第7話
「はむっ……もぐもぐ。うーん、悪くないわね」
薄暗い大樹海を進みながら、私は足元に生えている名も知らない雑草をむしり取っては、手当たり次第に口へ放り込んでいた。
かつて現実世界で、「無職で一日中家にいるんだから、せめて町内会の草むしりくらい参加しなさい!」と母親に怒鳴られ、半ば叩き出されるようにして向かった近所の公園。あの時、お腹が空いたからと、朝飯代わりにこっそりその辺の雑草を貪ったことがあるのよね。あれは本当に酷かった。青臭いし、苦いし、筋っぽいし、あんなものを好んで食べる草食動物は味覚が壊れているのではないかと本気で思ったくらいだわ。
けれど、今は違う。
私の胃袋には【悪食LV10】という、実に頼もしくて下品で素晴らしい神スキルが宿っている。このスキルによる強烈な味覚アシストのおかげで、ただ湿っているだけの雑草が、まるでコンビニで売っている百円のやっすいカップサラダみたいな、シャキシャキした食感と水気のある青味に変換されていくのだ。ドレッシングが無いのだけは少々残念だけれど、飢えを誤魔化すには十分すぎる性能だった。
「むしゃ、むしゃ……。あら?」
草を食みながら進んでいた私の足が、ぴたりと止まった。
木々の隙間から開けた空間。その中央に、筋骨隆々とした巨体がどっかり腰を下ろしていたからだ。赤黒い肌、頭に生えた二本の太い角、丸太みたいに膨れ上がった腕。どう見たってオーガだわ。
私は反射的にシステムウィンドウへ視線を走らせ、相手の情報を確認した。頭上に浮かび上がったレベルは『25』。
対する私の総合レベルは、ゾンビをたらふく平らげた後でも『15』止まり。レベル差10。ステータスの暴力がものを言うこの世界で、それはかなり露骨な死の宣告に近い数字だった。正面から殴り合えば、まあ普通に終わるでしょうね。私が。
「……どうしようかしら」
私は草をもぐもぐ咀嚼しながら、じっとオーガの巨体を眺めた。
胃袋は、まだまだ食事を要求している。あの分厚い筋肉、絶対に噛み応えがあるじゃない。あの手の肉は、ちゃんと歯を立てた時の反発が気持ちいいのよね。赤身が強くて、脂は少なめだけれど、そのぶん旨味が濃そうだわ。できれば火を通した状態でも食べてみたいけれど、まあ生でも十分楽しめそうである。
ただし、リスクは高い。
……いえ、そうでもないのかしら。
ふと、現実世界の憂鬱極まりない事情が脳裏を掠めた。
私は、一日十二時間はふかふかのお布団に包まれてぐっすり眠る、という極めて慎ましく、かつ譲るつもりのない基本的人権を主張したい人間なのだけれど、平日の昼間に高いびきを立てて眠っていると、母親が唐突に部屋へ乱入してきて、『食費月200万かかる穀潰しが昼過ぎまでぐうぐう寝てんじゃねえ!』と言いながら鉄アレイだのダンベルだのを頭へ叩き落としてくるのだ。あれはもはやモーニングコールではなく、未必の故意による傷害未遂である。だから私は、遅くとも午後九時には就寝態勢へ入っていなければならない。
「つまり、そろそろログアウトの時間ってわけよね」
時間が来れば、私は強制的にこの世界から離脱する。
ということは、ここで仮に死に戻って、半日のステータス半減という重たいデスペナルティを背負ったとしても、ログアウトして現実世界で寝ている間に、その時間は勝手に消化されることになる。
……実質、ノーリスクじゃない。
いやあ、素晴らしいわね。睡眠がここまで戦術へ組み込めるゲーム、私は嫌いじゃないわ。
「ふふっ。それに、私にはとっておきの切り札もあるもの。……何より、あの弾力がありそうな筋肉の味、どうしても知りたいじゃない」
私は口元をわずかに歪めると、オーガへ向けて【空爪】を装備した右腕を振り抜いた。
シュバッ! シュバッ! シュバッ!
