第45話
3章開始です。よろしくお願いします。多分最終章です。
夜。
焚き火の前で、私は丸焼きの猪へかぶりついていた。
じゅわっ、と脂が弾ける。 皮の焦げたところはぱりぱりで、中の肉はまだ熱くて、噛むたびに野生そのものみたいな濃い旨味が口いっぱいへ広がった。塩なんて振っていない。胡椒も無い。ソースもタレも無い。あるのは火と肉と、私の顎だけだ。
「んむっ……うん。やっぱりイノシシは、雑に焼くだけでもだいぶ偉いわね……」
もぐ、もぐ、むぐっ。 ごくん。
私は骨付きの脚を一本まるごと平らげてから、ふう、と息を吐き頭にかぶりつく。 でも、そこで終わらないのよね。 咀嚼と嚥下を繰り返しながらお腹へ手を当てる。熱い。重い。ちゃんと入っている感覚はある。あるのだけれど――
ぐううううううううううう。
「……でしょうね」
お腹が鳴った。
夜の無人島へ、情けないくらい素直な空腹音が響く。 焚き火の向こうで、食い散らかした猪の骨と、半分齧ったヤシの実と、よく分からない南国の果物の皮がごろごろ転がっていた。 三日目の島だ。 だいぶ、終わっている。
私は焼けた肉をまた一口ちぎりながら、三日前のことを思い出した。
◇
朝。
冷蔵庫へチェーンが巻かれていた。
意味が分からなかったわね。
いや、意図は分かるのよ。 分かるのだけれど、分かった上で納得はできない、という話だわ。 だって、冷蔵庫でしょう? 人類が生み出した“食べ物を安全に貯蔵しておく夢の箱”でしょう? それへチェーンって何よ。 囚人かしら、私のご飯は。
「……は?」
起き抜けの私は、しばらくその場で固まった。 寝癖のついた頭。空っぽの胃袋。機嫌としては最悪寄り。 そんな状態で目の前へ突きつけられたのが、“冷蔵庫は開けさせません”という強い意志だったのだ。
しかも、ママと朔の字で張り紙までされていたのよね。
『朝ごはんまで待て』 『勝手に開けたら島流し』
「いや、待てないでしょう」
私は冷静にそう結論づけた。
だって、朝ごはんまで待てる胃袋なら、そもそもチェーンなんてされていないじゃない。 そこを信頼しないくせに我慢だけ要求するの、理屈としてだいぶおかしいのよ。 なので私は、合理的に怒った。
冷蔵庫を持ち上げた。 そして、下からバリバリ食った。
チェーンごと。 中身ごと。 ケースごと。 卵も牛乳も肉も野菜も、プラスチックのトレーもまとめて。
「っっっこの……! チェーン巻いとけば安全だと思ったら大間違いなのよぉぉぉっ!!」
我ながら、かなり理性のない食べ方だったと思う。 でも、あの瞬間の私にとっては、あれがもっとも正しい朝の迎え方だったのだわ。 チェーンを外すという発想? なかったわね。 だって、冷蔵庫そのものを食べれば、中身も一緒に解決するでしょう。
「うっま! 冷蔵庫と食材のマリアージュ! これならいくらでも食えるわ!」
まあ、当然。
次の瞬間には、玉織家対害獣奥義【隠呀王砲】が二発飛んできたのだけれど。
ママと朔。 左右から。 口元へ黒い光を収束させて。 何の躊躇いもなく。
「ちょ、待っ――」
ごうっ、と黒い奔流が私を呑んだ。
視界が真っ黒になる。 景色が消し飛ぶ。 床も壁も天井も、私も全部まとめて“向こう側”へ押し流されるような、雑で強引で、でも妙に手慣れた感覚。
庭が流れ、空が飛び、海が流れ、島に流れる。
そして気づいた時には、私は無人島の浜辺へ頭から埋まっていたのである。
「……島流しって、比喩じゃなかったのね」
砂を吐きながらそう呟いた時、遠くの空で鳥が鳴いた。 あと、お腹も鳴った。
