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◇
ぽたりと、溶けたソフトクリームが手のひらを伝って地面に落ちた。
数滴のバニラとチョコがまじわって点を打っている。それをぼんやりと見つめていて、目の前にハンカチを差し出された。
「お使いください」
見上げると、運転手の紳士さんが立っている。
無意識に近くを探したけれど、どこにも彼女の姿はなかった。
「……ありがとう、ございます」
溶けかけたソフトクリームを口に入れ、手のひらを拭く。ハンカチをどうしようと顔を上げると、運転手さんが真摯な表情で僕を見ていた。
「吹那様が、血をお吸いになられたのですか?」
責めるような声に聞こえて、顔を伏せる。うなずいた。
「そうですか」
声に、少しだけ感情がこもっていた。それがどういう意味のものかまではわからない。
それきり声はなくて、顔をあげると遠ざかる紳士の背中が見えた。
わざわざそれだけを確認しに来たのだろうか。それほど、彼女が吸血しないということは問題だったのかもしれない。
首元をなぞると、そこだけがまわりと違う硬い感触が二つ。
よかったじゃないか。
彼女の役に立てた。大嫌いに思われてたんだから、それだけでも喜ぼう。
残ったのは寂しそうな彼女の笑顔と、悲しそうな声と。傷跡と、ハンカチ。
――ふざけるな。
湧き上がった感情に身をまかせ、立ち上がる。視界に遠ざかる背中に向けて駆け出した。
気づいた運転手さんがこちらを振り向く。
「……なにか?」
「いえ。用があるのは神螺さんです」
「お嬢様には、恐らく御用はないかと思いますが」
即答。
「でも、僕にはあります」
眼差しが僕を捉え、穏やかに首を振った。
「感情のまま動いてどうと出来ることではありません」
年長者の態度で言う。
「お嬢様をお救いいただいたことは感謝します。だからこそ、お引取りください。これ以上は互いに互いを傷つけてしまいます」
「……どうして、そんなことわかるんですか」
「宇多飼様。自分と同じ行為に出た人間が他にいないと思いますか」
運転手さんは笑った。なにかを諦めた笑みだった。
「あなた以上の覚悟。あなた以上の想い、あなた以上の地位。あなた以上の器量で、吸血鬼とともに在ろうとした人間がいないと思いますか? 恐らくは人類のはじまりからあった、人間と吸血鬼の歴史のなかで、そうした試みが幾度なされてきたと」
「彼女からは。人間と吸血鬼が仲良くなることもあるって聞いてます」
はっきりとは答えてくれなかったけれど。
スコーンが美味しかった喫茶店で彼女が僕の問いに答えを渋ったのは、そのことだったと思う。
ああ、と運転手さんは嘆息した。
「もちろん、吸血鬼と人間が近い関係にあるということはありえます。しかしそれであなたは満足なのですか?」
「どういう意味です」
「それはつまり、吸血鬼の“タンク”ということです。血で交わされた契約。吸う者と吸われる者。食うものと食われるもの。そのような関係性をお望みですか」
答えに詰まる。
「吸血鬼は奪う。人間は奪われる。一方的な搾取が両者の関係なのです。奪われるのではなく、与えているのだ、などと言葉遊びで騙せるものでも、意志や想いでどうなるものでもない。元の造りがそうなのですから。吸血鬼の傍で生きるということは、そういうことなのです」
新井さんの笑顔を思い出した。相手に望まず、ただ向こうが振り向いてくれるのを待つと言っていた。
その健気さがまるで意味がない。いや、意味がないと知って、それでも一緒にいられるのか。それが――吸血鬼と一緒にいることだって?
「そんなこと。だって、神螺さんだって、昔は仲がいい人間がいたって。お互いの気持ちで、そんなのいくらでも」
「どうにもならないと、実際にそうした私が申し上げております」
「それって、どういう――」
「私は吹那様が生まれる前から、ご両親のもとで働いております。一緒になれないなら、せめてできるだけ近くに。そう思ってのことです」
表情に変化はない。ただ、僕にはそのとき、男の人が閉じ込めた深いなにかを垣間見えた気がした。
「やがてお生まれになったお嬢様の近くにいられたことは、私にとっても喜びでした。健やかに成長される様子を我が子のことのように嬉しく思ったものです」
この人が。神螺さんが言ってた、幼い頃に仲良くしてもらっていた人間。
でも、それじゃ――
「宇多飼様。大の大人が、十二歳の子どもに組み伏されるということが、どういうものか想像できますか」
その人は言った。穏やかな表情のまま。
「自分よりはるかに低い背で、まるで抵抗できない力を持ち、小さな手に抑えつけられて身じろぎ一つ出来ない。その時、私が抱いた感情がなにかおわかりになりますか?」
恐怖。
その単語を、男の人は口にはしなかった。
「――私は今年で四十三になります。白髪もまじり、激しい運動も難しい。ですが、吹那様のお母様はまだ二十代のような若々しさです。吸血鬼の寿命は長い。……あなたは、それを受け入れられますか」
沈黙を答えに、運転手さんは頭を下げた。
「夏の残した夢としてどうぞお忘れください。――失礼します」
背中を向けて歩き出す。
その背中にかける言葉が見つからず、僕はただ夕焼けに染まりはじめた空の下で立ち尽くしていた。
手に汚れたハンカチを持って。
◇ ◆ ◇
あの日から、僕はメールを送るのをやめた。
電話ももちろんかけてないから、着信拒否のままかどうかはわからない。
「……マモっち。だいじょぶ?」
お昼。いつものようにベンチに並んでご飯を食べながら、心配そうに新井さんがのぞき込んでくる。
