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◇
翌日。乏しい候補のなかからせいぜい悩みぬいた上下の服を着込んで待ち合わせ場所に行くと、驚いたことに彼女は既にそこに待っていた。
まだ猫像までは距離があるけれど、見間違えるはずがない。頭のカチューシャはそのまま、ハイネックのノースリーブにタイトスカートという姿は遠めでも目を惹くのに十分だった。
ずいぶん早いんだ。僕はまだ十分余裕があると思っていた今の時間を見ようと携帯を取り出して、あわてて視線を戻した。
彼女のまわりに二人組の男がたかっていた。
おのれナンパ野郎ども!
けれど、僕が駆けつける前に、男達はすごすごと退散していってしまった。その理由に、彼女の前に立った段階で気づく。
「――遅い」
人を寄せ付けない、険しい目つきが僕を睨んだ。
僕は黙って、さっきとりだしかけていた携帯で時間を確認する。もしかして壊れてるのかなと駅前の時計も見た。
十二時五十五分。
……確か待ち合わせは一時だったはずだけど。
でも、目の前の彼女はそんな抗弁を許してくれる雰囲気じゃなかった。
「えっと、……ごめん」
なんで僕は謝ってるんだろう。いや、まあ待たせてしまったのは事実なんだけど。
腕組みして僕を見下ろしていた彼女は、やがて小さく鼻を鳴らすと、
「まあいいわ。――はい、これ」
手にしていた小さな手提げの紙バッグを差し出される。
「これは?」
中央にロゴがプリントされている。どこかのお菓子屋のブランドのようだった。
「この間のお礼。どうもありがとう」
ふと視線を下ろすと、彼女の足首に湿布薬はなかった。
「もう、大丈夫なの?」
「ええ。軽い症状だったから」
「そうなんだ……」
そのことに安堵と、湿布薬がないことをほんの少しだけ残念に思っていると、くるりと彼女のモデルさんのような足が回れ右した。
「それじゃ。さよなら」
「はい。さようなら――って、ええ!?」
僕は慌てて顔をあげて、さっさと雑踏に消えようとする彼女の背中を追いかけた。
◆
「待って!」
後ろから声がかかり、私は舌打ちしたくなる思いだった。
一瞬、無視してしまおうかという考えがよぎる――足を止めないでいるうちに、
「ねえ……待ってってば!」
周囲から視線が突き刺さるのを感じて、私は諦めて、後ろを振り返った。そこにはさっき別れを告げたはずの人間の男の子が立っていて、なにかに驚いているように目を丸くしている。
「――なに?」
「いや、なにっていうか……」
彼は、私をなにか得体の知れない生物を見るような(そしてそれは正解だった)表情で眺めていた。
「……それだけ?」
「それだけ、って?」
問い返す。
呆然と、少ししてから彼は我に返るように首を振って、
「いや。あの、――これ。ありがとう」
手に提げた紙バッグを持ち上げた。
「ううん。お礼だから」
近くの百貨店の地下で買える焼き菓子屋の詰め合わせセット。私とお母さんのお気に入りのお店だった。甘みをおさえた風味が茶請けに合う。
もっとも――目の前の相手が、私達と同じ取り合わせを持つことはないだろうが。
迷彩シャツにハーフパンツという格好が、幼めの顔立ちをさらに若くしているその相手がなにも言わないので、私は訊ねた。
「なにもないなら、もう行ってもいいかしら」
「えっと……、うん。あ、いや――ちょっと。待って」
いったいなんだと言うのだろう。
なにかあるのならさっさと言えばいいのに。相手のはっきりしない態度に私は内心で苛々して、きっと睨んだ先で恐縮したように肩をすくめた相手は、やがて口を開くと、私が想像してもいなかったことを訊いてきた。
「あのさ。――今、つきあってる人とか、いるのかな」
◇
ああ……。
とっさに口を出た言葉に、彼女が奇妙なものを見るように眉をひそめるのを見て、僕は自分の発言を呪った。
必死だった。
まさかこの間のお礼というのが、会って手提げ袋を渡されて、はいさようなら。でおしまいだなんて思ってもいなかった。
僕が夢を見すぎてたんだろうか――その通りなんだろう。追いかけて振り返った彼女の表情が、雄弁にそれを物語っていた。
――この人、まだなにか用があるのかしら。
脳裏では悪友が腹を抱えて笑い転げている。僕は心の底から嬉しそうなその笑い声を無視して、祈るような心地で彼女の返事を待った。
「……それがあなたになにか関係が?」
慎重さのまじった声が、露骨に僕への警戒心を示している。
当たり前かもしれない。順序というか順番というか、とにかく全部が全部むちゃくちゃだ。
だけど、仕方ない。
ああそうだとも。仕方ないじゃないか。
だって次なんてないんだから!
