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◇ ◆ ◇
次の日から朝のお迎えはなくなった。
放課後、正門の前に不機嫌そうなお嬢様が立つこともなくなった。
イケメン吸血鬼が僕を狙う、なんていうのがただのブラフだってわかったんだから、それは当たり前のことで。
でも、変わったのはそれだけじゃなかった。
「――避けられてる?」
お昼。なんだか一緒に食べるのが自然になった新井さんが、リスみたいにくりっとした瞳でこっちを覗き込んでくる。
「うん。メール、全然返ってこない……」
「電話は?」
頬張った焼きそばパンが喉に詰まりそうになる。なんとか胃のなかに押し込んで、僕はがっくりと肩を落とした。
「着信拒否が……」
「わお」
まさか人生ではじめての着信拒否を好きな人からされるなんて。
あれだね、あのお知らせアナウンスってけっこう傷つくね。また一つ知らないことを知って僕は大人になったよ。傷だらけの大人に。
「うーん。まあ、着拒くらいなら衝動的にしちゃうこともあるかもしれないけど」
「そ、そういうもんなの?」
「でも、マモっちがやったことのなにがそんなにいけなかったんだろ? 血、吸ってもらっただけでしょ?」
「……匂いかもしれない。その日のお昼、藤原対策にカレーとにんにくラーメン食べてたから」
血が臭かった、とか。
「それは。うーん……」
真剣な表情で新井さんは考え込んでしまう。冗談だったのに。
いや、実際にお昼にそれを食べたのは本当で、もしものときの対策にならないかと考えてたのもほんとだけど。
そんなことじゃないってことは、さすがにわかってた。
あの夜、僕を見下ろしていたときの彼女を思い出す。
泣くのを我慢して、彼女はたしかに傷ついていた。
傷つけたのは誰だ?
――そんなの、僕しかいないじゃないか。
やっぱり血を吸ってもらったのがまずかったんだろう。
藤原は、吸血鬼の人たちに必要な“吸血”行為を彼女が我慢してる、って言ってた。それを破らせちゃったから、怒ってるのかもしれない。でも、どうして?
わからない。
だから話を聞きたいのに、話がしたいのに、あの日以来、僕と彼女のあいだの糸は完全に切れちゃっている。
あの夜から三日たって、僕の首もとの傷にはカサブタがついた。
それがなくなったら、本当にそのまま、自然消滅しちゃうんじゃないかと思ってしまう。ちょっとした傷跡だけ残して。
「でも、連絡がとれないってのはねー。たっくんに聞いてみよっか?」
嬉しそうに新井さんが提案してくれるのに、僕はちょっと苦笑して、彼女にお願いした。
「わーい、たっくんと話せるっ」
彼女は自分の気持ちにとても素直だ。
にこにこと、見ているほうが幸せになりそうな顔で携帯を操作する新井さんを見ていると、
「いいなぁ」
ぼそりと暗い声がした。
振り向くと、大きな木にガタイを隠すようにして、恨めしそうにこっちを見ている変なヤツが一人。
「仲良さそうだなぁ。青春だなぁ」
あのあと盛大にひっかかれたらしく、両頬に絆創膏を貼り付けた啓吾に、新井さんが冷たい一瞥を投げつける。
「あ、ヘンタイだ」
「変態じゃねーよ! 護、フォローしてくれよぉ」
僕はうなずいた。わかってるとも。
「ここにヘンタイがいるぞー」
「ぶっ殺す!」
「近づくなヘンタイっ。先生呼ぶぞ、今度はほんとに停学になるぞーっ」
がるると新井さんが歯をむくと、しゅんと肩を落としてうなだれる。なんだか、小型犬にやられる大型犬みたいだ。
「ううっ……。俺はただ、友の頼みを聞いただけだっていうのに……」
「うん。マモっちもヘンタイ」
「僕も!?」
「あたりまえだよー」
携帯を耳にあてながら、こっそり耳打ちしてくる。
「だって、気持ちよくなかった?」
「……なにが?」
「だからっ。吸われたとき」
「ああ――」
