第42話
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その瞬間だった。
ダンジョンの入口を囲んでいたざわめきが、ぶつりと途切れた。
――いや、違うわね。
音が消えたのではない。 世界の“繋がり方”そのものが、一度切れて、まるごと別のものへ差し替わったのだ。
まず、光が変わった。
さっきまで王都近郊を照らしていた、あの妙に都合のいいファンタジーの陽射しが消える。代わりに、白くて硬くて、現実特有の、逃げ場のない昼の光が落ちてきた。空の青さが浅くなる。空気の色が鈍くなる。人の肌を、衣服を、建物を、“ゲームの背景”ではなく“現実の物体”として暴き出す、あの現実の光だ。
次に、匂い。
草と土と石と、モンスターの血の匂いだと思っていたものへ、突然、排気ガスが混ざった。 熱を持ったアスファルト。 ブレーキパッド。 人混みの汗。 安っぽい香水。 コンビニの揚げ物。 タバコ。 雨でも降っていないくせに、コンクリートが持つ湿った埃っぽさ。
それら全部が、一気に鼻の奥へ流れ込んできた。
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
足の裏の感触が違う。
石畳じゃない。 硬い。 平たい。 ざらついて、熱を持った地面。
私は反射的に視線を落とした。
白線。
アスファルト。
見慣れた道路標示。
その瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。
顔を上げる。
巨大なビジョン。 ガラス張りのビル。 広告。 信号機。 横断歩道。 交差点の向こうから向こうまで、何方向にも伸びる人の流れ。
渋谷のスクランブル交差点だった。
「……いや、ちょっと待ちなさいよ」
乾いた声で、自分へ言い聞かせた。 待ちなさい、じゃないでしょう。 何を待つのよ。 状況を説明しなさいよ、状況を。
さっきまで私は、王都近郊にいたのだ。 ダンジョンの入口を見ていた。 イベント開始だの、迷宮関係だの、そういう、ゲーム特有の大規模イベント前の空気を吸っていたはずなのよ。
なのに、何故。 どういう理屈で。 どうして次の瞬間に、スクランブル交差点のど真ん中へ立っているのかしら。
しかも最悪なことに、“背景だけが東京になった”わけではなかった。
周囲のプレイヤーたちが、変わっていた。
さっきまでエルフだのドワーフだの、露骨にゲーム然としたアバターだった連中の輪郭が、ぶれる。 そのまま、にじむ。 剥がれる。 中から、現実の肉体が出てくる。
若い男。 化粧の濃い女。 スーツ姿の会社員みたいな人。 学生。 地味な顔。 派手な顔。 冴えない現実の人間たちが、ゲームの鎧やローブや異種族の外皮を脱がされるみたいに、次々と“中身”へ戻されていく。
誰かが悲鳴を上げた。
それを合図みたいに、あちこちで悲鳴が連鎖する。
「な、なにこれ!?」 「アバターが、戻っ……」 「ちょ、やだ、やだ、やだ!」 「ログアウト! ログアウトどこ!?」 「え、渋谷!? いや意味わかんな、なんで!?」 「スマホ! スマホ!」
スマホ、と叫んだ男が、自分の手を見て、さらに顔を引きつらせた。 ゲーム内アイテム欄ではなく、現実のポケットを探っているのだ。 そういう些細な仕草が、余計にこの異常を際立たせていた。
ゲームではない。 少なくとも、“いつものゲームの延長”ではない。
なのに。
私や、ごく一部のキャラだけは、まだアバター寄りのままだった。
冗談でしょう。
やめてちょうだいよ。 そういうの、心の準備ってものがあるでしょう。
いや、心の準備があったところで、どうにかなる類の事態ではないのだけれど。
信号が変わる。 ビジョンに映っていた広告が、ぶつりと途切れる。 どこかで車が急ブレーキを踏んで、甲高い悲鳴みたいな音が交差点全体へ響いた。
その直後。
目の前のダンジョンが、鳴いた。
ひび割れて、裂けた。 そこから、黒い何かが這い出してくる。
脚。 牙。 羽膜。 節足。 目玉。 触手。 迷宮の中で見たことのある、あるいは見たこともない怪物たちが、ひび割れた迷宮の入り口から、次々とあふれ出してきた。
スタンピード
渋谷のスクランブル交差点へ。
現実の、ど真ん中へ。
「…………っ」
息が詰まった。
いや、さっきから何度も詰まっているのだけれど、今度のは比喩ではなく本当に呼吸を忘れた。
現実が、現実の顔をしたまま壊れている。
ビルも、道路も、信号も、人混みも、全部いつもの東京なのに。 その上へ、迷宮の怪物だけが“異物”として貼り付いている。
世界が二重写しになる。
王都。 渋谷。 ゲーム。 現実。 人間。 怪物。
