第12章:第6話
仕方なく、ゼオンは寮に戻ることにした。石の道に降り積もった雪を踏み締めながら、ゼオンは「恋」だの「愛」だの、らしくもないことについて考えていた。
「恋」はよくわからない。「愛」はえげつない。それがゼオンの持つイメージだ。「恋」という言葉はそもそも本の中でくらいしか目にする機会が無かった。そして、「愛」という言葉への悪印象は……おそらく母が原因である。
ゼオンはこの世で自分の母親以上に最低最悪な人を知らない。半吸血鬼の母親は前妻の死の悲しみに暮れるクロード家に土足で上がり込み、一瞬で父を掻っ攫っていった。
だが、母が吸血鬼の血を引いている事が判明すると、その勢いは途端に息を潜め、父も母を軽蔑の目で見るようになる。母が更に狂ったのはそれからだ。
毎晩のように違う男を連れ込んでは「愛してるわ」と囁いて虜にする。朝になり、帰っていく男達はもはや正気ではない。幼いゼオンはあれは確実に何か盛られていると見抜いていた。
そんな狂った母親にとって、ゼオンは人生の汚点だった。
「私が生んでやったんだから、私に服従するのは当然だわ」──そう言っていつもゼオンを力と魔術で捩じ伏せた。
「ワイングラスが喋んじゃないわよ」──喉に手を当て、割れたグラスの破片で首もとを切り付け、母はゼオンを追い詰めた。
幼いゼオンに抵抗する術は無かった。逃げようとしても反撃しようとしても、足をすくい取られて、身体を打ち付けられ、心を失った人形のようにされるがままになっていた。
だが、そんな母でも、父に恋していたということだけは本当だったらしい。その父の血を引くゼオンから自由を奪い、布で目を隠した時、極稀に言うのだ。「やっぱり似ている」と。そしてゼオンにも「愛してるわ」と言うのだ。気持ち悪くて仕方が無かった。
「生かす価値もないお前でも、こうして母として愛してやっているのだから感謝なさい」──母親が「愛」という言葉を口にする瞬間は、「死ね」と言う時よりも強い狂気を感じた。
だからゼオンには「愛」という言葉が恐ろしい。だから、キラへの感情にも、ティーナから向けられる感情にも無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
しかし、そんな母親も今は居ない。もし7年前のあの日、街を焼く事件が起こらなかったら、今ゼオンはどうなっていただろう。一瞬、そんなことを考えた。
そうこうしているうちに、ゼオンは寮へと戻ってきていた。自分の部屋へと戻る途中でロイドとすれ違った。
「あ、ゼオンだ。どこ行ってたの、またキラのとこ?」
「またってなんだよ」
「だって、よくキラと居るだろ? そこら中で噂になってるよ」
「噂って……それ、絶対お前が広めたんだろ」
「そうだよ。けどキラとよく居るのは事実だし」
傍から見るとそれほど頻繁にゼオンとキラは一緒に出歩いているのだろうか。自分ではその自覚が全く無かった。ゼオンがキラとよく居ると、ティーナはそれだけで辛いのだろうか。
ちょうどよくそこにロイドが居たので、ゼオンは尋ねた。
「そういやお前、片想いってしたことあるか?」
「あんたはいきなり何を言い出すんだ……」
呆れ果てた顔をされた。そういうものか。それから、ロイドは寂しそうに窓の外を見る。
「そりゃあもう、僕はずーっと片想いだよ。今更、状況を変えようとすら思わないね」
「相手、誰だっけ」
「そこまで言わせるなよ。忘れたの?」
しばらく本気で忘れていたが、ようやくショコラ・ホワイトだと思い出した。あの人も色々と得体が知れない人だ。あの謎の強大な魔力といい、出自がわからないところといい、正体はろくなものではない予感がしているのだが、ロイドはそれに気づいているのだろうか。
「片想いって、辛いのか?」
「そりゃあ辛いよ。けど、」
ロイドは見たことのないような笑顔を窓の外に向けた。
「あの子が今日も楽しそうにしているところが見れたら、俺はそれだけで嬉しいけどね」
その言葉を聞いて、ふと思い出したものはキラの笑顔だった。あの眩しい笑顔を見ると、なんだか少し気分が晴れる。そんな気持ちはゼオンにもわかるような気がする。
「そういや、夕飯の席取っとくから、もう少ししたら食堂来なよ」
「……わかった」
ロイドは風のように過ぎ去っていった。
ゼオンは一人で寮の部屋に戻る。ここに戻ると、少し前まで沢山の声に囲まれていたことが嘘のように思えてくる。
コートを片付けたら早く食堂に行こう。遅くなるとロイドがうるさい。クローゼットに上着をしまい、机の上に出しっぱなしだった本を片付けた時、ふとブラン聖堂から持ち帰った蒼の石が入った瓶が目に入った。そういえばあの時も、キラが一緒だったっけ。
光に透かしてみると、まるでキラの瞳のような色をしていた。そう思った瞬間、またキラのことを考えていることに気づいてため息をついた。
「気のせい……気のせいだ」
そう呟いて瓶を引き出しの中にしまった。すると、紅の石が入った瓶が引き出しの奥に入っていた。そちらはまるでティーナの髪の色のように見える。
そう考えた時、ルルカの言葉が浮かんだ。「もう少しティーナの気持ちを真面目に考えてあげてほしい」と。
ゼオンは困ってしまった。真面目に考えるとは、具体的に何をすればいいのだろう。いつものように「きゃっわーん、愛してるぅ!」と飛びついてくるティーナに、突然「俺はティーナじゃなくてキラが好きだから止めてくれ」とでも言えばいいのか。それは酷くないだろうか。
いや、そもそもゼオンにはキラが好きかどうかということもわからない。多分そんなことは言えない。
大体、ティーナがあの「きゃっわーん、愛してるぅ!」をどういうつもりで言っているのかいまいちよくわからないのだ。だから、こちらもついつい曖昧に受け流し、目を逸らし続けてきたのかもしれない。
ティーナの言う「愛」はかつて母が見知らぬ男達に囁いた「愛」ほどグロテスクではなさそうだ。かといって、小説の中で都合の良い時に出てくる「愛」のような浅いものでもなさそうだった。
結局、「真面目に考えた」結果、具体的にどんな行動を取るべきかますますわからなくなってしまった。大体、ゼオンが一言二言何か言っただけで簡単に整理がつくようなものなのだろうか。
余計なことばかり考え、時間が過ぎていく。
「……とりあえず、飯行くか……」
ロイドを待たせていることを思い出し、ティーナの問題はひとまず後で考えることにした。そうしなければ、余計ドツボにはまる気がした。
どうせ明日は留守番だ。考える時間はいくらでもある。それに、
「この石、何かうまく使えないかな……」
ゼオンは紅と蒼の石が入った瓶をつまみ上げる。破壊と創造の力が詰まった石。これを使って、少し試してみたいことがあった。




