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第30話

意識が浮上した瞬間、私は反射的に目を開けなかった。

 ……いえ、正確には「開けたくなかった」と言うべきかしら。


 だって、もし薄目を開けたその先に、般若みたいな顔をした朔が仁王立ちしていたらどうするのよ。

 おばあちゃん家の客間で安らかにログアウトしたはずが、目が覚めたらそのまま人生ログアウトのお時間でした、なんてオチ、あまりにも笑えないじゃない。


 だから私は、ふかふかのお布団の中で、まず耳だけを澄ませた。


 しん、としている。


 ……いや、完全な無音ではないわね。

 柱時計の刻む規則的な音。

 遠くの台所から聞こえる、かすかな生活音。

 それから、襖の向こうから漂ってくる、香ばしいお茶とおせんべいの匂い。


 血の匂いはしない。

 焦げた匂いも、女の怒気に特有の、あの鉄っぽい匂いもしない。


「……セーフ、かしら?」


 私は布団の中で、極小の声で呟いた。

 そのまま恐る恐る、片目だけを開ける。


 見慣れた客間の天井。

 木目の染み。座卓。

 ……誰もいない。


「……よかったぁ……!」


 全身から一気に力が抜けた。

 私はその場で、ぐにゃりと溶けるみたいに再び布団へ顔を埋めた。


 助かった。

 少なくとも、目の前へ斧が振り下ろされるタイプの最悪は回避できたらしい。

 やっぱりネットの書き込みなんて、七割は悪ノリ、二割はデマ、一割が本当に致命的な真実なのよ。今回はたまたま、その九割側だったというわけね。

 うふふっ、私の勝ちだわ。


 ――ぐううううううううううう。


「……っ」


 勝ってなかった。

 私のお腹が、まるで地の底から響いてくるみたいな重低音で鳴いた。


 やばい。めちゃくちゃ減っている。

 ログイン直前、ここで死ぬほど食べたはずなのに、もう胃袋が綺麗さっぱり空っぽへ戻っている感じがする。むしろ以前より、余計に飢えているまであるわね。


「これ……やっぱり食屍姫化の影響かしら……」


 成長期の私だって、もう少し控えめだったと思うのだけれど。

 ……いや、どうかしら。あの頃の私は常に狂っていた気もするわね。比較対象として不適切だわ。


 とにかく駄目。考察している場合じゃない。

 このままだと、理性より先に胃袋が暴走を始める。


「おばあちゃん! ご飯!」


 私は布団を跳ねのけ、半ば這うように上体を起こした。

 その瞬間だった。


 もぞり、と。


 私が今まで潜っていた布団の、足元側。

 そこが、不自然にもっこりと持ち上がった。


「…………は?」


 嫌な沈黙が落ちる。


 この展開、どこかで……そう、ホラー映画の金字塔『呪怨』で見たことがあるわ。布団の中からじわじわと何かが這い出してくる、あのトラウマシーン。


 そして、その映画のオマージュみたいに。

 私の布団の中から、にゅるりと人影が這い出してきた。


 黒く艶のある髪。

 冷え切った目。

 無駄に整った顔。


 玉織朔が、私の布団から出てきた。


「よぉ、久しぶり」

「………マジか」


 ――あ。うん。幻覚じゃない。現実だわ。

 ホラー映画の伽椰子より、よっぽどタチの悪い最悪の身内が目の前にいる。


 朔は、ぺたんと正座したまま固まる私を見下ろし、ひどく据わった目で前髪をかき上げた。


「……起きた? じゃあ、ちょっと顔貸せよ。積もる話があるんだわ」 「……い、嫌よ。私、今からおばあちゃんのご飯食べるんだから……」 「お前の意見なんて聞いてねえよ」


 ドスの利いた声。

 私は反射的に、襖の方へじりじりと後ずさった。


 逃げなきゃ。

 殺される。

 アイアンメイデンが待っている。


 ――でも、そこでふと、思い出したのよね。


 今の私は、ただの無職社会不適合者・玉織紬ではない。

 ゲームの中で【食屍姫】へ進化し、現実にもその影響がじわじわと漏れ始めている、成長途中の人外だ。

 再生力。膂力。嗅覚。消化能力。

 パワーだけなら、もう昔の、ただ殴られるだけの私とは違う。


 ……もしかして。


「……いや、でも待ちなさい」


 私はじり、と身構えた。


「今の私、食屍姫化してるし……朔がどれだけゴリラでも、今の出力なら勝てるかもしれないわね」 「あ? 独り言うるせえよ。何ブツブツ言ってんだこのゴミ」 「姉の威厳を、そろそろ取り戻す時が来たのかもしれないわ。……覚悟しなさい、朔!」


