第50話
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玉織紬に関する総合レポート
――食屍姫化後の身体・精神・社会適応性評価――
一、総評
玉織紬は、二十六歳女性、日本国籍を有する民間人である。
ただし、現在の肉体能力、代謝構造、再生能力、捕食適性、対怪異戦闘能力を通常人類の尺度に当てはめることは不可能である。少なくとも肉体面において、彼女はすでに「人間の範疇」から大きく逸脱している。
一方で、これをもって即座に「怪物」と断じることは、運用上も倫理上も不適切である。
玉織紬本人は、自身が怪物であるか否かについて、ほとんど関心を示していない。彼女にとって重要なのは、自分が人間か怪物かではなく、社会の歯車になれるか、役に立てるか、食べられるか、眠れるか、そして、自分が憧れる善性や社会性へ、少しでも近づけるかどうかである。
つまり、玉織紬という個体の核心は「怪物性」ではない。
彼女は、怪物じみた身体を持ちながら、怪物であることに悩むのではなく、「社会の役に立てないこと」「まともな人間のように振る舞えないこと」「歯車になれないこと」に苦しむ存在である。
この点を誤認すると、彼女への接触方針は必ず失敗する。
玉織紬は、哀れな怪物であり、人間のクズであり、遠目で見るには面白い珍獣であり、同時に、どうしようもなく社会の歯車に憧れている泥の歯車である。
どれか一つの評価だけでは、彼女を捉えることはできない。
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二、基本身体データ
現在確認されている玉織紬の標準時データは以下の通りである。
身長は百六十九センチ。
体重は六十一キロ。
体温は標準状態で三十九度前後。
血液型はA型。
スリーサイズは、B九十一、W六十三、H九十三。
ただし、これらの数値はいずれも固定値ではない。
食屍姫化後の玉織紬は、【身体変性】により、体格、筋肉量、脂肪配分、骨格、胸部サイズ、内臓配置、体温、血流、皮膚強度、歯牙構造、心臓数、脳機能補助領域まで、一定範囲で任意に変更できる。
したがって、上記の数値は「本人が日常生活上、何となく落ち着けている標準値」にすぎない。
肉体構造は極めて異常である。
心臓は通常時で七つ。
脳は主脳一つに加え、補助脳と呼ぶべき制御器官を四つ持つ。
細胞単位で捕食器官に近い性質を有しており、体液、肉片、切断部位が独自に捕食・再生・同化を行う傾向がある。
血液は外気に触れると高腐食性および高捕食性を示し、通常容器では保持できない。
胃酸は王水、強毒、放射性物質、金属、樹脂、機械類、怪異性物質を分解対象に含む。
胃だけではなく、食道、腹部、四肢、心臓、場合によっては皮膚表面にも一時的な口腔形成が可能である。
テロメア構造は通常の老化モデルから逸脱しており、少なくとも現時点では加齢劣化の兆候が確認できない。老化および寿命の概念については、ほぼ克服している可能性が高い。
また、プラナリア的再生特性を有している。頭部を縦割りにした場合、死亡ではなく、二つの頭部へ分裂する可能性がある。これは実験すべきではないが、現在の再生構造を見る限り、否定できない。
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三、身体能力評価
玉織紬の肉体能力は、戦術級兵器相当と評価される。
通常時の握力は、計測器破壊のため正確な上限測定不能。推定では片手で二百トン以上の圧搾力を発揮可能。
短時間の全力圧縮では、特殊合金製装甲を紙のように変形させる可能性がある。
挙上能力は、通常状態で五百トン級重量物を実用的に保持可能。
【過剰代謝】併用時には、八百トンから一千二百トン級まで短時間持ち上げ可能と推定される。
瞬間的な馬力換算では、通常戦闘時で十万から三十万馬力相当。
捕食直後、かつ【捕食活性】が積み上がった状態では、瞬間的に百万馬力級へ達する可能性がある。
地上移動速度は、通常走行で時速二百から三百キロ。
戦闘機動時には時速五百キロ前後。
短距離の爆発的加速では、時速八百から九百キロ相当の挙動を示す。
ただし、本人の制動能力、周辺被害、路面破壊を考慮すると、都市部での全力移動は現実的ではない。
水中移動能力も高い。
通常泳法で時速百五十キロ前後。
