2
◇
待ち合わせの時に顔をあわせてからずっと、彼女はなんだかぼんやりしているように見えた。
前のように理不尽気味に怒られるようなこともないよう、今度は三十分前を目指して僕は待ち合わせ場所に向かって、だいたい十五分前にやってきた彼女はもうその時から様子が変だった。
奇妙に覇気がないというか、眼差しに力がない。問いかけても返事さえ鈍かった。今もそうだ。陳列されたオーディオを眺めて、でもその目はどこか遠くを見るように焦点があっていなかった。
「……神螺さん? どうかした?」
「――なんでもないわ」
視線に険しさが戻り、ほっとして僕は改めて目の前へ視線を戻した。
いくつものコンポが並ぶ店内のオーディオコーナー。自分のコンポが壊れてしまったらしい彼女の要望で、大型電器店にやってきているのだが――
「神螺さんってさ、アイポッドとか使わないの?」
最近はパソコンで音楽を聞くなんて難しくないし、アイポッドをはじめとする携帯音楽プレイヤーを差し込むだけで即席コンポになる、そういうタイプの周辺機器だってたくさん売っている。わざわざ大型のオーディオコンポなんて買わなくてもと思ったのだけれども、
「持ってるわ。けど、部屋ではCDで聞きたいの」
いまさら、CD。ダウンロードで一曲いくらで買える時代だというのに。
単純に、不思議に思ったから、訊ねてみた。
「……どうして?」
ちらりと冷たい視線が撫でる。
「別に」
説明するまでもないわ。きっとあなたにはわからないだろうから――たった三文字の言葉に隠された続きまでがはっきりと聞きとれるようで、ため息が出る。
様子がおかしくったって、やっぱり彼女は彼女だった。
ポップの貼られた製品の群れを真剣な目で右から左に物色し、端っこまでいくと彼女は今度は左から右に戻り始めた。近くを通りかかった店員さんに声をかけて、いろいろ聞いたりしている。ちなみに僕が意見を聞かれたことは今のところ一度もなかった。
だけどまあ、そんな彼女と一緒にいられるだけで僕は嬉しかったから、今もすれちがった男が振り返って、それから隣の僕を見て奇妙に顔をしかめるのにふふんと内心で得意げになっていると、
「――それじゃあ、これください」
いつのまにか店員さんに言おうとしている彼女を、あわててひきとめた。
「ちょ、ちょっと待って」
「なによ」
「もう決めちゃうの?」
「そのつもりだけど」
「だって、まだ来たばっかりなのに……」
「時間をかければいいってわけじゃないでしょう」
そりゃあそうだけど。これじゃまた、すぐ「さようなら」になってしまう。
なにか引き止める口実を考えようとしたけれど、彼女はそんな僕を気にせず、すたすたと店員さんと一緒にレジへ向かって歩き始めてしまっていた。
息を吐いてその後ろをついていく。
と、
「ため息すると、幸せが逃げてくわよ」
少し意外な感じがして、僕は笑ってしまった。
「吸血鬼でもそういうの信じるんだ」
彼女が振り返った。とても嫌そうに眉をひそめている。
「こういう場所でそういうこと言うの、やめてくれない」
「いや、でも、誰も気にしたりなんか……」
刺すような視線に、僕はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
また怒らせてしまった。せっかく彼女から買い物に誘ってもらえたっていうのに。
でも、別にどれがいいか相談されるわけでもなし、僕が一緒にいる意味なんてちっともないのだった。いや、僕の仕事はこれからなんだろうけれど。お金を支払っている彼女の横で、奥から持ち込まれた製品箱が手際よく梱包されていくのを見ると、またため息が出そうだった。
「お持ち帰りですか?」
「ええ」
こっちへの確認なんてもちろんなく、即答。ちらりと僕を見やった店員さんが、手渡すときに「大変ですね」とでも言うように小さく苦笑を向けてくれてきた。
彼女の買ったのはさほど大きなものじゃなかったから、手で持つのも不可能じゃなかった。だけど決して片手で楽々とはいかない。僕はお店の人が気を利かせてくれて持ちやすいようにとりつけてくれたハングフックを両手で持って、踏ん張った。
さあ、これをどこまで持てばいいのだろう。また先週のようにお迎えの人が来てくれるのだろうか。そう、信じられないことに彼女はお迎えの車なんてものを本当に持っているのだ。初対面の時は、てっきりタクシーだと思ってたのに――本当に、住む世界が違う。