 私がそう叫ぶと同時に、朔が呆れたように片眉を上げた。


「寝起きで何言ってんの、このクソボケ。……あー、そう。やる気なら相手してやるよ。おばあちゃんが来る前に終わらせてやるから、かかってこい」


 その顔が、ひどく腹立たしい。

 そして同時に、ひどく、ひどく怖い。


 でも、ここで退いたら、一生このままだわ。

 妹に五十回以上病院送りにされ続けた、しがない姉のまま終わる。

 そんなの嫌よ。せめて一発くらい、綺麗に決めたいじゃない。人外の力、見せてやるわ!


「いくわよぉおおおおおッ!!」


 私は叫ぶと同時に、布団の上を蹴って朔へ飛びかかった。


 ――その一秒後。


「いっっっっっっったァァァァァァァァ!!」


 私は客間の襖へめり込む勢いで吹っ飛ばされていた。


 何が起きたのかしら。

 分からない。全く分からない。

 私の動体視力では捉えきれなかった。でもたぶん、みぞおちへ膝が入って、顔面へ肘が入って、最後に顎へ掌底みたいなものが、恐ろしい精度と速度で叩き込まれた。全部、一瞬の出来事だった。


 視界が白い。

 鼻の奥がつんとする。

 口の中が、嫌な鉄の味で満たされていく。

 歯が、変な感触で舌へ触れている。


「……あっ、これ、二、三本いったわね……」


 私はふらふらしながら口元を押さえた。

 ぽろ、と畳へ白いものが落ちる。

 ああ、やっぱり歯だわ。

 でも、思ったより少ない。人外化の防御力のおかげかしら。


ん?おかしい。いつもならここからスパナでの脳天攻撃やみぞおちへのかかと落としが入るのに追撃してこない


朔を見るとこれで終わりだと言う様に手をひらひら振ってる。


「……今回の折檻、思ったよりしょぼいわね…」 「……おばあちゃん家だから加減したんだよ。感謝しろ」


 朔は心底うんざりした声で言った。


「本当ならもっと丁寧に躾け直してやりたいところだけどな。……今回は割と事故みたいなもんだったから、これで勘弁してやる」 「事故……?」 「お前がゲームで変な襲撃かけて、勝手にバズったおかげで、私の本来の口調と性格が全世界に公開されたんだよ。ただそれはお前そこまで悪くないっつってんの」


 朔のこめかみに、びき、と血管が浮いた。


「ただ何が最悪って、お前だけじゃなくて私まで社会的ダメージ食らってんのがクソなんだわ。いや、実際まあサディストだけど、それはそれ、これはこれだろ」 「理屈がすごいわね……」 「お前にだけは言われたくねえよ」


