思わず笑ってしまった。こんな日が来るならば、夏にヴィオレに旅行に行ったことは無駄ではなかったかもしれない。屋敷自体の構造等は現代とは随分違うが、門の位置は全く変わっていない。
建物の構造からラヴェルが居そうな位置の目星を付けつつ、ティーナはある人を待っていた。
「ラヴェル……」
思えば、初めてラヴェルと出会った夜も月が綺麗だった。あの日からティーナの全てが変わったのだ。溝沼に満月が降りてきたような奇跡だった。恋も愛も自分で幸せを創り出す力も、全てラヴェルとプリメイが教えてくれた。
だから今、雲に隠れた満月に再び光が灯るように、ティーナはもう一度だけ怪盗になる。この屋敷に来るまでに商店街で買い揃えた玩具を確認し、ティーナは機会が訪れるのを待つ。
「…………来た」
屋敷の裏門からメイドが一人出てきた。どうやらゴミを出しに来たところのようだ。彼女がゴミ捨て場に近づいたところで、ティーナは素早く背後に回り込み、杖で頭を殴った。
メイドは気絶して倒れこんだ。すぐに服を剥ぎ取り、メイドを拘束し、少し離れた路地裏のドラム缶に詰め込む。それからティーナはメイドの服を着て、顔や髪の色も魔法で変えてそのメイドに変装した。杖は首飾りにでも変えて服の中に隠しておけばよい。
そして、ティーナは悠々とアルミナ家に乗りこんだ。
「やあメグ、遅かったな。またゴミ捨て場の場所、間違えたんじゃないだろうな?」
「おっ、メグ、またドジったのか? 旦那様の前でやったらまた大目玉だぞ」
「おかえりメグ! こっわいメイド長が呼んでたわよ。気弱なあなたには辛いだろうけど、しっかりしなさいね!」
屋敷に入った途端、ティーナは様々な人から声をかけられた。どうやらあのメイドはメグといい、気弱でドジっ子、男女問わず他人から好かれるようだ。ならば、ティーナもそのように演じよう。
ティーナはすぐにドジっ子メイド「メグ」の役に馴染み、屋敷内の構造とラヴェルが居る部屋の場所を聞き出した。
その二つさえ聞き出してしまえばあとは実行の方に移っていけばよい。ティーナはエントランスを通ったついでに、観賞用の壺の前に素早く予告状を置いて立ち去った。
そうすれば、屋敷に怪盗の存在を染み込ませていくことは容易い。案の定、夕食時に執事の一人がラヴェルの父に予告状について知らせた。
「旦那様、この手紙がエントランスに……」
手紙の内容は単純明快だった。
『アルミナ家の皆様へ 今夜、若草色の髪の王子様を奪いに参ります。 怪盗シュヴクス・ルージュ』
こうなれば屋敷は大騒ぎだ。ラヴェルの両親は怒鳴り散らしながら警備の手配をするし、使用人達には一瞬で怪盗の噂が広まった。この屋敷で若草色の髪を持ち、「王子様」と呼ばれるような容姿端麗な青年などラヴェルしか居ない。瞬く間にラヴェルの部屋の前は警備員で囲まれた。
次々と怪盗の脅威に染まっていく屋敷を見て、ティーナは懐かしくなった。あの頃は憎しみをぶつけ、生きていく為だけに盗みを働いていた。今はあの頃の自分を「馬鹿だねえ」と笑ってあげたい。過去を忌み嫌うのではなく、古いアルバムを捲るような感覚で。
あの頃の自分はなんて勿体無いことをしていたのだろう。この洋館が怪盗の色で染められていく。だれもが恐れ、そして心のどこかで怪盗が現れることを期待している。胸が高鳴る。笑いが止まらない。楽しい。
こんな最高の舞台で今まであんな汚い楽しみ方しかしてこなかったなんて。
「さてと、じゃあ始めましょうかね」
屋敷じゅうに通信用魔法具を仕掛ける。要所要所には爆弾。お楽しみの玩具達も仕掛けて、準備万端だ。最後に地下に向かい、屋敷の結界を維持している部屋に火を放ち、ティーナは舞台の幕を上げる。
真っ先にエントランスが爆発した。夜空に漆黒の翼を広げた赤毛の少女の姿が浮かび上がる。
「ご機嫌麗しゅう、アルミナ家の皆様方! 私の予告状は気に入ってくれたかな? こんばんは、約束の王子様を奪いに参りました。我こそは怪盗シュヴクス・ルージュ! 招かれざる客ですがどうか歓迎を!」
