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◇
朝、玄関を開けると、そこに仁王立ちの彼女がいた。
眼前の光学情報を受け、それが網膜から視神経を通じて脳へと向かう。反応はその最速を極めて、僕は一瞬の迷いもなく扉を閉めて視界を遮断した。
ついに白昼夢まで見るほど脳がまいってしまったのかと頭を振り、目元を揉んでいたら、ピンポンと呼び鈴が鳴った。
「はーい」
「いや、大丈夫! 俺が出るからっ」
あわてて後ろのリビングへ言い放っておいて、僕はそっと覗き穴から様子を窺った。
うわあ、と思わず声が漏れる。
間違いなく彼女だった。黒くて艶やかな長髪、きつい眼差し。地味な制服なのに、まるでそれを感じさせない理不尽なまでの存在感。
その相手がまっすぐにこちらを見つめている。まるで覗き穴のこちらにいる自分がバレバレのようで、僕はそんな彼女の態度をちょっと恐ろしく感じた。
「バレバレよ」
ひい!と悲鳴をあげる。ピンポンとまた呼び鈴が鳴った。あわてて扉を開ける。
「なんで閉めたのよ」
「おはようございます!」
「挨拶の前に謝るべきじゃない」
「……誠に申し訳ありませんでした」
ふと彼女が僕の背後に目をやった。礼儀正しく、深々と頭を下げる。
「おはようございます」
振り返るとぽかんと母親が大きく口を開けていた。
「宇多飼くんの、……お友達の。神螺といいます。朝早くから失礼します」
よほどの衝撃だったのだろう。母親は燃え尽きたボクサーみたいに真っ白になって、すっかり化石化してしまっている。そんな母親の姿を客観的に見て、ああ、と僕はうめく。我が親ながら、ひどい格好だ。せめてそのエプロンの意味不明なアップリケのセンスだけはどうにかしてもらいたい。アップルのつもりなんだろうが、綴りが間違っているせいでアッポーとしか読めない。
「途中までですが、一緒に通学をと思って寄らせていただきました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
よどみのない口調、物静かな声色でしゃべる彼女は、まさに良家のお嬢様そのものだった。僕相手にはいつも睨むようなきっつい眼差しも今は心持ち穏やかで、そんな表情もやろうと思えばできるんだなぁとその場の状況も忘れてつい感心してしまう。
は、と我に返ったらしい母親が、あわてて顔の前で手を振った。
「とんでもない! ふしだらな息子ですが、どうぞよろしくお願い致しますっ」
母さん、間違ってるよ。なんかもう色々とさ。
「あー……。ガッコ、行ってくる」
突っ込む気にもなれず、僕は母親を放っておいて外に出る。
玄関を閉める寸前、母親が貧血を起こしたようにしゃがみこむのが見えた。どこまでも基本に忠実な親である。
家を出てすぐそこに、黒塗りの車があった。今日もダンディーな運転手さんが既に扉を開けて待機している。
「おはようございます」
黙って頭を下げて車に乗り込むと、静かな振動を響かせて車は動き出した。
車中は昨日と同じように静かだった。高級そうな音楽がかかっている。クラシックみたいだけど、そんなの演歌と同じでなにを聞いても一緒にしか聞こえない。
ともかく、今日は座席で縮みこまっているわけにはいかない。意を決して、僕は口を開いた。
「あのさ――」
「不二。私のほうから先に送ってもらえる。今日、クラスの役番なの」
「かしこまりました」
奇妙な間があいた。
「なに」
「……なんでもありません」
僕が悪いわけじゃない。間が悪いんだ。
悲しくなる思いを抑えて、僕は窓を過ぎる朝の光景に目をやった。透明なガラスに、かすかにこちらを見る彼女の綺麗な顔が映り込んでいる。さっき玄関で見せていた表情はなんだったのかと思うくらい険しいその眼差しから逃げるよう、目を閉じた。
それからどれくらいたったか、よくわからない。
昨日の夜も一晩中彼女のことを考えていて睡眠不足だったから、そのうちにウトウトとしていたら、ばたんと扉が閉まる音がしてまぶたをあけた。
彼女の姿がない。車の外に、こちらに背を向けて姿勢良く歩み去る後ろ姿が見えた。
