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◇
その相手がやってきたのは、怒ったような一瞥を残して彼女が去ってしまい、わけがわからず僕がその帰りを待っていた時のことだ。
やってきて、というよりは、それまで同じ店にいたらしかった。一組のカップルが、楽しそうに会話しながら去っていく後ろ姿を壁際に寄ってぼんやりと見送りながら、いいなあ。あれがデートってやつだよなぁなんてぼやいていたら、やがて視界から見えなくなってから、すぐに片方の一人が戻ってくるのが見えた。忘れ物かな、と思っていると、でもその相手はなぜか真っ直ぐに僕へと向かってくるようで、
「やあ」
なんて爽やかに言われてしまい、思わずあたりを見回してしまった。もちろん誰もいない。
「……どうも」
返事を返すと、相手はにっこりと微笑んだ。
えらく好感の持てる笑顔だった。中性的な顔立ちに、多分年は僕より上だろう。嫌味のない微笑み。これがナンパなら、たいていの相手はそれを見ただけでガードを解いてしまうような。ただ問題は、相手が男で、僕も男だってことだ。
その相手は、少し首を傾げるだけでさらりと流れる髪を揺らし、探るような視線を僕に向けてきた。
「な、なんでしょうか」
はっきりいって、気味が悪い。ここで念のために僕の性的嗜好をカミングアウトしておくが、僕はいたってノーマルだ。年上の女性が着る白のブラウスと外れかけのボタン、下から挑発するような視線なんかに日々リビドーのなんたるかを思い悩んでいるような、よくいる性的健康優良児である。
同性からそんな意味深な目で見られても、たつのは鳥肌くらいなもんだ。いま上手いこと言ったね、僕。下ネタだけど。
「ちょっと、その場で回ってみてくれない?」
まったく意味不明だ。いったいなんなんだ、こいつ。
は、と僕は思い至る。
もしかしてこれが、噂に聞くスカウトというやつではあるまいか。やばい、ついに僕にもデビューのときが訪れたのかもしれない。と妄想した脳裏に次に浮かんだのは、ラメの入った衣装をまとい、薄暗い店内で同性相手に媚を売るダンサー自分の姿だったりして、血の気が引いた。未成年でゲイバーデビューだなんて人生経験として面白すぎるけど、そんな二十年たってはじめて笑い話にできるような神秘体験、心の底からごめんこうむりたい。
「あの、すいません。ちょっと、そういうのは困るっていうか……」
「ああ、うん。大丈夫大丈夫。悪いようにはしないから」
やんわりと断ろうとするが、相手は爽やかな笑顔のまま退かなかった。
街中でナンパされる経験なんて当然今までなく、渡されるのはせいぜいポケットティッシュか、声をかけられるとしたらカラオケの客引きバイトくらいしかない僕には、それ以上の抵抗の仕方がわからない。はじめて都会にでてきた初心っ子よろしくたじたじと気後れして、すぐに僕は観念することにした。
「……こうですか」
くるりと一回転。舞台上でもなければスポットライトもない。いったいなにをしてるんだと思いながらターンを決め、相手を見ると、男の視線はますますその強さを増したようだった。
「へえ」
教え子の隠された才能を見抜いた熱血コーチよろしく、その瞳にきらりとしたものが光るのを僕は見た。やめてくれ、僕にはそんなつもりはないぞ! なんて雄々しく言い切ろうが、心の叫びは当然相手には届かないわけで。
「君さぁ」
男が近づいた。ひい、と僕は声も出ない。
視界の隅に彼女の姿を見つけたのは、僕の貞操がやばげな展開を迎えた、まさにその瞬間だった。
「あ、おかえり!」
一歩を踏み出す度に、どうしてこの床はこうなのか!と、いちいち怒りをおぼえていそうな、不機嫌極まりない表情。だけどそれがたまらなく魅力的に見えてしまうという末期症状の僕のことは放っておくとして、トイレから戻ってきた彼女はなにやらイベント進行中のこちらの様子を一目みて、実にわかりやすく柳眉を逆立ててみせた。
「――なにやってるの」
低く響き渡るような声。ハスキーな、というか、クラスの女子が教室内でぎゃーすか騒いでいるそれとは出ている器官からして違うのではないかと思えるような、落ち着いた声。そのなかに感情をみなぎらせた短い台詞に、僕はあわてて弁明しようとした。