その宣言と共に屋敷中から花火が上がる。夜空は七色の花々で彩られ、屋敷のあらゆる人々が表面で怒り、喚き、困惑し、内でこの一世一代のショーに沸き立っていた。
「エントランスだ、捕らえろ! なにをグズグズしている! 急げ!」
「いや、地下の結界の陣に火が! 結界が破れる! 火を消せ!」
「ちょっと待て、あの空に映っているのは幻影だぞ、本物はどこに居る!」
「旦那様! 厨房で爆発が!」
「旦那様! 中庭でも爆発が!」
「旦那様! 奥様のお部屋でネズミ花火が!」
主人も奥様もメイドもコックも誰もが踊り踊らされる様が聞こえてくる。屋敷じゅうに仕掛けた盗聴用魔法具から拾った声を聞き、ティーナはクスリと笑う。やはり、盗聴は面白くって止められない。
癇癪玉を握りながらティーナはラヴェルが待つ部屋の前へと向かった。本番はここからだ。警備が一番手厚い場所を華麗に潜り抜けてこそ、最高のショーになる。メイド服を脱ぎ捨て、本来の怪盗の姿でティーナは最後の舞台へと臨んだ。
部屋の前にはやはり全身甲冑で固めた兵士達が並んでいた。しかし、エントランスでの騒ぎの効果があってか、人数は騒ぎの前よりもかなり減っていた。
杖を鎌へと変えて、ティーナは兵士達の足元にかんしゃく玉を投げつける。バチバチと火薬が弾ける音と共にティーナは飛び出す。火花に気を取られた数人の脚を斬り、不審者に気づいた奴らは甲冑の隙間を狙ってブスリと刺す。
窓を割り、残った兵士はできる限り外に捨てて排除し、それでも残った兵士は既に倒れた兵士を盾にしながら排除した。
ほんの数分の出来事だった。床は折り重なった兵士達で埋め尽くされていた。廊下を見渡しながらティーナは「あたしも変わったな」としみじみ思う。兵士達は皆動けないか気絶しているが、死んではいない。殺さないようにしたつもりだ。
兵士達を縛り上げて動かないようにした後、とうとうティーナは最後の扉をこじ開けた。宝箱の扉は羽のように軽かった。
ふわりと夜の風が吹き付ける。殺風景な部屋だった。部屋にはベッドと机くらいしか無く、僅かにある戸棚も殆ど空。生気を感じない部屋だった。
ベッドの上に座り、窓の外を見つめる青年が居た。窓は開け放され、遠くの満月がよく見える。
「悪い泥棒さんが来るっていうのに、窓が開けっ放しなのは不用心じゃない?」
ティーナが青年に問いかけると、青年はふわりと笑う。一瞬、涙が零れそうになった。思い出が色と声を付けて目の前で動いている。銀の月のような端正な顔立ちも優しい笑顔もあの頃のままだ。
「ティーナ……本当に、君なんですか?」
うん、と頷きたかった。けれどまだそれは言えない。あくまで強気に振る舞いながら、ティーナはこう返す。
「そうでもあるし、そうじゃないとも言えるかな。今の『私』は怪盗だよ。さぁて、すぐに追っ手も来るだろうし、手短に用件を話そうか。ねえ、ラヴェル。あんたと……あんたが持ってるタロットカードを盗みに来た」
ティーナが芝居がかった口調でそう尋ねると、ラヴェルは机の引き出しから小さな箱を取り出した。その中には沢山の魔物を封じたカードが入っていた。初めて会った時にティーナを助けた月のカードもある。
「お探しの物はこれですか」
「うん、その空札ってある?」
すると、ラヴェルは箱の底から表に何も描かれていないカードを一枚取り出した。
「これでしょうか」
「そう、それ。あたしはあんたをここから逃がしてプリメイのところに帰す。その代わり、その空札をちょうだい?」
ラヴェルはティーナが逃がすより先にあっさりと空札を渡した。
「それは……プリメイが頼んだのですか?」
「いいや? あたしが決めた。やっぱりね、愛する二人は永遠に共に生きてハッピーエンドが一番でしょ。少なくとも、ラヴェルとプリメイはそれを幸せと信じる人だってあたしは信じてる」
ラヴェルは寂しそうに笑っていた。その表情を見て、ティーナは次にどんな言葉が飛んでくるか大体想像がついた。優しい人はこのような時、みんな同じことを言う。
「タロットはお渡しします。しかし、申し訳ありませんが、俺はここに残……」
「ハイ却下ァァァァァーーー!! 却下却下却下ァァアアアーーー!! 泥棒はァ、そんな言うこと聞きませーん!!」