 私は痛む顎を押さえながら、じりじりと襖から離れた。

 今ならまだ、窓を破って逃げられるかもしれない。おばあちゃん家の庭を突っ切って……。


 でも、朔はそんな私の逃亡思考を読んだみたいに、すっと一歩前へ出た。


「あと、おばあちゃんに迷惑かけんな。飯食ったら帰んぞ」


「嫌よ。おばあちゃん家の方が安全だもの」


「嫌じゃねえんだよ。お前がここにいるだけで、おばあちゃんが余計な業を背負うことになるんだよ」


「もう背負ってるでしょう!? 私という孫が存在してしまった時点で!」


 私がそう叫んだ瞬間、襖の向こうで一拍の沈黙が落ちた。


 あっ、と思った時には、もう遅かった。


「紬ちゃん、朔ちゃん、お茶が入ったよ。……何か、割れるような音がしなかったかい?」


 おばあちゃんの、のんびりとした、けれど全てを見透かしているみたいな声。

 私は凍りついた。

 朔も一瞬だけ、般若みたいな顔から、すごく嫌そうな、そして焦ったような顔になった。


 そして次の瞬間には、あの女、信じられない速さで表情を切り替えたのよね。

 声のトーンが、三オクターブくらい上がった。


「大丈夫ー! 何でもないよおばあちゃん! お姉ちゃんが、寝ぼけて少し転んじゃっただけだから!」


「誰が寝ぼけて――むぐっ!?」


 私が抗議しかけた口を、朔が笑顔のまま、けれど万力みたいな力で塞いだ。

 怖い。笑顔なのに、指の力が骨を砕きそうなほど怖い。


 襖がすう、と開く。

 そこには、湯のみとおせんべいの乗ったお盆を持った、おばあちゃんが立っていた。


「あらあら、朝から元気だこと。紬ちゃん、大丈夫かい?」


「ねー。お姉ちゃん、寝起きから暴れてて、私困っちゃう。ほらお姉ちゃん、おばあちゃんに心配かけちゃ駄目でしょ?」


「むーっ! むぐぐっ!」


 私は朔の手の下で必死に何かを訴えたけれど、おばあちゃんには「仲良し姉妹の微笑ましいじゃれ合い」くらいにしか見えていないらしかった。


 ……いや、まあ、おばあちゃんを悲しませないという意味では、この平和な誤認を維持するしかないのだけれど。


「ほら、紬ちゃんも朔ちゃんも、まずはお茶にしなさい。朝ご飯も、今すぐ持ってくるからね」


「やったぁ。ありがとう、おばあちゃん!」


「んぐっ!?!?(朝ご飯!?)」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胃袋が再び、ぐううううううううううっと、さっきより巨大な音で鳴った。

 あっ、駄目。妹への恐怖も顎の痛みも、全部より先に、食欲が勝利した。


 朔もそれを聞いて、ひどく嫌そうな、汚物を見るみたいな目で私を見た。


「……まじで害獣だな。お前」


「……お、お腹が空くのは、生き物として当然の生理現象でしょう」


「お前の場合、その『当然』の範囲を毎回五十キロくらい踏み越えてんだよ」


 私は朔の手をべり、と引き剥がし、ふらつきながらも立ち上がった。


 顎は痛い。歯も減った。妹は怖い。社会的死も近い。将来は暗い。

 でも、それはそれとして。


「おばあちゃん! ご飯!」


「はいはい、今持ってくるよ。たくさん食べなさい」


 おばあちゃんが、呆れたように、けれど優しく笑う。

 その背中を見ながら、私はひどく真剣に思った。


 ……何だかんだで、私はまだ生き延びられそうだわね。

 美味しいご飯がある限り、私は玉織紬として存在し続けられる。


 もっとも、そのすぐ隣で、朔が完璧な医大生スマイルを浮かべながら、小声で囁いてきたのだけれど。


「飯食い終わったら、即、自宅監禁だからな。……もし逃げたら、次は歯だけじゃ済まさねえ。分かってんな?」

「……やっぱり人生ログアウトの危機、絶賛継続中じゃない……」


 私は泣きそうになりながら、それでもご飯の匂いに釣られて台所へ向かった。


■■■■


 あらかた貪って、おばあちゃん家から帰ったあと。

 帰ったはいいのだけれど、腹が減って腹が減って仕方なかった。


 もう、空腹というより災害よね。

 胃袋が「何かを入れろ」と訴えているんじゃない。内臓の奥底で、私という個体を丸ごと燃料へ変えてでも生き延びようとする、剥き出しの生存本能が暴れているのだわ。


 【身体変性】で胃液の分泌を無理やり抑えていなければ、たぶん今ごろ私は、自分で自分の胃袋の内側からじわじわ消化されていた。

 比喩じゃない。食屍姫になってからというもの、空腹時の私の身体は、本気で“自分自身も食材候補”として見始めている節があるのよね。困ったものだわ、本当に。


「はぁ……お腹空いた……」


 とりあえず応急処置として、台所の隅に置いてあったお徳用ラードの缶を開け、スプーンでごっそり掬って、そのまま口へ放り込んだ。


 ぬるり。とろり。

 舌の上で溶ける、暴力的な脂の塊。


 美味しいかと言われると、まあ、料理の材料を直食いしている時点で色々と終わっているのだけれど、それでも今の私にとっては立派な命綱だ。高密度カロリーというのは、それだけで偉いのよ。


