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第5話

「……うげぇ」


 思わず、口から素の嫌悪感が漏れた。


 薄暗い木立を抜けた先にいたのは、腐り落ちた肉をぶら下げ、ボロ布みたいな服を纏った人型の怪物。どう見たってゾンビだわ。鼻を突く腐臭に、どす黒く変色した肌、ぶんぶん飛び回るハエ。いくら私が飢えていようと、あれを食べ物扱いするのはさすがに無理があるでしょう。


「あれは無理。絶対お腹壊すわ。……こっそり逃げましょ」


 私は息を潜め、足音を殺しながらそろそろと後ずさった。

 その時だった。


 ――ぐきゅるるるるるぅぅぅっ!


「……あっ」


 私の腹の虫が、森じゅうに響きそうな勢いで盛大に自己主張した。


 ぴたり、とゾンビの動きが止まる。

 それから、ゆっくりとこちらへ首を向けて、濁った眼球で私を捉えた。


「あー……はいはい、そうなるわよね。戦闘開始、と」


 私は慌てて【空爪】を装備した右腕を振るう。

 シュバッ! と風の刃が飛ぶ。けれど、ゾンビは痛覚なんてないのか、肉を削られながらも不気味な速さで距離を詰めてきた。


「ちょっ、足速い! ゾンビはもっとのろのろ歩くのがお約束でしょうが!」


 鋭い爪が肩を掠め、HPバーがごっそり削れる。


 やばい。ここで死んだら終わりじゃないの。半日のあいだステータス半減だなんて、そんなの受けたら今の私じゃまともに狩りもできなくなる。つまり何も食べられないってことだわ。ゲームの中でまで満足に飯へありつけないとか、そんなの地獄すぎるでしょう。


「嫌ぁぁぁっ! デスペナなんて絶対いやっ!」


 私は半ばパニックのまま、涙目でゾンビの首元へしがみついた。そして、やけくそでその腐臭漂う肉へ牙を突き立てる。


「不味い! 不味い! 不味いぃぃっ!」


 口いっぱいに広がったのは、泥と腐汁と絶望をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな味だった。


 リアルでも消費期限切れの腐肉だの、生ゴミだのは散々食べてきたけれど、あれはもともとスーパーに並んでいた“食べ物”だったのよね。これは違う。最初から食材としての尊厳が死んでいる。死ぬほど不味いわ。


 腐肉を食ったせいで、視界の端で状態異常アイコンが赤く点滅し、『毒』の文字が浮かび上がる。HPがじわじわ削れていく。


「毒ッ!? 何で? 食って回復する量より、毒ダメージの方が――」


 その時。

 ポンッ、と軽い音が脳内に響いた。


『――【悪食LV1】を習得しました』


「……え?」


 次の瞬間、口の中の世界が変わった。


 相変わらず不味い。最悪。

 でも、さっきまで喉の奥をひっくり返そうとしていた強烈な腐臭と吐き気が、一段だけ引いたのだ。脳が「そんなもの食うな」って全力で拒絶していたのが、「まあ……無理すれば、いけなくもない」くらいに変わった感じ。

