5
◆
街に着き、不二には周囲を流すように指示して自分は街中を走った。
もう、嫌になるくらいに。
日が落ちてもまだ涼しさの訪れない夜の街を、走りにくい革靴で。
中心街には大勢の人間が群れていて、気分の酷さがますます悪化する一方だった。頭痛も治まらない。匂いが鼻につく。数え切れない人間の汗と、体臭。化粧と香水のごちゃまぜになった空気に、吐き気がする。
ネオンがまるで誘蛾灯のように視界に舞を描いている。残像がそのまま残り、文字をかたどるように色を灼く。
雑踏の声は、どれもこちらを哂っているようにしか聞こえなかった。
苛と、痺れが発する。十本の手先と十本の足指、十万本の髪の毛先その他体中のいたる所から、苛々と微弱で確かな電気が生じる。体中に虫が這うような悪寒。吐息が漏れた。ひどく熱い息だと、自分で知れた。
走り続け、立ち止まる。息切れはなく、ただ目の前の信号機が赤だったから止まった。赤。
「――――」
こちらへ向けられた音に振り返ると、軽薄な顔面がなにかをさえずっていた。
うるさい、と思う。
「うるさい」
思ったとおりに声が出ていた。驚いた顔になった目の前の誰かが、なにかを言いかける。その顔を真っ直ぐに見つめる。
相手はすぐに黙りこんだ。
信号が青に変わる。歩き出す。少しは風が心地よい。走ればもっと気持ちいいだろう。縫うようにして駆けた。のろまな通行人達をかわしながら踏破する。
爽快だった。
依然、頭には疼痛がこびりついている。心臓の鼓動のように、ずきんずきんとテンポを刻んでいる。
不快で、不愉快だ。ふと思った。私は、何をしているのだろう。
ずきんと痛む。ああ……護だ。あの馬鹿を、探さないと。
――探して、何をするんだったか。
赤。
……どうして探す? 赤なら、ここにいくらでもあるのに。
赤、いや、緑だ。信号は緑。渡ろう。
また赤い。ネオンだ。違う。単色じゃない。街には色とりどりの光が溢れている。赤。
――赤。
バンッ。
まぎれるように響いたその音。雑踏に溶け込んだそれは、騒がしい街中にあってはっきりと異質だった。周囲の誰もが、一度は足を止め、顔を向ける程度には。しかし流れはすぐに再開する。
私はその方角に向けて走り出していた。ただの勘違いかもしれないが、そうに違いないという確信があった。視界には、赤がちらついている。
繁華街を抜け、高架線を走る鉄道の轟音を聞きながら、走る。
今までうるさかった周囲が嘘のように静かだった。街灯も少ない。ただ赤い。その中を走り、ふと鼓膜にわずかな声を聞いた。見知った何かの声。口元が歪む。頭が痛い。
光が瞬いた。
いくらか距離があったが、地上に太陽が生まれたかと思うくらい鮮明な光だった。
暗闇が駆逐され、世界が昼間の影を見せる。
今度こそ絶対の自信を抱いて、私はその発光源へと向かった。――いた。放置された私有地の類だろうか、そこそこに広がりのある空間の奥、護と藤原が地面にへたり込んでいる。
――赤。
全身に、赤が滲んでいた。服もボロボロで、怪我だってしているだろう。だが、そんなことはまるで目に入らない。
赤が出ていた。赤が。赤。
頭の痛みがいっそう強まり、それと反比例するように心が落ち着いていく。
もう一度、考える。私は何をしにここにきたのだったか?
