1
◆
夢を見た。
遠い昔の夢、私が小さかった頃の記憶。
誰かと一緒にいた。その誰かは、顔も名前も知っているはずなのに、逆光を受けたようにその表情だけが見えない。
幼い私は無邪気に笑いながら、その人に遊んでもらっている。耳にくすぐったい笑い声を耳に聞いて、思わずこっちまで笑みが浮かんでしまう。
懐かしい。
昔はあんなふうに、時間を見つけてはよくあの人にかまってもらっていた。ボール遊びや、おままごと。家の中から母親まで呼び出して、三人で私が中心の「ごっこ」をやって。少し大きくなってからは、勉強を教えてもらったり。
いったいいつからだろう――あんなふうに、笑わなくなったのは。
その問いに応えるように、目の前で事件が起きた。
相手が血を流していた。
別に大怪我というわけではない。どこかで鋭いものにひっかかけてしまって、手のひらからぽたりと血の滴がこぼれている。
この先に起こることを、私はすぐに思い出した。
見たくない、と念じる。夢を見ている自分に早く起きろと呼びかける。
しかし、叶わない。
顔を覆うことも、視線をそらすこともできず、目の前でそれは続いてしまう。当然だ。それは、既に起こってしまった過去なのだから。
流れる血を見ていた小さな私が、ふらりと男の人に近づいて。そして、
◇
夢を見た。
はだけたブラウス姿の神螺さんが上目づかいで迫ってくるという素晴らしいものだった。途中で起きてしまったのが悔やまれてならない。
ともあれ一日の始まりから彼女に出会えたことが嬉しい。僕は勢いよくベッドから飛び降りた。
カーテンを開けると、太陽が祝福してくれている。
まだ日中はまったくと言っていいほど秋の気配がないけれど、朝夕はさすがに少しずつではあるけど過ごしやすくなってきていた。でも最近の僕が、二度寝することなく爽やかな目覚めでいられるのは、そんなことが理由じゃない。
もちろん、彼女が迎えに来てくれるからに決まってる。
彼女は毎朝きっちり八時に僕の家の呼び鈴を押して現れる。僕と彼女の学校はそれほど近いわけじゃないから、どちらも遅刻しないためにはその時間に家を出る必要があった。寝ぼけて待たせるような真似はできない。
一階に降りて洗面所で顔を洗い、朝ごはんをつめこんで、僕は七時五十分には、登校の準備を整えていた。五分前行動どころか十分前行動だ。
あとは、玄関でいつものように呼び鈴が押されるのを待つだけ。
彼女を待つこの少しの時間が僕は好きだった。玄関に座り込んで、にこにこ頬が緩んでしまう。そんな僕を後ろから両親が心配そうに見る視線には気づいていたけれど、まるで気にならなかった。
ピンポン。
あれ、やけに早いな。
腰を浮かしかけながら、はたと僕は思い出した。
昨日、神螺さんから聞かされたこと。
前に買い物途中に話しかけられたあの男がなんと吸血鬼で、しかも僕を狙っているらしい。
すわ貞操の危機かと最初は思ったけれど、どうやらそれは僕の完全な思い違いだったようで、あのイケメン野郎が狙っているのは僕の血らしい。どっちにしたってとんでもない話だ。
吸血鬼から血を吸おうと狙われる。お決まりのパターンといえばお決まりだけど、僕はあんまり怖くなかった。いや、怖くないわけではないのだけれど、それ以上に嬉しく思っていた。
もちろん、吸血鬼(しかも男)に狙われることが嬉しいわけじゃない。
だって、彼女はそれを心配してくれているのだ。それでこうして毎日送り迎えまでしてくれている。これが幸せじゃなくてなんだというのだろう。
今こそ、啓吾の言っていたことも心から信じられる。僕は彼女に嫌われてなんかいないのだ。むしろ逆。心配してもらえる立場ですらあるんだから。
その彼女が気をつけなさいと言った。
だったら僕にはもちろん、全身全霊で気をつける必要があった。いつもより早い時間に玄関のベルが鳴れば、喜び勇んで開ける前にしておくべき確認がある。