反省は、まあ、したわよ。 一応ね。 でも正直に言うと、それ以上に思ったのは――
「お腹空いたわねぇ……」
だった。
◇
とはいえ、冷蔵庫襲撃の1日前の私は、わりと浮かれていたのよね。
だって、迷宮から人を助けたのだもの。 渋谷で、だいぶ滅茶苦茶な絵面ではあったけれど、それでも結果的にはかなりの人数が助かったらしい。 私としては、戦って、食って、通りすがりに何人か救ったくらいの認識だったのだけれど、世間的にはだいぶ大事件として扱われていたみたいだわ。
ママには、めちゃくちゃ撫でられた。
あれは、嬉しかった。 かなり嬉しかった。 頭頂部から背中にかけて、よしよし、よくやった、えらいえらい、みたいな手つきで何度も撫でられて、私は表面上こそ「うへへ……べ、別に当然でしょう」みたいな顔をしていたけれど、内心ではだいぶにやけていたのよ。 何なら、もう一回くらい渋谷を救ってもいいかな、くらいには機嫌が良くなったもの。
朔からも、
『無駄に有名になったのはクソだけど、まあ……やったこと自体は、別に悪くなかったんじゃねえの』
みたいな、賞賛なのか罵倒なのか判別に困るコメントをもらった。 でも、あれはあれで褒めていたわね。 あの女、心の九割九分が攻撃性でできているくせに、たまに一分だけ人の形に戻るのよ。気味が悪い。
柚姉はストレートに褒めた。 パパも褒めた。 俊くんなんて、ほとんど「すごい! さすが紬姉!」を百回くらい言っていた気がする。 龍兄は一番大喜びだった。
全力で抱きついてきた。
キモかったから逃げた。
いや、だって本当に嫌でしょう。 あの男、家族でなければたぶん逮捕されている種類の距離感なのよね。 喜ぶなとは言わないけれど、せめて喜び方を人類へ寄せてほしいものだわ。
ちなみにアレから政府からもマスコミからも連絡の嵐だったらしい。 でもそのへんは、玉織家の強権と、あと色々と大人の怖い力でまとめて潰したらしい。 ありがたいと言えばありがたい。 面倒が減るのは素直に偉い。
その裏で、この1日で特別テスターだの探索者だのダンジョン配信だのが一気に流行り始めて、魔石バブルとやらが起きて、日本の国力が世界トップを狙えるレベルになる可能性が高いと言う、冗談みたいな話まで耳へ入った。 でも、それ以上に“私”の話題で持ちきりだったらしいのよね。
掲示板。 YouTubeのコメント欄。 切り抜き。 まとめ。 トレンド。
全部、怖くて見ていない。
だって嫌でしょう。 どうせろくでもないことしか書いていないもの。 コミュ症だのクソ女だの社会不適合者だの、だいたい事実だとしても、文字で浴びるとやっぱりちょっと傷つくじゃない。 私はそういう繊細さだけは無駄に残っているのだわ。
「……まあ、良いわ。楽しみましょう」
なので私は、現実から目を逸らして、無人島ライフを開始した。
◇
無人島生活は、最初の半日だけなら、かなり良かった。
綺麗な海。 白い砂浜。 ヤシの木。 でかい果物。 猪。 鳥。 カニ。 魚。 貝。 虫。 たまによく分からない南国トカゲ。
資源だけ見れば、だいぶ当たり島だったのよね。
「うっひゃあああっ! 南国ビュッフェじゃないのぉぉっ!!」
私はテンション高く砂浜を走り回った。 そのままヤシの木をへし折って中身を飲み、落ちていたココナッツを砕いて食べ、近くにいたカニを殻ごと噛み潰し、ちょうど走っていた猪へ飛びかかって首をへし折った。
野生化、という言葉がかなりしっくり来ていたと思う。 我ながら、食屍姫としての順応が早すぎるのだわ。
一日目は、ほぼ食って終わった。 二日目も、ほぼ食って終わった。 三日目になる頃には、島の生態系がだいぶ怪しくなっていた。