それにしても会って一時間で買い物が終わってしまうなんて。先週みたいに足が棒になるくらい歩き回られるのも疲れるけど、さすがにこれじゃあ味気なさ過ぎる。
でも映画なんて誘っても断られるだろうしなあ。そもそも、こんな荷物持っては入れない。他の店をまわるつもりなら先に持たせたりしないだろうし、つまりやっぱり、今日の買い物はもう終わりってことなんだろう。
……やっぱり、ため息くらいしてもいい気がしてくる。
彼女からの意外な一言は、エレベーターの前で待っている間、ちらりと手首に撒いた腕時計を見ながら発せられた。
「少し、お茶でもしましょうか」
僕は吐きかけていた息を慌てて飲み込んで、変な感じで押し込まれた空気が喉の奥で「くきゅう」ととてもおかしな音を立てた。
僕らは六階のレストランフロアにあがり、喫茶店の一つに入った。
彼女が選んだそのお店には若い女の人がたくさんいて、いつもなら絶対に気後れしてしまうようなところだったけれど、彼女はそんな僕の内心なんてやっぱり気にも留めないで、
「ダージリン。それにスコーンを」
「……おなじやつで」
メニューを開いても紅茶の種類なんてさっぱりなので無難に逃げを打って、握力がしびれてきていた両手をさすっていると、ふとこちらを見る彼女と目が合った。
そういえば、こんなふうに座って対面するのははじめてのことで。こうして見ると、彼女はやっぱりとんでもなく綺麗な女の子だった。こ洒落た店内の装いもあって、誰もが頭に思い浮かべる「良い所のお嬢様」そのものだ。……ある一点をのぞいて。
「なに」
「いえ、なんでもないです……」
不機嫌そのものの眼差し。石になれとばかりの目力から、テーブルに置かれたお冷を飲んで逃れる。
ちらりと視線をあげると、彼女はもうこっちを見ていなかった。厳しい目つきのまま、窓の外を見ている。もしかして彼女って、目が悪いのかな。それで目つきがあんな――そんなことないか。吸血鬼は感覚が鋭いって。前に、言ってたし――
「あの、さ。ちょっと聞いてもいいかな」
物思いを邪魔されてむっとした表情が僕を見る。断れるかなと思ったけれど、
「……どうぞ」
彼女が意外にもそう言ってきてくれた。
小さく深呼吸を一つ。ごくりと唾を飲み込み、勇気を出して訊いた。
「ランドとシーだと、どっちが好き?」
すごく変な顔をされてしまった。
「ちなみに僕、ランド派なんだけどさ。神螺さんは?」
「……シーよ」
「あ、そうなんだ。どして?」
「どうしてって、人が少ないし、休むところも――そうじゃなくて。なに。訊きたいことって、そんなことなの?」
ひどく剣呑な視線で彼女は言った。
「え? そうだけど」
なにかおかしかったかな。
彼女は奇妙な生物を見るようにしばらく無言だったけれど、やがて大きくため息をついて、
「あなたって、すっごく変よね」
「そうかな」
「そうよ」
きっぱりと言い切られてしまった。
「私が言ったこと、気にならないの? 信じてないの? それとも、こいつなにかおかしなこと言ってんなーって内心で鮮やかに馬鹿にされてるのかしら」
「そんなこと、ないよ。ただ――」
答えに詰まってしまい、僕は口をつぐんだ。
こうして話していても彼女の唇の下にときおり覗く牙のような犬歯が、もちろん気にならないはずがない。吸血鬼の話のなかで出てくる、いったいどこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。具体的に言えば、血を吸われてしまった人間がどうなるのかとか。そういうことが、気にならないわけがないのだ。
「ただ?」
ただ――それを聞いてしまうのが怖かった。
たとえば、吸血された人間が吸血鬼やゾンビになってしまうとしたら。僕はこれから彼女とどう接していけるというのだろう。
もちろん、わかってる。だからこそ聞きたくなかった。
ようするに僕はそのことについて考えることから逃げているのだった。そうしないと、彼女と一緒にいられなくなってしまう。僕にとって一番怖いのは、彼女と話せなくなることだから。
「……あんまり頭よくないから。頭が混乱してるってのは、あるかも」
「――そう」
しばらく探るようにしてから、彼女は不機嫌そうに視線を逸らした。
「でも、さっきみたいに道端で口走るのはやめたほうがいいわ。危ないから」
確かに、知らない人に聞かれたら変なやつだと思われてしまうだろう。けれど、それを彼女から忠告されるのもなんだかおかしい気がして、思わず苦笑いを浮かべてしまい、睨まれてあわてて顔の筋肉を引き締める。