そっと覗き穴を見た。彼女が微笑んでいる。
そんな笑顔を一目でも見てしまえば、次の瞬間には扉を開けるのはもうこの世の絶対的な真理みたいなものだ。
そう――たとえそれが、写真のなかの表情だったとしてもだ。
◆
「もう、学校へ――?」
「ええ。そうだと思うんだけど……。呼び鈴が鳴ったから、てっきり神螺さんだと思ってたのに。おかしいわねぇ」
感じのよさそうな護のお母さんから話を聞きながら、私はなにが起きたのか想像してみた。考えるまでもなく、思いつきそうなのは一つしかない。
あの馬鹿。あれだけ気をつけなさいと伝えておいたのに、どうしてホイホイついていったりするんだろうか。ストレスを我慢しながら送迎にきている私の努力をなんだと思っているのだろう。
内心で苛々しながら目の前の女性に丁寧に頭を下げて、背中を向ける。携帯を取り出して短縮番号を呼び出した。
繋がらないかと思ったら、案外素直に電波が飛んで、コール音が鳴る。そのまま取られる気配がないから諦めかけたが、ちょうど車に乗り込むあたりでプツンと軽い音がした。
『はーい』
いかにも馬鹿っぽい声に、顔をしかめる。護のものじゃない。
『もしもーし』
「……あなた、誰。護は?」
『あー、もしかしてぇ。あなたが神螺ちゃん?』
見知らぬ相手からちゃんづけされる言われはなかった。バックミラー越しに様子を窺っている不二に車を出すよう目で合図を送りながら、
「護は? 近くにいるの」
『いるよー。いま、仲良く登校中。ふふ、ジェラっちゃう?』
「かわってもらえる?」
『いいよー』
『……あ、神螺さんっ。おはようございますっ』
いつもの声がして、少し――ほんの少しだけ、私は安堵した。まだ何かされたわけじゃないらしい。
「どういう状況?」
電波の向こうにはそれが悟られないよう、低く問いただす。
『えっと、それが。今朝、扉を開けたらなんか知らない女の子がいて――』
返ってきたのは困惑も露な口調だった。すぐ後ろで雑音が響いている。
『知らない人なんてひどーい――ちょっと、触らないで! ……それでですね、そのままなんか……ちょっとォ、天下の往来でなにやってるんだよ、君は!――あはは、可っ愛い――』
「――はやく説明してくれないかしら」
『は、はいっ。それで、神螺さんのことで話があるって――そこはダメぇ!』
「……私の到着を待とうとか、そういう考えは浮かばなかったわけ?」
『いえ、そう言ったんですけど、全然聞いてくれなくてっ。しまいには、大声出すとかここで脱ぐとかとんでもないことを――あああっ。イキが! ミミガぁ!』
「沖縄料理が好きだったなんて知らなかったわ。そこの人と一緒に食べにいってきたらどうかしら」
聞くに堪えない喘ぎから耳を離して、電話を切る。すぐに掛け直されてきた。
『いきなり切るなんて可哀想だよー。彼、泣いちゃってるよ?』
「あなたが不快なことをするからでしょ」
『フカイなんかじゃないよー。ユカイなことだよぉ。彼もヨロコんでるし』
誤解です、と悲鳴のような声は、とりあえず耳障りなので無視する。
「それで。掛けなおしてきたってことは、なにか伝えたいことでも?」
『そうそう。あなたから電話がきたらね、教えるようにって。今、メモとかとれる?』
「……メモ?」
『うん。携帯バンゴー。たっくんがね、教えてあげといてって。言ってもいい?』
「……どうぞ」
十一桁の番号を、鞄から取り出したメモに書き付ける。
『じゃ、たしかに伝えたからね。この子のことはこっちで面倒みるから、心配しないでねー』
誰が心配なんてするか。と言ってしまうのが負け惜しみになるような気がして、私は黙って電話を切った。
「……吹那様」
「大丈夫よ。一緒にいるのは、人間だったみたいだし」
不二に答えながら、ふと思う。大丈夫というのはいったい何に対しての答えだろう。深く考えないようにして、教えてもらったばかりの番号に電話を掛けた。