どう答えればいいんだろう。こんなことなら昨日のうちにいろいろと考えておけばよかった。けれど、昨日は会って初日にそんなことを聞くのはあまりに性急すぎる気がしたのだ。
いや、結局聞いてしまっているんだけど。
焦った頭は結局のところ、ろくな言葉を閃いてはくれなくて、
「えと、もしそういう相手がいなくて、よかったらなんだけど。お友達からはじめられないかなって、思って――」
最初からお友達しか狙えない自分の根性のなさが、ひどく情けなかった。
◆
私は驚いていた。
つまりこの人間の男の子は、私に好意を持っていると言うのだろうか。
会うのが今日で二回目で、ほとんど話をした記憶だってないのに。しかも前回、私から張り手に、あまつさえ蹴り飛ばされまでしてるっていうのに。
一目惚れ。ってこと?
――呆れた。
呆れたけど、私が呆れたのは一目惚れという行為についてではなかった。
私だって若い女の子だ。恋愛ドラマを見ることもあれば、そういった小説を読むこともある。友達とそうした話題を話すことだってもちろんあった。一目惚れというまだ訪れたことのないその奇跡的な感情の発露について、私だって経験してみたくないわけじゃない。
しかし、それとこれとは全く話が違う。
だって彼は人間だ。
そして私は吸血鬼だ。
それだけで、もうありえない話なのだ。
もちろん、目の前の相手は私を吸血鬼だなんてまさか夢にも思っていないだろうから、だからこその発言なのだけれど。あまりに気が早すぎるとも思ったけど。
そう考えるとなんだかおかしくなった。今まで、街を歩いてきて人間達に気安く声をかけられることはあったけれど、こんなふうに正面きってストレートな好意を伝えられるのはもしかしたらはじめてかもしれない。
真剣な表情で、目の前の相手は私の返事を待っている。
私は静かに口を開いた。答えは――もちろん決まっている。
「ごめんなさい」
私は彼をまっすぐに見て、言った。視線をそらさないのが誠意だと思った。
彼はぐっと、痛みをこらえるように顔をしかめて、
「理由、聞いてもいいかな」
逃げ出すことなく言った。
理由。私は少し考えて、
「あなたのこと、好きになれないと思うから」
酷く聞こえるかもしれないが、それは正直な感想だった。
私にとって、人間にそういう感情を抱くことは想像もできないことだ。
なぜ?
当たり前のことだ。彼らは敵だから。
「どうして? ……あんなことしちゃったから?」
あんなこと。
怪訝に思い、それが指し示すものをすぐに思い出して、ついでに身の毛もよだつ感触までもが蘇った。怒りが沸く。行為以前に、もう忘れていたことを無遠慮に思い出させてくれるその気の利かなさの方がよっぽど、好きになれそうにない。
「関係ないわ」
「じゃあ、どうして」
――しつこい。
いらっとした。
いまさら言うまでもないだろうけれど、私はとても気が短い。説明以前の問題について長ったらしく、懇切丁寧に言って聞かせるような優しさなんて持ち合わせていなかった。
いっそのこそ、生理的に受けつけないのだとでも言ってしまおうか。
決して、嘘偽りではないのだから――口を開きかけて、私はその言の葉を舌にのせる前に、考え直した。
「わかったわ。理由、教えてあげる」
いいだろう。
そこまで聞きたいなら、教えてあげようじゃないか。
「……ちょっと、こっちに」
軽くあたりを見回して人目につかなそうな路地を見つけると、私はその相手を連れてそちらへ向かった。
ファーストフード店などがテナントに入った中規模ビルの裏、ゴミ捨て場から悪臭が漂うその路地に入って、奥まで進む。すぐに行き当たって、二mはゆうにある壁が目の前にそびえたった。
相手(そういえば、なんという名前だっただろう)は、なぜこんなところに連れ込まれたのか、少し緊張した面持ちで私を見ている。
「私があなたを好きになれない理由はね。私が吸血鬼だから、よ」
言って、私はその場で飛び上がった。
今日はパンプスを履いていて、さらにタイトスカートなんかでは動きづらくってしょうがないのだけれど、それでも私の身体は易々と飛び上がり――すたん、と。二mの壁の上に降り立つ。