迷わずティーナはラヴェルの言葉をかき消した。皆同じことを言う。皆に迷惑をかけるわけにはいかないだの、巻き込むわけにはいかないだの様々な理由を付ける。それが気に食わなくて仕方が無かった。
親の制止を振り切って結婚した時点で迷惑などいくらでもかけているだろうに、今更何を弱気になっているのだろう。ティーナは呆れてため息をついた。そんな優しい言い訳、全て捻り潰してやろう。
「しかし、これ以上プリメイに俺の家の事情で迷惑をかけるわけにはいきませんし……父上達がプリメイに何をするか……」
「んじゃあもういっそプリメイと一緒にこの街から出てっちゃえば? 街から出ればアルミナ家の影響力も薄れるでしょ。おお、これぞ愛の駆け落ち! やっぱり愛する二人は地獄の底まで一緒に居るべきだと思うんだよねー!」
ティーナは窓を全開にして、夜空に浮かぶ月を睨んだ。
「とにかくゥ、この怪盗様としてはあんたが残ると言った程度で逃がしてやる気なんて更々無いんだよね。なんだったら、背負ってでも連れて行くから」
その時、それを聞いたラヴェルは突然「ふふっ」と笑った。
「な、何? なんかおかしいこと言った!?」
「いいえ、君があまりにも頼もしくなったので、本当に俺が知るティーナなのか疑いそうになっていたのですが……今の言い方は、間違いなくティーナでした。成長しましたね」
「う、ううーなんか気に食わない! 昔っからそうだったんだけど、こう、なんっか気に食わないんだよね! ラヴェルのそういう言い方!」
コホン、とティーナは咳払いをし、一瞬外れかけた「怪盗」の仮面を再び付ける。まだ舞台は終わっていないのだ。無事にラヴェルを連れ出せなければ、全てが水の泡だ。
「とにかく、『私』はラヴェルを連れ出すよ。あんたは絶対、もう一度プリメイに会わなきゃって思うはずだよ。実家に連れ戻されたら動揺して冷静な判断ができなくなっちゃった? あんたがここに居ちゃいけないことは明白なのに」
「それは……どういう意味ですか?」
ティーナは遠くの時計台を見つめた。「ティーナ」の初まりの場所……そこから、町並みに目を向け、視線はアルミナ寮とアポロン寮の境目で止まった。
「あんたが逃げ出すことより、プリメイを一人で置いておく方が危険だってわかんないの? プリメイに手を出すかもしれないのはアルミナ家だけじゃないでしょ」
ティーナの視線の先を見て、ラヴェルの顔が青ざめた。
「アポロン家……」
「そういうこと。むしろ、あんたがここに留まったままの方が危険かもよ? 奴らは貴重な『成功作』を匿ったあんたらを許さない。ライバルのアルミナ家の子息なら尚更ね。あいつらは交渉材料を探してるかもよ?」
ラヴェルは大きく息を吸って、疲れたように吐き出した。ベッドから抜け出し、瞳を夜の街に向ける。冬の風が吹いていた。満月の光が瞳に映っていた。あの日、ティーナを助けてくれた日のラヴェルもこんな瞳をしていた。
「はは……君は、本当に大きくなりましたね。立派になりました」
「全く、そういうところが、気に食わないんだけどなあ」
「ははは。それで……話はわかりました。君に従いましょう。それが、プリメイを守る為だというのなら」
その言葉を待っていた。ティーナは早速窓の桟に飛び移り、腰掛けながらラヴェルに手を伸ばした。
「そうと決まったら、早速行こうじゃない」
ラヴェルが頷きその手を取ろうとした時、急に胸を抑えて蹲った。
「どうしたの! もしかして……あの時の怪我!?」
「はは……情けないですね。でも大丈夫ですよ。行くと決めた以上、君の足手まといにはなりません。……もう一度、力を貸してください……アルテミス」
ラヴェルはタロットカードを取り出す。あの日、ティーナを助けた月の魔物のカードを。
「古よりアルミナに伝わりし21の力よ……月のアルテミスを召還……我が呼び声に応えよ! アプレ・ヴァル!」
ふわりとティーナの身体が風に浮いた。気づくと屋敷の部屋は遠く離れ、空を飛んでいた。状況を掴むのにしばらくかかった。おかげで最後の舞台だというのに決め台詞を言いそこねたじゃないか。