店員さんがやってきて、お洒落な紅茶ポッドとカップ、それに平皿にのった小ぶりなパン菓子みたいなのを置いていった。焼きたてらしい香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ジャムやクリームなどが置かれ、一つ手にとって手の中で割る彼女を真似して口に運ぶと、
「美味しいね、これ」
「そうね」
さくさくしてふわふわした食感。あまり食べたことのない味だった。
「……食べるものは、一緒。なんだよね」
「そうね。ティーカップの中身は紅茶じゃなくて人の血だったりするけれどもね」
彼女はどこまでも意地悪だった。その話題から逃げようなんて、許してくれないのだ。
諦めて、僕は息を吐いた。覚悟を決めて訊ねる。
「あのさ。血を吸うっていうよね。そうしたら、人ってどうなっちゃうの?」
話で出てくる吸血鬼もので、一番怖いのは多分そこなんじゃないかと思う。吸血された相手は、自分も吸血鬼になってしまう。あるいはもっとひどい場合は、ゾンビ――動く死体みたいなのに。被害者が被害者をうみ、どんどん増大する。世界が滅びてしまうものだって少なくない。……どちらかといえば、これはドラキュラ映画っていうよりゾンビ映画になってくるのかもしれない。あれ、なんだかこんがらがってきたな。
「別に。どうにもならないわ」
だけど、彼女の答えは僕を拍子抜けさせるものだった。
「えっと。映画とかの、自分も吸血鬼になったりっていうのは」
「言ったでしょ。映画や小説とは違うの」
ぴしゃりと言葉を叩きつけてから、彼女は近くを店員さんが通ったので一旦口を閉じた。ティーカップを優雅に一口して、
「少なくとも私達は、ウィルスや感染するような類のものじゃない。血を吸ったってなにも起きやしないわ。ただ、生きるためにどうしても血を飲む必要があるだけ」
「……どうしても、飲まないと駄目なの? 別のもので代わりとか」
トマトジュース、なんてことはまずないだろうけど。
「無理ね。私達のこれは、摂食障害とかというわけじゃないから。得血しなかった吸血鬼は、いずれ衰弱して死んでしまう」
エケツ。聞きなれない単語が耳に入ったけれど、彼女はそれについて説明してくれるつもりはないようだった。
「でも、見たことあるの? 実際、そういうところ」
「ないわ。けれど、じゃあ、あなたは喉が渇いて死んでしまう人を見たことがある?」
彼女の例えに、僕は答えられない。
「見たことないから、水を飲まなくても生きていけるんじゃないかなって、そう思う? わざわざ試さなくても、常識でそんなこと知っているでしょう。それと同じ。水を飲むのと必要なように、私達は血を飲まないといけないの」
――人間を殺してでも?
突いて出そうになった言葉を、僕は口にすることができなかった。
その答えを聞いてしまうことは決定的だった。なにか知らないけど、決定的だと思った。
だけど、逃げてどうするんだ。いや、逃げることは別にいいのかもしれないけれど、いま僕がやっているのはそうじゃなくて、ただのごまかしだ。
僕は彼女と一緒にいたいと思っているわけで、そのためには必要な覚悟があるはずだった。たとえばそれは、食べられる覚悟とかなのだろうか?
そんな覚悟持てるはずない――なら逃げればいい。
だけど、ごまかすことはそれとは違う。そう思ったから、僕は言った。
「……人間を殺してでも?」
なんとか声になっていた。
彼女は険のある目つきで僕を見て、しばらく無言を貫いてから、
「殺さないわよ」
それを聞いて、言葉の意味を理解して、ほうっと息が漏れた。
「……ほんと?」
「私達は殺人者ではないもの。人間の社会に生きてる以上、そんな目立つことしないわ」
「でも、血を吸うんじゃ」
「失血性ショック死には、ある程度の量が必要。体の中の三分の一を失うと危ないと言われてるけど――人間の血液量って、十%くらいあるのよ。体重六十kgで四k以上。一度に一k以上の血を飲むなんて、誰にとっても拷問だわ」
さすが、というべきなのだろうか。血液に対しての知識は僕なんかじゃ及びもつかない。
「もちろん、だからってギリギリまで失っていいってわけじゃないし、血を失ってから立て続けにまた吸血なんかされたら危険だけれど。そうならないよう、私達だって気をつけているわ」
気をつける。
なんのために。――人を殺さないため?
