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七才からのボク

掲載日:2026/05/26

      七才からのボク

 ボクには、七才以降の記憶がほとんどない。

 というより、知らない間に大人になってしまったような気がする。

 何才からを大人というのか知らないけれど、結婚すれば一人前の大人になる、とお祖母ちゃんは言っていた。

または、子供を育てれば大人だと言っていたような気もする。

 とにかく、ボクはブリジットと結婚し、彼女は身籠もっていた。

 お祖母ちゃんの意見が正しければ、ボクは大人だというわけだ。


「何をやってるの?」とブリジットが言った。

「早くしないと間に合わないでしょ。」

「うん。わかった。」とボクは答える。

ボクは、時々夢想し、夢想したまま何時間も過ごしてしまうので、その都度ブリジットはヒステリーを起こす。

 美しいブリジット、とボクは思う。

 ボクの夢想がそのまま人間の姿に変わったようなブリジット。

 ブリジットの姿は、いくら見ていても見飽きることがない。

 ボクは夢を見ているのではないか、と時々思う。

「やめて。ジロジロ見るのは。」とブリジットは怒る。

「それにね、人の顔を見たまま、居眠りするのもやめてくれない?」

「うん。わかった」とボクは答える。

 ボクの幸福を、ブリジットが共有できないのを、少し不満に思いながら。

 ボクはブリジットの顔を見ているのが好きだ。

 怒っている顔も好きだけれど、笑っている顔はもっと好きだ。

 忙しそうに立ったり座ったりしている姿も好きだし、ジッとうつむいて考えごとをしている顔も好きだ。

 ブリジットの眉間の皺も好きなら、目尻の皺も好きだ。

 多分、ブリジットは、ボクが彼女の皺が好きだなんて知らないだろうけれど。

「トーマス・アンダーソン・ジュニア」とブリジットが叫んだ。

「何?」

「私たちは、今から、あなたのお祖母さまの家に向かうのよ。私たちなのよ、私だけじゃないわ」

「そうだよ」とボクは答える。

「ああ、ジュニア」とブリジットは両手を広げて、絶望的な表情をした。

 ああ、いい顔だ、とボクは思う。

「私の顔を見て、笑っている場合じゃないわ。

 わかっているわ、お祖母さまの家には、何でも揃っていることは。

 私たちの財産なんて、私一人で充分荷作りできる程度のものよ。

 私たちには、何の財産もないんですものね。でも、ジュニア・・・」

 ボクは近くに来たブリジットを引き寄せて、小さなさくらんぼのような唇にキスした。

「もう、ジュニア」とブリジットは呆れ果てたという表情をする。

 その表情も、ボクは好きだ。

「座っておいで、ブリジット」とボクは言う。

「車を待っていればいいんだから」

 ボクは、少しブリジットが可哀相になる。

 何で、ボクみたいな男と結婚したんだろう。

 ブリジットなら、もっと働きのある男とだって、もっと財産のある男とだって、もっと女あしらいの上手な男とだって、もっと頼りがいのある男とだって、結婚できただろうに。

「でも、ジュニア。じっとしてることなんてできないのよ」

「じゃあ、好きにすればいい」とボクはブリジットを放した。

 手の中に残る、ブリジットの柔らかな髪と滑らかな肌の感触を惜しみながら。

 ボクは、自分の生まれた家の、大きなベッドを思い出す。

 子供の頃の記憶だから、実際よりもずっと大きく見えたのかもしれない。

 あの大きなベッドの中で、一日中ブリジットと一緒に過ごすことを夢想する。

 恥ずかしがり屋のブリジット。

 大きなおなかを、ボクに見られることをイヤがるブリジット。

 皺が増えていくのを、鏡を見ながら気にしているブリジット。

 ボクから、顔の皺を隠そうとするブリジット。

 ボクは、ボクと一緒にいて増えていく皺をこそ、愛しているというのに。

 ブリジットがブリジットだから、愛しているというのに。