――なにを弁明しようっていうんだ。それじゃあ僕が二股かけたとか、そういうとんでもない不義理をおかしたみたいじゃないか。僕は神螺さん一筋です!と大声で叫びたかった。
「ああ、どうも。こんにちは」
彼女の睨みつける視線に応じて、スマイル男はどこまでも爽やかだった。怒りの波動を受けてなお爽やかな風に転換してみせるような落ち着きは、あるいは男の度量というものなのかもしれない。二股が発覚して修羅場真っ最中のあいだにも、このイケメンには草原の風が吹いていそうな感じだった。くそ、修羅場だと? うらやましい。
「なにをやってるの。と聞いているんだけど」
彼女の声はますます低く、夏だというのに周囲の温度を一気に冬場へと変えるくらいの不吉さを含んでいた。あわてて口を開きかけて、僕は彼女がこちらを見てもいないことに気づく。彼女の鋭い視線は、まっすぐに目の前の男に注がれていた。
「うん? ちょっと話をしてただけだけど。迷惑だったかな?」
「迷惑ね」
きっぱりと彼女は言い切った。
「彼には、私の荷物を持ってもらっているの。邪魔しないで欲しいのだけど」
職業・荷物持ちを公言されてしまい、ちょっぴり涙がちょちょぎれる。そんな僕の前で、男は愉快そうに表情を崩した。
「彼、ね――。いや、邪魔をするつもりなんてなかったんだ、申し訳ない」
すっと後ろに下がる。胸元に手をおいて優雅に一礼しそうな雰囲気で、男はそのまま僕らから距離をとった。
「それじゃあ、僕はこれで」
思わず悲鳴をあげそうになったのは、去り際に男がウインクなんてこっちに発射してきたからだ。向ける相手間違えてるだろう。されたら、それはそれで腹が立つが。
涼風をお供に去っていく男の背中を苦々しく見つめ、彼女がきっとこちらを振り向いた。とても怒っている。
「なにやってるのよ、あなた」
「いや、その――」
困った。美人に詰め寄られるって、こんなにも嬉しいことなのか。それともこれは僕の属性のなせるものなのかもしれない。
「……ごめんなさい」
M気質の有無はともかく、僕がへたれた根性の持ち主だっていうことは明白だった。なにも悪いことはしてないはずなのに。そんなことを思いながら、それでも頭を下げてしまう。
彼女は冷ややかな視線をこちらにくれたまま、しばらく無言で。それから携帯電話を取り出すと、どこかへと電話をかけはじめた。
「――私。迎え、少し早めてもらえるかしら。――ええ。……ええ、そこでいいわ。ごめんなさい、よろしく」
ああ、とため息がでる。
お迎えの要請。つまりデートはここまでということ。そもそも、はじめからこれでがデートだったかという大問題は脇に置いておくとしてだ。
どうしてこうなっちゃうのかなあ。せっかく、彼女から誘ってもらったっていうのに、チャンスを物にできない自分の男子力を嘆きながら、荷物を持ち上げて彼女の後ろについていって。
待ち合わせの場所らしい、道路近くのところまでやってきて、そこに荷物を置いた。
「……それじゃ、僕はこれで」
次がありえるのかどうかはわからないけれど、もしかしたらというそのためにも、これ以上、彼女の機嫌を損ねたくはない。気まずい空気から逃げ出そうとした背中に、声がかかった。
「待ちなさい」
まだなにか言い足りないのだろうか。恐々と後ろを振り返ると、彼女は不機嫌そうな表情のまま、不機嫌そうに言った。
「あなたも、乗るのよ」
◇ ◆ ◇
学校というのはただ勉学に励むだけでなく、ともに切磋琢磨できる友人をつくり、社会の在り様を学ぶところである。なんて言ったのがどこの誰だったかは覚えていないし、わりとどうでもいい。
わいわいと騒がしい教室のなかで、僕はぼんやりと机に頬杖をついていた。
窓の外では今日も太陽が絶好調で、四季の移り変わる気配はまるでない。もしかするとこのまま一足飛びに冬を迎えてしまうんじゃないかと危惧してしまうけれど、目にはうつりにくいなにかからわずかな変化を拾い上げるのが本来の日本人のもつ繊細な美的感覚でもあるはずだった。