見下ろすと、驚きに声を失った顔がぽかんと私を見上げていた。
震えた口が恐れるように言葉を紡いで、
「忍者……?」
「吸・血・鬼!」
だめだ。こいつ、やっぱり苛々する。
私は思わず声を荒らげてしまった不覚を恥じ、息を落ち着けて、ひょいっと地面に降り立った。パンプスでのそれはちょっと怖かったけど、なんとか足をくじくことなく着地に成功して、立ち上がる。
「吸血……鬼」
理解できない、という間抜け面だった。
「そう。吸血鬼」
私はつとめて冷静に追唱してみせた。
これでいい。
信じようが信じまいが、これで面倒は解決するはずだった。彼が私を吸血鬼だと信じるならそれでよし。頭のいかれた女だと思うのなら、それでも。私にかまわなくなるなら、それでいい。
もちろん、本来なら人間に私達のことを話すのなんてご法度なのだが、私はあまり深く考えなかった。
なにか証拠を握られたわけでなし、たとえこの人間が周りに吹聴したところで、本気にとる相手がいるとは思えなかった。吸血鬼の存在は――複雑なことではあるが――完全におとぎ話の一つに成り下がってしまっているのだから。
まあ、こんな突飛な言い訳をされて忌避されるくらい、自分は嫌われてるんだな、脈なんてかけらもないんだなと、そう自覚してくれるのが一番なのだが――結果から言えば、もちろんそんなことはなかったのだ。
目の前にいる相手の突き抜けた馬鹿さ加減を、この時の私は完全に計り間違えてしまっていた。
◇
吸血鬼。
もちろん、それがなんなのかくらい僕だって知っていた。
ヴァンパイア。ドラキュラ。子どもでも知ってる。それは物語に出てくる化け物のことだ。
血を吸って、日光やにんにくに弱くて、蝙蝠に変身したりもする。映画や漫画でもおなじみの、おなじみすぎて使い古された、それは題材だった。
彼女が――それ?
なんの冗談だろう。そう思った。僕じゃなくったって、そう思うだろ?
だって彼女は。昼間なのに、こんなにも堂々と外を出歩いてる。
笑い飛ばそうとして、
「もちろん、あなたが知ってる吸血鬼とはいろいろ違う部分があると思うわ。間違った話がたくさん伝わってるから。例えば――日光に弱い、とか」
ぎょっとする。
彼女は、まるで僕の心の疑問を読んだかのように言った。
「私達は目がいいから、そういう意味で日光に弱いとか、そういうことはあるかもしれないわ。いきなり明るいとこ行くと、すんごく眩しかったり。けど、日を浴びたら灰になるだとかそんなことはない。にんにくに弱いってのも同じね。あんな臭いもの、そりゃ嫌いだけど、ただ苦手ってだけ」
そして、淡々と話すその口ぶりこそが、彼女が冗談を言っているつもりではないことを僕に伝えていた。
「十字架に弱いなんていうのも嘘。銀の杭なんて使わなくても、杭で打たれたら死ぬわ。霧に姿を変えたりなんかもしない。力は強いけど、不死身ってわけでもない――そうね、あなたが知ってるよりほんの少し便利で、ほんの少し不便ってくらい。それが私達」
そこで気づく。彼女の口元に、八重歯というには鋭すぎる犬歯が覗いている。
僕の視線を受け止めて、彼女は薄く笑った。
「もちろん――血を吸うっていうのは、その通りだけれどね」
◆
その言葉を、彼が盛大に誤解しただろうことは、青ざめた顔を見れば一目瞭然だった。
当たり前だ。わざとそうするように言ったのだから。
私達が血を得ると言うこと。得血と吸血の違いやその歴史などについて、目の前の人間に詳しく教える必要はなかった。
ただ、恐れてくれればいい。それか気味悪がってくれるのでもかまわない。
「これでわかったでしょう。私があなたを好きになれない理由」
黙りこんでしまった彼に背を向けて、今度こそ私はその場から去って――
「ちょっと待って」
……信じられない。
私はいい加減あきれ果てた気分で、肩越しに振り返った。
真っ直ぐな視線がこっちを見ている。
「君が吸血鬼だからって、なんでそれが理由になるんだ?」
こいつ――馬鹿?