問題ない、と答える。自分のなかの自分に向けて。
何をしたいのであれ、したいのであればすればいいのだ。
空気を吸う。そうすれば次には吐きだすように、それはとても自然なことだろう。
◇
「――――」
なにも聞こえなかった。だけどなにかがあったことを、僕は背後の光源ライトが音を立てて割れるので知った。
光が消え、暗闇が訪れる。
「――え?」
なんで? 後ろを振り返ろうとして、ぐらりと世界が歪んだ。
やばい、疲れすぎたのかな。
隣の様子に目がいった。なんで、ともう一度思った。
はっきりとした苦悶の表情を浮かべて、吸血鬼は耳を押さえていた。
まるで、爆音でも響いているみたいに。
でもそんなの僕には聞こえない。高架線を通る電車は今はなくて、周囲には他に何も、誰も――視線が、口を開いている女の子で止まった。
息を吐くような姿勢で、彼女は口を開けていた。呼吸には、不必要なくらいの大きさに。
「逃……、ろ……!」
声。まるで遠いその声が、至近距離から言われているのに気づく。ほとんどずっと浮かべていた笑顔のかけらもなく、吸血鬼の男が言った。
逃げる? いったい、誰から。
「え?」
と言ったつもりなのに、聞こえない。
それで、周囲になにかが満ちているのだと、ようやく悟った。
気配。いや、無音の音。
それが不意に消えた。一緒に、神螺さんも口を閉じている。
ということは、彼女がなにかしていたのだろうか。
無表情だった彼女は、顔に笑顔を浮かべていた。いつもの不機嫌さなんてどこかにいってしまったような、とてもすっきりとした素直な微笑。
それを僕は、とても怖いと思った。
「どういうことだよ、今の。――神螺さんがやったのか? 吸血鬼の特殊能力っ!?」
「……彼女はちょっと、叫んだだけさ。君には聞こえなかっただろうけれど」
やけに小さい声で、男が言った。
叫んだ。あの神螺さんが? いや待て、問題はそんなことじゃない。
「叫んだって……。いや、いやいや! そんなのでランプ壊れないだろ!」
「吸血鬼のヒステリーは強烈なんだ」
「説明になってねー!」
大声で突っ込んだはずなのに、その自分の声が遠かった。ああ、耳がおかしいんだ。といまさらながらにわかる。
「え、あれ、怒ってるよね。というか錯乱してるようにしか見えないんだけど。あんたのせいなんだよな、僕のせいじゃないよね?」
にこにこと神螺さんは笑ってる。けど、とても普通には見えなかった。
酔ってる? うん、なんだかそんな感じ。
「まあ、僕のせいなんだけど。君のせいってのもある」
「なにが!」
「彼女、血を吸ってないんだよ」
――血?
僕達のやりとりを見守るように、彼女は笑っている。男が続けた。
「君、吸われてないんだろう。不思議に思わないかい。どうして血を吸われないんだろうって」
「そりゃあ――」
思った。それまでは考えもしなかったけど、今日、新井さんに話を聞いて、すぐに思いついた。
「決まってる。我慢してるのさ。彼女が何でそうなのかはしらないけど、そういう吸血鬼がたまにいる。人間社会に毒されすぎて、って言われてるけどね」
「でも、血を飲まないわけじゃないんだろう? 輸血のヤツ、とか――」
「得血が僕達が生きるために必要なことなら、吸血は僕達が自分達でいるために必要なものなんだよ。慎め、隠せ、だなんていうのはよく言われてるけどね。失くせ、なんて誰も言わないんだ」
視線を遠くの彼女から外さないまま、
「ものすごいストレスなんだよ。だからそういう吸血鬼は、たいてい早死にする。――狂ったりしてね。そんなことは彼女の家族だって承知のうえで、色々心配だってしているだろう。で、問題なのは、その彼女の近くに人間の君がいることさ。血を吸わまいとしている吸血鬼が、どうして人間なんかと一緒にいる? それはとても不自然なことだと思うだろう?」
「――それは。でも」
「君のことが好きだから。とかなら美談にもなるんだけどね」
胸の中を見透かすように、男は言う。
「残念ながら、それはないよ。君、自分に向けられてるあの笑顔が、そういうものに見えるかい」
聞かれて、もう一度彼女を見る。
にこにこと微笑んでいる。その僕を見る穏やかな眼差しに――心の底から寒気がした。
「……だから、僕の失態だよ。まさかここまで切羽詰ってるとは思わなかった。ちょっと焚きつけてあげれば、すぐに吸血行為に出ると思っていたけど、こんなふうになっちゃうとはね」