『はい、藤原です』
聞こえてきたのは予想通りの声だった。一つ年上の吸血鬼の男。藤原というらしい。
「頭の悪そうな人間から、この番号を聞きました」
『ああ、神螺さんか。うん、僕もさっき美雪ちゃんから連絡もらったとこだよ』
「いったい何のつもりですか?」
『あはは。怒ってるね』
「わかっているなら、答えるまでもないでしょう」
『まあまあ。ちょっとしたゲームだよ』
「――ゲーム?」
電話の男は、あきらかに状況を楽しんでいる口調で続けた。
『そう。現状、彼という存在はあくまでフリーだ。彼の純潔を、君が守る。僕が奪う。たったそれだけの、簡単なゲームさ』
「……わざわざ子飼いの人間を使って挑発する理由がわかりません」
『ちょうど、同じ高校のコが知り合いにいたからね。賞品にも、ルールの説明は必要だろう? 僕の思い過ごしかもしれないけれど、どうも彼もあんまり事情をわかってるわけじゃないみたいだ。説明してくれる相手がいたほうがいいと思ったのさ。どうして、君が説明を渋ってるのかはわからないけれどね』
「わたしがそのゲームを受ける理由がありませんが」
『まあ、それは君の自由だろうね。たかが人間一人、自分のものでもない相手を守る理由なんてあるはずがない。一方的に棄権されても仕方ないかな』
言葉の端々に見え隠れしている挑発の意図を完全に無視して、
「……そのゲームは、たった今から?」
『そう。といいたいところだけど、これでも学校じゃそれなりに優等生で通ってて。ゲーム開始は今日の夕方以降がいいな。君だって、親御さんに連絡がいくのは嫌だろう?』
「それについては否定しません」
その言葉を最後に、電話を切る。
ミシリという音がして、気づけば携帯電話を握りつぶすようにしていた。顔を上げる。運転しながら、思慮深い目線がバックミラー越しにこちらを見ている。
「――吹那様」
「別に、どうってことはないわ」
自分に言い聞かせるように、私は答えた。
「どうでもいいことよ。――あんなヤツ」
◇
彼女は新井美雪と名乗った。
制服からわかるとおり僕と同じ高校に通う女の子で、しかも同学年。違うクラスなので話したことはないけれど、確かにどこかで見たことがあるかもなあと思えるような、そんな普通の女の子だった。ちょっぴり小柄で、肩くらいまでの髪の毛がふわふわしている。
その女の子が歩きながらぴったりと身体を寄せてくる。正直、とても困る。控えめだけどなんだか殺人的に柔らかい感触があるし、さっきから甘い匂いが鼻先をくすぐっていた。
「あの、新井さん。ちょっと離れて……」
「美雪でいいよー。あたしもマモちゃんって呼ぶし」
「それはちょっと勘弁してもらいたいなぁ」
なんでー、と微妙に間延びした口調で新井さんは口を尖らせた。
「可愛いのに。マモちゃん。NHKの番組とかにでてきそうだよ?」
「ちょっぴり微妙な感じのイメージキャラにいそうだよね。って、そうじゃなくて。離してっ」
くすくすと笑って、いっそう強く腕をつかまれる。
「だーめ。そしたらキミ、逃げちゃうでしょ」
「逃げないから! すごい見られてるから! 暑いしっ」
「いいじゃん。アツアツでいこうよ、ガッコまで」
「勘違いされるじゃないか!」
「別にいいよー。ガッコに好きな人いないし」
「こっちの都合無視すぎる……」
「え、マモちゃん好きな人いるんだ。誰々? 同級? クラスは?」
「いないよ! 神螺さん一筋だよ!」
思わず言ってしまうと、彼女はきょとんと大きな瞳を瞬きして、それから嬉しそうに笑った。子どもみたいな笑顔だった。
「あはは、凄いこと言うねっ」
ぱっと右腕を解放してくれる。大きく右手を振り上げた。
「イエー」
「い、イエー」
なんとなくハイタッチ。そしてまた腕をつかまれる。
「なんの意味がっ!?」
「同志だね!」
――同志?