「なんでって、……当たり前でしょ」
「なにがさ」
「人間と、吸血鬼なのよ。私達がどういう関係か、わからないの?」
不思議だった。この人間はまさか、私が吸血鬼だって信じたのだろうか。なら、なぜ。怖がらないのだろう。
理由は、彼自身の口から発せられた。
「知ってるけどさ。でも僕の読んだ漫画じゃ、人間と友達になった吸血鬼だっていたから」
めまいがした。
漫画って。高校生にもなって、現実と虚構の区別もつかないのか。
「いないの? 人間と、友達になった吸血鬼」
一瞬、私は答えに詰まってしまう。
人間は敵だ。
ただ、私達が人間の社会にとけこんで生活するようになって、その生活様式が異なった結果――人間との付き合い方が変わったのも確かだった。その中には数は少ないが、人間と交流を持つという話も含まれていて……
私の沈黙を都合よく受け取ったのか、表情を明るくして彼が言った。
「ほら、やっぱりあるんじゃないか!」
「っ……!」
私はあと少しで、怒鳴り声をあげるところだった。
そんなに軽々しく。私達のことを何一つとして知らない人間に、そんな簡単に口にしてもらいたくなかった。
「関係ないわ。私にとっては、十分な理由よ」
私はいつしかほとんど威嚇するように、歯を剥いて彼に対していた。
可能であれば、猫のように全身を膨らませていたかもしれない。そんな私に向かって、
「僕、君のことが好きなんだ」
耳を疑った。
どうして、そんなにあっさり――言えてしまうのか。理解できない。
私にとって好きっていうのは、もっと悩んで、もっと苦しんで、もっと胸の中で温めてから、そうやって相手に伝えるべきものだった。
空気に触れさせたら溶けて消えていっちゃいそうなくらい、大事に大事に包んでおくべきものだった。それを――こうも軽々しく。
ほとんど軽蔑に近いはっきりとした感情を、私は目の前の男に抱いた。
「私は嫌いだわ」
「……人間も?」
「ええ」
「友達には。なれないのかな」
「私達のこと何も知らない相手とは、なれないわね」
もう何度目かもおぼえてない否定の台詞は、しかし、
「――今から、知るよ。頑張って」
当たり前のように通じず、私は不意になにもかもが馬鹿らしくなって、息を吐いた。
張っていた肩の筋肉から力を抜き、頭を振る。
私達と、人間は少なくとも話は通じると、今まで考えてきたけれど。その認識さえ間違いなのかもしれないと私は思い始めていた。この相手には、何も言っても通じない。
顔を上げると、この上なく真摯な表情をした人間が、ただまっすぐに私を見つめていた。
理解できないけど。
一つだけ――わかった。彼はどこまでも本気なのだ、と。
自分の無知も、相手の感情もわかった上で、なおも自分の気持ちに正直に突き進む。いや、それはきっとわかったつもりでいるだけだ。傲慢で自分勝手。けど、その姿がなんだか、やけに眩しく見えた。
本当、なんなんだろう。一体全体なんの根拠が、自信が。あると言うのだろうか。
わからない。確かなのは、私にはもうこの相手を突き崩すための言葉が一つして残ってないということだ。
「……もういいわ」
ついに私は、降参宣言を出してしまった。
「じゃあ!」
嬉しそうに瞳を輝かせる様子が、なんだか尻尾を振る犬みたいに思えておかしい。
今にも抱きついてきそうな勢いの相手の前に手を広げて牽制して、
「でも、一つだけ聞かせて欲しいのだけど」
かまえるように表情をひきしめる相手に、訊ねた。
「あなたと――知り合いになって。なにか私が得をすることがあるの?」
これはただの私の意地悪だった。
さっきから何度も私を苛立たせてくれ続けたことへの、ちょっとした仕返し。悩むように腕を組んだ相手が答えに窮する姿に少し溜飲を下げていると、
「……荷物運び、とか」
やがて搾り出すように言った台詞。
私は瞬きをして、それからせいぜい優しげな微笑みを与えてあげることにした。
それから私は一昨日の分も含めて、大いに買い物を楽しむことができた。
服に小物、ちょっと持ち帰るのが大変なサイズのものまで大量に。
届くまでの時間が嫌で、私は配送サービスというのはあまり好まない。迎えには不二を呼ぶとしても、車に積み込むまでは自分で持ち運ばなければいけないからだ。どこかに預けたりというのも、それなりに手間がかかることである。
だが、その日はその心配は要らなかった。
私の背後に、両腕にそれぞれ紙バッグを提げて、さらに両手で抱えるようにしていくつもの荷物を持った相手が、必死な表情でついてくる。
ちらりと振り返って、見た姿に。なぜか――私はほんの少しだけ、いつもお腹の底にある、あの鬱屈した思いを忘れることができていた。