猪がいない。 鳥も減った。 浜辺のカニが目に見えて減った。 ヤシの実も、私の手の届く範囲からは消えた。
「……あれ?」
私は浜辺へ立ち尽くし、首を傾げた。
海風が吹く。 波が寄せて返す。 でも、食べ物の気配が薄い。
「……三日で食い尽くしたの?」
そうみたいだった。
もちろん、正確には“全部”ではないわよ。 地中の虫とか、深海側の魚とか、崖の上の鳥とか、探せばまだいるのでしょう。 でも、少なくとも“人間サイズが快適に暮らす範囲の食資源”は、かなり壊滅していた。 私一人で。
「やだわ。ちょっとした環境破壊じゃない」
軽く引いた。 引いたけれど、お腹は空いている。
しかも、三日目の夜になると、食欲とは別のものまで出てきたのよね。 人恋しさである。
いや、人を食いたいとかそういう話ではないわよ。 気にならないとは言わないけど。
もっと言えば誰それへ会いたいとか、そういう綺麗な話でもないわ。 ただ、延々と波の音だけ聞いて、誰とも話さず、誰にも突っ込まれず、誰からもため息をつかれず、誰にも褒められも怒られもしない環境に三日も置かれると、だんだん“私は今、社会から切り離されて、本当にただ食ってるだけの生き物になっているのでは?”という嫌な実感が出てくるのだわ。
しかも、私。 普段は「放っておいて」とか「一人が楽」とか言いながら、完全にひとりにされると三日で寂しくなるのよね。 だいぶ面倒くさい生き物でしょう? 分かっているわ。
「……帰るか」
そう決めた時には、わりと即決だった。
どうせ普通に帰っても、ママと朔に制裁第二ラウンドされる未来が見える。 でも、それでも帰るしかない。 無人島で一人、残り少ないカニと目を合わせながら老いていくのは、さすがに嫌だった。
◇
そして私は、普通に太平洋を泳いで帰ることにした。
普通とは。
いや、でも選択肢としてはかなり自然でしょう。 船なんてないし、いかだを作るのも面倒だし、そもそも今の私、泳いだ方がたぶん速いのだもの。
海へ飛び込んだ瞬間、思わず声が出た。
「うひゃあああっ! これ遊園地より楽しいぃぃぃっ!!」
本当に楽しかった。
まず、速度が出る。 脚へ思い切り力を込めて水を蹴ると、身体が魚雷みたいに前へ飛ぶのだわ。 最初は加減を間違えて、水面へ顔から突っ込んでちょっと痛かったけれど、慣れてくると最高だった。
ざばんっ! ごうっ! ざばぁぁんっ!
波を割る。 海面を走るみたいに進む。 時々、勢い余って海中から二十メートルくらい飛び出す。
「っははははっ! やだこれ、すっごい! 人間やめると移動ってこんなに楽になるのねぇぇっ!!」
空中へ飛び出したついでに、上を飛んでいた海鳥を二羽食った。 そのまま着水。 また泳ぐ。 ついでに魚群へ突っ込んで、まとめて踊り食い。
カロリー使いすぎてヘロヘロになった所でカロリー……もといサメも来た。
いいわね、来なさいな、と思った。 向こうも獲物を見る目をしていたけれど、私はそれ以上に“ご飯”を見る目をしていた自信がある。
結果。 食った。
泳ぎながら、横へ並んできたサメの鼻先を掴んで、そのまま頭からばりばりいった。 皮はちょっと硬かったけれど、中の肉は意外とさっぱりしていて、海水の塩気も相まってだいぶ美味しかった。
「うんっ、サメうっま! 踊り食いに向いた味してるわね!」
誰へ向けたでもなくそう叫びながら完食し、私はさらに進んだ。
途中、鮑とかウニとか貝とかの宝庫みたいな海域があった。 そこでは一時間くらい無呼吸で潜りっぱなしで食った。