連続で放たれる真空の刃が、木々の合間を切り裂いて飛ぶ。まだ【濃縮食毒】を乗せることはできないけれど、それでも不意打ちには十分すぎた。
「グオォォォッ!?」
風の刃がオーガの分厚い皮膚を切り裂き、鮮血が飛び散る。激昂したオーガは立ち上がると、その辺に転がっていた手頃な丸太――いえ、あれは粗末な棍棒かしら――を掴み取り、凄まじい膂力で私へ向かって投げつけてきた。
「ちょっ、危なっ!」
ヒュンッ! という凶悪な風切り音。次の瞬間、飛来した棍棒が私の顔面を掠めた。
ゴシャッ!
鈍い音とともに、左目が完全に潰れる。視界の半分が、血の赤と闇でぐしゃぐしゃに塗り潰された。
「いっ……つぅぅぅっ! グロい、グロいわよ! そういうのは見せなくていいのよ!」
痛覚設定をオフにしていないことへの後悔が、遅ればせながら波みたいに押し寄せてきた。けれど、呻いている暇なんてない。私は飛んできた棍棒の端へ咄嗟に食らいつくように手を伸ばし、そのまま硬い木材へ牙を突き立てた。
バキィッ! メキメキッ!
「痛い、痛い、痛い! でも、食えば治る!」
木だろうが棒だろうが、【悪食】が“食い物”判定へ引きずり込んでしまえば、【捕食】で拾える回復源になる。栄養価なんて知ったことではない。今はゼロよりマシなら何でもご馳走だわ。私は棍棒をばりばり齧り、ささくれた木片ごと飲み込んで、少しでもHPを立て直そうと必死に足掻いた。
そして、最後の木片を飲み込んだ瞬間だった。
「グハハハハッ! グール風情が、木の棒など齧って何になる! 惨めな底辺魔物め!」
いつの間にか距離を詰めていたオーガが、私を見下ろして醜悪な笑い声を上げていた。
次の瞬間、丸太みたいに太い足が、私の腹部を容赦なく蹴り飛ばす。
「がはっ……!」
内臓がひっくり返るみたいな衝撃。私は地面を転がり、さっき食べた雑草や木片の混じった胃酸を、げろげろと吐き出した。オーガは追撃の手を緩めない。何度も、何度も、面白がるみたいに私を蹴り上げる。
「げほっ、ごめ、ごめんなさい! 私が悪かったです! 許して、見逃してぇ!」
私は地面へ這いつくばり、中学時代の苛烈なカースト制度の中で培った、完璧なフォームの土下座を披露した。涙目で上目遣いになり、できる限りありったけの媚びを売る。プライドなんて、胃袋を満たすためには一文の価値も無いのだから、こんなところで張る意味がない。
「グハハッ! 命乞いか! 貴様のような必死で無様な弱者を、こうして無慈悲に踏み潰し、喰らう! それこそが我らオーガの生き様であり、この世の絶対的な真理なのだ!」
オーガは勝ち誇ったように笑い、私の頭を叩き潰すため、その巨大な足を高く振り上げた。
ああ、やっぱり。
私は頬を地面へ擦りつけたまま、ほんの少しだけ口元を吊り上げた。こういう手合いは、土下座した相手を見ると必ず頭を踏みに来る。中学の暗黒時代、体育館裏で何度も何度も見せられた光景だわ。弱者へ“勝った感じ”を出したくてたまらない連中は、だいたい同じ動きをするものなのよね。
「……バカね」
私は振り下ろされる足の軌道を紙一重で躱すと、オーガの軸足に深く刻まれていた【空爪】の切り傷へ、自分の爪を深々と突き立てた。
「な、貴様……何を……!?」
「【濃縮食毒】よ」
私が小さく呟いた瞬間、これまでに何十匹ものゾンビから喰らい、体内へ蓄積され、じっくり熟成されていた猛毒が、爪先からオーガの傷口へ一気に流し込まれた。
「グギャアアアアアアッ!?」
オーガの巨体がびくんと跳ね上がり、全身の血管がどす黒く浮き上がる。今まで散々食べてきたゾンビたち、その一匹一匹が、ようやくここで綺麗に繋がったのだ。私の食歴そのものが武器になって、格上の巨体を内側からぶち壊していく。
ああ、なんて気持ちがいいのかしら。
レベル差10のステータスがあっても、傷口へ直接ねじ込まれたこれだけの量の毒は流石に無理だったらしい。オーガは泡を吹いて倒れ込み、手足の自由を奪われたまま痙攣し始めた。
「さあ、反撃の時間よ。……待望のお食事タイムでもあるのだけれど」
私はゆっくり立ち上がり、舌なめずりしながら、動けなくなったオーガの元へ歩み寄った。
「ヒィッ……! や、やめろ……! 寄るな、バケモノ……!」
先ほどまでの威勢はどこへやら、オーガは恐怖に引き攣った顔で命乞いを始めた。
でも、今の私の目には、もう彼は敵じゃなかった。
極上の赤身肉。
それも、たっぷり量のある、上質なディナーでしかない。
「いただきます!」
私はオーガの分厚い胸板へ飛び乗り、その赤黒い肌へ深く牙を突き立てた。
ブチィッ!