「私のどこが好き?」とブリジットは、時々意地の悪い顔をして、ボクにたずねる。

 その顔も、ボクは好きだ。

「何もかも」

「何もかもじゃわからないわ。きちんと言ってくれなくちゃ」

「ブリジットの顔が好き」

「どうして?」

「綺麗だから」

「ふふん」とブリジットは鼻で笑う。

「どこが?」

「全部」

「全部じゃわからないわ」

「目」

 そうだ。

 ボクは、特にブリジットの目が好きだ。

 光線の加減で、青く見えたり黒く見えたり茶色く見えたりする目が好きだ。

 一体、本当は何色なんだろうか、とボクはいつもブリジットの目を見て思う。

「目なんか閉じてしまえば見えないわ」とブリジットは目を閉じる。

「目の次は口」とボクは、目を閉じたブリジットの唇にキスする。

 ブリジットの小さな唇、上の唇も下の唇も好きだ。

 いつもいつもキスしていたいと思う。

 いつまでもいつまでもキスしたままでいたいと思う。

「もう、ジュニア!」としかし、ブリジットは怒る。

「ふざけないでよ」

「ふざけてなんかないよ」とボクは、もっともっとキスしたかった唇を見ながら答える。

 ブリジットが途中で怒らなければ、ボクの好きなところを全部ブリジットに伝えることができるのに。

 とんがった小さな鼻も好きだし、少しこけた頬も好き。

 柔らかな髪も好きなら、手に心地好い肌の感触も好き。

 ブリジットの何もかもが好きだ。

 そして、最後に、ブリジットがブリジットだから好きなんだということも、きちんと伝えることができるのに。

「私のどこが好き?」なんて、何度も言うこともないのに。

「ジュニア、私、怖いわ。車の音よ」と言うブリジットの声が、ボクの夢想を破った。

「ブリジット、あれは車の音じゃないよ」とボクは言った。

 言っているうちに、奇妙な気分になった。

 聞こえてくるのは、アンクル・ベーシーの馬車の音だと思った。

 まさか。今時、アンクル・ベーシーの馬車が、ボクを迎えに来るなんて。






2

 コッコッコッ、とドアがノックされる音が聞こえてきた。

 ブリジットは脅えて、ボクにしがみついた。

 大丈夫だよ、というように、ボクはブリジットの背中を叩いた。

 ドアを開けると、ボーイが立っていた。

 そうか。ここは、ホテルだったんだ、と思い出した。

 仕事を失って、祖母の家に転がりこもうと思い、旅の途中で泊まったホテルだったのだ。

「アンダーソンさん?」とボーイは慇懃に言った。

「ええ」

「お車が来ております。お荷物は?」と部屋の中を眺め回した。

 ブリジットが赤面するのがわかった。きっと、旅行用の大きなカバンがいくつもないのを恥ずかしがっているのだ。

 ボクは、黙って、ボーイに目で荷物のありかを教えた。

 確かに、恥ずかしいぐらいの荷物だったが、恥ずかしがるほど格式のあるホテルでもなかった。


 ホテルの外に出ると、アンクル・ベーシーとは似ても似つかない男が、車の運転席に座っていた。

 ボクを見ると、微かにうなずくそぶりを示した。

 ボクも、理由なくうなずき返した。目で、アンクル・ベーシーの馬車を捜しながら。

 ポケットを探ると、幸いなことに、硬貨が手に触れた。

 ボーイが荷物を車のトランクに積み込むのを見届けてから、ボクは硬貨を渡した。

 ブリジットが、また赤面するのがわかった。

 ホテルの料金を支払った時点で、ボクのポケットには、殆ど紙幣がなく、ピロウの下に置くチップにしても安すぎる硬貨しかなかったからだ。

「ふっふん」というボーイの軽蔑の声を背後に聞いて、ボクはブリジットの手を取って車に乗せ、隣に座った。

 何でも心得ている運転手らしく、一言もことばを交わさないうちに、車は動き出していた。

 一体、何を言えばいいのだろうか。

 ブリジットの身体が強張っていたので、ボクは腕をブリジットの腰に回して、大丈夫だよ、と頬にキスをした。

 多分、ブリジットは、ボクがキスしたことにも、気がついていなかっただろうけれど。


