第三回:【一時保留】 お題「クッキー」
その瞬間は突如訪れた。
「千春、結婚してください」
まったく予期せぬ告白に目の前が真っ白になり、頭が混乱する。
あまりの出来事になんと答えればいいかわからず、思わず口をついて出た言葉が。
「少し考えさせて」
自分の発した言葉に自分で驚く。そして逃げるように走り去ってしまう。
どこをどう逃げてきたのだろう、気付けば家の近くを歩いていた。
付き合い始めてもう6年が経つ。もちろん結婚も考えていた。いつかは結婚したいと思っていた。それなのに突然の告白に動揺してしまって、回答を保留してしまった自分が情けない。
しょぼくれた顔のまま家に帰ると、母が夕飯の仕度をしていた。
自分の部屋がある二階へ上がるため、リビングを横切って階段へ向かう。
階段を上がりきったところで姉とばったり会う。
「どうしたの?冴えない顔してるわね」
「お姉ちゃん……」
「どうしたの千春、何かあったの?」
「プロポーズされた」
そう答えながら、先ほどの自分自身の回答を思い出し、思わず涙ぐんでしまう。
「え?千春がプロポーズされたの?なんで?」
相当驚いている。当然かもしれない。
「お母さん、ちょっと聞いて。大ニュース」
姉は大声で叫びながら階段を駆け下りる。
しばらくして母を伴ってきた姉が部屋のドアをノックするが、返事を待たず入ってくる。
「千春、プロポーズされたって本当?」
その問いにゆっくり頷き応える。
「そう、良かったじゃない。悠ちゃんいい子だし」
お母さんに言われなくてもわかっている。それなのに逃げてきてしまった……
「私もまだなのに、なんで千春が先にプロポーズされるのよ。許せないわ」
「いいじゃない、千春は奥手だからどうなるか心配していたんだから、母さん嬉しいわ。それで式とかどうするかもう決めてるの?」
「それが、気が動転して逃げてきちゃって、まだ返事してないんだ」
「は?あんた馬鹿じゃないの?なんですぐに返事しないのよ」
お姉ちゃんの罵声が飛んでくる。
「だって、まさかプロポーズされるなんて思ってなかったから……」
「そりゃそうでしょうね。普通プロポーズなんて男からするものだからね」
「そうよ千春、あんたがいつまで経ってもはっきりしないから、悠ちゃんから告白してくれたのよ。それなのに返事もせずに逃げ帰ってくるなんて。悠ちゃんがかわいそうよ。きっと今頃家で落ち込んでるわよ」
「ほんと馬鹿なんだから」
「うん」
なんと言われてもいい返す言葉がない。自分の意気地の無さには情けなくて涙が出る。
その時携帯の着信音が鳴る。悠からのメールだ。
僕は恐る恐る携帯を開く。母も姉もじっと見守る。
「悠ちゃんからメール?なんて?」
「明日家に来て欲しいって」
「そう、明日はちゃんと返事するんだよ」
「うん」
悠の部屋にはもう幾度となく招かれている。
しかし今日はいつもと違う。ここまで緊張するのは初めて訪れた時以来かもしれない。
いつものようにチャイムも鳴らさず玄関を開ける。
「あっ、千春こっち。キッチンへきて手伝って」
ドアを開けたとたんいつもと変わらないトーンの声が玄関まで響く。
僕は激しく緊張しているのだが。
「何してるの?」
「今クッキー作ってるの。ちょっと手伝って」
悠はお菓子作りが得意だ。今もあのアイスクリーム屋で働いているが、将来は自分のお店を持ちたいといつも話してる。
「もうほぼ出来てるね」
「うん、型抜きをするんだけど千春の好きな型で抜き取って」
僕はその場にあるいくつかの型抜きを使って適当に型を取っていく
「ありがとう、じゃ焼くね。焼きあがるまで少し時間があるから、部屋で待ってて。私はここを片付けてから行くから」
そう言われて僕は悠の部屋で待つことにした。
昨日は不意を突かれて気が動転してしまったけど、本来なら僕が告白するべきことだったんだ。
なかなか言い出せなかったけど、僕だって悠と結婚したいとずっと思っていた。だからもちろんプロポーズは受けるつもりだ。
携帯の時計を確認するともう30分以上経っている。
遅い。クッキーって焼くのにそんなに時間がかかったっけ?確か前に15分くらで焼けると言ってたような気がするけど。
「お待たせ」
クッキーをいっぱい乗せた皿を持って、悠が部屋に入ってきた。
「悠、僕……」
「話はいいからクッキー食べてみて。まだ完全には冷めてないけどね」
僕は話をしたかったのだけど、クッキーを目の前に差し出されたのでとりあえず食べることにした。
大きめの円盤型のクッキーを手に取り、一口かじる。
か、硬い。噛み砕けない。
「硬いね。失敗?」
「ううん。そのクッキーって何で硬いかわかる?」
お菓子なんて作ったことのない僕にわかるはずもない。
僕が首を横に振ると悠が答えてくれる。
「クッキーの硬さって焼き時間で変わるんだよ。サクサクしたやわらかい食感にするならもっと焼く時間を短くすればいいの、逆に硬くしたい時は長くするの」
「それで?今日は硬いクッキーを作る為に焼く時間を長くしたの?」
悠が俯き加減で寂しそうな目をクッキーに向ける。
「どうしたの?」
「クッキー割れない?」
僕の問いかけには答えず、クッキーが割れないか聞いてくる。
何か意味があるのかと、僕は奥歯でしっかりクッキーを噛み合わせ手に持ったクッキーを折る。
少し勢いよく折り曲げすぎたのか、クッキーが割れたのはいいが、破片が飛び散ってしまった。
「ごめん。屑がとんでしまった」
「いいよ、後で掃除するから」
悠がまた俯いたままだ。
「ねぇ悠、昨日の話だけど」
「千春!」
僕の言葉をかき消すように悠が僕の名前を叫ぶ。
びっくりして悠の顔を凝視する。
「私達付き合い始めて六年経つよね」
僕は頷く。
「このクッキーの焼き時間と同じ、長いよね」
何が言いたいんだろう?悠の真意が見えないので慎重に頷く。これ以上悠を傷つけたくないから。
「付き合いも長くなるとクッキーと同じ、結び付きが固くなるよね」
「うん。僕達の結び付きは簡単に割れたりしないよ」
「でもね、今さっきのクッキーと同じ、硬いぶん割れる時は一気に割れて飛び散るのよ」
何が言いたいんだろう?昨日返事せずに逃げてしまったことで、僕達の結び付きは粉々に割れてしまったということなのか?