「一度に吸う血液量は、たいてい二百ml程度。近い期間に血を失った相手には、三ヶ月くらいの間隔もあけるように。とかね」
それを聞いて僕の頭に浮かんだのは、ちょっと間抜けな例えかもしれないけど、献血だった。今年十六歳になる僕も行えるようになるあれも、確かそういう量についての規定や、次回受けるための期間があったはずだ。
自分の思いつきに少し笑えてしまった。吸血なんて途方もないことが、まさかそんな身近な単語に置き換えられるなんて。
「それに、人を襲って血を得るなんて、今ではほとんどないもの」
「え。どうして?」
「危険だから」
あっさりと彼女は言った。
「わざわざそんなことしなくっても、血を手に入れることはできるわ。輸血用の医療用血液とか」
「あ、なるほど」
「費用はそれなりに掛かるけど、もともと血液の保存期間はそう長くないわ。廃棄予定のものを集めるルートもあるから、血を得る手段にはそうそう事欠かないもの」
今度は賞味期限切れの弁当を捨てずに持ち帰るコンビニ店員のイメージが頭に浮かんだ。彼女に言ったら、多分ものすごい目つきで睨まれるだろう。
でも、なんだ。僕の全身から、緊張に張っていた力が一気に抜けていった。
思っていたよりも、事態はひどくないってわかったからだ。ようするに彼女達は、たまに献血を受けないと生きていけない。ただそれだけのことじゃないか。しかもそのための手段だって、自分たちで工夫している。人間社会のなかで生きていて、そのために人間を襲ったり、殺したりすることもない。つまり、
「それじゃあ、別に敵なんかじゃないじゃないか」
「――勘違いしないで」
しかし、まさにそれを目の前にした眼差しで、彼女は僕の言葉を否定した。
「私達はあなた達の敵よ」
そこにあるのは、まぎれもなく敵意だった。
嫌悪と、憎しみ。今までの人生で一度も向けられたこともないような種類の感情に、身がすくむ。
「……どうして」
「私達とあなた達は違うからよ。なぜ私達が身を隠していると思うの?」
瞳の色はそのまま、彼女は続ける。
「血を吸わないと生きていけない連中がいる。そんなことが世間に知られたら、隔離されるか殺されるか。実際、私達は大勢殺されてきたわ。昔の吸血鬼が、まさか映画の中みたいにわかりやすい悪役だったと思わないわよね」
人間に害を成そうとして、最終的には成敗される。それがたいていの吸血鬼映画のストーリーだ。それが人間本位のものだろうってことは、想像するのに難しくない。
「私達が何者か、それは私たちにだってよくわからない。ただの病気持ち、あるいは突然変異なのかもしれないわ。でも、私たちは遠く昔から世代を重ねてきた――既に種族なのよ。あなた達とは、違う。人間社会に生きているからって、その誇りを忘れたことは一度もないわ」
叩きつけるように放つ彼女の台詞。それらは正直言って、僕にはどれもピンとこないものばかりだった。
平和ボケはなはなだしいこの日本で生まれて、人間同士で起こる宗教や国の生まれについてもあまり考えたこともないこの僕が、種族や誇り、なんて言葉を聞いてなにか実感できるわけない。
彼女の敵を見る目に映っているのは、僕だ。強い視線に腰がひけてしまっている僕自身。だけど、
「僕は……君の敵なんかじゃないよ」
彼女は不快そうに顔をしかめて、言った。
「それは私の決めることだわ」
◆
相手が声を失うのを見て、私はその沈黙に呪いをかけるようにいっそう強く、彼のことを睨みつけた。
一週間ぶりに話してみて、あらためて思う。私はこの人間が嫌いだ。
重い荷物を持たせてしまっているという負い目も少しはあったから、せっかく向こうからの質問を受けてあげたっていうのに、どうでもいいようなことを聞いてきたり。ちょっと説明しただけで能天気に「敵じゃないじゃないか」なんて言ってきたり。
想像力が欠如していて、発想が貧困で、思慮が足りない。ようするに、馬鹿だ。
話していていちいち苛々するのは、やはり相性が悪いのだろう。荷物持ちが必要だったとはいえ、どうして私はこんな相手を買い物の相手に呼び出したりしたんだろう――私がメールしたんだけど。だからこそ、その行動を後悔した。
これなら、自分一人で来たほうがよかったかもしれない。きっとそうだ。そう思うと、迎えの不二が来るまでの時間をこの喫茶店で過ごさなければならないのが、ひどく憂鬱になった。
目の前の相手は、視線から逃げるようにきょろきょろと挙動不審気味だ。はっきりしない態度にまたいらっとして、
「なに?」
「いや。なんでも、ないです」
「言いたいことがあれば、言いなさいよ」
窺うような目がこっちを見て、
「……なんで、説明してくれるのかなって」
言った。
意味がわからずに眉をひそめる私に、
「いや、だって――敵なんだったら。どうして、色々と教えてくれるのかなって。そう思ったんだけど」
そんなの――口を開こうとして、言葉がなかった。
敵である人間、その相手に、わざわざ吸血について懇切丁寧に教えてあげている。その不自然さにはじめて気がついた。
どうして?
