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実際のところ、私は怒っていた。
なにに怒っているかというと色々ある。もうすぐ秋になろうという季節にも関わらず、エックス線や紫外線、可視光線に赤外線やらを盛大に降り注いでくれている太陽や、ちょっと外出日和だからって蟻の如く街に這い出てくるたくさんの人間達もその一つだったし、それが完全に自分の身勝手だということも十分にわかっていた。他には、出かける前にやったペディキュア塗りが上手くいかなかったことや、お母さんがまた勝手に私の整髪料を使っていたってこともあった。もっとどうしようもない、生理的な理由も。
誰かが悪いというわけではなかった。そんなことはわかっている。しかし、だからといって――私のこの感情がなくなってくれるわけでもないのだ。
もともと子どもの頃から、怒りっぽい性格だとは言われてきた。
癇癪もちとか、カルシウムが足りてないだとか。お母さんは笑いながら「足りてないのは鉄分じゃないかしら?」なんて言うけれど、この場合のそれは実はあまり冗談になっていなかった。
なぜなら、私は吸血鬼だから。
別に暑さで頭がやられてしまったわけではない。わかってもらう必要はないので、声高に説明なんかしたりしないし、そのことを別に恥にも誇りにも思ってはいない。私はただ、そう生まれてきただけだ。
動物界脊索動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属ヴァンパイヤ種。学名として正式には、ホモ・サピエンス・サキュードス。そんな風に言うらしい。もちろん、私達の間での話だ。
そう、私達は種族だ。
外見的には人間とほとんど変わらないし、遺伝構造だってそうだ。人間とチンパンジーの間に一%から四%の差があるなんて言うけれど、少なくともそれ以下であることは間違いない。私達は彼らの中に完璧にとけこむことができる。わかりやすい差でいえば――やや背が高いとか、鋭い犬歯とか、その程度のことだ。それも最近ではほとんど変わらなくなってきているという。
もちろん細かいところをあげていくと、いろいろある。最も大きなもので言えば、寿命。私達は長く生きれば二百歳に届くというほど生命としての限界寿命は長い。ただし、実際の平均寿命はそこまで人と変わるわけではない。せいぜい百二十とかその程度だった。そして、そのどちらがより大きな要因となっているのか議論のあるところだが――繁殖能力が低い。
吸血鬼という存在は世界中にいるけれど、その総数が果たしてどのくらいかといえば、一千万にも満たない。意外に多いと思われるかもしれないが、一方の人間はこの惑星でいよいよ七十億にも達しようかという勢いだ。実際には世界人口統計数の中に私達の存在も含まれていたりするのだけれど、両者の個数に格差が生じていることは明らかだ。
決して減っているわけではないにせよ、停滞、あるいは自制している。それが私達の現状だった。それについては後で述べるとして、もちろんもっとわかりやすい違いもある。私達の名前にもなっていることだ。
吸血。私達は得血という。
人間が持つ三大欲求――食欲、睡眠欲、性欲。そこに得血欲求が加わる。それが私達だ。
なぜ血が必要なのか。それは人と比べると総じて感覚に長け、代謝が鈍くなっている私達の内臓器官が、循環する血液に新鮮さを求めるからだという話が昔からの通説ではあるが、科学的にはどうかというところだった。口から入ったものは、それが血だろうがトマトジュースだろうが、胃を通じて腸で吸収され、いずれおしっことして出ていくはずなのだから。
ただし、どうしたって私達が血を得なければ生きていけないという事実は、紛れもなくある。相手は同種。あるいは人間。
だから、私達は昔から人間の血を得て生きてきた。そして――忌み嫌われてきた。
吸血鬼。あるいはそれに似た、血を吸う化け物についての話は人間の中で古くから信じられてきた。実際、私達の祖先は過去、人類の天敵として表立って(という表現は、少し変かもしれないけれど)存在していたという。だけど、今では人間社会の中に隠れるようにして生きている。
それはなぜか。子どものころ、誰でもそう感じるように私も疑問に思い、その頃はまだ素直に接することができていたお父さんに尋ねたことがある。
「馬鹿馬鹿しくなったんだよ」
それが、返ってきた答えだった。
堂々と人を襲えば、恐れ慄いた人間達が復讐のために大挙してやってくる。戦えば、こちらも傷つく。それではリスクがありすぎる。それに――私達は人間と敵対しても、決して相手を根絶やしにしてしまうことはできない。血を得る相手がいなくなってしまうことはすなわち、自分達の種の滅亡に繋がってしまうから。
だから我々は逆に、人に増えてもらうことにしたんだ。その方が我々の利になるのだからね――お父さんの答えに、幼い私はそれなりに納得もしたのだが、今では違う考えに至っていた。
