第52話
総理は、彼女が考えているのか、食事の配分を計算しているのか、一瞬判断できなかった。しかし次の言葉で、少なくとも話の核は届いていると分かった。
「……私の仕事は、食べることですか」
「食べることを含みます。ただし、正確には、食べることで社会の害を減らすことです。魔物、迷宮、有害物、放置すれば他者の幸福を脅かすもの。それをあなたの能力で処理してもらいたい」
「幸福」
その単語で、紬の表情がほんの少し歪んだ。
彼女のレポートには、善性への憧れ、社会性への劣等感、コミュニケーションへの敗北感が何度も記されていた。だが、本人の善悪判定は壊れていない。むしろ真っ当だからこそ、自分が真っ当に動けないことへ苦しんでいる。
総理は、そこで一歩踏み込んだ。
「玉織さん。私は、あなたの人格を全面的には信用しません」
紬の箸が止まった。
側近たちの空気も固まった。
だが、総理は続けた。
「あなたには、他人の食べ物を奪う癖がある。都合が悪いと逃げる。分からないことを分かったふりで流そうとする。面倒な説明を避ける。自分の空腹を、他人の事情より優先することがある。これらは、庇い立てすべき美徳ではありません」
「……でしょうね」
紬は小さく言った。
怒らなかった。傷ついてはいるが、怒りはしない。自分で分かっていることを、国のトップから言われた顔だった。
「ですが、私はそこだけを見て、あなたを切り捨てるつもりもない。クズがなぜ悪なのか。極論すれば、他者の幸福を邪魔するからです。ならば、あなたの能力と欲求を、他者の幸福を支える方向へ制度として噛み合わせることができれば、少なくともその瞬間、あなたは社会にとって悪として機能しない」
紬は、今度こそ弁当から視線を上げた。
「……私は、善人になれるって話ですか」
「いいえ」
総理は即答した。
「あなたを善人だと持ち上げるつもりはありません。そんな嘘は、あなたにも、この国にも不誠実です。私が言っているのは、善人でなくとも仕事はできる、ということです。他者に迷惑をかけるだけだった性質でも、配置と条件を変えれば、他者を助ける機能になり得る」
紬はしばらく黙っていた。
その顔には、理解と反発と安堵と屈辱が、薄い膜のように重なっていた。褒められているのではない。無条件に肯定されているのでもない。だが、不要だとも言われていない。
彼女に必要なのは、たぶんそこだった。
◇
人間の価値は、有能さによって決まるのか。
総理は、そこで一瞬だけ、その問いを自分の内側へ向けた。
いま自分は、玉織紬の能力を見ている。迷宮を食い、魔石を回収し、核廃棄物すら処理し得る便利な機能を見ている。社会に役立つから、制度へ組み込もうとしている。
では、役に立たない人間には価値がないのか。
違う。
それだけは違う。
そんな理屈を認めてしまえば、弱者の必死の努力も、病床で生きる者の一日も、誰かを愛するだけの時間も、社会へ数字を返さない祈りも、すべて無価値の側へ送られてしまう。
国家は、能力のある者だけを国民として扱うのではない。
だが、国家が仕事を依頼する時には、能力を見る。
存在の価値と、任せる仕事の適性は違う。
そこを混ぜてはならない。
無能だから見捨てるのではない。 有能だから人間として価値があるのでもない。 ただ、有能な部分があるなら、その力を社会の中で安全に、正当に、本人の尊厳を壊さず使う制度を作る。
それが政治の仕事だった。
存在の無条件肯定は、総理の仕事ではない。
玉織龍や河村澪のような、人間の尺度から少し逸脱した善意の持ち主ならば、それを言えるのかもしれない。
玉織龍。
公安最高戦力。玉織家の異能者。表の顔は穏やかで理知的な公務員。だが、総理は知っている。あの男もまた、壊れている。
最大多数の最大幸福のため、独裁者を殺した男。命を奪うことを最大の痛みとして理解しながら、それでも国家と世界のために引き金を引いた男。正義のために殺したからといって救われるわけではない。むしろ、善性が本物だからこそ、龍は壊れた。廃人同然になり、食欲も、睡眠も、性欲すら失い、心が死んだようになった時期がある。
そして、それでも戻ってきた。
戻ってきて、なお、他者の痛みを見捨てない。妹がどれだけクズで、迷惑で、異常であっても、その尊厳が雑に扱われることだけは許さない。怪物と呼ぶな、と静かに怒る。能力ではなく、肉体ではなく、まず民間人として扱えと言う。
狂っている。
それは善だ。だが、普通の人間が容易に真似できる善ではない。
河村澪。
人類最強の勇者。現在、政府はその所在を把握できていない。だが、報告書と断片的な証言だけで、総理はその異常性を理解していた。
両親に庇われて生き残り、その命の価値を世界へ叩きつけなければならないという狂気に囚われた女。最大多数の最大幸福に取り憑かれ、紛争地帯で敵を殺し続け、殺した命の罪悪感を墓標のように心へ積み上げ、それでも死んで楽になることを自分に許さなかった女。
壊れることすら許さず、壊れたまま前進した純人間の怪物。
魔王が現れた時も、彼女はごめんなさいと心で絶叫しながら魔王軍を殺したのだろう。命を愛していたからこそ、命を奪う自分を許せず、それでも世界の幸福のために刃を振るったのだろう。
あの二人は、善の側にいる。
だが、人間の尺度からは明らかに逸脱している。
だからこそ、問答無用で肯定するなどという、いかなる善人にも難しいことをするのだろう。生きているだけで価値があると、相手がどれだけ泥にまみれていようと、自分の痛みごと抱きしめるように言えるのだろう。