その先に佇む建物を見て、僕はあらためて痛感することになった。
とても立派な校舎だった。自分の通うしがない公立校とは門のたたずまいから違う。警備員らしい人物が目を見張らせ、門のなかへと進む生徒達は歩くというただそれだけの物腰にすでに育ちの良さが現れていた。送迎車という異質なはずの存在さえ、まるで場違いなことではないらしい。車の前後に、同じような高級車が何台も道路脇に側寄っていた。
車の近くを通りかかった生徒の一人が、不思議そうにこちらを見ているのに気づいて、思わず身を隠す。
――世界が違う。
そっけない声がかかった。
「宇多飼様の学校まで、二十分といったところでしょうか。お時間に問題はございませんか?」
「あ、だいじょぶです。――お願いします」
「かしこまりました」
知らない人の運転する車で、知らない道を走る。道中はひたすら沈黙が続いて、いっそのこと途中で降りてしまおうかと思うくらいだった。
「あの、すいませんっ」
「はい」
鏡越しに向けられる静かな視線に、開きかけた口が固まる。ついてでたのは、降ろしてください、の一言ではなく、ちがった言葉だった。
「……あの学校に通っているのって。もしかして全員、その――」
「我らの同胞方ということになります」
ああ、やっぱり。
いったい何人いるのだろう。学校に通う生徒全員にもちろん、それぞれ家族がいるわけで、つまりその数はさらに二倍にも三倍にもなるのだ。――吸血鬼、蔓延しすぎ。
「あなたも、ですか?」
「はい」
今までだって、彼女の言葉を信じてなかったわけじゃない。彼女が見せてくれた身体能力に、その真剣な態度で、嘘をついているわけじゃないとは思っていた。
けど、実際に彼女以外の人からそれを聞いてしまうと、いまさらながらに血の気がひくのがわかった。
吸血鬼。人より優れた能力を持って、人の血を飲む人たち。
血を得るのに医療用血液パックなんかを使って、映画みたいに人に害を与えることなんてせず、社会にひそんで生きている。
だから、問題はない。――なにも問題はない。そうだろう?
「――宇多飼様」
ふと気づけば、車はとっくに止まっていて、見慣れた校舎の薄汚れた建物が窓から見えていた。
「吹那様からは、こちらとお聞きしていましたが。間違いございませんか?」
「あ、はいっ。ありがとうございました!」
あわてて扉に手をかけて外へ出る。背中に運転手さんの視線を感じ、通学中の同校生からのいぶかしげな視線に晒されながら、僕は校舎へと走った。
教室に入った瞬間、啓吾が怒涛の勢いで突進してきた。その勢い、まさにレッドブルの如し。
「マモルァー!」
マヨラーの亜種みたいに言わないでくれ。
今までのつきあいで一度も見たことがないような気迫が入った形相に、思わず背中を見せてにげようとして、あっさり首根っこを捕まえられた。
ぐえ、と万力で首を締められる。そのまま無理やりに教室の中へと身体を引きずり込まれると、そこで僕を待ち構えていたのは啓吾だけじゃなかった。
クラスの男子生徒ほとんど全員が、血走った目で大きな輪をつくっていた。サバトに呼び出された生け贄の思いを味わって戦々恐々とする。なぜか、男子連中の輪を遠くに見るように、女子達までこっちに注意を向けているようだった。
「な、なんだよ。みんな。どうしたんだよ、朝っぱらから」
「被告は許可なくしゃべらないように」
「裁判かよ!」
ツッコミは華麗にスルーされて、かわりに取り囲んだ男子連中から獣のような視線を受ける。う、と噛みつかれないよう身体を引いたところに、啓吾が堂々とした口ぶりで宣言した。
「それではこれより、1‐B査問会を開きます!」
うおおおおおお、と周囲から絶叫があがる。
「異議あり! これでは査問会じゃなくて、公開処刑ではないでしょうかっ」
「被告は許可なく空気を吸わないように」
「死ぬわアホ!」
いっそ死ねばいいのに、というつぶやきが聞こえて、ぐるりとそちらを振り返る。視線をそらすモブAからCまで容疑者三名。よっし、覚えてろお前ら。僕はねちっこいからな。今の発言、二度と忘れないからな!