そう、変化は常にすぐ傍にある。
たとえば蝉の声。儚い一生を全力で駆け抜ける生き物の合唱、その声は、その種類は少し前とは違わないか。あるいは雲。わたあめみたいな存在がほんの少し今日は高い位置に浮いてはいやしないだろうか。
一足先に秋の訪れを感じ、憂愁とともにものの憐れを思う。それがもしかしたら、人が大人になるということなのかもしれない――なんてことを考えていたら、思いっきり頭をはたかれた。
「なにやってんだ、護」
雰囲気をぶち壊してくれた悪友をにらみつける。
「叩くなよ、アホ」
「アホ面みせるな、バカ」
「二個も言ったな! 一個ならともかく! 二個も!」
「知るか。なんか悩み事でもあるんかよ」
啓吾に言われて、僕はふっと口元にさびしげな笑みを浮かべてみせた。
「やっぱり、わかる? わかっちゃう?」
「そりゃ、放課後の教室で一人ナルってたらなあ。どんだけかまってほしいんだよ」
「実はさあ」
ツッコミを無視して、しゃべりはじめようとしたその時。ポケットの中の携帯が震えた。
あわてて取り出し、廊下に教師の姿がないのを確認してから通話ボタンを押す。かすめるように見えた画面に表示されていた名前は、多分間違いない。それはすぐに証明された。
「は、はいっ」
『――いま、どこ?』
むすっとした声。見られているわけがないのに、思わず直立不動してしまう。
「教室です!」
『……もう、いるから。早くして』
「了解です!」
サー、いや、この場合はマムだ。軍隊用語をつけくわえてしまいそうになる。素っ気なく切られた電話にほっと息をつくと、怪訝そうに顔をしかめた啓吾が顔を近づけてきた。
「おい、護。なんだよ、いまの電話」
「いや。それがさ――」
言いかけて、ふと思い出す。あれ、電話の声はなんて言っていたっけ? 確か、もういるとか、なんとか――
窓の外を見た。
僕らの教室は三階にあって、そこからはちょうど正門が見下ろせるようになっている。授業を終えた生徒が連れ立って歩くその列の向こう、正門の前にいっそ堂々と誰かが仁王立ちしているのに気づいて、僕は思わずせきこんだ。
「うお、なんだよ。――って、あれ誰だ? 他校生か? って、あの制服……」
啓吾にかまわず、カバンを持って全速力で走りだす。
「おい、護。どうしたんだよ!」
すまない、啓吾。男には、友を振り切らなければならない時があるのだ――多分、けっこう頻繁に。
大勢の帰宅する生徒達の流れにあって、まるでそこだけがエアポケットのようだった。
彼女は一風変わった服装に身を包んでいた。なんだか、漫画とかで教会の人が着ていそうな、地味な感じのそれが彼女の制服なのだと、少しして気づいた。
ミッション系とか、そういう学校に通ってるのだろうか。……吸血鬼が? この際、それはあんまり関係ないのかもしれないけれど。教会と吸血鬼っていうのは、なんだかやっぱり、セットになっちゃいけない気がする。
いつかの待ち合わせのように腕を組んで、苛々と遠くから僕を見つけて睨んでいる。果し合いに遅れた決闘者の心持ちで、僕は彼女の前まで駆けた。
「こんにちは」
「ごめんなさい」
「……なんで謝るのよ」
こんにちは、が、遅い、に聞こえてしまったからだけど、そんなことを言ったらまた怒られてしまいそうだ。
「いや、えーっと。……すいません」
はあ、と彼女はため息をついた。
「もういいわ。行きましょう」
それには僕も同意見だった。さっきから、周りからの視線がやけに痛い。
驚愕、不審。もろもろの感情の視線がうずまいて、物理的な圧迫感が身体を包み込んでいる。学校前におっかない美人さんがいきなり現れたりしたら、そりゃあそうだろう。僕にとっては文字通り、針のむしろだった。
通りの脇に駐車していた車から運転手さんが降りた。どこの映画から抜け出てきたんだというような紳士の身なりがこちらまで周り込み、扉を開ける。慣れた態度で彼女は車に乗り込み、次は当然、僕ということになるのだが。
背後のざわめきはいよいよ音高く、僕は逃げ込むように車の中に入った。ちらりと窓の外をうかがえば、そこにはたくさんの野次馬が列をなしている。後を追いかけてきたらしい啓吾の姿もあった。昼間に幽霊を見たような顔つきで、ぽかんとこちらを見ている。