食屍姫としての身体変性を併用すれば、魚雷に近い水中突進が可能であり、二百ノット級の瞬間加速も否定できない。
耐久性については、通常銃火器はほぼ無効。
対物ライフル級でも致命傷には至らず、損傷後の再生速度が極めて高い。
戦車砲弾については、直撃時の耐久だけでなく、舌や口腔による捕食迎撃が可能である。
高熱、低温、毒、酸、放射性物質、感染性物質に対する抵抗力は常識外であり、核汚染物質を保管ケースごと摂食しても、本人の表現では「胃もたれ」で済む。
この点だけを見れば、彼女は完全に化け物である。
だが、繰り返すが、本人にとってそこは重要ではない。
彼女は「私は化け物かもしれない」では苦しまない。
「私は社会の歯車になれないかもしれない」で苦しむ。
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四、食欲・代謝・捕食特性
玉織紬の最重要特性は、異常な暴食性である。
人外化以前、成長期の段階で、食費は月五百万円規模に達していたとされる。これは一般家庭の家計を破壊する水準であり、玉織家の経済力がなければ、本人は十代の時点で栄養失調または犯罪的摂食行動により破綻していた可能性が高い。
食屍姫化後の現在は、そのさらに十倍以上の摂食要求を示す。
一日あたりの基礎維持カロリーは、最低でも三百万キロカロリー以上。
高負荷戦闘後、再生後、【飢餓咆哮】使用後、または【存在捕食】による成長直後は、一千万キロカロリー単位まで跳ね上がる可能性がある。
通常食で賄うことは現実的ではなく、怪異、魔物、金属、車両、危険物、魔石関連資源などを含む特殊補給が必要となる。
食べられるものの範囲は極端に広い。
米、肉、魚、菓子、料理、野菜など通常食品はもちろん、鉄、樹脂、ガラス、木材、毒物、酸、車両、電化製品、建材、砲弾、魔物、怪異、霊的存在、魔法的攻撃まで摂食対象となる。
摂食物は極めて高速で分解・吸収される。
食べたものは、即座にエネルギー、筋肉、骨格、歯牙、再生資源、耐性情報、存在強化へ変換される。
特に【存在捕食】の影響により、捕食対象の一部は恒久的なステータス上昇として蓄積される。
このため、玉織紬は戦闘中に食べれば食べるほど強くなる。
敵が多い戦場、死体が多い戦場、食材が多い環境、民間施設や食料倉庫が近い場所では、彼女は実質的な無限回復・無限強化に近い挙動を示す。
逆に、絶食状態では判断力が低下し、衝動性、被害妄想、攻撃性、摂食対象の拡大が顕著になる。
空腹時に重要交渉を行うことは危険であり、国家運用上、玉織紬との接触は必ず食後、あるいは補給中に行うべきである。
◇
五、戦闘スタイル
玉織紬の戦闘スタイルは、人間の武術、兵器運用、戦術行動のいずれとも異なる。
分類するならば、「捕食型怪異制圧戦闘」である。
基本方針は単純である。
近づく。
噛む。
食う。
再生する。
強くなる。
さらに食う。
だが、実態は単純ではない。
全身に口腔を形成し、複数方向から同時捕食する。
腕を刃、槍、触手、酸性スライム、拘束器官へ変化させる。
胃酸由来の【濃縮食毒】を注入する。
【断界歯牙】により装甲・結界・骨格・霊的防御を噛み砕く。
【如何物食い】により魔術や毒、攻撃そのものを食う。
【飢餓咆哮】により、圧縮した飢餓をブレスまたはビーム状に放つ。
【過剰代謝】により、短時間で身体出力を急上昇させる。
【捕食抵抗】により、毒・呪い・精神干渉・汚染・状態異常へ高い耐性を示す。
敵にとって最悪なのは、彼女に中途半端な損傷を与えることが、むしろ捕食と再生の起点になり得る点である。
腕を切れば、切断面に口が生える。
心臓を抜けば、心臓が口を開く。
腹を裂けば、腹部の口が敵を飲み込む。
肉片を飛ばせば、それが独自に捕食を開始する可能性がある。
加えて、分体である子紬を生成した場合、戦域全体の捕食効率はさらに跳ね上がる。子紬が食べた分も本体へ回復・強化として還元されるため、市街地や集団戦では特に危険である。
現実の特別テスター全体で見ても、玉織紬は現時点で最強個体と見なしてよい。
最高レベル百四十前後の環境において、【存在捕食】による恒久強化込みならば、実質レベル百八十相当の戦闘力を持つと推定される。
ただし、精神面まで怪物と断定するのは誤りである。
彼女は痛みに弱い。
恐怖にも弱い。