総理は、その境地にはいない。
そこへ立つつもりもない。
政治は、もう少し現実的で、もう少し冷たい。
だが、冷たいからこそ用意できる救いもある。
役割。 報酬。 制度。 契約。 食事。 休憩。 責任の範囲。 失敗時の対応。 成果への評価。
愛ではなく、雇用条件で埋められる穴もある。
「玉織さん」
「……はい」
「あなたは、社会の歯車になりたいと聞いています」
紬は、露骨に嫌そうな顔をした。
図星だった。
「龍兄、ほんと余計なことばっかり……」
「彼から聞いたわけではありません。あなたの行動と記録を見れば分かります。公務員試験を受け、工場で働き、配信で社会と接続しようとし、渋谷では結果的に多くの人を救った。やり方は酷い。雑で、歪で、周囲への迷惑も多い。それでも、あなたはずっと、自分がどこかへ噛み合う場所を探している」
紬は俯き、残っていた米をゆっくり食べた。
返事の代わりのようだった。
「ですから、政府として提案します。あなたを、怪異災害および高位ダンジョン処理における特別協力者として正式に登録したい。あなたの食欲を仕事にする。あなたの捕食能力を、国民の安全と資源回収へ使う。その対価として、食事、報酬、休憩、身分上の記録を与える」
「……」
紬は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと尋ねた。
「職歴に、なりますか」
その問いだけは、弁当のついでではなかった。
口元の米粒も、合わないスーツも、泳ぐ視線も、その瞬間だけは全部後ろへ退いた。
玉織紬は、本当に、それが欲しかったのだ。
戦術級兵器に匹敵する身体能力を持ち、迷宮を食い、戦車砲を飲み込む女が、いま総理大臣との交渉で一番欲しがっているもの。
勲章ではない。
英雄称号ではない。
怪物としての畏怖でもない。
履歴書に書ける何か。
自分が働いたと、社会の側が認めた記録。
そのあまりの切実さに、総理は一瞬だけ言葉を失いかけた。
だが、迷わず答えた。
「なります」
紬の指が、重箱の縁をきゅっと掴んだ。
「正式な協力記録として残します。あなたが働いた事実を、国が記録する」
紬は、唇を少しだけ噛んだ。
「ご飯は」
「出します。かなり」
「布団は」
「必要なら用意します」
「会議は」
「短くします」
「偉い人がたくさんいる場所は」
「避けます。どうしても必要な場合は、食事と休憩を挟む」
「分からない時、分かってないって言っても、怒られませんか」
「怒りません。ただし、分かったふりをして事故が起きたら困るので、そこは正直に言ってください」
「……善処します」
「その言い方は少し信用できませんね」
「すみません。分からない時は、分かりませんと言います。たぶん」
「たぶんを外せるよう、担当者をつけます」
紬は、そこでほんの少しだけ笑った。
卑屈で、情けなくて、それでもどこか救われたような笑いだった。
「……かなり前向きです」
総理は頷いた。
この女は危険だ。迷惑だ。クズな部分もある。国家として恐れるべき存在でもある。
それでも、国民だった。
こちらが怯えるように、彼女もまたこちらに怯えている。政府という社会性の塊へ胃液を吐くほど怯えながら、それでも食事と職歴と役割のために、合わないスーツを着てここに座っている。
ならば、国家がやるべきことは一つだった。
「では、玉織紬さん。日本国政府は、あなたに正式に依頼します」
総理は、まっすぐに言った。
「愛しき国民のために。そして、あなた自身もまた愛しき国民として、この国の怪異災害対応に力を貸してください」
紬は、しばらく黙った。
目線は、やはり合わなかった。
けれど、今度は逃げるような逸らし方ではなかった。考えて、噛み砕いて、自分の胃袋と劣等感と社会への憧れの全部に照らし合わせている顔だった。
やがて彼女は、残っていた弁当箱を丁寧に空にし、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
それから、総理へ向かって頭を下げた。
「……やります。たぶん、私は立派な人間ではないですし、善人でもないですし、色々とご迷惑をおかけすると思います。というか、絶対かけます」
「そこは断言するんですね」
「はい。私なので」
紬は少しだけ真面目な顔をした。
「でも、食べることならできます。食べて、処理して、魔石を持って帰って、それで誰かが助かるなら……やります。社会の歯車っぽいので」
その答えは、英雄の宣誓には程遠かった。
気高くもない。美しくもない。欲望と不安と打算が混ざっている。
だが、総理にはそれで十分だった。
泥でできた歯車でも、噛み合う場所があるなら回る。
そのための制度を作ることが、政治の仕事なのだから。
「ありがとうございます」
「いえ……あの」
「何でしょう」
「おかわり……ありますか?」
総理は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、国家安全保障上おそらく重要な判断として、控えていた職員へ視線を向けた。
「追加を」
紬の顔が、ぱっと明るくなった。
その瞬間だけ見れば、本当にただの、腹を空かせた不器用な女だった。
だが、その胃袋は迷宮を食う。
その身体は戦車砲を飲む。
その性格は、決して善良とは言い切れない。
それでも。
命を賭して守るべき、いとしき国民だった。