全部がぐちゃぐちゃに重なって、でもどれ一つ消えない。 気持ちが悪い。 吐きそう。 頭が割れそう。 でも、【嗅覚増強】だけはやけに冴えていて、逃げる人間の汗も、怪物の血も、排気ガスも、遠くの飲食店の匂いすら、馬鹿みたいに鮮明だった。
ふざけている。
あまりにも、ふざけているでしょう。
現実って、もう少しこう、現実らしく堅牢で、こちらがどれだけ壊れていても、向こうだけは壊れないものだと思っていたのよね。 なのに今、壊れている。 呆れるくらいあっさり。 私の願望みたいなタイミングで。 私の悪夢みたいな絵面で。
魔物が這い出て渋谷の人間達の元へ向かう。
人間達は逃げ惑う
そして、その混乱の中心に。視界の端に
河村澪が、いた。
金髪。 美形。 巨乳。 善性の完成品みたいな、あの気味の悪い女が。 今はただの、無力な人間の女の顔をして、怪物へ追い詰められていた。
どうしてかしら、と思った。 どうしてあいつが、あんなにも簡単に殺されそうな位置へいるのかと。
でも、その疑問より先に、私の中には別のものが湧いてきていた。
■■■■
河村澪は、私が善性へ憧れた原因だった。 社会性へ憧れた原因で、コミュニケーション能力へ憧れた原因で、ついでに、どう足掻いても私はそちら側の完成品にはなれないのだと思い知らされた、最悪の原因でもあった。
幼稚園の頃。 私は、芋虫を食った。
理由は単純。 お腹が空いていたからだわ。
あの頃の私は今ほど洗練されていなかったから、空腹に対する解決策があまりにも直線的だったのよね。 目の前にいて、そこそこ柔らかそうで、口へ入るサイズなら、とりあえず試す。 実に原始的で、実に私らしい判断だわ。
それで、芋虫は死んだ。 当然でしょう。食われたのだから。
問題は、そこからだった。
澪は、泣いたのよね。
芋虫が死んだことに泣いた。 それだけじゃない。 芋虫を食わなければいけないくらい、私がお腹を空かせていたことにも泣いた。
意味が分からなかった。
普通、どちらかで十分じゃない。 芋虫が可哀想なら、私のことは「何してんのこの馬鹿」で済ませればいい。 私が可哀想なら、芋虫のことは諦めればいい。
でも澪は違った。 誰かが悲しめば、それ以上に悲しんだ。 誰かが喜べば、それ以上に喜んだ。 自分のことみたいに、では足りないくらい、本当に自分のこと以上みたいな顔で、他人の痛みと嬉しさを引き受けていた。
理解できなかったわ。 でも、どうしようもなく、美しかったのよね。
こうなりたい、と思った。 心から。
澪の周りには、いつも人がいた。 そりゃあそうでしょうね、と思う。 あんなふうに、自分の喜びより先に他人の喜びへ笑えて、自分の痛みより深く他人の痛みへ泣ける人間を、嫌いになれるわけがないもの。
対して私は、自業自得でハブられていた。
いや、ほんとうに自業自得なのよ。 空腹時の私は気が立つし、平時の私は気が利かないし、善意はねじれて出るし、会話は途中で変なところへ飛ぶし、目先の食べ物に負けるし、負けたうえで反省もしきれない。 人間関係という精密機械へ泥団子を歯車としてねじ込んだらどうなるか、その実例みたいな存在だったわ。
その時から私と澪は同じ種の生き物ではないと薄々感じていたわ
そして、あの日。
澪の両親が死んだ日。 あの子を庇って、事故で死んだその日。
私は、火傷を負って、死にかけながら、両親へ謝り続ける澪を見た。 熱で声が掠れて、意識も朦朧として、それでも、ただひたすら「ごめんなさい」「ごめんなさい」って、うわ言みたいに繰り返していた。
その周りで、みんなが泣いていた。 死なないで、と祈っていた。 先生も、近所の人も、親も、普段はそんなに感情を表へ出さないような大人たちまで、あの子が死なないことを願っていた。
私は、あの光景を見て思ったのよね。
これこそが、完成品たる【人間】なのだと。 これこそが、社会の【歯車】なのだと。
他者の幸福を心から願い、 他者に幸福を願われ、 死にかけてなお自分より他人へ謝り、 ただ存在しているだけで、周囲の人間から「生きていてほしい」と祈られる。
ああ。 こうありたい、と心から願った。
でも。
そんな状況でも、私は腹が鳴ったのよね。
最低でしょう。
人が死んで、もう一人が死にかけていて、皆が祈っていて、空気そのものが悲鳴みたいに張り詰めていたあの場で、私の胃袋だけはいつも通り規則正しく空腹を訴えていた。
悲しむ以上に、私は憧れた。 憧れた以上に、嫉妬した。 嫉妬した上で、空腹が出た。
どうしようもなく、人間ではなかった。
澪みたいな、狂人の領域の善人。 兄さんみたいな、あれはあれでだいぶ気持ち悪いけれど、善性の向き方だけは本物の狂人。 うちの家族みたいな、少なくとも一般的な意味ではちゃんと善人の側へ属している人間たち。