 食べられなかったものが、食べられるものへ変わり始めている。


「いける……これなら、流し込める……!」


 私は目を閉じて、半ば無心でゾンビの肉を喰らい尽くした。

 不味い。けれど、食える。

 食えるのなら、生きられるじゃない。


 最後の一欠片を飲み込んだ時、再びアナウンスが鳴る。


『――ゾンビ完食!』

『――【悪食LV2】に上昇しました』

『――【捕食LV2】に上昇しました』


「はぁっ、はぁっ……生きてる……」


 私はその場にへたり込んだ。


 毒はまだ残っているけれど、さっきまでの“これ食ったらむしろ死ぬ”感じはかなり薄れている。今はもう、食ってどうにか生き延びたって実感の方がずっと強かった。


 けれど、息をつく暇もなく、二匹目のゾンビが茂みの奥からぬうっと現れた。

 毒のせいで私のHPはまだ赤ゲージのまま。最悪だわ。


「ふざけないでよっ!」


 私は這いつくばった姿勢のまま、半ば泣きながら【空爪】を連打した。

 風の刃が何本も飛んで、腐った肉を裂き、ついにその巨体がどさりと地面へ崩れ落ちる。


『――レベルアップの条件を満たしました。合計スキルレベルが6に到達したため、基礎ステータスが上昇します』


「っ……!」


 身体の奥底から、じわりと力が湧き上がった。

 全身にまとわりついていた倦怠感が少し薄れ、骨と筋肉の芯に一本筋が通ったみたいな、不思議な万能感。これがステータス上昇の恩恵ってやつなのね。


 私は瀕死のゾンビへ飛びつくと、一応申し訳程度に「いただきます」と手を合わせてから食らいついた。


「……うん。さっきよりはマシ」


 【悪食】がLV2になったおかげか、毒の乗り方もかなり穏やかになっていた。味もまだ酷いけれど、少なくとも“口に入れた瞬間に全部吐きたくなる”段階は越えている。

 人間のご飯として見たら論外。

 でも、生き延びるための補給食としてなら、まあ十分イケる。そんな感じかしら。


 そうやって二匹目を齧っていると、背後から猛烈な勢いで何かが突っ込んでくる気配がした。


「甘いわね」


 私は振り返りもせず、ステータスの上がった腕を後ろへ伸ばして、飛んできたそれをガシッと片手で掴んだ。

 じたばた暴れているのは、丸々と太ったホーンラビットだった。


「ちょうどいいわ。お口直しにぴったりじゃない」


 私はゾンビから口を離し、そのままホーンラビットの首筋へ食らいつく。

 ぐちゃぐちゃと音を立てて生肉を咀嚼し、口の周りを血で汚しながら完食した。


 ごくん。


「ふぅ……最高のお口直しだわ。やっぱり新鮮なお肉は違うわね」


『――ホーンラビット完食!』


 それから私は、残っていた二匹目のゾンビ肉を持ち上げ、再びかぶりついた。


「とりあえず、スキルを広く浅く取って合計スキルレベルを上げ、基礎ステータスを底上げするべきかしら……まっず」


 一口。


「それとも耐性スキルみたいなものがあるなら、そっちを探すべき……まっず」


 もう一口。


「スキルスロットに上限があるなら、一点突破で育てた方がいい可能性もある……まっず」


 思考と咀嚼を繰り返しながら、私は二匹目のゾンビを綺麗に平らげた。


『――ゾンビ完食!』

『――【悪食LV3】に上昇しました』


「……ふむ」


 悪食がLV3になった今のゾンビの味。これは覚えがある。


 昔、リアルで空腹が限界に達して、近所のゴミ置き場から生ゴミを漁って食べたことがあった。結果として胃腸炎で即入院、ついでに病室で母親から顔面へ強烈な右ストレートを叩き込まれ、歯が三本飛んだという、涙なしには語れない思い出である。


 要するに、あの時の生ゴミくらいの味には昇格した、ということね。

 ひどい話だけれど、私基準ではもう十分“イケる”範囲だった。


「つまり……」


 私はゆっくり振り返った。


 木立の向こうから、呻き声を上げながら群れを成してやってくる十数匹のゾンビ。さらに、その足元を骨の剥き出しになったゾンビ犬たちが這うように走ってくる。


 さっきまでの私なら絶望して逃げていた光景。

 でも今の私には、それが単なる死体の群れじゃなくて、十分食料になる肉の山に見え始めていた。


「ふふっ……食べ放題じゃないの」


 私は【空爪】を撃とうと構える。

 複数相手だろうと、遠隔かつ貫通するこの神器由来の攻撃と、足の遅いゾンビの群れは相性がいい。ステータスも上がった今なら、引き撃ちしながら連射するだけで十分完封できるはずだわ。


「さあ、食事の時間よ!」


 森に風の刃が吹き荒れ、腐った死体の山が次々と積み上がっていった。


「……いただきます」


 戦闘が終わったあと、周囲に散らばる肉塊の山を前に、私は両手を合わせた。


 そこから先の記憶は、ほとんど本能に支配されている。

 バリバリ。グチャグチャ。ムシャムシャ。

 ただひたすらに肉を噛みちぎって、飲み込む。リアルでもこんな量を一気に胃へ詰め込んだことなんてない。たっぷり一時間はかかったわ。


『――ゾンビ犬完食!』

『――ゾンビ完食!』

『――【悪食LV5】に上昇しました』

『――ゾンビ完食!』

『――【悪食LV8】に上昇しました』


 食べるたびに、【悪食】のレベルがごりごり上がっていく。


 ゾンビ犬は、肉が薄くて骨ばっていて、正直かなり食べにくかった。けれど、そのぶん噛み砕く感触は軽いし、腐った犬肉特有の妙な酸味さえ我慢すれば、ゾンビ本体よりはまだ口直し寄りだった。