そうではなくて、つまり私達の祖先は逃げたのだ。
もっと言えば敗北したのだ。人間に。
私達は人間に比べて、基本的には個として何一つ劣るところはない。身体能力も、聴力や嗅覚、その他含めて。だが、集団として負けた。だから私達の祖先は人間の上に立つのではなく、寄生することにした。
それが、恐らく私達という種族の真実だった。
そのことを敗北というのかどうかは価値観によるだろう。勝利だと、考える人もいるかもしれない。実際、人間社会に寄生するようになった私達は、当初こそ様々な失敗や試行錯誤があったとはいえ、種族としておおむね安定した生を得ることができているのだから。
それに私が釈然としないものを感じているのは、私がお爺ちゃんっ子だったことが影響しているのかもしれない。とんでもなく長生きしたお爺ちゃんは、とてもプライドの高い吸血鬼で――いつも日向の匂いがしたお爺ちゃんが亡くなってから、私の根本にはこのなにか自分でも判然としない感情が深く存在するようになっていた。
別に、「人間なんて滅んでしまえ!」とか、「吸血鬼よ、決起せよ!」なんて過激なことを思っているわけではない。
ただ、納得がいかない。歯がゆい。そんな想いがどうしてもお腹の中からでていかない。
いったい自分がなにに対して怒っているのか――それさえもわからなくて、多分そのことに私はなにより腹を立てているのだった。
◇
彼女は一瞬だけ視線を絡ませると、すぐに違うところへと目線を外した。それを残念に思うのと同時、ほっと安堵している自分がいる。それくらい、彼女の視線は強烈だった。
まるで蛇に睨まれた蛙状態。彼女のあの苛烈な視線に見つめられて、僕はほとんど息をすることさえ忘れてしまっていた。
それにしても――本当に綺麗な子だった。
まさに世界が違う。
あんな子と知り合えたらなぁ……同じように彼女がいない男子連中なら無言で心の中の共感ボタンを押してくれるだろうつぶやきを胸に、僕はまた彼女と視線が交差したりすることがないようこっそりと、まもなくすれ違ってしまう彼女を盗み見ていた。
あと三メートルほどですれ違うというその時、それは起こった。
ちらちらと窺っていた彼女の姿がぐらりと揺れた。足元に石でもあって、つまづいたのかもしれない。冷静に推論を飛ばす前に、もう体が動いていた。
「あぶない……っ!」
わずかな間に僕の脳細胞が描いた未来予想図はだいたい次のとおりだ。
片膝立ちの状況で彼女を抱きとめる僕。顔には爽やかな笑顔。彼女は顔を赤らめて、僕にお礼を言う――「助けていただいてありがとうございます。ぜひお礼を……」
王道? ありきたりすぎるって?
ふざけてもらっちゃ困る。いつの時代も一番に支持されるのは結局、王道パターンなのだ。普通こそ至高。僕のことを好きなら、校舎裏で告白してくれればそれでいい。バンジージャンプしながら告白されたからって、それでいったいなにがどうなるというのだ。ネタにはなるかもだけど。
さて、それで現実にはどうなったかというと――残念ながら反射神経、運動神経ともにせいぜい人並みしかない僕の対応では、彼女が倒れるまでのわずかな間に、脳内に描いたシチュエーションが起こりうる状態まで身体を持っていくことができなかった。
それどころか急な運動に自分も体勢を崩してしまい、僕は見事にけつまづいてしまっていた。結果、野球をしていて塁のだいぶ手前でヘッドスライディングをかましたような間抜けさで滑り込み――それでもなんとか両手だけは伸ばしたところに、彼女が降ってきた。
痛みは、なかった。多分。
悲鳴も、あげなかった。どちらとも。
両手に、冗談のように柔らかい感触があった。
視界で彼女がこっちを見下ろしている。ぽかんと、目つきからあの険しさがとれてしまっていた。その表情を見て、僕はうわあ、近くで見ても嘘みたいに可愛いなあとかそんなまぬけなことを思っていて……徐々に彼女の目つきがまた厳しいものに戻っていくのに、慌てて身体を起こそうとした。
なにをどう間違えたのか、両手に力が入ってしまう。
むんずと柔らかいものを鷲掴む感触。声にならない悲鳴をあげて、彼女が飛び上がった。
きっと、真っ赤になった表情でにらまれる。
おかしい。さすがにここまでひどい状況は、僕の頭にだってなかった――僕は青くなって、手を小さくて柔らかくてもうなんだかそれ以上感想するのもあれなそれを掴んだままの形から動かすこともできず、その場に硬直してしまっていた。
僕の手の形を見て、彼女はとっても不快そうに眉をひそめて、でも怒声をあげたりしなかった。なにかを無言で待っている、それが僕が起き上がるのを待っているのだとわかって、僕はその場に立ち上がった。
彼女は、ほとんど僕と同じくらい背が高かった。いや、ヒールのせいで僕より目線は上にあるくらいだった。
「……怪我は、ないですか」
耳に心地いいアルト。少しだけ声音が低く沈んでいる。
「はいっ」
対する僕は直立不動で、声はほとんどうわずってしまっていた。
なにに?