「うん。あたしもね、たっくんのこと。好きなんだぁ」
はにかみながら言う相手が誰のことを指しているかというのは、すぐにピンときた。
「……それって、吸血鬼の。えらく爽やかなイケメン?」
「そうそう。爽やか王子!」
吸血鬼だけどね。
心のなかでツッコミを入れながら、僕は彼女の手を振り解けなくなってしまっていた。
つまり彼女と僕は似たような立場なのか。吸血鬼という存在に心を奪われた。
「あの男とは、いつから?」
腕を振り解くのをあきらめて、僕は訊ねた。彼女が同じような立場だっていうなら、聞きたいことがある。
「もう三ヶ月くらい前になるのかなぁ。街でね、困ってるときに助けてもらったの。それでもう一目惚れっ」
それはまたお約束というか、ありがちな出会いだ。初対面で図らずともセクハラを働いた僕なんかよりはだいぶマシだろうけれど。
「……血。吸われたの?」
話題が話題だけに、自然と声が低くなる。だけど彼女はにっこりと笑った。
「うん、吸ってもらったよ」
まるで誇るような、それは口調だった。
彼女はいきなり制服のボタンを外して襟首を広げてみせる。首と肩の中間あたりに、周囲の肌色と少し見た目の違う、カサブタ跡がわかるような傷があった。二つの点に見えなくもない。
――吸血の、跡。
はじめて目の当たりにしたその傷跡が妙に生々しくて、僕は思わず声を失ってしまう。
「印、首ってのは最近あんまりないんだってねー。マモちゃんのはどこ?」
「いや、僕は……」
「ボクは?」
まだ、ない。そのことを告げると、彼女はびっくりしたように目を瞬かせた。癖なのかもしれない。
「血、吸われてないの?」
「――うん」
「あ、それでたっくんがって話なんだ。そりゃそっかあ」
納得したように、うんうんと頷く。僕の知らない理屈を知っているらしいので、僕はなんとはなしに訊ねた。
「どういう意味?」
彼女はあっさりと教えてくれた。
――教室に入ると、すぐに啓吾の雄たけびが聞こえてきた。
「マモルァ! 見てたぞこの野郎あれは誰でもいいからとりあえず歯ぁ食い縛れやあ!」
視界いっぱいに広がったドロップキックを、僕はかわしもしなかった。
直撃。
視界がブレる。世界がまわる。
石ころみたいに転がった身体がどこかにぶつかって、そこで止まる。けっこうな音が響いた。
「お、おい! 護、大丈夫か!? よけろよ、アホっ」
とんでもなく理不尽な台詞を聞きながら、僕は頭に触ってみた。血はでてない。痛みは、よくわからない。なんだかジンジンとする気はする。頷いて、立ち上がった。
「……大丈夫」
そのまま啓吾の横を通り過ぎて、自分の席に向かう。教室のみんなが変な目でこっちを見ていたけれど、そんなのどうでもよかった。
窓際の席に座り、窓の外を見る。
見上げた空はとてもいい天気だった。馬鹿馬鹿しいくらいに。
◆
寂しさをおぼえるほど澄んだ空だった。
夏空のあの迫りくる濃さが失せ、遠く高く吸い込むような蒼色。日中の気温はまるで変わらないけれど、高度のあるところでは秋の訪れが感じられるのかもしれない。
授業の間、そんなことを考えながらずっと窓の外を眺めていた。
だけど、私にはわかっている。勉強中に聞く音楽と同じように、それは本当のことを頭に浮かべないようにするための触媒に過ぎなかった。
――護は今頃、何をしているだろう。
授業時間がそう違うとは思わないけれど、そういうことではない。護はどんな表情をしているだろうか。
いつものように馬鹿っぽい顔をしているのか。それとも怒っているか。ショックを受けているか。
私の知ったことじゃない。本心からそう思った。
藤原の子飼いの女から何を聞かされようが。私は彼に対して、何一つ恥じるようなことはしていない。隠してもいない。私の想いは全て、はじめて出会った日、そのあとに待ち合わせた時に伝えている。それを聞かなかったのは護の方だ。
とんちんかんなことを言ったのも、馬鹿馬鹿しいくらいまっすぐに私に近づこうとしたのも、全部あっちだ。私じゃない。
人間は敵だと。恋愛対象になんかならないと、私は言ってきたはずだ。
だから。自分と同じような立場の人間からたとえ何を聞かされて、それで護がどんな感想を抱こうが――それは私の責任ではないのだ。
そう、私のせいではないし、これが本来の在り様なのだ。私が護をどう思っているか。吸血鬼にとって人間がどんな存在かわかれば、護だって今までどおりにはならないだろう。それは私が望んだことでもある。
私はあいつが嫌いなのだから。
――なのに、ムカムカが治まらない。
何も間違ってない。正しいはずなのに、完全に納得できるはずなのに、身体の奥から不快感が消えなかった。
その理由がわからない。原因だけは、わかっていた。
そして、それに近しい感覚も私は知っている。
ひどく身近なものだった。
お爺ちゃんが亡くなってから、ずっと私の中に居座り続けていたもの。今、体中に蔓延するその靄は、その理由なき感情にとてもよく似ていた。
それはつまり、もう一つの事実を表してもいる。
私はいつの間にか、ずっとつきあってきたその思いを忘れていたのだ。いつから。なんのきっかけで。
考えるまでもないことだった。
考えたくもないことでもあったが――でもそれは、間違いなく事実だった。
その日の昼休み、私の携帯が鳴ることはなかった。
何かを受信することも、同じく。
とても静かで落ち着いた昼休みだった。耳に痛いくらい。