明日からの惨状を思って、僕はため息をついた。
それと同時に、そんな注目のされように、ちょっぴり自尊心をくすぐられてしまうような、しょせんはその程度の人間性でしかなかったりするのだけれども。
◆
隣の座席から聞こえてきたその嘆息に、私は反射的に声をあげそうになった。
睨みつけ、相手が窓の外を眺めてこちらを見ていなかったので、代わりに窓の外の大勢の誰かと目線があってしまう。同年代らしい女子の好奇な視線が不愉快で、私は顔を背けた。
「出して」
席に戻った不二に告げる。短い声とともに、エンジンが始動した。
運転中、車内は沈黙に満ちていた。気をつかった不二が音楽をかけたが、流れてきたのは重厚なクラシックで、つまりは父の趣味だった。バックミラーに映る私の顔色を読んだのか、不二の手元が操作に向かうのを「そのままでいいわ」と私は止めた。音楽が最小ボリュームに引き下げられる。
どちらかといえば静寂は好きではない。張り詰めた空気が呼び水になって、色々なことが頭に浮かんでしまう。勉強をしている時も、音楽をかけるのは集中をきらすからあまりよくないという話はよく聞くが、私は違うと思っていた。雑音があるからこそ、それを媒介にした集中を得られるのだ。そんな風に考えている。
――どうでもいいことだ。
大切なのは、この不快な時間をまぎらわすために、音楽は決して無駄ではないということ。父の趣味というのは確かに気に入らなくはあったけれど、こんな場面で自分の好きな音楽が流れたからといってどうなるものでもない。むしろ、こんな場面だからこそ、だ。
時々、不二は私のほうへと問いかけるような視線を向けてくる。それは昨日から続いていて、口には出さないのが彼の節度であるとわかっているから、私も気づかない振りをしていた。
もう一人の同乗者は、隣でそわそわとさっきから落ち着かなかった。頭を動かし、身体の位置を修正して、いかにも居心地の悪そうにしている。止む気配のない衣擦れの音がいちいち気に障って、私は自分でも棘のあるとわかる声を向けた。
「少しは落ち着いたら。別にとって食おうってわけじゃないんだから」
吸血鬼が言うのだから、あまり冗談になっていなかったかもしれない。鏡の中で不二が苦笑の形に口の端を持ち上げたのが見えた。
「いや、そういうんじゃないけどさ」
なら、どういうんだと、私は睨みつける。肩をすくめて、護は黙り込んだ。煮え切らない態度に、またイラっとくる。
「言いたいことがあるなら、最後まで言いなさいよ」
「……吸血鬼って、みんなそんなに怒りっぽいの?」
「はああ?」
「い、言えって言うから!」
笑い声。見れば、不二が口元に手を当てている。
「……失礼しました」
装った声に見知った者だけがわかる程度の笑みが滲んでいた。
視線を戻し、途端に馬鹿らしくなって私は相手から顔を背けた。閉じたまぶたに困惑した表情が残って、ムカムカと気が昂ぶってくる。
怒りっぽい? いったい誰のせいだ。と考えて、すぐに思い直した。そんなのはバカ面を見れば一目瞭然。まるでわかってないから、こんななのだ。
なら、どうして私はそんな奴相手に、わざわざこんなことをしているのか――それを考えてしまうと問題は昨日、頭に浮かんだことが眼前に立ちはだかり、その答えが出せないからますますストレスが溜まることになる。
考えるだけ泥沼にはまるなら、音楽に耳を傾けて無心に浸ればいい。そのための集中をそわそわとした気配に阻害され、私は大きくため息を吐いた。
◇
ため息を聞いて、僕はますます自分がいる場所が窮屈なものに思えた。
まず座席のシートから落ち着かない。なめらかな革張りで、背中を預ければなんだか高級そうな匂いがして、ようするに庶民な自分にはなにもかもが慣れなかった。怖そうな紳士さんが運転してくれるそんな車で、後部座席に綺麗な女の子(不機嫌)と二人なんて、そんな状況になったら誰だって緊張するに決まっている。少なくとも、僕はする。
どうして、こんなことになったのか。多分、明日には啓吾あたりにさんざん問い詰められることになるのだろうけれど、そんなのこっちが聞きたいくらいだった。