もちろん、緊張と――恐怖に。
「そうですか」
彼女はほっと息をついて、意外なほど穏やかな笑顔を僕に見せた。――いや、そうじゃない。穏やかなふうに凍りついた笑顔で、だ。
「助けてくれて……助けようとしてくれて、ありがとう。あの。それで、なんというか、一つお願いがあるんだけど――」
そっと胸の前にもちあげた右手が震えている。添えられた左手は、いまにも暴発するのを必死に抑えているようだった。
僕にできるのはそれを見て、
「――いえ。もう、それ以上は」
せいぜい男らしく彼女の言葉を遮ることぐらいだった。
ざっと肩幅に足を開いて、後ろで両手を組む。もう少し下の方がいいかなと、ちょっと膝をまげて、きつく目を閉じて。唇を固く引き締める前に、言った。
「お気になさらず。どうぞっす」
「……どうも」
ひゅっと、空気を切る音だけが聞こえた。
視界は真っ暗だったから、見えたわけじゃあないけれど。それはきっとよくスナップの利いた、腰の入った一撃だったのだろう。
ばしん!
青春の痛みを頬に受けた僕の口から、なぜか突いて出たのは感謝の言葉だった。
「ありがとうございましたぁ!」
直後、みぞおちに鋭い第二撃が来た。どうやら蹴倒されたらしい。
張り手はともかく、鳩尾への一撃は効いた。ヒールだからさらにダメージ倍増だったのだろうが、そもそもあんなワンピースでどうやって蹴ったのかがまずもってミステリーだ。ソバット? 万が一ヤクザキックとかだったりしたら、それはもう大変なことだ。ああ、目を開けておけばよかった。
文章にすればずいぶん余裕があるふうだけど、実際にはほとんど走馬灯のそれと同意義だった。
まさに悶絶。あまりの痛みに横隔膜が痙攣していて、必死に浅い息を肺に送り込もうとしながら、ちょっぴり涙でにじんだ視界には、肩をいからせて去っていく彼女の後ろ姿が映っていた。
これは、ひどい。
せっかくあんな美人と知り合う機会があったのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。あんまりだ。不幸――いや、幸運だったのかも?
まだ手の中に残る温かみに、ひきつるばかりのほっぺたが緩んでしまう。
ふと、彼女の歩き姿に違和感をおぼえた。
僕は痛みに耐えて立ち上がると、馬鹿にするような、同情するような周囲の冷たい視線を振り切って、街の看板を見渡した。
ほんの少し行った先に目当ての店は見つかった。目的のものを手に入れて、僕はすぐに前の場所に引き返し、彼女が去って行ったほうへ駆けた。
いまから追いかけても間に合わないかも。ただし、僕の勘違いじゃなければ――思ったとおり、十メートルも走らないバスの停留所のベンチに、彼女は腰を降ろしていた。
近くにいくと顔を上げ、さっきの相手だと気づいた彼女は思い切り顔をしかめる。
「……なにか?」
いや、完全に自分のせいだってわかってはいるんだけどね。
悲しくなるくらい、嫌われてるってわかる声だった。
「えと、これ。よかったら」
僕は心のなかで涙を流しながら、彼女に薬局のビニール袋を差し出した。けげんそうに受け取った彼女が、その中から箱入りの湿布薬をとりだして驚いた視線を向ける。
「お詫びです。さっきは、ごめん」
問うような瞳が僕を見て――険しさをそのままに、首を横に振った。
「いいえ。こっちの落ち度ですから。いただけません」
そのまま返そうとしてくるから慌ててしまう。
「いえ、ほんと、なんでもないですから。使ってください。それじゃ!」
返品なんてされるぐらいなら、押し付けてにげてしまおう。そう思って背中を向けかけたところで、声がかかる。
「待って。……わかりました。これ、いただきます。――おいくらでした?」
いや、全然わかってないし。
「お詫びで代金もらうやつなんていませんって。あの、それじゃ!」
ここまでくると僕にだって見栄があった。
一方的に言い捨てて、僕は彼女に背を向けると、そのままダッシュでその場から逃げ出した。