特に悪意を伴う人間関係の暴力には、肉体性能に反して深く傷つく。
一方で、正当性のある暴力や、家族内制裁、あるいは自業自得と本人が納得できる攻撃には異様にタフである。妹にガソリンをかけられ火あぶりにされても、翌日には妹のSuicaを盗んで餃子を食べに行く程度には頑丈で図太い。
しかし、中学時代の根性焼きのような、悪意と集団性を伴う暴力には本気で傷つき、吐く。
この差異は大きい。
肉体は怪物でも、心は悪意を受け流せるほど怪物ではない。
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六、知能・社会性・職業適性
玉織紬のIQ自体は低くない。
筆記試験、作文、ゲーム理解、食事戦略、捕食効率化、仕様の穴を突く発想、身体変性の応用、戦場での即興判断を見る限り、認知能力そのものはむしろ高い部類である。
問題は、その能力配分が致命的なまでに社会適応へ向いていない点である。
高校時代、スマホを操作するクラスメイトの背後に無言で立ち、画面を覗き込むことが多かったという証言がある。元同級生の一人は「仲良くしようとしたのだろう」と推察している。つまり、本人には接近意思や関係形成欲求がある。だが、その出力方法が壊滅的である。
製氷工場に二年ほど勤務した経歴があるが、使えなさすぎていじられキャラとなり、二年間揶揄され続けた末に自主退職している。
ライン工のバイトでは、勤務中ずっとトイレへ籠もっていたにもかかわらず、給与はしれっと全額請求している。
公務員試験も受験しており、筆記と作文はそう悪くなかったが、面接に黒パーカーとスニーカーで現れ、途中でその異常性に気づいて自虐と謝罪を連打した。集団面接では理由不明の気絶を起こしている。
このことから、彼女は「働く気がないだけ」ではない。
働きたい。
社会の歯車になりたい。
安定した公務員になりたい。
必要とされたい。
そういう願望は本物である。
ただし、現実の社会が要求する面接、空気読み、継続的労働、対人調整、時間管理、報告連絡相談、服装判断、場に応じた振る舞いが、ことごとく苦手である。
異常な暴食性と異常な社会不適合性。
このどちらか片方だけなら、まだ救いようがあった可能性がある。
だが、玉織紬は両方を持ってしまった。
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七、人格評価――クズ性について
玉織紬を評価する際、同情的側面だけを強調することは重大な誤認につながる。
彼女は哀れである。
生まれつきの異常な食欲と、社会適応困難を抱え、向いていないものへ憧れ続け、失敗と孤立を重ねてきた。
だが同時に、玉織紬は普通にクズである。
これは蔑称ではなく、行動評価上の分類である。
家庭内窃盗総額は確認されている範囲で二百万円以上。
冷蔵庫への無断襲撃、家族名義の金銭使用、他人の食料の横領、備品の勝手な売却、漫画や私物の無断換金など、身内への加害は継続的かつ反復的である。
赤の他人の結婚式へ何食わぬ顔で紛れ込み、祝宴の料理を貪った事例もある。
本人はそれが悪いことだと理解している。
だが、理解が行動改善へ結びついていない。
ここが重要である。
玉織紬は善悪を知らない怪物ではない。
倫理を理解できない獣でもない。
むしろ善悪判定はかなりまともであり、何が迷惑で、何が悪で、何が社会的に許されないかを理解している。
にもかかわらず、やる。
空腹、怠惰、衝動性、自分への甘さ、被害者意識、社会への恐怖が複合し、「悪いと分かっているが食う」「迷惑だと分かっているが盗む」「叱られると分かっているがやる」という形で表出する。
したがって、支援は必要だが、甘やかしは危険である。
配慮は必要だが、無制限の許容は搾取される。
食事提供は必要だが、行動管理も同時に必要である。
玉織紬は、傷ついた存在であると同時に、周囲へ損害を与えてきた存在でもある。
◇
八、愛着・精神構造
カウンセリング結果において、玉織紬は「愛されること」への頓着が薄く、「愛すること」への執着が強い傾向を示している。
この点は、幼少期の家庭環境が比較的良好であったことと無関係ではないと考えられる。
彼女は、少なくとも幼少期において、完全に愛情を欠いた環境で育ったわけではない。玉織家は異常な家ではあるが、家族からの関心、保護、制裁、世話、怒り、心配、面倒を見る姿勢は存在していた。つまり、彼女は「自分が愛される可能性」そのものを完全に渇望するほど飢えて育ったわけではない。