それどころか、一般的な人間と比べたって、私はもう、別種の醜悪な生き物だった。
澪のように、心から他者の幸福を願うこと。 他者から、心から幸福を願われること。 そういうものは、何億度生まれ変わっても、私にはなせるか怪しいと思った。
できたとしても、もはやそれは玉織紬なんかではない。 別の生き物だわ。
それからしばらく、私は嫉妬で吐いた。 嫉妬で寝込んだ。 嫉妬で、あの私が、一時的に食欲すら失った。
すごいわよね。 私から食欲を消すって、もはや一種の神秘現象でしょう。 でも澪は、それくらい私の中の「こうありたかったのに絶対になれない部分」を容赦なく照らしてきたのだわ。
だから、何度も思った。 澪がいなければ、私はこんなふうに善性へ憧れて苦しむこともなかったのに、と。
でも同時に、それも分かっていた。
澪がいなければ、私はもっと、生きる価値の無い怪物未満になっていた。 善性を羨むことすら知らず、社会性を欲しがることすらなく、コミュニケーション能力の欠如を欠陥とも思わず、ただ空腹と怠惰と身勝手さだけで生きる、本当に救いようのない何かへ育っていたでしょうね。
その日から私には、毎日お腹いっぱい食べてお布団で寝るのに次ぐ夢ができた。
葬式で、誰かに泣いてもらうこと。
いや、しみったれた夢でしょう? 分かっているわよ。 普通の人間は、もっとこう、就職とか結婚とか成功とか、未来へ向かって前向きな夢を見るものなのだわ。 でも私には、そういうものより先に、「死んだ時に誰かが悲しんでくれるかどうか」の方が、よほど切実だったのよね。
自分みたいなものが死んだ時、 ああ、死んだんだ、で終わるのではなく。 ちゃんと喪失として痛がってもらえるかどうか。 それが、私がこの世へ存在していた証明みたいに思えていたから。
だから、別れの日。
叔父へ引き取られていく澪を前にして、私はぼろぼろに泣きながら、そんなことを言ったのだ。
「お前がいなければ、私はこんなふうに苦しまなかった!」
ひどい言葉だったと思う。 実際、ひどい女だわ、私は。
「でも、お前がいなければ、もっと終わっていた! 私もその心が欲しかった! 何を犠牲にしても欲しかった!」
泣きながら。 ぐちゃぐちゃに喉を潰しながら。
「大嫌いだ! 大嫌いだ!!」
と。
それはもう、だいぶ告白に近い罵倒だったのよね。 でも、当時の私にそれ以外の言い方なんてできるわけがなかった。
すると澪は、泣き笑いみたいな顔で、私にこう返した。
『正直な話、客観的に見て、先に逝く可能性の高い紬さんの家族を除けば、紬さんの葬列に来て泣く人間なんて、多分いません』
喧嘩を売っているのかしら、と思った。 だって実際、だいぶ傷ついたもの。
でも、あの子は続けたのよね。
『泣くのは、私くらいのものですよ』
あっけらかんと。 でも、妙に確信のある声で。
『ええ、紬さんの死を私は死ぬまで引きずりますとも』 『半身を砕かれたような痛みとして、墓場まで持っていきますとも』 『紬さんが死んだのを見て、いつまでも泣き続けますとも』
あの時の私は、それを聞いて、余計に泣いた。
澪は、それを叶えてくれると言った。
『だから、私は絶対に紬さんより長く生きて、紬さんを見送ります』
泣きながら、でも笑って。
『葬列で泣くために。あなたのために』
気持ち悪いでしょう。 ほんとうに、ほんとうに気持ち悪い。
でも、あれ以上に救われた言葉を、私は知らない。
だから私は、今でもあいつが大嫌いなのだ。 私の善性への憧れを作ってしまったから。 社会性への憧れを作ってしまったから。 コミュ力への憧れを作ってしまったから。 届かない完成品を、これでもかと見せつけてきたから。
大嫌いよ、河村澪。 お前がいなければ、私はこんなふうに苦しまなかった。 でも、お前がいなければ、私はもっと終わっていた。
だから、ほんとうに、最悪なのだわ。
――怪物の爪が、澪の喉元へ届く。
その瞬間、私は理解した。
ああ、駄目だ、と。
あいつには生きていてもらわないと困る。 世界のためじゃない。 善のためじゃない。 救済のためでもない。
私のためだ。
私が死んだ時、 私なんかの葬列で、 あの気持ち悪い完成品に泣いてもらうために。
それだけのために。
「……澪は、私の葬式まで生きてなきゃ駄目なのよ」
喉の奥で、低く呟いた。
大嫌いだ。 でも助ける。
私のために。 葬列で泣いてもらうために。
だから、今ここで死なせるわけにはいかないのだわ。
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