胸のうちに疑問を投げかけてみても、答えは浮き上がってこない。自分自身を見失ってしまったような不安が脳裏をよぎり、それを見られているのに気づいて私は視線を鋭くした。
あわててそっぽを向く相手を、しばらくそのまま睨んでから、席を立つ。
無言でテーブル横の会計板をとり、レジへと向かい、型でとったような笑顔を向ける店員にお金を支払って、
「あ、僕の分、払うよ」
声を無視して外に出た。
「少し、待ってて」
「どしたの?」
聞く前に、少し考えるとかしないんだろうか。頭の中に気配りとか、配慮とかいう文字はないのか。無言の視線で黙らせて、私は天井の吊り看板の案内に従ってトイレへ向かった。
近づくにつれ、悪臭をごまかそうとする芳香剤の匂いが鼻についた。これだから、こういう場所ではトイレの近くの店に入りたくもなくなる――私は口から息を吸うようにして中に入り、個室ではなく洗面台の前に立った。別に尿意があるわけではなかった。
鏡の中で、やぶ睨みの自分と対面する。その自分に向かって、
「どうして」
今度は声に出して訊ねた。
人間は敵だ。あの男も敵だ。
なのに、どうして説明なんてしていたのだろうか。どうでもいいことを聞いてきて、なんて、じゃあ私は彼にいったいなにを聞いてほしかったのだろう。何を知って欲しかったと言うのだ。
鏡にお父さんの顔が映った。ぐにゃりと歪んだそれは不二の顔になって、最後には護の顔へと変化した。どうして――苦いものが喉をせりあがってくるような気がして、私は蛇口に手をかざしてセンサーを起動させ、手のひらに一すくいした水道水で口の中をゆすいだ。
思いっきり顔を洗いたい衝動に襲われた。だがもちろん、まったくメイクをしていないわけではない以上、そんなことできっこない。これは別に一緒にいる相手のことなんて関係なくて、ただ女子としての自分のプライドの問題だ。そんなことを思いつく自分がわざわざ言い訳しているようで、腹が立った。
自分がわからない。いや、わからないのではなくて、わかりたくないのかも――それは、逃げだ。そんなことはしたくない。それも人間の、あの男相手に。
「あんなやつ、なんだって言うの」
つぶやく言葉に間違いなく嫌悪の感情がこもっていることに、なによりも自分自身が安堵していた。
やっぱり、会うのはこれっきりにしよう。彼の言うように友達になる気も、こっちには全くないのだから。
それは、逃げじゃないの? 頭の中で誰かが囁いたが――別に嫌いな相手に会わないってことのどこが逃げになると言うのだ。やや強引に、内なる囁きを彼方に押しやった。
決意して、一度そうすると不思議なほどに頭が冴え渡るようだった。嫌な気分がなくなり、私は腕時計で時間を確かめて――不二が迎えに来るまでまだ時間があるが。構わない――店前で待つ相手に早々に話の決着をつけるつもりで、店の前に戻った。
「あ、おかえり」
表情に戸惑いのようなものがまじっていて、その理由は相手のすぐ前にあった。
誰かがこちらに興味深そうな視線を送り、そこに立っているのが見えた。