「んぐっ……はぁ……。焼肉の脂身だけ先に抽出したみたいな味ね……。嫌いじゃないけど、好きでもないわ……」


 ラードでとりあえず脳を黙らせつつ、次の食材を求めて台所を見回した、その時だった。


 ぱたぱたっ、と。壁際で黒い影が三つほど動いた。


「あっ」


 私の目が、きらりと光った。


 ゴキブリホイホイの周辺へ群がっていた、黒くて香ばしい小型タンパク源たち。

 しかも一匹だけじゃない。三匹もいる。うち一匹は腹が妙に膨れている。あれ、卵持ちじゃないかしら。大当たりじゃない。


「いただきます」


 私は反射的に、カメレオンみたいに舌をしゅるりと伸ばしていた。

 一匹。二匹。三匹。ついでに卵ごと、ゴキブリホイホイごと、ぺちん、ぺちん、ぺちん、と回収して、そのまま一息に口へ放り込む。


 ぱりっ。しゃくっ。ぷちぷちっ。


「うん。香ばしい海老せんべいと、内臓のコクを薄めた感じね」


「ひぃっ!?」


 背後で悲鳴が上がった。

 振り向くと、ちょうど台所へ入ってきた朔が、信じられないものを見る目でこちらを見ていた。


「ひっ!何してんの!お前!」 「見れば分かるでしょう。タンパク質補給よ」 「見たくなかったああ!ママァ!ママァ!」


 朔は顔を引きつらせたまま、脱兎のごとく後ずさって逃げた。


 あら。意外と簡単に追い払えるのね。今後、対朔用の迎撃兵装として、ゴキブリの携帯も視野へ入れておいた方がいいかもしれないわ。


 とはいえ、もちろんそれしきでは足りない。


 私は続いて、我が家のコンポスト係としての業務を遂行すべく、台所の片隅に置かれた、でかでかと【紬の餌】とマジックで書かれた専用ゴミ箱を覗き込んだ。


「……何を考えているのかしら。あのゴリラ妹は」


 思わず眉が寄る。


 野菜くず。魚の骨。食べ残し。コーヒーかす。

 そのへんまでは分かる。むしろありがたい。

 でも、その中へしれっと使用済みの乾電池まで混ざっているのは何なのよ。いや、まあ、食べられるけど。食べられるけれど、だからって入れていいという話ではないでしょうに。雑なのよ、運用が。


「私を何だと思っているのかしら。……まあ、食うけど」


 私はゴミ箱ごと持ち上げると、がこん、と口を大きく開け、そのまま中身をまとめて流し込んだ。


 がしゃ。ぼり。しゃり。ぐちゅ。ごり、ごり、ごり。


 普通の人間へは、あまり聞かせてはいけない種類の食事音が、台所へ不気味に響く。

 乾電池の金属っぽい苦み。野菜くずの青臭さ。魚の骨の旨味。妙に統一感はないけれど、【如何物食い】の補正がかかると、これはこれで“ジャンクな寄せ鍋”みたいな味へ落ち着くから不思議だわ。


「……んぐっ。やっぱり、誤魔化すしかないわね」


 私は口元を拭ってから、炊飯器の残りご飯へ視線をやった。卵かけご飯二杯分へ増量すべく、水で嵩増しした、お粥未満の何かを錬成し始める。

 しゃばしゃば。ぬるぬる。白米の尊厳がかなり薄れている。


 でも、今の私にそんなことを言っている余裕はない。白い。温かい。炭水化物。それだけで十分偉い。


 はむっ、もぐ、ずるずるっ、ごくん。


「……足りない」


 卵かけご飯もどき二杯分程度で、食屍姫の胃袋が黙るわけがなかった。


 私は神棚の前でうずくまった。


「神様。贅沢は言わないから、家内安全――具体的に言うと朔にボコられないようにして、それと白米とお肉とラーメンと焼肉とケーキが食べ放題の人生をください」


 かなり具体的な願いを口にしてから、私は深々とため息をついた。

 どうせ神様だって、こういう真に切実な願いほど聞いてくれないのよね。無病息災とか商売繁盛とか、そういうテンプレの方ばかり通すのだもの。融通が利かないったらないわ。


 しかも、神棚の前へ供えてあったお饅頭が、やけに私を見てくるのよね。いや、見てはいないのだけれど。でも、ああいうのって“食べてもいいですよ”って顔をしているじゃない。


 その希望が、少しずつ怒りへ変わっていく。

 どうして私は食べていないのかしら、と。

 世界が私へ食べ物を寄越さないことへ、理不尽な敵意を抱き始める段階だわ。


「……これはもう、供養よね」


 私はお饅頭を手に取って、一口でかぶりついた。


「ご先祖様は匂いだけ楽しめば十分なはず。物理的な質量は、生きている私が引き受けるのが供養として合理的でしょう」


 もぐもぐ。ごくん。

 うん。上品な甘さでとても良い。神仏関連って、たまにこういうところだけやたら当たりを引くのよね。

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カロリーのコスパ的にサラダ油飲むのが効率いいと思います。 生ゴミと電池が食えるなら工場の廃棄油とか行けるか?
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