白銀のヴェールを纏った牡鹿のような姿の魔物が夜空を駆けていた。ティーナとラヴェルはその背中に乗っている。オーロラが屋敷を彩りながら夜の街までの道を示していた。
「ははは! やっぱり外はいいですね。プリメイの為ならって、折角一瞬反省しかかっていたのに、やっぱり俺はドラ息子かもしれませんね。さよなら父上! 俺は盗まれたので、もうこの家には帰りません!」
ついでに二、三発の花火を上げながら、白銀の雄鹿は屋敷の敷地外へ一瞬で駆けていった。ひとまず、第一の関門は突破した。ティーナはほっと胸を撫で下ろした。それから、月の高さを確認する。
「ラヴェル。悪いけど、プリメイのところに着く前に、どこか目立たないところであたしを下ろしてくれない?」
「ええ? それは残念ですね。折角だから、三人でお茶くらいしたかったのですが……」
「うん、あたしも。でもごめんね。この後、待ち合わせがあるんだ」
「そうですか……わかりました」
その声に応えるように月の魔物はふわりと闇に染まった街の一角に下りていった。本当は、もう少しだけここに居たかったけれども。そんな想いを振り切りながら、ティーナは灯りも無い路地裏に飛び降りた。
建物の間から、人々の声や橙の灯りが漏れてくる。そんな明るい場所に手を伸ばせるけれど届かない。なぜかティーナはそんな場所に居ると落ち着いた。
「別れの前に、一ついいですか。どうして、その姿で帰ってきたのですか。そして、どこに行くのですか」
ラヴェルが問いかける。こうして満月が照らす路地裏で話していると、初めて出会ったあの時に戻ったようだ。あの時は素直に伸ばされた手を掴めなくて、醜く虚勢を張っていた。けれど今なら、醜い虚勢を笑顔に変えることくらいはできた。
「今のあたしはね、ラヴェル達と別れた日から三年経ったあたしなの。セイラの力で300年後の世界へ行って、色んな人達と出会って、そして……それでも、ラヴェル達と過ごしたこの時に後悔を残したくなくて、戻ってきた」
「ティーナ……」
「ありがとう。あたしに、大切なことを沢山教えてくれてありがとう。ラヴェルもプリメイも大好き」
その時のティーナは、何も意識しなくても顔が笑っていた。そっか、本当は、笑顔は作るのではなくて浮かぶものなんだ。そんな当然のことがティーナには新鮮に感じた。
「あ……そうですね、こちらこそ礼を言わなくてはなりません。ありがとう。プリメイに会うチャンスをくれて。そして、これまで一緒に居てくれて、本当に……ありがとうございます」
「よしてよ。礼を言われることなんて何も無いって。本当は、もっともっと、返さなきゃいけないものがたくさんあるはずなのに……」
「……そんなもの、とうの昔に返してもらってますよ。俺もプリメイも、君が居てくれること自体が、嬉しくて仕方が無かったんですから……」
檻のように両脇を固める建物の隙間から銀の光がラヴェルの頬を照らしていた。穏やかに微笑むその人は本当に綺麗で、胸の中で別れたくないという想いが湧き上がる。けれど、涙は見せずに背を向けた。この人にはこの人で、帰らなければならない場所があるから。
「じゃあね。元気でね。さっさと帰って、プリメイのこと抱きしめてあげなきゃ駄目なんだからね!」
「ええ。……最後に、いいですか。これから、どこに行くのですか」
ティーナはタロットの空札で口元を隠しながら、悪党の笑みで言った。
「一発、殴ってやらないといけない奴がいるんだ。今のあたしが愛する人達の為に。だから、さよなら。元気でね!」
迷いを絶つようにふわりと飛び上がって全力で駆け出した。ラヴェルの姿は次第に遠ざかっていく。最後の舞台の思い出を噛み締めて、次へと駆ける力にする。
闇を照らす時計台を見つめ、ティーナはそこで教わった魔術を片っ端から何度も脳内で確認した。あの時は、まさかあの忌まわしい過去がこんな形で役立つとは思わなかったものだ。
思い出は胸の奥にしまい込み、ティーナは闇を睨んで憎しみの炎を燃やした。ここからは現在の「ティーナ」の戦いだ。
全ては愛する人達の為に。ゼオンを傷つける者は必ず殺す。