どうだろう。覚えてるのは血を吸われることより、彼女からただよう甘い香りばっかりで。
「やっぱりヘンタイだっ」
「なんでっ!」
「ヘンタイ仲間。イエーイ」
明るくハイタッチを求めてくる。
「俺も俺も。イエーイ」
啓吾がのっかろうとしてくるけれど、冷たい視線でそっぽを向かれるだけだった。
「痴漢は仲間じゃないもん」
「うう。犯罪者扱い……」
まあ、見ていて仲良さそうではある。
ちなみに啓吾、新井さんに好きな人がいるって知ってけっこうショックだったらしい。
あのイケメンが相手じゃ、だいぶきつい勝負にはなるだろう。向こうの相手も実はけっこうヘタレだったりするけど、なにせ新井さんのほうがこんな状態だし。啓吾は変態だし。
「――あ、もしもし。新井です。いま、平気ですか?」
電話で話し出す新井さん。口調も雰囲気もがらりと恋する乙女のそれに変わって、それをつまらなそうに啓吾が見てる。
うーん、青春だなあ。とりあえず僕は応援するぞ、啓吾。
「はい、マモっち」
「ありがと。――もしもし」
『やあ、こんにちは。怪我の具合はどうだい』
自分の携帯から掛けてくればいいのに、なんて言いださないところからしたら、この吸血鬼だってちゃんとわかってはいるんだろう。どうするつもりなのかはわからない。
気にはなるけど、自分にも余裕がなかった。頭の中は彼女のことでいっぱいいっぱいだ。
「昨日までは打ち身がひどかったけど、なんとか」
『若いっていいね』
「……あんたも僕の一つ上ってだけじゃん。そっちの調子は?」
『まあ、なんとかね。痛かったけど、僕らは怪我の治りも早いから。痛かったけど』
けっこう根に持つタイプだ。こういうところが小物チックだよなあ。その分、親近感も沸くけど。
『それで、なにか聞きたいことがあったんじゃないのかい』
「ああ、うん。……神螺さんなんだけど」
『学校には来てるみたいだよ。廊下ですれ違った。見事に無視されちゃったけどね。連絡、とってないの?』
「うん。……避けられてる」
『そうか。まあ、そうかもね』
「なんでだよ」
つい、愚痴るような声になってしまう。
『わからないさ。けど、彼女は血を吸うのを嫌がってたんだ。それなのに君のを飲んでしまったんだから、本人にしてみればショックだったんじゃないかな』
ショック。
『でも、感謝してるよ。これでしばらく、衝動も治まるだろう。彼女にとってはショックかもしれないけど――今まで、吸血しないで狂った吸血鬼はいても、吸血したからって理由で狂った吸血鬼の話は聞いたことがないからね』
「別に、あんたのためなんかじゃない」
むっとして言う。軽やかな笑みが返ってきた。
『わかってるよ。僕が勝手に感謝したいだけさ。だからこそ、忠告しておくけれどね。もう、近づかないほうがいい』
「いまさら、なんだよ」
「今だから。だよ。僕達と君達が違うって事はこの間でわかっただろう? 僕の言葉だって、今の君ならちゃんと理解できるはずだ。悪いことは言わない、もう関わるべきじゃない。迷惑をかけた君に贈る、心からの言葉だよ」
その台詞はもしかしたら、この携帯の持ち主についても言っているのかもしれなかった。
沈黙してなにも言い返せないままに、電話が切れた。それを返しながら、新井さんに顔を覗き込まれる。
「マモっち。だいじょぶ?」
「……うん、大丈夫。生きてる」
「お、生きてるならなんでもできーるね」
「……できーる」
「そうだ、できーるぞ!」
能天気になぐさめてる二人があんまりにも優しいから、僕はそれに甘えてちょっとのあいだだけ落ち込んだ。
なにも聞かないでそれを許してくれる二人が嬉しかった。
そしてすぐに復活した。
あんなヘタレイケメンになにか言われたくらいで、へこたれるわけがない。
だから放課後、僕は彼女の学校へ向かった。
都内某所。駅からすぐのところにその学校はある。