 ……まあ、一般論で言えばどっちも完全にアウトなのだけれど。


 そして、ついに。


『――【悪食LV10(MAX)】に到達しました』


「……あら」


 スキルレベルがカンストした瞬間、また世界の見え方が変わった。


 口へ運んだゾンビの肉から、まず“腐ってるから無理”という拒絶感がごっそり消えていた。毒気も腐臭も、もうただの情報でしかない。危険物じゃない。普通に食べられるものだと、身体の方が先に理解してしまっている。

 これなら今後、多少腐っていようが毒があろうが、食料選びで詰むことはほとんどなくなるはずだわ。私にとっては味覚補正というより、ほぼ生存権の獲得である。


 そのうえで、味まで変わっていた。


 さっきまで地獄みたいだった腐肉が、今は妙にねっとりしたコクのある熟成肉みたいに感じられる。蛆虫ですら、ぷちっと弾ける脂の粒みたいな、不本意だけれど悪くないアクセントになっていた。


「美味しい……これ、普通に美味しいわよ」


 思わず本音が漏れる。


 たぶん、私以外にこのVRMMOでゾンビを喜んで貪れるプレイヤーなんて、そうそういないでしょうね。


 悪食の取得条件がそうである以上、これはもう完全に私だけの専用スキルだわ。


 食べられないものを食べられるようにする。しかも最終的には、美味しくまで感じる。


 この【悪食】、完全に私専用の当たりスキルじゃないの。


「悪食スキルによる味覚アシスト、偉大すぎるわ……。これが現実にもあれば、近所の生ゴミを片っ端から回収して、毎日お腹いっぱい美味しくタダ飯を食って暮らせたのに。本当に惜しいわね」


 私はそんな最低すぎる夢を思い描きながら、最後に残ったゾンビの腕をボリボリ齧って完食した。


『――ゾンビ完食!』


「ふぅ……ごちそうさま。大満足だわ」


 その時、視界の端でステータスウィンドウが激しく点滅しているのに気づいた。

 開いてみると、そこには【スキル進化】という見慣れない解説項目が追加されている。


「ええと……『一部のスキルはレベルをカンストさせると、上位スキルへと進化する。提示される二つの選択肢のうち、どちらか一つを得られる。なお、選ばなかった方のスキルも、後日特定のアイテムを使用すれば習得可能である』……なるほどね」


 取り返しがつかなくなるわけじゃないのはありがたい。

 そして、私の目の前には、【悪食LV10】から派生する二つの進化先が提示されていた。


 一つは、【捕食抵抗】。

 毒物を食うたびに、自身の状態異常耐性が永続的に上昇していくパッシブスキル。


 もう一つは、【濃縮食毒】。

 これまでに食って蓄積した毒物を、自身の牙や爪から分泌して、攻撃へ付与できるアクティブスキル。


「どっちに派生させるか、よねぇ……」


 私は顎に手を当てて唸った。


 防御寄りか、攻撃寄りか。

 どっちも明らかに強いし、最終的には両方ほしい。

 今の私の基本戦術は、【空爪】によるノーコスト遠距離範囲攻撃と、ダメージを受けたら敵へしがみついて【捕食】で回復しながら食う、という二本柱でできている。


 後者を主軸にするなら、【捕食抵抗】はたしかに魅力的。

 でも――


「毒を盛れれば、相手が弱って食べやすくなるのよね」


 私はぽつりと呟いた。


 そう、そこだわ。

 ただ強いだけじゃない。

 毒で削れば動きも鈍るかもしれないし、近づいてしがみつく時の危険も減る。


 もし、この分泌した毒が近接だけじゃなく【空爪】の遠距離斬撃にも乗るのなら。

 遠くから範囲毒をばら撒いて弱らせて、最後に回収して食べるっていう、実に私向きのプレイスタイルができあがるじゃない。


「……決めたわ」


 私は迷うことなく、右側のパネルをタップした。


『――スキル【濃縮食毒】を獲得しました』

『――これより、あなたの体内に喰らった毒が蓄積されます』


「ふふっ、これでまた一つ、美味しいご飯への道が近づいたわね。……とりあえず、ステータス確認っと」



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