昨日、買い物がおわった後。帰ろうとしたのを呼び止められて、少ししてやってきた車に僕は乗せられた。まあ、それはわかる。車を待つあいだにナンパな男どもに声をかけられるかもしれないし、自分のようなやつが側にいれば少なくともそうした連中を避ける役に立つ。くらいには考えてもらえたのかもしれない。
車で僕の家まで送ってくれたのも、番犬みたいなことをしてくれたことへのお礼だと考えれば、彼女の生真面目な性格は出会いの時のいざこざですでに把握できていたから、そうおかしなことでもないだろう。
問題は僕が車から降りる際、車の中から彼女が放った台詞だった。
「明日は学校、何時までなのかしら」
唐突な質問。
「えーと。六限だから、四時半までだけど」
「そう、なら五時ね」
自然界における必然の定理を唱えるように言われても、僕にはなんのことだかわからない。ちらりとかすめるように僕を見て、彼女は言った。
「明日、五時に迎えにいくから。それじゃ」
バタン、と扉が閉まって、そのまま黒塗りの高級車は公道を走り去っていってしまった。
残されたのはまるで理解が追いつかない、僕一人。
……まるでわけがわからない。
僕がそんなふうに思うのを、いったいどこの誰に非難できるというのだろう?
◆
「……よろしいのですか?」
護を自宅まで送り届けたあと、バックミラー越しに静かな視線を不二が向けてきた。
肩越しに後ろを振り返れば、まったく昨日と同じように、狐につままれたみたいにぽかんと立ち尽くしている姿が見えた。
「ずいぶん戸惑われている様子でしたが」
「……いいのよ」
不二がわざわざ口にしたのは、戸惑っているのも説明を聞きたがっているのも彼だって同じだからだ。学校の送り迎えなんて今までお願いもしていなかったことを急に頼まれ、しかもそれが自分だけじゃなく見たこともない若い男の子まで一緒になんて聞かされたら、不審に思って当然だろう。説明は、あるべきだった。
それが出来ないのは私が自分の行動の理由をしっかりと理解できていなからで――一日たてば少しは頭のなかが整理できるかなと思ったのだが、てんで駄目だ。
「――昨日。彼と一緒にいるところを、見られたの」
心象を抜きにして事実だけで説明を試みると、不二は言葉足りずの意図を正確に把握してくれたらしく、わずかに眼差しを細めてみせた。
「なるほど。そういうことでしたか」
「大丈夫だとは思うんだけど。念のためと思って。ごめんなさい」
そのあとに生まれた沈黙を当然のものと私は受け止めた。
どう考えてもこれは彼の職分ではない。あくまで彼は父に付いた運転手であって、私のわがままを聞くような立場ではないのだ。
やはり不二に頼むのは今日だけにしておこう。明日からは私が直接、迎えにいくしかない。……私が、直接?
――なんの冗談だ、それは。
放課後、好きでもない相手を学校の前で待つ。周囲から向けられる奇異の視線と、囁かれる――連中は聞こえていないつもりで、しっかりと耳に届いてしまう――ヒソヒソ話を想像して、思わず奥歯を噛み締めた。
どうすればいいかはわかっている。
やめてしまえばいいのだ。元々、ちょっかいをかけてきたのは向こうなのだから。あの間抜けな人間がどんな目にあおうと、そんなの私の知ったことではない。警告もしておいたはずだ。
だけど。昨日の買い物に彼を誘ったのは、他でもないこの私なのだった。
力を入れすぎた奥歯が痛かった。気分を落ち着けるために深く呼吸をする、それにあわせるように不二が言った。
「少し不味いですね」
言われても仕方のない言葉に、頷いて返す。
「……わかってる。明日からもお願いしようとは思わないから」
「いえ、そうではありません」
穏やかな口調で不二は私の言葉を遮った。
「確かに襲われるなら、放課後のほうがはるかに危険は高いでしょうが。朝方というのも、決して安心とは言えないでしょう。――ちょうど、お父上が出張でしばらく私の身体も空いております」
口元に微笑を浮かべて告げる彼を鏡越しに見る私の表情は、恐らく味つけを間違えた梅干を口にしてしまったように、ひどい渋面になっていたことだろう。