そのため、彼女の根本的な飢えは「愛されたい」よりも、「自分も誰かをまともに愛せる側へ行きたい」に近い。
愛することには執着する。
誰かの幸福を願えること。
誰かのために自然に動けること。
他者の痛みに反応できること。
善性を外へ向けられること。
そういう能力への憧れが、彼女の中には強くある。
河村澪や玉織龍のような、善性の向け方が異常な人間への嫉妬は、この構造から生まれている。彼女は「愛される側」になりたいだけではない。「愛する側」になりたいのだ。
ただし、現実の玉織紬は、そこへ届かない。
届かないからこそ、嫉妬し、自虐し、ふて腐れ、食べ、寝て、また少しだけ足掻く。
◇
九、結論
玉織紬は、国家にとって極めて有用で、極めて危険で、極めて扱いづらい民間協力者である
肉体は人間の範疇にない。
戦闘力は戦術級兵器に匹敵する。
捕食可能範囲は異常。
耐久、再生、代謝、対怪異適性はいずれも最高水準。
特別テスター全体でも最強個体と見なしてよい。
一方で、精神は万能ではない。
社会性は低い。
コミュニケーション能力は不安定。
空腹時の衝動制御に問題がある。
人格面には明確なクズ性があり、善悪を理解しながら迷惑行為を繰り返す傾向がある。
だが、それでも彼女は、社会の歯車になりたがっている。
これは重要である。
玉織紬は、世界を壊したいのではない。
社会から離れたいのでもない。
むしろ、どうしようもなく社会へ接続したがっている。
食べること。
強くなること。
魔石を持ち帰ること。
感謝されること。
ご飯をもらうこと。
眠ること。
その歪な循環の中でなら、玉織紬は社会の役に立てる可能性がある。
彼女は、哀れな怪物である。
人間のクズである。
遠目で見るには面白い珍獣である。
そして、泥でできた歯車である。
綺麗な歯車ではない。
精密機械には向かない。
放っておけば周囲を汚し、噛み合わせを壊し、油の代わりに胃液を撒き散らす。
だが、適切な場所へ、適切な補給と、適切な制限のもとではめ込めば、回る。
そして、その回転は、現代国家が処理できない怪異災害を食い止めるだけの力を持つ。
玉織紬を扱ううえで必要なのは、崇拝ではない。
排除でもない。
過剰な同情でも、便利な兵器扱いでもない。
必要なのは、保護と警戒。
承認と制限。
食事提供と行動管理。
そして、彼女が「怪物かどうか」ではなく、「どのように社会の歯車として回れるか」を見誤らないことである。
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総理大臣官邸、地下。
特別防空壕を改修した対接続現象対策会議室には、分厚い報告書をめくる紙の音だけが残っていた。
「……以上が、玉織紬という生物の報告書、か」
総理が静かに呟くと、室内の何人かが小さく息を呑んだ。
生物。
その言葉を選んだ自分に、総理自身も少しだけ苦味を覚えた。 人間、と言い切るには、肉体の事実があまりにも重い。 怪物、と切り捨てるには、報告書の後半に並ぶ人間臭さがあまりにも生々しい。
自業自得の悪事。 社会不適合。 食欲。 善性への憧れ。 歯車願望。 中学時代の傷。 公務員試験の失敗。 製氷工場での退職。 面接で気絶した記録。 それでも、役に立ちたいという執着。
その全部が、同じ一人の女の中に詰まっている。
会議室の外から、かすかな声が聞こえた。
『……だから来てって言ってるでしょう!? いや野暮用って何よ! 私が今から総理と話すのよ!? 国家よ国家! こっちは社会性の怪物と戦うところなのよ!?』
防音扉越しでも分かるくらい、相当に慌てている声だった。
誰かに電話しているらしい。
『ちょっと! 切らないで! 野暮用って何!? 私より大事な野暮用って何なのよ!? いや、別に私が大事とは言ってないけど! でも来なさいよ! 精神的救援物資として! ……切った!? あの女、切ったわね!?』
数秒の沈黙。
次いで、扉の向こうから、布か何かをばふばふ叩くような音がした。
『終わった……終わったわ……私、総理大臣の前で胃液吐いて床を溶かす未来しか見えない……。龍兄どこ行ったのよ……村山君もいないし……ああああ、社会性が濃い……壁の向こうからもう濃い……』