「硬いと柔軟性に欠けてしまって、変に力を加えると、逆に割れやすくなるものなのよ」
どういうことだ。僕は最悪の事態を予期して鼓動が早くなる。
嫌な汗が噴き出し、背筋が寒くなるようか感覚にとらわれる。
何か言わなければ。本当にこのまま割れてしまうかもしれない。
「ぼ、僕達の結び付きは固いけど、割れたりなんかしていない」
悠は俯いたままポツリとつぶやく「本当?」
「ああ、本当だよ、これか先もずっと割れることなんてない」
「だけど…… 私の心は割れちゃいそうだよ」
そう言って目にいっぱいの涙を浮かべる。
僕は慌てて悠の隣に移動して肩を抱き寄せる。
「千春のことは大好きだよ。千春が優柔不断で意気地なしなのもわかってる。そんなところも好きだけど、だけどいつも私ばっかり」
俯いているので顔は髪で隠れている。だけど悠の頬に涙の雫が流れているのはわかる。
そして何を言いたいのかもよくわかる。
僕達が付き合い始めるきっかけになったメモも悠からもらった物で、告白も悠からだった。
悠は優柔不断な僕を受け入れてくれていた。だから僕はいつしかなんでも悠任せだった。
今回のプロポーズも本来なら男である僕がするべきだった。でもなかなか言いだす勇気のない僕は、心のどこかで悠から言ってくれるんじゃないかと、期待していたのかもしれない。
それなのに昨日のあの態度。悠が不安になるのも当然だ。
「悠、ごめん。昨日は情けない話だけど、いきなりのプロポーズで気が動転してしまって逃げ出してしまった。」
悠は俯いたまま頷く。
「じゃ昨日の返事してくれる?」
「昨日の返事よりも、僕から言わせて欲しい」
「いいよ。じゃ千春から言って」
僕は悠を正面から強く抱き締める。
「辛い思いをさせてごめん。これからはもう少し男らしくして、必ず悠を幸せでいっぱいの毎日が送れるように頑張る。だから僕と結婚してください」
「はい。こんな私でよければもらってください。でも優柔不断で頼りない千春も大好きだから、無理して男らしくなりすぎないでね」
首に回していた腕をほどいて肩を持ち悠の顔を見つめる。
「うん。程ほどに男らしくするようにするよ」
そう言って涙に濡れた悠の唇に僕の唇を近づける。
数センチに詰まった距離に悠は目をつぶり次の瞬間を待っている。
お互いの唇が触れると悠が僕の頭の後ろで腕を絡ませ強く引き寄せる。
僕も悠を思いっきり抱き締める。
プロポーズと共にした口づけは、今までで一番熱いキスだった。
「ねえ、今日は何でクッキーを焼いたかわかる?」
「え?固いクッキーを二人の結び付きとかけていたんじゃないの?」
「それはそうだけどもう一つ意味があるんだよ」
なんだろう?悠はこの手のなぞかけが好きだなぁ。
「なに?」
「昨日千春が私のプロポーズを一時保留したでしょ?」
「うん。だから?」
「クッキーってパソコン用語で一時保留って意味もあるでしょ?」
「それを言うなら一時保存じゃない?」
「千春、男のくせに細かい!どっちでも一緒でしょ」
「保存と保留はよく似てるけど微妙に意味が違うような」
「うるさい~」
「あっ、顔が赤くなってる」
「うるさい、うるさい、うるさい~!」
そう言って僕の胸に飛び込んできて、ぽかぽか叩いてくる。もういつも悠に戻ってる。
でもそんな悠を見ながら一つの疑問が……
勝気な悠が泣くほど不安だったにも関わらず、あの状況でお菓子のクッキーとパソコン用語のクッキーを掛けるということを考えてたんだろうか?