「ギャアアアアッ! 痛い、痛いぃぃっ! オレの、オレの肉が……!」
「……んっ、いいわね。すっごく弾力があるじゃない」
私は目を細めた。
赤身が強く、筋繊維が太くて、噛むたびにぎゅっと旨味が滲む。ゾンビやゴブリンとは格が違う。ああ、やっぱり格上の肉はこうでなくては困るのよね。
「やめてくれぇっ! たのむ、オレの足が、食われてる……!」
「脂は少なめだけれど、そのぶん味が濃いわ。変にぶよぶよしてないのも好感が持てるじゃない」
ぼりぼり、ばきっ。
硬い骨すら【噛みつきLV2】の顎で容易く粉砕できる。噛み砕くたびに、口の中へ濃い肉汁が広がっていく。
「ヒィィィッ! ああ、あああっ! オレの腹が……!」
「内臓も新鮮で臭みが無いわね。いい子だわ。すごく食べやすいじゃない」
意思疎通が可能で、言葉も喋って、自分が食われていることを理解している相手を、生きたまま貪り食っている。
人として越えてはいけない線を、私はとっくに踏み越えているのだろう。
でも、そんなの、今さらじゃない?
一度火のついた食欲は、もう止まらない。私の手と顎は、妙に落ち着いた手つきでオーガの肉を解体し、順序よく、規則正しく、胃袋へ送り込み続けていた。
「あ、ああ……」
うわ言みたいな声を漏らすオーガを見下ろしながら、私は彼自身の腹から引きずり出したまだ温かいモツを両手で持ち上げた。そして、その絶望で濁った目の前で、にっこり笑って頬張ってみせる。
「見て。これ、すっごく美味しいわよ?」
「…………」
その光景を最後に、オーガの目から光が完全に消えた。
私は残された肉塊を、誰に遠慮することもなく、一気に貪り尽くした。
『――オーガ完食!』
『――レベルアップの条件を満たしました』
『――【捕食LV3】に上昇しました』
「ふぅ……ごちそうさま。大満足のディナーだったわ」
膨れたお腹を撫でながら、私は満面の笑みを浮かべた。
格上を、文字通り食い殺した達成感。
それに、何より極上の肉を腹いっぱい食べられた幸福感。
しかも、食べた瞬間に分かる。これはただ美味しかっただけじゃない。格上の肉だけあって、身体の芯へ入ってくる感覚が明らかに違うのだ。腹が満たされるだけじゃなく、全身がじんわりと熱を持って、内側から力が漲ってくる。ボス飯って、やっぱり質が違うのよね。今後はもっと意識して狙っていってもいいかもしれないわ。
「さて……そろそろ本当に時間ね」
私は満足げに伸びをすると、システムメニューからログアウトのボタンを選択した。
極上のディナーを平らげた直後だというのに、ログアウトを意識した途端、胸の奥から重たい現実感が這い上がってくる。
「……あーあ。ログアウトして目が覚めたら、また明日から冷たいもやし生活なのよねぇ……」
さっきまでの高揚が、一気にしぼんでいく。
極上のオーガ肉の余韻と、現実のもやし。その落差がひどすぎて、笑うしかないじゃない。
それでも――まあ、いいわ。
現実がどれだけひもじしかろうと、明日になれば、私はまたここへ戻ってくる。大樹海は逃げないし、もっと美味しい獲物だって、きっとまだいくらでもいる。大鹿だって残っているし、その先だってあるでしょう。
そう思えば、明日を迎える理由くらいにはなる。
現実のひもじさを思い出しながら、私の意識はゆっくりと、仮想現実の世界から遠ざかっていった。