「奥様がお待ちかねですよ、ジュニア」とアンクル・ベーシーなら言うだろう。

「お祖母ちゃん、怒ってる?」

「まあ、表面的には、多分」とベーシーは含み笑いをする。

「ボクが黙って出て行ったから?」

「まあ、そうでしょうね、多分」とベーシーはクックッと笑う。

「ボクが電報を打ったのは、まずかったかな?」

「奥様は、何にもおっしゃいませんでしたな、表に出しては」

「ブリジットのことを、どう思うだろうか」

「さあ」とまた、ベーシーは含み笑いをする。

「表情は、お変えにならんでしょう、多分」

 でも、心の中では喜んでくれるだろう、とボクは思った。

 ボクが大人になったことを、きっと一番喜んでくれるのは、お祖母ちゃんなんだから。

「でも、驚かれるでしょうね、内心」とベーシーは、クックッと笑う。

「そうだな、多分」と声に出して言ってから、ボクはブリジットを見て笑った。

「何が多分なの?」とブリジットが、小さな声で尋ねた。

「それに、何がおかしいの?」

 ボクは、脅えているブリジットも好きだ。

「お祖母ちゃんが、君を見て驚くだろうな、と思ったのさ」

「驚くなんてもんじゃないと思うわ」とブリジットが言った。

「ふしだらな女だと思われてしまうわ」

「何を言うの」とボクは驚いて言った。

「だって、あなたは私と結婚したことなんか一度も知らせなかったんでしょ?」


 いつ結婚したのか覚えていないからだとは、さすがにブリジットには言えなかった。

 気がつくとブリジットと結婚していて、ブリジットのおなかには、ボクの子供ができていた。

 本当にボクの子供かどうかはハッキリしないけれど、ブリジットのおなかの中にいるのだから、当然ボクの子供なんだろう。

「きっと、ふしだらな女だと思われてしまうわ。

 子供ができたから慌てて結婚するような、そんなふしだらな女だと思われてしまう」

「子供ができたから、ボクと結婚したの?」と思い切って尋ねると、「何、言ってるのよ! いい加減にしてよ!」とブリジットは、運転手に気兼ねをするのも忘れて怒鳴った。

「忘れたの?」とブリジットは、また小声に戻った。

「ううん。ちゃんと覚えている」

 そうだ。ボクは覚えている。


 花の咲く、何の花だったのか名前は知らないのだが、赤や黄色やピンクや白の花の咲く、小さな丘の上で、ボクは、ブリジットにプロポーズした。

 それまで何度も何度もプロポーズしようと思っていたのに、どうしてもタイミングが合わなかった。

 ボクとブリジットとは、結ばれない宿命なのかと思うほど、ボクのプロポーズには、いつも邪魔が入った。

 ブリジットもボクも、後はプロポーズだけだと知っていたのに。

 お互いに好きだということは、口に出して言わなくてもわかっていた。

 ボクは、いつもブリジットの方ばかり見ていたし、ブリジットは知らんふりをしていたけれど、ボクがブリジットだけを見ていることを知っていた。

 後は、プロポーズのタイミングだけだった。

 ボクは先生に叱られて、トボトボと道を歩いていた。その時は、誰にも会いたくなかった。

 たとえ、ブリジットだとしても。

 ブリジットが、ボクの後をついてきているなんて、知らなかった。

「ジュニア」とブリジットが呼んだので、ボクは本当に驚いた。

 こんな時に、ブリジットに会いたくはなかった。

 もっと元気な時に、もっと陽気な時に、もっとりりしい時に、もっと恰好良くブリジットに会いたかった。

 それに、どうして、ブリジットが、ボクのことを『ジュニア』と呼ぶのかも不思議だった。

 ボクをその名前で呼んだのは、二人だけだった。

 いや、三人だったかもしれない。いや、四人だったか五人だったか忘れたけれど、ブリジットに『ジュニア』と呼ばれるとは思わなかった。

「どうして、ブリジット・・・」と言ったまま、ボクはジッとブリジットが近づいてくるのを見ていた。      そうだ。ブリジットこそ、ボクをジュニアと呼ぶのに相応しいのだ、と思いながら。