お坊ちゃん・お嬢様学校として有名らしいけど、実は全国の吸血鬼達が通うという校舎は、前に一度みたときと同じく、とても堂々とした姿で僕に迫るようだった。あまりにも立派過ぎて、自分の学校がプレハブ小屋みたいに見えてくる。
時間はちょうど下校時で、校門からたくさんの生徒が出てきていた。正門前で堂々と仁王立ちする勇気なんてもちろんなかったから、少し離れたところで様子を窺っておく。
……自分で言うのもあれだけど、かなり怪しいかもしれない。
近くを通り過ぎる人達から不審そうに見られるのをかわしながら、ふと思った。もう彼女が帰ってしまってたらどうしよう。
部活をしているという話は聞いていなかったけれど。
公道脇に嘘みたいにずらりと並んだ送迎車のなかには、見知った車種のそれがある気がする。でもナンバーまでは見えないし、覚えてない。高級車にだって詳しくはないし、似たようなのならたくさんあった。
確認しようと、五十メートルくらい並んだその車列の中をそれとなく見て行く。何台目かの車で、見覚えのある眼差しと目があった。
がちゃりと運転手さんが扉を開けて出てくる。
逃げようか挨拶しようか迷っているあいだにこちらへ周り込み、その人は後部座席の扉を開けてくれた。
「いや、あの。今日は、ちょっと神螺さんに会いにきただけで」
紳士は小さくうなずいて、
「お待ちになるのでしたら、中でどうぞ。さきほどから人の目を惹いています」
確かに、警備員がうさんくさそうにこっちを睨んでいる。
「……失礼します」
「はい」
勧められるままに中に入り、バタン。
運転席に戻ってきたその人は黙ったまま、僕もなにも喋れなかった。
不審人物扱いされるよりはマシかもしれないけど、これはこれでかなりきつい……!
「あの」
「はい」
「神螺さんは、どんな感じですか?」
「どんな、と言われますと」
「あ。元気かなぁと」
「いつもとお変わりないですが」
「……ですか」
それはそれで、ちょっと寂しい。
話題をふくらませることもできなくて、僕は気まずい時間を過ごした。
十分くらい待っただろうか。運転手さんが静かに動いて、外へ出ていった。車をまわってこちら側へ。扉を開けて、
「こ、こんにちは」
冷ややかな視線に、愛想よく挨拶してみる。
黒髪にモノトーンな制服で、不機嫌そうな彼女は完全にこちらを無視して、紳士な運転手さんをにらみつけた。
「……これはどういうこと?」
「門前で、吹那様をお待ちのご様子でしたので」
「そう。で?」
「騒ぎになっては面倒かと思い、車内でお待ち頂きました」
おもいっきり深いため息をついて、彼女は車に乗り込んだ。
バタン。……ぱた、ばたん。ゆっくりと発車する。
車内はいつものように無言だった。
なんだかとってもいたたまれない。
近くにいて、刺すような空気を向けられるのはいつものことだったけど、今日はそれ以上だった。多分、気のせいではないと思う。
「あの」
氷のような一瞥が僕を見る。
「――えーっと。体の具合とか、どう?」
「普通よ」
「そ、そう。よかった……」
「ええ」
ダメだ。へこたれるな!
「あのさっ。こないだのこと、なんだけど」
勇気を振り絞った、僕をさえぎるように彼女が言った。
「不二。少し寄り道をしたいの。帰りは歩きでいいから、ここで降ろしてもらえる」
「……は」
車が止まり、扉が開かれる。出て行く姿を見送るしかない僕へ、苛立たしそうに彼女が告げた。
「なにしてるの。貴方も降りるのよ」
「は、はいっ」
慌てて降りようとする。背中から声がかかった。
「――宇多飼様」
「はい?」
振り返った先で、運転手さんの眉がかすかに寄っていた。
「……いえ、なんでもございません。お忘れ物のないようお気をつけください」
「あ、はい。ありがとうございました」
お礼を言って外へ。すでに歩き出している彼女へ、小走りで追いかける。
「公園に行きましょう」
振り向かないまま、彼女は言った。
このあいだの晩のようにとても冷ややかな声だった。