「ん。だいじょぶー」
「卵焼き、いっとく?」
「いっとくー」
ぱくり。うん、美味しい。
「新井さんと結婚できる相手は幸せだー」
「うん、絶対幸せにするっ」
やけに男らしい宣言だった。
「浮気したら殺すっ。まず社会的に殺してから殺すっ」
男らしいのはいいけど、声に出すのはどうかと思う。社会的にってのがなんだかやけに女の子らしくて怖い。
「いいなぁ。殺されたいなぁ」
なんて言いながら、木の影からこっちを見ている変態は、二人で無視。
このベンチに座るためには資格が必要なのだ。
ある存在と関わったというその証は、そろそろ僕の首でカサブタがはがれようとしている。
吸血鬼に恋した二人。
叶わぬ想いに互いをなぐさめあう、なんていうのは新井さんらしくないし、僕だってそうだけど。
こういうのも悪くないと思う。
実はねー、と幸せそうに新井さんが笑う。
「今度、たっくんが遊びに連れていってくれるって。昨日メールが来たんだぁ。お礼だって」
「そうなんだ。よかったね」
あの野郎、やっと誘いやがったか。内心で僕は毒づいておく。
最近、あの藤原って吸血鬼と僕はよく連絡をとりあっている。話してみればけっこう気のいい奴で、まあイケメンってだけで敵なんだけど。ヘタレだから相殺って感じ。
昨日の電話で、新井さんにお礼しとけって強く言っておいた。
人間と吸血鬼。彼女達のこれからがどうなるかはわからないけれど。このくらいしたって、罰はあたらないだろう。
「遊び!? 俺も行く!」
「だ、ダメに決まってるじゃんそんなの! ヘンタイーっ」
「絶対行く! ずっと後ろからついてく!」
「痴漢ーっ。ストーカーっ」
ギャーギャーとやりあっている二人の声を聞きながら、空を見上げる。
なんとなく遠い。夏が終わろうとしている。
彼女と出会ったのは夏休みの終わり。
そうして始まって、終わる。
青空に浮かび上がるように、彼女の表情を思い出した。
怒った顔、呆れ顔。ちょっとしたことで見せる笑みに、泣きそうな顔。
それぞれの顔に、それぞれの言葉を思い出す。
――それはもう前に聞いたわ。
耳に響く台詞。苦さとともに、なるほどね、と思った。
ようするに僕は、あのときすでに間違えてしまっていたのだ。
そういうことなんだろう。
それを取り消すことも、やりなおすこともできないってことも、僕にはちゃんとわかっていた。
◆
あの日から。私に静かな日常が戻ってきた。
一週間、一ヶ月。何年振りかもしれない。
お腹にあった判然としない苛立ちが消えて、世界がとても静かで穏やかだ。
最近、お母さんや友達から表情が優しくなったと言われる。鏡を見ても自分ではよくわからないのだが、ただ、いいことあった? という質問にははっきりと否と答えておいた。
BGMに音楽を鳴らして勉強をしていて、集中を邪魔するメールが入ることも、最近はない。
ふと気にかかり、私は携帯のメール受信箱を開いてみる。
学校の友達や、お母さんからのメールを圧倒していた、ある相手からのメールは、一日を境にぱったり途絶えてしまっている。
携帯を置く。勉強再開。――なぜかはかどらない。集中するための音楽もあるのに。
まだ真新しいオーディオを眺めて、私はため息を吐いた。
もちろん、本当はわかっている。
どうして集中できないのか。集中するために、必要な雑音。それがないからだった。
音楽ではない。それでは代わりにならない。
そして、もうその雑音は戻ってこない。
――仕方がないことだ。そうしたのは自分なのだから。
扉がノックされる。振り向かずに応えると、音もなく扉が開く音がした。
「吹那」
私は振り向かずに応えた。
「なに?」
沈黙に乗って、なにかを慮る空気が届く。肌にちりちりと感じ気配れに、私は勉強に没頭している振りをやめて振り返った。
お父さんがじっとこちらを見ていた。
感情の深い、落ち着いた眼差しは黙ったままだ。それを受け止めた私も、反射に何か激したりはしなかった。
親子でしばらく視線をかわす。睨むのでもなく、見つめるのでもなく、そうして秒針が一周くらいする程した後に、お父さんが口を開いた。
「……平気か。吹那」
短い言葉。私は平静な視線をつくって、
「平気。ごめん、勉強中だから」
瞳の内心を見透かすような視線に目を逸らす。机に向かいなおりながら逃げの言葉を囁くと、そうか、と重苦しいため息のような声が漏れてきた。
「――あまり無理をするなよ」
扉が閉まった。ゆるやかにかきまぜられた空気の流れを感じながら、私はノートに触れて一文字も書き出していないシャーペンを放り投げた。
お父さんのことは、まだ得意ではないけれど。前までのように側にいるだけで嫌で嫌でしょうがないといったような、あの沸き起こる感情はずいぶんとなりをひそめていた。
私がお父さんを嫌っていたのは、お父さんが大人で、男の人で、血を吸う存在だったからだ。だから、もうそれは言い訳にはできない。
お父さんへの気持ちも変化が起きるだろう。それがどういった変化かは、まだわからないけれど。いいことか、悪いことかも。
けれどもう戻れない。血の味を知る前の自分は既に時間も空間も超越した場所に漂う、無縁の存在へと成り果てていた。昨日までの記憶は今日の自分と同化して、何かに残された記録はその残骸だ。
――大丈夫。
胸の中に呟いて、頷いた。
大丈夫。言い聞かせるまでもなく、私はそれを知っている。
喪失感は大きく、長く続くかもしれない。しかし自分に耐えられる。四年間、耐えてきたのだから。それに比べればどうということはない。
カレンダーを見る。
一週間が終わり、週末がやってくる。そうして日々が続いていく。
たったそれだけのことだ。