 美しいブリジット、結婚式のような白いドレスを着て、野の花に囲まれて、ボクの方に進んでくる。

 太陽が、ブリジットの美しい長い髪を照らしている。

 長い髪は光線の具合で金色に輝き、顔の、あの美しい顔の周りでゆらゆらと揺れていた。

 その光景は、ボクの脳裏に焼きついている。

 美しいブリジット。

 ボクが生まれて初めて恋した女性。

「ブリジット、愛している」とボクは言った。



3

「わかっているわ、ジュニア。私も、あなたを愛している」

「君と結婚したい。ブリジット、君と結婚したい」

「いいわ、ジュニア。でも、一度だけよ」

 ボクは、夢想から覚めた。

 ブリジットは、本当に、その通りに言ったのだろうか。

「いいわ、ジュニア。でも、一度だけよ」

 そのことばに深い意味があるのだろうか。

 結婚は、もちろん一度だけだけれど、ことさら『一度だけ』と言う意味があったのだろうか。

「ジュニア、ジュニア」とブリジットが、車の中にいるブリジットがボクを呼んでいた。

「何だか変なの」

「どうしたの?」

「多分、多分だけれど、子供が生まれるんだと思う」

「そう」とボクは言った。

 大変なことだと頭ではわかっているのに、こんなことが、昔あったような気がする、と記憶を探っているのだった。


「ジュニア、ジュニア」とお祖母ちゃんが、ボクを呼んだ。

「なーに。お祖母ちゃん」とボクは、目をこすりながら答える。

「生まれたのよ」と平静な顔をしていたけれど、お祖母ちゃんが内心動揺しているのがわかった。

「何が?」

「あなたの妹が」

「ボクの妹? ブリジット?」

「何を言ってるの、ジュニア。あなたの妹よ」

「妹? ブリジット?」


「ジュニア、ジュニア」とブリジットが呼んでいた。

「ブリジット?」とボクは夢想から覚めた。

「どうしたの?」

「車に揺られるのが辛いの。おなかがすごく痛いのよ」

「どこが痛いの?」

「どこがって、おなか全体が痛いのよ。

 おなか全体が子供を、きっと子供が外に出たがっているのだと思うけど、子供を押し出そうとしているのよ。

 ひどい話ね。どうしようもないのよ。

 あんなに狭いところから外に出て行かなければならないんだから。きっと、途中で苦しくなるわ。

 子供も私も、きっと途中で苦しくなるわ」

 ブリジットは、声を殺して泣き始めた。

 ボクはどうしていいのかわからなかったので、運転手の方を見た。

 運転手は、何でも心得ているような顔をして、うなずいた。

 ボクは、ホッとして、ブリジットを抱き締めて、涙の跡にキスの雨を降らせた。

「ああ、ジュニア、ジュニア、あなたって、そんなことしかできないのね」

「そうだよ、ブリジット」

 どんなに愛していたって、ボクにはこんなことしかできない。

 ボクは、本当に役立たずなんだ。

 こんなにブリジットを愛しているのに、ボクはブリジットの目や頬にキスすることしかできない。

「着きました」と初めて運転手の声を聞いた。

「ジュニア」と車から降りると、ずっとそこで待っていたかのように、お祖母ちゃんがボクを抱き締めた。

「ボクじゃないよ、ブリジットだよ」とボクは、わけのわからないことを言っている。

「ジュニア」とブリジットもボクを抱き締めた。

 いや。ブリジットは、ボクを抱き締める余裕なんかなかった。

 運転手が、ブリジットを軽々と抱えると、お祖母ちゃんの後について、屋敷の中に入って行った。

 お祖母ちゃんがいれば、もう安心だ、とボクは思った。

 どうして、お祖母ちゃんと離れていられたのだろうか。

 ここは、いつまでも昔のままだ、とボクは思った。

 深い森のような雑木林。木々の影が濃くて、いつでも夕方のような空の色。

 そうだ。ここは、いつも不気味な場所だったと思い出していた。

 こんな場所に、本当にブリジットを連れて来てもよかったのだろうか。