潜る。 岩をひっぺがす。 鮑をもぎ取る。 そのまま口へ放り込む。 ついでにウニも割る。 ナマコも見つけたので一応食う。 海藻もむしゃむしゃする。
海中で食べれば密漁にならない、という昔どこかで仕入れた知識が、妙な形で役に立ったわね。 いや、厳密にはどうか知らないけれど。 少なくとも、今この状況で私を取り締まれる機関があるなら見てみたいものだわ。
「やだ、これ永久に遊べるじゃない……!」
叫んでから、いや待ちなさい、と冷静になった。 永久に遊んでいたら帰れないでしょうが。 私は人恋しくなって帰る途中なのだわ。
なので、食べて、泳いで、飛んで、また食べて。 そんな感じで、だいぶ楽しく帰路をこなした。
また、大きめの鮑をいくつか拾った。 お土産である。
私が、誰かへものをあげる。 それも、かなりちゃんとした形で。
我ながら珍しいにも程があった。 でも、三日も島で一人やっていると、そのくらいの社会性は一瞬だけ生えるものなのかもしれないわね。
「……まあ、鮑なら許される可能性もあるでしょう。たぶん」
自信は無かった。 でも、手ぶらよりはマシだわ。
◇
海を渡りながら、私は帰宅後のことを考えていた。
普通に帰っても駄目。 正面から帰宅しても、ママの【憑舞黒結禍々葬列】で原子レベルまで分解される未来しか見えない。 だったら、対策が要る。
私は海面を蹴って跳びながら、帰宅後の第一声を練習した。
「おかあしゃん、おなかしゅいた……」
上目遣い。 おめめうるうる。 ずぶ濡れ。 か弱そうな声。 両手へ鮑。
「……殴りてえ」
自分で言って、自分で本気で思った。
何なのよそのムーブ。 二十六歳の女がやることじゃないでしょう。 でも、玉織家で生き残るためには、時に尊厳を一時的に捨てる必要もあるのだわ。
私は何度か練習した。
「おかあしゃん、おなかしゅいた……」 「まま、ごあん……」 「うう、しまながし、さみしかったよう……」
全部、口に出した瞬間に自分で自分を海に沈めたくなった。 でも、完成度はそれなりに高かったと思う。 少なくとも、知らない人が見たら“別の意味でかわいそうな何か”には見えるはずだわ。 知ってる人が見たら“絶対に信用してはいけない害獣の擬態”と判断するでしょうけれど。
それでも、やらないよりマシよね。 ママ相手は、たまに直球の情へ訴えた方が通ることもあるもの。 ……たまに、ね。
◇
やがて、見慣れた海岸線が見えてきた。
街の灯り。 人工物の輪郭。 人間のにおい。 排気ガス。 コンビニの揚げ物。 遠くのラーメン屋。 生活の匂い。
「ああ……帰ってきたわねぇ」
私は小さく呟いた。
社会だ。 面倒くさくて、うるさくて、息苦しくて、でもちょっとだけ恋しかったやつ。 無人島の静けさも悪くなかったけれど、やっぱり私は、完全に切り離されると駄目なのだわ。 誰かのため息とか、怒鳴り声とか、褒め言葉とか、そういう雑音の中にいないと、だんだん自分の輪郭がぼやけてくる。
私は浜へ上がり、全身びしょ濡れのまま歩き出した。 髪から水が垂れる。 服は肌へ張りつく。 手には鮑。 だいぶ不審者だった。
でも、もうどうでもよかった。 帰るのだ。 怒られるとしても。 ビームで消し飛ばされるとしても。 一回くらいは、ちゃんと帰るべきでしょう。
夜風が冷たい。 でも、足取りは妙に軽かった。
鮑はちゃんと持っている。 言い訳も、一応ある。 演技プランも、だいぶ嫌だけれど完成している。
あとは家へ向かうだけだわ。
私は、ずぶ濡れのまま、お土産の鮑を抱えて、見慣れた家の方角へ歩き出した。
さて。 今夜の玉織家は、どんな地獄が待っているのかしらね。