「それって。じゃあ、僕の血を狙ってるなんていうのも」
嘘か。彼女に僕を襲わせるための。
「まあ。見てて危なっかしいと思ったから。けど、こうなったら話は別だなあ。彼女、君のこと殺しちゃいそうだし」
「……は?」
今度こそ、相手がなにを言ってるのかさっぱり理解できなくて、聞き返す。
「いいからさ。君はさっさと逃げなよ。もし彼女が落ち着くようなことがあれば、後日、また話をしよう。今回のは僕の落ち度なんだから、逃がすくらいはしてあげるよ」
いや、だから。どうして僕が神螺さんから逃げ出さないと。
「――ああ、そういうことだったんですか」
それまで微笑を浮かべたまま沈黙していた彼女が、口を開いた。
「そういう暇つぶしだったんですか。ちょっと可哀想な同族がいるから、カウンセリングでもしてやろうかって。そういう」
「……まあ、そうなるかな。余計なお世話だけどね」
「本当に、そうですね。不愉快すぎます」
「そうだろうね」
口調だけは穏やかな彼女の言葉に、表情をひきつらせて答える。こちらを見て、
「今の彼女がヤバイのは、見てわかるだろう。ほら、早く――」
その顔面を殴ってやった。
無言でうずくまるイケメン吸血鬼。あ、やっぱり弱い。
「な、なにを」
「うるさいアホ。ようするに、あんたが変なちょっかいだしたのが悪いんだろ。なら、黙って殴られとけ」
涙目でこちらを見上げるそいつに言い放って、僕は顔を上げた。
「これは、僕と彼女の問題だ」
きっぱりと宣言する。
「だから、もうそういう問題じゃ――」
まだなにか言ってくるヘタレ吸血鬼に蹴りを一発。完全に沈黙するそいつは放っておいて、僕は彼女と向き合う。
「私と護の問題?」
「うん。とりあえず、こいつは関係ない。だから、僕と神螺さんの問題でしょ」
「そうね。そうなるのかしら」
小首をかしげ、彼女がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「でも、いい機会かもしれないわね。私もあなたに改めて言っておきたいことがあるし」
「うん。なに?」
「私、あなたのこと大嫌い」
にっこりと、彼女は言った。
「はじめて出会った時から。馬鹿だし。気が利かないし。スケベだし。話がつまらないし、空気を読めないし。馬鹿だし。デリカシーないし」
「今、馬鹿って二回言ったよね」
「そうやってどうでもいいところでつっかかるし。本当、苛々する」
「……うん」
「相性が悪いのよ。多分、世界で一番。一緒にいるだけで、一緒の空気を吸ってるだけで――もう本当に、苛々するの」
こうズバッと言われると逆に気持ちがいいね!
……そんな風に思えたら楽なんだろうなあ。
容赦ない言葉に泣きたくなりながら、それでも僕は彼女から目を離さなかった。
いつのまにか、彼女の表情が変わっている。
爽やか過ぎる微笑から、一言いうたびに険が増していく。眉が寄り、目が細まり、口元が厳しく。いつもの彼女の表情に戻っていく。
それは、なにか言えば言うほど、自分の本心から遠ざかっていく。そんなもどかしそうな表情に見えた。
だから、僕は言った。
「血、吸っていいよ」
僕の直前まで近づいた彼女が、動きを止める。
切れ長の瞳が驚きに見開かれて。
僕はそれをまっすぐに見つめ返す。
「――そう」
熱の醒めた口調で言って。彼女がもう一歩、近づいた。
ふわりととてもいい匂いがする。
「……汗臭い」
「……ごめんなさい」
痛みは、思ったよりなかった。
緊張して感じられなかっただけかもしれないけど。
注射みたいなチクリとした感触以外、彼女の香りと、少し高めの体温以外まるで感じられなかった。
ふらり、と頭が揺れる。
うわ、失血しすぎかと思って、そういえば首筋って頚動脈あるよなあなんて思いつき、最後に地面で気絶してるヘタレ吸血鬼の言葉を思い出した。殺しちゃうかもしれないし。
――まあ、いいかな。
なんだかとても疲れた。今はただ、彼女の匂いが嗅げればそれでいいや。なんてちょっとセクハラっぽいことを考えているうちに、彼女が体を離した。
支えを失って、僕はあっさりと膝をつく。
自然と見上げた格好で見て――凍りついた。
今にも泣き出しそうに、彼女は僕を見下ろしていた。
「……バカ」
擦れきった声と、その色ざめた表情を見て悟った。
僕がしたのは――一番やっちゃいけないことだったんだ。