 ボクは、ブルッと身震いをすると、家の中に入って行った。


「ジュニア、ジュニア」とお祖母ちゃんが、ボクを呼んだ。

「なーに、お祖母ちゃん」とボクは、何かを思い出しかけながら答える。

「生まれたのよ」と平静な顔をしていたけれど、お祖母ちゃんが内心動揺しているのがわかった。

「何が?」

「あなたの子供が」

「ボクの子供? ブリジットは?」

「大丈夫よ。でも、ジュニア。あなたの妹よ」

「妹? ブリジット?」

 一体、何がどうなっているんだ、とボクは思った。


「ジュニア、ジュニア」とブリジットが呼んでいた。

「ブリジット」

 おお、ブリジット、ブリジット。

「男の子よ、ジュニア」

 夢想していたのと同じ大きなベッドにブリジットが寝ていた。

 そして、その横に、まるで用意してあったかのように揺りかごがあり、その中に、くしゃくしゃの赤ん坊が横になっていた。

「ブリジット、ブリジット」としか、ボクには言えなかった。

「ジュニア、男の子よ、ジュニア」

「いいえ、ジュニア、あなたの妹よ」とお祖母ちゃんが言った。

「どっちなの? ブリジット」とボクは、ブリジットに尋ねた。

 ブリジットの言うことだけを信じようと思って。

「ジュニア、男の子よ」

「ボクの子供?」

「そうよ。バカね」とブリジットが笑った。

「誰の子供だと思ったの?」

「パパの」

「本当に、バカね」とブリジットは笑ったけれど、ボクは笑わなかった。

「ボクをからかっているの、ブリジット?」



4

「ボクをからかっているの、ブリジット?」という声が、揺りかごの中から聞こえてきて、ボクはギョッ

とした。

「ジュニア、何てことでしょう」とブリジットが言った。

「この子、もう話せるのよ。こんなこと信じられる?」

「ジュニアと同じね。何でも早くできる子だった」とお祖母ちゃんが言った。

 お祖母ちゃんは、揺りかごから赤ん坊を取り出すと、床に立たせた。

「やっぱり、ジュニアと同じね。立つのも歩くのも早い」

 ブリジットもそう言っていた。

 ジュニアは、立つのも歩くのも走るのも話すのも、他の誰よりも早かったわ。

 私は、本当に得意だったわ。

 ジュニアが、私の自慢だった。

 ジュニアは、私の・・・


 ボクは急に気分が悪くなった。

 歩き回っているボクの子供。

 ボクにそっくりのボクの子供。

 ボクに似せて作られたお人形みたいに見える子供。

 目の前でドンドン成長していくボクの子供。

「ブリジット」とボクそっくりの声で、ボクそっくりにブリジットを見る息子。

「本当に、パパにそっくり」とブリジットは、ボクと息子を見比べて笑う。

 お祖母ちゃんは、そっと寝室から出て行った。

 いくつになっても変わらないお祖母ちゃん。

 何で、お祖母ちゃんは泣くんだろうか。


「ジュニア」とブリジットがボクを呼んだ。

「もう、ここに来てはダメよ」

「なぜ、ブリジット」とボクは驚いて、尋ねる。

「どうしてもよ、ジュニア」とブリジットは、今まで見たことのないような怖い顔をして、ボクを見ていた。

「お前は、誰だ」とボクは、叫んだ。

 これは、ブリジットじゃない。

「私がブリッジットよ」と相手は言った。

「違う」

 これはブリジットじゃない、とボクにはわかる。

 ブリジットはもっと優しい。

 ブリジットはもっと綺麗だ。

 ブリジットはボクを愛している。

 この女は、ボクを愛していない。ボクも、こんな女は知らない。

 こんな女を愛したこともない。

 これは、ボクの息子だ、と気がついたとたん、ブリジットの叫び声が聞こえた。


 息子の化けたブリジットが、本物のブリジットを追い回しているところだった。

「何で、こんなことをするんだ」とボクは息子に尋ねた。

「ブリジットを愛している」と息子は答える。

「だから、ブリジットの肉体が欲しい。ボクは、ブリジットになりたい」