内閣情報調査室長が、わずかに視線を落とした。
「……かなり怯えていますね」
「こちらも同じだ」
総理は言った。
それは本音だった。
怖い。
当然だ。 怖くないはずがない。
扉一枚の向こうにいる女は、飢えれば車両を食う。 戦車砲を飲み込み、迷宮を噛み砕き、怪異を補給食のように処理する。 機嫌を損ねればどうなるか、空腹にすればどうなるか、国家として想定しなければならない。
玉織龍は言った。 彼女は民間人だ。 怪物扱いするな、と。
総理は、その言葉を軽んじるつもりはなかった。
だが、国家の元首として、履き違えるわけにもいかなかった。
少なくとも、肉体に限れば、玉織紬は怪物である。
それを認めないことは、優しさではない。 現実から目を逸らすことだ。 国民を守る立場の人間が、それをしてはならない。
戦術級兵器に匹敵する個体を、ただの繊細な女性として扱うわけにはいかない。 摂食対象が戦車や核汚染物に及ぶ存在を、通常の民間協力者と同じ枠へ押し込めるわけにはいかない。 危険は危険として評価する。 怪物性は怪物性として記録する。 それを怠れば、守れるはずの命を守れなくなる。
しかし。
それでも。
玉織紬は、日本国民だった。
この国で生まれ、この国で失敗し、この国の学校で傷つき、この国の工場で働こうとして挫折し、この国の公務員試験を受け、この国の家族へ迷惑をかけ、この国の食べ物を食い荒らし、この国の渋谷で怪異を食い止めた。
どうしようもなく厄介で。 どうしようもなく危険で。 どうしようもなく手間がかかる。
それでも、国民である。
国家にとって、国民とは、優秀な者だけを指す言葉ではない。 善良な者だけを指す言葉でもない。 扱いやすい者、役に立つ者、礼儀正しい者だけを守るなら、それは国家ではない。
迷惑な国民もいる。 失敗する国民もいる。 社会に馴染めない国民もいる。 とんでもない力を持ってしまった国民もいる。
それでも、守る対象であることに変わりはない。
防衛大臣が、低く言った。
「総理。率直に申し上げます。危険です」
「分かっている」
「彼女を信頼しすぎるのは危うい。かといって、敵に回すのは論外です」
「それも分かっている」
「ならば、どう扱いますか」
総理は、報告書を閉じた。
厚みのある紙束が、重い音を立てる。
「怪物として警戒する」
室内の空気が引き締まる。
「そして、国民として遇する」
誰もすぐには返答しなかった。
「玉織龍補佐官の言葉は正しい。彼女をただの兵器として扱えば、我々は一線を越える。だが同時に、彼女の危険性を見誤れば、国民を守れない。だから両方だ。警戒し、備え、記録し、制御策を用意する。その上で、彼女を一人の国民として扱う」
総理は扉を見た。
向こうではまだ、玉織紬が小さく騒いでいる。
『……いや、帰りたい。帰りたいけど、ご飯出るって聞いたし……でも総理……総理って何話せばいいの? 支持率? 税金? 年金? 全部怖い……』
側近の一人が、思わず小さく笑いかけて、すぐに表情を引き締めた。
総理は咎めなかった。
笑えるなら、まだいい。 完全な怪物としてしか見えなくなったら、人はもう笑えない。
「向こうも怯えている」
総理は言った。
「我々が彼女に怯えているように、彼女もまた、我々に怯えている。ならば、最初に示すべきものは威圧ではない」
「では、何を」
「国家の覚悟だ」
総理はゆっくりと立ち上がった。
怖くないわけではない。
扉の向こうにいるのは、現代国家の常識では測れない存在だ。 一歩間違えれば、会談ではなく災害になる。 国家の元首として、それを軽視することはできない。
だが、恐怖だけで相対するわけにもいかない。
相手は化け物だ。 少なくとも、肉体は。
そして同時に、愛しき民だ。
守るべき国民だ。
必要なら、国家は命を賭ける。 国民を守るために。 国民から、国民を守るためにも。 そして時には、国民自身が自分を怪物としてしか扱えなくなることからも。
総理は、扉へ向かって歩き出した。
側近たちが姿勢を正す。 警備が緊張する。 研究員が息を止める。
扉の向こうで、玉織紬が情けない声を上げた。
『あっ、やだ、足音する。来た。絶対来た。総理の足音って何? 音に責任感がある……無理……』
総理は、わずかに口元を緩めた。
そして、胸の内で静かに呟いた。
さあ来い。
化け物。
そして、命を賭して守るべき、いとしき国民よ。