「えー。被告、宇多飼護。十五歳。魚座。帰宅部。趣味なし。好きなシチュエーションは、身動きがとれない状態で年上のお姉さんに言葉責めされるという極めて変態的な――」
「やめて! それ以上は言わないで!」
ひそひそと女子達がなにか囁きあっている。ああ……僕の高校生活が今、終わった。
「なんだよ、人の青春を勝手に奈落の底に突き落とすなよ、お前ら!」
「バカ野郎ォ!」
殴られた。
冗談じゃなくて、本気で殴られた。
くらくらする。こめかみにえぐりこむような一撃を喰らい、声も上げられないでがっくりと膝をつく。ぽたり、と僕の前の地面になにかが落ちた。
見上げれば、啓吾が涙を流している。
「俺は悲しいぜ、護……」
「な、なにがだよ」
むっさい男が泣いているのなんか見てもこれっぽっちも感動なんかできやしない。不細工に顔を歪ませた啓吾の周りでは、なにやらシンパシーを感じ取ったらしい他の男子連中もさめざめと泣いていた。
「俺とお前は仲間だったじゃねえか。イケメンの存在を憎み、恋人達のラブイベントには雨が降れと祈り、女なんてうるせーだけだよ、興味ねーよとクールぶりながらこっそり休み時間の女子達の会話に耳をそばだてる。そんなモテナイ男同盟の仲間だったじゃねえかよ」
なんだそりゃ、と言いかけて気づいた。
周りで輪を作ってる一番最前列にいるのは、すべてそういう連中ばかりだった。少し距離をおいて、あるいは女子とおなじようにこっちを遠くに見ている男子は、いわゆる勝ち組系。
「そのお前が! モテナイの中のモテナイだったはずのお前が! どうしてあんなお嬢様学校の可愛い子ちゃんといつの間にかお知り合いになっているんでございますかっ!?」
襟首を持たれ、尋常じゃない膂力でもちあげられる。がっくんがっくん揺さぶられ、脳がシェイクされた。
「ちょ、ちょっと待て。啓吾……話せば。話せば、わかる――」
「うるせー! 犬養先生の仇だ!」
もう無茶苦茶だ。
ふと、教室の扉に担任の教師が姿を見せているのに気づいて、僕は必死に手を挙げた。
「先生っ、ここ! いまここで、まさに今、集団によるイジメがっ」
職業選択の際、もっとも消極的な理由で学校教師を選んだと噂されるその気弱げな外見をした中年教師は、必死に声をふりしぼる僕を見て、ふっと微笑んだ。そのまま去っていく。
「ちょっと! あんたはそれでも教師かあ――っ。あ……駄目、あんこでちゃうっ」
結局、騒ぎは一時間目が始まるまでおさまらず、さらに授業が終わったあとには即効で再び周囲を取り囲まれてしまった。
「さあ、護。続きだ。査問会を続けるぞ」
「いや待てよ! お前ら、そもそも僕の話を聞く気ないだろっ」
ふん、と鼻息荒く啓吾が笑う。
「おう、なら話してもらおうか。いったいどういう大した事情があるんだかな」
「啓吾には前に、話しただろ。街で女の子と会ったって……」
それから、僕は彼女とのなれそめをかいつまんで話した。もちろん、いろんなことを省いてのうえではある。最悪の出会いの原因となったアクシデントや、彼女自身の秘密は口に出来るはずがなかった。
話を最後まで静かに聞き入った啓吾を中心とした男子勢は、しみじみと感に入った風情で、
「なるほどなあ。街中でそんな出会いが――あるかぁ!」
ちゃぶ台を返すような総ツッコミを受けた。
「実際あったんだからしょうがないだろ!」
「うるせーうるせー! そんな展開、神様が許しても視聴者様が許さねえ! 最近のテレビ局が視聴率確保にどれほど苦戦してるか、知ってて言ってんのかっ!?」
「知るかそんなこと! ――それにっ」
苦い味が口の中に広がる。それを、ぐっと押し出した。
「相手が僕のことを気に入ってくれてるとは、限らないだろ」
口調に含められたなにかに気づいたのか、それまで熱狂していた集団がしんと静まり返った。
我ながら情けないことを堂々と言い切ったものだと、少し恥ずかしく思う。周囲の視線から逃げるよう顔を俯かせていると、ぽん、と肩に優しく手が置かれた。
「……なんだよ。最初っからそういえばいいのによ」
真心のこもった口調に、不覚にもじわりときてしまう。
やはり、持つべきものは親友だ。啓吾なら今の僕の気持ちをわかってくれるに違いない。目元をぬぐって顔を上げた先に、拳を固める友の怒り顔が見えた。
炸裂するナックルパート。
一斉に沸き返る観衆。
それを冷ややかに見つめる一部勝ち組と女子。
「あほか! 悲劇ぶりやがって、あんな可愛い子と知り合いになれただけでも過ぎた幸運だろうが、その上相手から好かれようだなんて、甘えたことぬかしてんじゃねえぞ!」
制裁は休み時間のあいだじゅう、続いたのだった。