「だめだ。やめてくれ」とボクは叫ぶ。

 逃げ回っているブリジットの恐怖が、自分のものみたいに感じられる。

 息子はブリジットの肉体を征服し、ブリジットの中に入りこもうとしているのだ。

「頼むからやめてくれ」とボクは息子に頼む。

「どうして、そんなひどいことができるんだ」

「どうしてそんなひどいことができるんだ」と息子はボクそっくりに声を真似て言った。


「あんたがブリジットにしたのと同じことをしているだけさ」

「何を言っている。ボクは、ブリジットを愛しているだけだ」

「ボクだってそうだ」とブリジットの姿をした息子が言った。


「ブリジットは、お前の母親じゃないか」と言って、ボクは喉が詰まった。

「母親を愛して、何が悪い」と息子が言った。

 ボクの喉は詰まったままだ。

 ブリジットの恐怖がわかるのに、ボクにはどうすることもできない。


 ああ、あのフランス窓だ、とボクは思う。

 二人のブリジットは、窓のところで揉み合っていた。

 息子が、ブリジットの肉体を手に入れてしまったら、ボクはどうしたらいいんだ。

 ボクは、本当にどうすればいいんだ。

 あと少し、あと少しで、息子の魂はブリジットの肉体を征服する。

「ブリジット!」とボクが叫んだとたん、片方が窓から下のプールに落ちた。

 ボクには、贋物のブリジットを恐怖の余り突き落とそうとしているブリジットが見えていた。

 そうだ、ブリジット、そんなヤツは落としてしまうんだ。

 贋物の、ボクの息子の化けたブリジットが、窓から落ちる瞬間、本物のブリジットとすり替わるのがわかった。

 どういうことなんだ、とボクは思う。

 ブリジットが、ボクのブリジットが、血にまみれてプールに浮かんでいた。

「ジュニア!」とブリジットが、窓から叫んでいる。

 プールに落ちたはずの本物のブリジット、ボクの愛するブリジットが、窓からボクに向かって叫んでいた。

 いつの間に、ボクがプールに落ちたのだろうか。

 ボクがブリジットの姿をしたブリジットの息子が入れ替わった本物のブリジットなのだろうか。

 ボクは、誰なんだろうか。


 身体の周囲の水が赤くなっていた。

 きっと、ボクは血まみれなのだと思った。

「ジュニア、ジュニア」と叫んでいるブリジットの姿が小さく見える。

 ボクは、いい気持ちでプールに浮かんでいる。

 ブリジット、愛している、とボクは思う。

 心の底から愛している。

 どんな表情も、悲しみや憎しみの表情でさえ愛している。

 顔の皺も目尻の皺も何もかもを愛している。

 落ちたのが、ブリジットでなくて、本当によかった。


 落ちたのが、このボクで、愛するブリジットでなくて、本当によかった。

 フワフワと水に浮かんでいるボクの目に、小さな墓石が目に入った。


 よくは見えなかったけれど、1977年8月16日、トーマス・H・アンダーソンとブリジッ

ト・W・アンダーソンの最愛の息子、トーマス・アンダーソン・ジュニア、ここに眠る。

 という文字が見えた。


 神に愛された利発で早熟な魂、七才で世界を見てしまった魂、ここに安らかに眠る。


 ブリジット、と最後に、ボクは思った。

 ブリジット、愛している、どこの世界に行こうが、どんな姿になろうが、ボクは、ブリジットを愛している。


「ジュニア」とブリジットの声がした。

「おお、ジュニア、ジュニア」とプールの中でボクの脱け殻を抱き上げるブリジットの姿を、今は、はるか高い場所から眺めていた。


 ボクの幸せな夢想は終わった。

 ボクには、七才以降の記憶が、少しだけある。

 ほんの少しだけれど、幸せな記憶がある。

 ボクは、これからブリジットのいない世界に行く。

 幸せな思い出と一緒に。



               了



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